雛祭り

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雛飾り
雛人形

雛祭り(ひなまつり)は、日本において、の健やかな成長を祈る節句年中行事

ひな人形(「男雛」と「女雛」を中心とする人形)にの花など木々の飾り、雛あられ菱餅などを供え、白酒ちらし寿司などの飲食を楽しむ節句祭りである。

時期

江戸時代までは、和暦太陰太陽暦)の3月の節句上巳、桃の節句)である3月3日(現在の4月頃)に行われていた。明治の改暦以後はグレゴリオ暦新暦)の3月3日に行なうことが一般的になった。一部の地域では、引き続きに旧暦3月3日に祝うか、新暦4月3日に祝う(東北北陸など積雪寒冷地に多い)。

旧暦の3月3日は、の花が咲く時期であるため「桃の節句」と呼ばれることが多い。現代の雛祭りは新暦3月3日に室内で行うことが一般的であるが、かつて農村部などでは暖かく春らしくなった旧暦3月3日に子供が野遊びに出掛けて「草花びな」を作ったり、弁当や野外料理を食べたりする風習が一部にあり、現代でも伝承している地域がある[1]

また、江戸時代には、9月9日重陽の節句に雛人形をもう一度飾る「後(のち)の節供」という飾る習慣があった。

香川県三豊市仁尾町の一部では、雛祭りは行わず、八朔に雛人形を飾る。これは、戦国時代に仁尾城が落城したのが旧暦3月3日であったためとされる。

兵庫県たつの市御津町室津地区では、ひな祭りを旧暦8月1日に行っていた。『室津追考記』によると、戦国時代の永禄9年1月11日1566年2月1日)、室山城主・浦上政宗の次男・清宗小寺職隆の娘との間で挙げた祝言(結婚式)の夜に、かねてより対立関係にあった龍野城主・赤松政秀の急襲を受けて政宗は清宗もろとも戦死し、花嫁も亡くなり、室山城は落城した。室津の人々はこの出来事を悼み、非業の死を遂げた花嫁の鎮魂のために、3月3日ではなく、半年遅れの八朔に雛祭りを延期したとされる。戦後、この風習は長く途絶えていたが、近年、町おこしの一環の「八朔のひな祭り」として復活した。

歴史

「雛祭り」はいつ頃から始まったのか歴史的には判然とせず、その起源説は複数ある。平安時代京都で既に平安貴族の子女の雅びな「遊びごと」として行われていたとする記録がある。その当時においても、やはり小さな御所風の御殿「屋形」をしつらえ飾ったものと考えられている。初めは儀式ではなく遊びであり、雛祭りが「ひなあそび」とも呼ばれるのはそのためである。一方、平安時代には川へ紙で作った人形を流す「流し雛」があり、「上巳の節句(穢れ払い)」として雛人形は「災厄よけ」の「守り雛」として祀られる様になった。当時の乳幼児死亡率は現代とは比較にならないほど高く、赤ん坊のうちに亡くなることは珍しくはなかった。親としては必死の思いでこの成長を見守り、枕元には形代を置き、厄除けとした。そして、1年の災いを、春のひな流しで祓う。これが、ひな祭りの起源である。[2]

江戸時代になり女子の「人形遊び」と節物の「節句の儀式」が結びつき、全国に広まり、雛人形が飾られるようになった。3月の節句の祓に雛祭りを行うようになったのは、安土桃山時代天正年間以降のことだと推測されている。

江戸時代に入り、製作技術の発展によってさまざまな人形が作られるようになった。すると女の子の間では人形遊びが大流行するようになった。この影響もあり、雛人形は豪華で立派になっていった。お金もかかっているので河に流すわけにもいがず、この頃から雛人形の鑑賞を楽しむスタイルに変化した。しかしかつての名残か、「ひな人形はひな祭りが終わったらすぐに片付けないとならない」というしきたりは今でも存在する。娘の災厄を受け止めた雛人形がいつまでも家の中にいると、婚期が遅れるなどの不幸に見舞われるという。を流していない、という解釈になるのだろう。[3]

