赤松政秀

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赤松政秀
時代 戦国時代から安土桃山時代
生誕 永正7年(1510年)?
死没 元亀元年11月12日1570年12月19日
別名 宇野下野守、宇野政秀
戒名 徳雲院俊嶽性哲大禅門
官位 下野
主君 浦上宗景
氏族 赤松氏(龍野赤松氏)
父母 父:赤松村秀
兄弟 政秀平井祐利川島頼村
赤松晴政
広貞斎村政広祐高足利義昭侍女

赤松 政秀(あかまつ まさひで)は、戦国時代武将播磨国龍野城主。祖父と同様、宇野下野守とも称される。

生涯[編集]

播磨龍野城主・赤松村秀の子として誕生。

天文10年(1541年)、父・村秀が死去し、跡を継ぐ。政秀は智勇に優れた人物で、赤松晴政の嫡男・義祐を擁する浦上政宗置塩城を追われた晴政を保護し、永禄9年(1566年)に政宗を討つなど、赤松氏の再興に尽力した。主家である赤松義祐との関係は決して良好ではなく、庇護していた晴政が病死すると義祐と一時的に和睦したが、やがて対立し独立勢力化し、室町幕府15代将軍足利義昭及び織田信長との同盟を画策し義祐と対立した。

また、浦上氏の同盟者であった小寺氏とはその後も激しく対立し、東播磨の実力者である別所安治と手を結んで、小寺政職やその家臣・黒田職隆と戦い、西から侵攻してきた政宗の弟の浦上宗景(ただし政宗とは別家)とも戦った。しかし、小寺氏の家臣・黒田孝高の奇襲により大敗し、多くの有力家臣が戦死した(青山・土器山の戦い)。軍事的な抵抗力を失った政秀は浦上氏の前に降伏を余儀なくされ、永禄12年(1569年)11月に宗景に降伏。西播磨における覇権を失う。

元亀元年(1570年)11月12日、毒を盛られて暗殺された。浦上宗景の手の人間に毒殺されたという。