衞藤瀋吉
人物情報 | |
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生誕 |
1923年11月16日 満州国奉天 |
死没 | 2007年12月12日 (84歳没) |
出身校 | 東京帝国大学 |
学問 | |
研究分野 | 政治学 |
研究機関 | 東京大学 |
衞藤 瀋吉(えとう しんきち、1923年(大正12年)11月16日 - 2007年(平成19年)12月12日)は、日本の国際政治学者。専門は、中国を中心とする東アジア政治史、国際関係論。東京大学名誉教授、亜細亜大学名誉教授。亜細亜大学学長、東洋英和女学院院長を歴任。
経歴・人物
[編集]1923年、旧満州奉天(現・瀋陽)生まれ[1]。「エリート教育、特殊教育を実践したユニークな学校」として知られていた満洲教育専門学校附属奉天千代田小学校を卒業[2]。1941年奉天第一中学校、1943年第一高等学校文科甲類卒業、東京大学法学部政治学科入学。同年学徒出陣により陸軍入隊。広島市の大本営第2通信隊に所属した1945年8月、広島駅近くの松本商業(現・瀬戸内高校)内にあった建物内で被爆[3]。その後、一週間以上、広島市内で救護活動にあたる。
戦後、1948年東京大学法学部政治学科卒業[1]、東京大学東洋文化研究所助手(1948-53年)[1]。東京工業大学理工学部助教授[1](1952-59年[1]、1958年から併任扱い)、東京大学教養学部助教授[1](1956-67年[1]、1958年まで併任扱い)、東京大学教養学部教授(1967-84年)[1]を歴任。1984年東京大学名誉教授となる[1]。
東大退官後、青山学院大学国際政治経済学部教授(1984-87年)[1]、亜細亜大学学長(1987-95年)[1]、東洋英和女学院院長(1998-2002年)を歴任。2007年12月12日午後4時0分、胃噴門部がんのため逝去。享年84。
研究内容・活動
[編集]東洋文化研究所時代に植田捷雄に師事。清朝末期の中国政治外交史研究からスタートし、国際関係論研究に進む。シミュレーションの活用、『人民日報』の記述内容分析など、当時米国の国際関係論研究で導入されはじめた先進的手法を応用した研究を行なう一方で、論壇における活躍でも知られた。
亜細亜大学学長時代に、いわゆる「一芸一能入試」や「正規単位取得型の留学プログラム(AUAP)」を導入し、制度化したことでも知られる[注釈 1]。
家族・親族
[編集]弟子
[編集]門下生に平野健一郎、山本吉宣などがいる。また、直接の指導学生ではないが、岡部達味は国際基督教大学助手時代、衛藤の元に通う「押しかけ弟子」であったと語っている。
受賞・栄典
[編集]社会的活動
[編集]- アジア政経学会理事長(1978-1981年、1983-1985年)
- 財団法人アジア研究協会理事長
- 財団法人平和・安全保障研究所理事
- 財団法人女性のためのアジア平和国民基金副理事長
- 財団法人国際文化交換協会理事
- 社団法人日本スカッシュ協会会長
- 財団法人りそなアジア・オセアニア財団理事
- 日本戦略研究フォーラム理事
- 国立国会図書館納本制度調査会会長(1996年)
- 国会議員の秘書に関する調査会委員長(1991年)
- 財団法人日中友好会館 「日中友好岸関子賞」選考委員
著書
[編集]単著
[編集]- 『無告の民と政治――新生日本外政論』(番町書房、1966年/新版 東京大学出版会、1973年)
- 『近代中国政治史研究』(東京大学出版会、1968年)
- 『東アジア政治史研究』(東京大学出版会、1968年)
- 中国語訳『東亜政治史研究』(水牛出版社、2000年)
- 『大世界史(20)眠れる獅子』(文藝春秋、1969年)
- 『日本の進路』(東京大学出版会、1969年)
- 『日本宰相列伝(22)佐藤栄作』(時事通信社、1987年)
- 『学長の鈴――偏差値より個性値』(読売新聞社、1988年)
- 『個性値教育のすすめ――くたばれ偏差値 偏差値病につかれた親に捧げる本』(ごま書房、1989年)
- 『二流のすすめ――21世紀をになう者』(講談社、1993年)
- 『近代東アジア国際関係史』(東京大学出版会、2004年)
共著
[編集]- (岡部達味・松本繁一・向山寛夫)『中華民国を繞る国際関係――1949-65』(アジア政経学会、1967年)
- (岡部達味)『世界の中の中国』(読売新聞社、1969年)
- (坂本二郎ほか)『大国日本の進路』(自由社、1971年)
- (三好修)『中国報道の偏向を衝く――調査報告 自由な新聞の危機』(日新報道、1972年)