江戸時代初期には形代の名残を残す立った形の「立雛」や、座った形の「坐り雛」(寛永雛)が作られていたが、これらは男女一対の内裏雛を飾るだけの物であった。しかし、飾り物としての古の形式と、一生の災厄をこの人形に身代りさせるという祭礼的意味合いが強くなり、武家子女など身分の高い女性の嫁入り道具の家財の一つに数えられるようにもなった。そのため、自然と華美で贅沢なものになっていった。時代が下ると人形は精巧さを増し、十二単の装束を着せた「元禄雛」、大型の「享保雛」などが作られたが、これらは金箔張りの屏風の前に内裏の人形を並べた立派なものだった。享保年間からは、江戸幕府が倹約政策のとり、大型の雛人形が一時禁止された。『御触書宝暦集成』十五では、「雛は八寸以下、雛諸道具は蒔絵は不可」という制限が見られる[4]。しかし、この規制を逆手に取り「芥子雛」と呼ばれる精巧を極めた小さな雛人形(わずか数センチの大きさ)が流行した。

江戸時代後期には京で「有職雛」とよばれる宮中の雅びな平安装束を正確に再現したものが現れた。さらに江戸では新たに独自の内裏雛として今日の雛人形につながる「古今雛」が現れ、京に伝えられた。江戸で製作された古今雛には、原舟月などの作家ものがあり、ガラス製の玉眼も比較的早く用いられた。幕末には江戸の名職人であった渡辺玉翁が京で修行し玉眼を伝えた。

また幕末までには官女・随身・仕丁などの内裏人形につき従う従者人形が考案されたほか、特に江戸では18世紀の終わり頃から五人囃子人形が現れて人気を集めた[注 1]

さらに大道具や小道具も増え、京では京都御所の紫宸殿を模した雛御殿や台所用具[注 2]が作られて御殿飾りとして発展した。いっぽう江戸では御殿飾りは広まらず[注 3]、代わりに雛壇と嫁入り道具を用いた大規模な段飾りが発展した。戦後になると西日本の御殿飾りは大きさと複雑さにより組立と収納が大変であったことにくわえ、百貨店等の流通業者により取扱商品の全国的統一化が進んだことなどにより昭和30年代に急速に廃れ、壇飾りに押されて姿を消した。

現在では関東で多くひな人形が作られており、特に埼玉県が多く[5]、中でも岩槻市鴻巣市は名高い[6]

雛人形

3段飾りの雛人形
木目込みの雛人形
御殿飾りひな人形
天神さま飾り

ひな人形は、形代(かたしろ)と呼ばれる人形の一種で、が降臨するものとされている。娘の身代わりとして、娘に襲い掛かろうとする病などの災厄、穢れを、ひな人形にうつして避けるという行事がひな祭りの元になっている。紙や土などで作られた原始的で簡単な人形で、1年の災いを受け止めた後に川や海に流された。これを「ひな流し」という[7]

「雛人形」は、宮中の殿上人の装束を模している。立纓冠は江戸時代以降に始まったため、伝統的には男雛の冠には垂纓冠、女雛の冠には天冠が適切である。髪型は主に「大垂髪(おすべらかし)」と「古典下げ髪(こてんさげがみ)」がある。「大垂髪」は、平安時代からの垂れ髪形式が鎌倉・室町を経て、江戸時代後期に完成された比較的新しい髪型で、ビン(前髪部分)を大きく張った髪型である。「古典下げ髪」は、割り毛とも呼ばれ、平安時代では長く黒い髪が美人の条件とされていたため、髪を全て後ろへ流し、わずかに垂らした両頬の毛を切りそろえた髪型で、顔を髪の毛で三方から包むことで面長に見せ、肌色の白さを強調し、より美しく見せるためとされる。「古典下げ髪」は、「大垂髪」よりも結髪の技法が難しく、結髪師の技量が問われるため現在は希少となっている。

多くは藁で作られた土台に衣装を着せ付け、別に作られた頭部を合体して作られているものが多い。また木目込みの技法で比較的小さなサイズで作られているものも人気がある。その他、土製のものや陶器・木製などのものもあり多くの種類がある。段飾りのように主に内裏雛が座っている形のものが多いが、立雛のものもある。

古くから嫁入り道具の一つとされたため雛人形は、母方の実家から贈ることが一般的とされた[8]が、現在では家庭により異なる[9]。このため代々伝わっているものや遠方から嫁いできた時に持ち込まれたものもあるため、地域差は一概には言えないが、関東地方と関西地方と二分され、飾り方や各人形の形・持ち物が異なっている。

関東地方では主に武家の持ち物・暮らしを表したものが多く、関西地方では御所・宮中の暮らしを模したものが多い。(乗り物で関東は「駕籠」、関西は「牛車」の違いなど)

種類

内裏雛(だいりびな)

男雛(おびな)女雛(めびな)が一対である。天皇(てんのう)と皇后(こうごう)を模したものとされる[10]

皇族用の繧繝縁(うんげんべり)の厚畳の親王台が敷かれる。男雛は束帯(縫腋袍)に冠、飾り太刀をつけ、手には笏を持つ。女雛は五衣唐衣裳装束(十二単)に頭には平額(ひらびたい)に 釵子(さいし)櫛をつけ手に檜扇を持つ。メーカーや好みによって男雛はおおむね同じ型のが多いが、女雛の装束は一番上の唐衣の形が違うなどバリエーションがある。

昨今では従来の座ったもののほか、立ち姿の立ち雛の形のものや皇室の婚礼にあやかった装束を模した内裏雛を作るメーカーもある。

「内裏雛」とは男雛と女雛の2人で一対を指す[11][12][13]、江戸前期からあった表現で[12]内裏とは天皇の宮殿(御所)を意味する[14][15]。また「お雛様」は雛壇の人形全てを指す[12][14]。本来、男雛のみを「お内裏様」、女雛のみを「お雛様」と呼ぶのは誤りであるが[11][12][14]、現代では誤用ながらも広く用いられている[11][12][15]。この誤用はサトウハチローが作詞した童謡うれしいひなまつり」の歌詞から広まったといわれる[11][12][14]。サトウハチロー自身はこの誤りを恥じ、後々まで気にしていたという[11][14]

宮中のしきたりに拠り、内裏雛に近侍する居稚児(2人が多い)が飾られることもある。段飾りの場合は男雛と女雛のそれぞれ外側に、御殿飾りの場合は親王台の前に配置する。

官女(かんじょ)

宮中に仕える女官をあらわし、2段目に配置する。現在では通常3人1組であるため「三人官女」(さんにんかんじょ)と呼ばれることが多いが、戦前の豪華なものなどでは「五人官女」や「七人官女」のこともある。

3人の場合手に持つ道具は、中央が主に関東においては三方・関西においては島台(松竹梅)、向かって右に長柄(ながえ)、左には提子(ひさげ)、高坏がある例では各女官の間に飾る[16]

中央の官女が座って両側が立っているものが多いが、逆に中央の官女が立ち両側が座っているもの、さらに全員が立っているものなど、時期や製作者により形態はさまざまである。

また、中央の官女はリーダー格とされ、眉を剃り(引眉)、鉄漿をつけた既婚者の姿で表される。

五人囃子(ごにんばやし)

のお囃子を奏でる5人の楽人をあらわし、三段目に配置する。向かって右から、(うたい・扇を持っている)、(ふえ)、小鼓(こつづみ)、大鼓(おおつづみ)、そして太鼓(たいこ)の順であり、右から楽器が小さい順番に並んでいる。
能囃子の代わりに雅楽の楽人の場合もあり、5人もしくは7人であることが主である。「五楽人」の場合は向かって右から、羯鼓(かっこ・楽太鼓)、(しょう)、火焔太鼓(かえんだいこ)、篳篥(ひちりき・縦笛)、横笛(竜笛)の順に、「七楽人」の場合は絃楽器の2人が加わり、向かって右から、羯鼓、琵琶、笙、火焔太鼓、篳篥、横笛、和琴またはの順に並べる[17][18]