- (篠原三代平)『世界政治・経済を見る眼』(世界経済情報サービス、1978年)
- (公文俊平・平野健一郎・渡辺昭夫)『国際関係論(上・下)』(東京大学出版会、1982年/第二版、1989年)
- (許淑真)『鈴江言一伝――中国革命にかけた一日本人』(東京大学出版会、1984年)
- (山本吉宣)『総合安保と未来の選択』(講談社、1991年)
編著
[編集]- 『アジア現代史』(毎日新聞社、1969年)
- 『大国におもねらず小国も侮らず』(自由社、1973年)
- 『国際社会における相互依存の構造分析』(世界経済情報サービス、1977年)
- 『日本をめぐる文化摩擦』(弘文堂、1980年)
- 『現代中国政治の構造』(日本国際問題研究所、1982年)
- 『大学国際化への挑戦――亜細亜大学の試み』(サイマル出版会、1993年)
- 『共生から敵対へ――第4回日中関係史国際シンポジウム論文集』(東方書店、2000年)
共編著
[編集]- (植田捷雄・魚返善雄・坂野正高・曽村保信)『中国外交文書辞典 清末篇』(学術文献普及会、1954年)
- (坂野正高)『中国をめぐる国際政治――影像と現実』(東京大学出版会、1968年)
- (内田忠夫)『新しい大学像をもとめて』(日本評論社、1969年)
- (永井陽之助)『講座日本の将来(3)世界の中の日本――安全保障の構想』(潮出版社、1969年)
- (宮下忠雄・佐藤慎一郎)『現代の世界(3)東アジア』(ダイヤモンド社、1970年)
- (山陽新聞社)『日本の新しい進路――70年代への提言』(鹿島出版会、1971年)
- (坂野正高・田中正俊)『近代中国研究入門』(東京大学出版会、1974年)
- (浦野起央・嵯峨座晴夫)『戦後世界データハンドブック』(世界経済情報サービス、1979年)
- 『日本の安全・世界の平和――猪木正道先生退官記念論文集』(原書房、1980年)
- (井上清)『日中戦争と日中関係――盧溝橋事件50周年日中学術討論会記録』(原書房、1988年)
- China's Rpublican Revolution, coedithed with Harold Z. Schiffrin, (University of Tokyo Press, 1994).
- (李廷江)『近代在華日人顧問資料目録』(中華書局、1994年)
訳書
[編集]- E・H・カー『両大戦間における国際関係史』(弘文堂、1959年/清水弘文堂、1968年)
- ジョン・K・フェアバンク『人民中国論』(読売新聞社、1970年)
- ケネス・ボールディング『紛争の一般理論』(ダイヤモンド社、1971年)
- 『毛沢東思想万歳(上・下)』(監訳、三一書房、1974-75年)
- 宮崎滔天[注釈 3]『三十三年の夢』 英訳My Thirty-Three Years' Dream, the Autobiography of Miyazaki Toten, (Princeton University Press, 1982).
著作集
[編集]- 『衞藤瀋吉著作集』(東方書店、2003年-2004年)
- 1巻『近代中国政治史研究』
- 2巻『東アジア政治史研究』
- 3巻『近代アジア国際関係史』
- 4巻『眠れる獅子』
- 5巻『中国分析』
- 6巻『国際政治研究』
- 7巻『日本人と中国』
- 8巻『無告の民と政治』
- 9巻『日本の進路』
- 10巻『佐藤栄作』
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ アルピニストの野口健はこの衛藤が導入した一芸一能入試によって大学進学を果たし、在学中は精神面、資金面ともに衛藤の多大な支援を受けたという。
- ^ 父・衞藤利夫(1883-1953年)の新版著作は、『韃靼』(復刻版:地久館出版(1984年)および中公文庫(1992年)衞藤瀋吉あとがき)と、『衛藤利夫 個人別図書館論選集』(日本図書館協会、1980年)がある。
- ^ 滔天は、著作校訂や全集編集にも参与。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m “衞藤瀋吉 経歴”. 福岡アジア文化賞. 2022年10月27日閲覧。
- ^ 飯島一孝 2020, p. 85.
- ^ 讀賣新聞1970年8月2日17面
参考文献
[編集]- 飯島一孝『ハルビン学院の人びと——百年目の回顧』群像社〈ユーラシア文庫〉、2020年。ISBN 9784910100098。
外部サイト
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