随身(ずいじん、ずいしん)

四段目に配置する。通称:右大臣左大臣。向かって右が左大臣で年配者、向かって左が右大臣で若者である。いずれも武官の姿であり、正しくは近衛中将または少将である。随身矢大臣も参照。

仕丁(しちょう)

従者と護衛(あるいは衛士)や雑役をあらわし、通常3人1組の人形を五段目に配置する。怒り、泣き、笑いの表情から、三人上戸(じょうご)の別称もある。月代を剃っていることが多い。
主に関東においてはそれぞれ、日傘をかざしてお供する係、殿の履物をお預かりする係、雨をよける丸い笠(かさ)を竿(さお)の先にのせてお供する係を分担している。向かって右から立傘(たてがさ・雨傘)、沓台(くつだい)、台笠(だいがさ・日傘)の順に飾る。
また主に関西では、塵取熊手を手にすることもあり、宮中の清掃の役目をする。この時は向かって右から竹箒、塵取、熊手の順に飾る[19]。なお御殿飾りの場合などでは清掃役の代わりに炊事役として火にかけた鍋を囲んでいるものもあるほか、護衛として大紋付の2人1組の侍が追加されていることもある[20]など、従者と護衛と雑役をそれぞれ別に設けた大所帯となっていることもある。

メーカーによる追加

配置

七段の雛人形の例

三人官女以下の随臣、従者人形を「供揃い」という。現代日本では男雛を右(向かって左)に配置する家庭が多く[21][22]結婚式の新郎新婦もそれに倣っているが、人形の配置の仕方は下記のとおり近代前後で変化があり、それが現在も地域差として残っている。

壇上の内裏雛は内裏の宮中の並び方を模している。かつての日本では「左」が上の位であった。人形では左大臣(雛では髭のある年配の方)が一番の上位で、男雛から見ての左側(我々見る側からの向かって右)にいる。ちなみに飾り物の「左近の桜右近の橘」での桜は天皇の左側になり、これは宮中の紫宸殿の敷地に実際に植えてある樹木の並びでもある。明治天皇の時代までは左が高位という伝統があったため天皇は左に立った[13]。西日本の一部ではこの配置を続けている家庭もある[23]

しかし明治文明開化によって日本も西洋化し、大正天皇の即位式では、西洋に倣って右に立った。それが皇室伝統となり、昭和天皇は常に右に立ち香淳皇后が左に並んだ。それにならい、男雛を右(向かって左)に配置することが一般的となった。

飾り方

菱餅
雛あられ

飾り方にも全国各地で色々あるが、多くはこの3種の飾り方である。

  • 御殿を模しての全部の飾り方(段飾りなどを含む)
  • 御殿の内の一室を拝しての飾り方
  • 屏風を用いて御座所の有り様を拝しての飾り方

元々、雛人形は室内の一室に平面に各人形や道具類・調度類を並べて飾り楽しむ飾り方をされてきた。そのため、この平面で飾っていたものが、今で言うドールハウスのように、人形専用の御殿を作り、それを中心とした飾り方に変化していく。九州地方や古い雛人形では「雛御殿」という建物を使った「御殿飾り雛」という飾り方をしているものも多い。これは江戸末期から昭和の初めまで飾られていた。

また、段飾りは一説によると箪笥の引き出しを階段状に整えて、そこに緋毛氈を敷き飾ったとも言われている。江戸時代頃から行われるようになり、現在でもその形が引き継がれている。

さらにはお囃子に使う楽器や、雪洞(ぼんぼり)、牛車などの家財道具を一緒に飾ることもある。昭和時代を中心に上段の写真にあるような五段、七段が多い。七段飾りは高度経済成長期以降に主流になった。昭和後期には八段の檀飾りも登場し、従来より増えた段に菅原道真・小野小町・柿本人麻呂の三歌人や、紫式部などが乗せられた。昭和の後期から平成にかけては集合住宅などでは和室がなく七段飾りを飾るスペースがないなどの理由から、本来の内裏雛のみ、または内裏雛と三人官女のみの簡素化されたセットが作られるようになった。令和現在では、こういった段数を減らしたものが主流となっている。この際、収納に便利なように、人形がしまわれている箱がそのまま飾り台として利用できる、などの工夫がされている。

戦前までの上方・京都や関西の一部では天皇の御所を模した御殿式の屋形の中に男雛・女雛を飾り、その前の階段や庭に三人官女や五人囃子らを並べ、横に鏡台や茶道具、重箱などの精巧なミニチュアなどを飾っていた。

節句が終わった後も雛人形を片付けずにいると結婚が遅れるという話は昭和初期に作られた俗説ともされる。旧暦の場合、梅雨が間近であるため、早く片付けないと人形や絹製の細工物に虫喰いやカビが生えるから、というのが理由だとされる。また、地域によっては「おひな様はの飾りもの。季節できちんと片付ける」などの意味からもいわれている。

この行事に食べられる食品は菱餅雛あられ白酒が必須の定番で、他にの料理(吸い物等)、ちらし寿司が加わることもある。地方によっては生菓子の引千切もある。こういった料理は「雛料理」と言われ、デパートや料理店でも季節の料理としても提供される。

雛人形の生産地・販売地

関東地方に集中しており、生産地としては埼玉県さいたま市岩槻区埼玉県鴻巣市伝統工芸品である鴻巣雛が有名。また栃木県佐野市も小規模ながら生産店が存在する。

販売に関しては全国の商業施設で販売されているが、集中して軒を連ねるのは、人形の問屋街である東京都台東区浅草橋駅周辺(浅草橋柳橋など)が有名で、「人形の久月」「秀月」「吉徳大光(「顔が命の〜」のCMキャッチコピー)」といった専門店がある。これらの店舗は毎年正月から2月ぐらいにかけテレビCMを流す。ちなみに雛人形と共に手掛ける五月人形も3月3日以降にCMが流れる。

雛祭りが祝日でない理由

江戸時代、雛祭りは「五節句」のひとつとして「祝日として存在した」とされる。しかし、1873年の新暦採用が「五節句(=雛祭り等を含む)」の祝日廃止となって、さらに「国民の祝日」より「皇室の祝日」色が濃くなった。このため、戦後になって新たに祝日を作ろうとする動きが見られるようになる。祝日制定にあたり3月3日の案や、新年度4月1日の案も出ていたが、最終的には5月5日端午の節句を祝日(こどもの日)とする案が採用された。北海道・東北をはじめ寒冷で気候の悪い地域の多い時期を避け、全国的に温暖な時期の5月にしたというのが大きな理由の一つとされる。

特色ある雛祭り

各地で、大量に雛人形飾りを公開したり、特色ある飾りを飾ったり、少年少女、又は成人の男女が雛人形に扮したりする祭り等が、この期間中に開催される。

雛祭りを歌った楽曲

脚注

注釈

  1. ^ 五人囃は能楽の楽団であり、武家に用いられたものである
  2. ^ 関西ではひな祭りに台所の使い方を女の子に教える風習があり、ミニチュアとして実際に使われた
  3. ^ 初代原舟月が雛御殿と左近の桜・右近の橘を作ったところ、奉行所に不敬として捕らえられ、江戸より出身の大坂へ追放された

出典

  1. ^ 【モノごころヒト語り】草花びな/野で春を祝う古の風習『日本経済新聞』夕刊2018年3月3日(社会面)
  2. ^ 火田, 博文 ([2019]). 本当は怖い日本のしきたり オーディオブック. Pan roringu (Hatsubai). ISBN 978-4-7759-8631-8. OCLC 1108314699. http://worldcat.org/oclc/1108314699 
  3. ^ 火田, 博文 ([2019]). 本当は怖い日本のしきたり オーディオブック. Pan roringu (Hatsubai). ISBN 978-4-7759-8631-8. OCLC 1108314699. http://worldcat.org/oclc/1108314699 
  4. ^ 江後迪子 (1999年). 隠居大名の江戸暮らし. 吉川弘文館. p. 52ページ. ISBN 4-642-05474-X 
  5. ^ 節句人形・ひな人形の生産額の都道府県ランキング。
    2位の3.5倍程度であり
  6. ^ 「ひな人形など節句人形の生産量全国一なのは埼玉県鴻巣市(こうのすし)。鴻巣市は江戸時代からひな人形の産地として全国に名を響かせている歴史ある産地」
  7. ^ 火田, 博文 ([2019]). 本当は怖い日本のしきたり オーディオブック. Pan roringu (Hatsubai). ISBN 978-4-7759-8631-8. OCLC 1108314699. http://worldcat.org/oclc/1108314699 
  8. ^ 社団法人日本人形協会
  9. ^ 全日本人形専門店チェーン Archived 2016年3月7日, at the Wayback Machine.
  10. ^ 内裏雛 コトバンク
  11. ^ a b c d e “うたの旅人 捨てたいのに広まった 「うれしいひなまつり」”. be (朝日新聞社). (2012年3月3日). オリジナルの2012年3月2日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20120302122526/http://www.asahi.com/shopping/tabibito/TKY201203010324.html 2013年1月19日閲覧。 
  12. ^ a b c d e f 大城夏希; 是沢博昭 (2019年2月9日). “時代で変わるひな人形 素材にスワロフスキーも”. NIKKEIプラス1. 日本経済新聞社. 2019年2月26日閲覧。
  13. ^ a b 明治33年・冨山房発行の『国語読本(尋常小学校用)』巻四・第二十四課に「ひな祭」についての話があり、「上の段にならびたる、男女の人形をだいりびなと云ふ。」と言い切っている他、明治時代の並べ方として挿絵では向かって左に女雛・右に男雛が描かれている。
    (坪内雄藏 著『國語讀本尋常小学校用』(株)冨山房インターナショナル、2012年復刻版、ISBN 978-4-905194-23-1、p.256-257)
  14. ^ a b c d e “春秋”. 西日本新聞 (西日本新聞社). (2019年2月10日). https://www.nishinippon.co.jp/nnp/syunzyu/article/485850/ 2019年2月26日閲覧。 
  15. ^ a b “童謡「お内裏様〜とお雛様~♪」実はお内裏様と呼ぶのは間違い? お雛様の”雛”って何?”. ニコニコニュース (ドワンゴ). (2019年2月23日). https://news.nicovideo.jp/watch/nw4876656 2019年2月26日閲覧。 
  16. ^ 雛壇ストーリー 二段目 三人官女ひな祭り 文化普及協會 公式ホームページ
  17. ^ 八楽人のこともあり、その場合は和琴と箏をともに加える。
  18. ^ 五楽人・七楽人の並べ方と持ち物真多呂人形博物館
  19. ^ 雛壇ストーリー 五段目 仕丁ひな祭り 文化普及協會 公式ホームページ
  20. ^ 雛御殿に脇御殿があり階段が2箇所以上ある場合など
  21. ^ 2008-02-20〜2008-03-18ほべりぐアンケートでお内裏様はむかって左側に飾るが70%。
  22. ^ e-まちタウン。63%は、お内裏様が左・お雛様が右、逆は18%と回答。
  23. ^ 『人形手帳』(日本人形協会) P.65では、男雛を向かって左に置くのを「現代式」、右に置くのを「古式」としている

関連項目

外部リンク