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「カーナーヴォン城」の版間の差分

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{{Infobox Military Structure
{{Infobox Military Structure<!--{{Infobox UNESCO World Heritage Site(世界遺産インフォボックス内格納)-->
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{{世界遺産概要表|
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'''カーナーヴォン城'''(カーナーヴォンじよう、{{lang-en|Caernarfon Castle}}、{{lang-cy|''Castell Caernarfon''}}; {{IPA-cy|kastɛɬ kaɨrˈnarvɔn}}〈カステス・カエルナルヴォン<ref name=cymru>{{Cite web |url=https://nihon-cymru-wales-gakkai.com/ |title=カムリの地名カタカナ表記リスト |format=XLS |work=カムリの地名のカタカナ表記 |publisher=日本カムリ学会(日本ウェールズ学会)|accessdate=2021-08-15}}</ref>〉)は{{efn2|[[片仮名]]表記では、カナーボン<ref>{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%B3%E5%9F%8E-465002 |title=カナーボン城 |website=[[コトバンク]] |publisher=[[朝日新聞社]] |accessdate=2021-08-15}}</ref>、カーナーボン<ref>{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%B3%E5%9F%8E-45788 |title=カーナーボン城 |website=コトバンク |publisher=朝日新聞社 |accessdate=2021-08-15}}</ref>、カナーヴォン<ref>[[#Phillips|フィリップス (2014)]]、34-35・71・92-95・97-98頁</ref>、カーナヴォン<ref>[[#Ota|太田 (2010)]]、76・83-89頁</ref>、カエルナヴォン<ref>{{Cite book |和書 |author=田辺雅文 |editor=「旅名人」編集部 |title=ウェールズ - 英国の中の“異国”を歩く |origyear=1999 |edition=第2版 |year=2002 |publisher=[[日経BP社]] |series=旅名人ブックス 16 |isbn=4-8222-2209-8 |pages=12-13・111・163-164・172-174・177・213頁}}</ref>などとも記される。[[ウェールズ語]]での発音は、「カイルナーヴォン」に近い。「f」はウェールズ語では「v」と発音するため、これを正しく読めない[[イングランド人]]が[[スペル]]を英語化して、Carnarvon<ref>{{Cite book |last=Pritchard |first=William |title=History of Carnarvon Castle, and the antiquities of Carnarvon, with a guide for the tourist to the surrounding scenery |year=1849}}</ref>、Caernarvon<ref name=coflein /><ref name=worldhistory>{{Cite web |url=https://www.worldhistory.org/Caernarfon_Castle/ |title=Caernarfon Castle |last=Cartwright |first=Mark |date=2019-11-27 |website=World History Encyclopedia |accessdate=2021-08-15}}</ref> と変えていた例が過去にあるが、現在ではウェールズ語のスペルが標準的である。}}、[[ウェールズ]]{{仮リンク|北西ウェールズ|en|North West Wales|label=北西部}}の[[グウィネズ州]][[カーナーヴォン]]にある{{仮リンク|中世のイングランド|en|England in the Middle Ages|label=中世}}の城である。1283年にウェールズを征服した[[イングランド王国|イングランド]]王[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]によって建設された。
[[Image:Caernarfon castle interior.jpg|thumb|left|300px|カーナーヴォン城内の広場。左から黒塔、チェンバレインズ塔、鷲の塔]]
[[Image:Caernarfon_castle_from_the_west.jpg|left|thumb|300px|西側から見たカーナーヴォン城]]
'''カーナーヴォン城''' ([[英語]]:'''Caernarfon Castle'''、[[ウェールズ語]]:'''Castell Caernarfon''')は、[[ウェールズ]]北西[[グウィネズ州]][[カーナーヴォン]]にある城。1283年にウェールズを征服した[[イングランド王国|イングランド]]王[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]によって建設された。


==発音==
== 概要 ==
エドワードの時代の町や城は、{{仮リンク|北ウェールズ|en|North Wales}}行政の中心地となり、そのため大規模な防備が建築された。イングランドのエドワード1世が現在の石造りの城の建造を開始した1283年には、11世紀後半から[[ノルマン人]]の<ref name=Kotobank>{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%B3-45783 |title=カーナーボン |website=コトバンク |publisher=朝日新聞社 |accessdate=2021-08-15}}</ref>[[モット・アンド・ベーリー]]型の城がそこにあった。さらにこの地にはかつて{{仮リンク|古代ローマ人|en|Roman people}}の砦があり<ref name=Kotobank />、[[チェスター]]のディーヴァ(デーウァ<ref>[[#Sashi|指 (2015)]]、10頁</ref>、[[w:Deva Victrix|Deva]])につながる[[ローマ街道]]が延びていた<ref>{{Cite web |url=https://historypoints.org/index.php?page=japanese-site-of-canovium-roman-fort-caerhun |title=ローマ軍のカノヴィウム砦があった地、カイルヒン |publisher=historypoints.org |language=ja |accessdate=2021-08-15}}</ref>。
ウェールズ語での発音は、「カイルナーヴォン」に近い。「f」はウェールズ語では「v」と発音するため、これを正しく読めないイングランド人がスペルを英語化してCarnarvonと変えていた例が過去にあるが現在ではウェールズ語のスペルが標準的である。


エドワード1世は、1283年に独立国家[[ウェールズ公国]]を征服したのに伴い、この地域を平定するために城を築き、城塞都市を建設した。城が建設されるなか、カーナーヴォンの周りには{{仮リンク|カーナーヴォンの市壁|en|Caernarfon town walls|label=市壁}}が構築された。着工から1330年の終了までの47年間の建造費は2万5000ポンドであった<ref name=cadw />。城は、外側からはほとんど完成した状態に見えるが、内部の建造物はもはや残存せず、それに建築設計の多くも完了しなかった。
==背景==
エドワード1世は、1283年に独立国家[[ウェールズ公国]]を征服したのに伴い、この地域を平定するため城を築き城塞都市を建設した。


1294年から1295年にかけてのイングランドに対する反乱で、カーナーヴォンの町と城は、[[サウェリン・アプ・グリフィズ]](ルウェリン・アプ・グリフィズ<ref>[[#Aoyama|青山 (1991)]]、279・313・319・449・455頁</ref><ref>[[#Haywood|ヘイウッド (2003)]]、108-111頁</ref>)の遠縁{{仮リンク|マドッグ・アプ・サウェリン|en|Madog ap Llywelyn}}(マドッグ・アプ・ルウェリン<ref name=Aoyama_456>[[#Aoyama|青山 (1991)]]、456頁</ref>)軍によって破られたが、1295年にイングランド軍が再度攻略した。1400-1415年の[[グリンドゥールの反乱]]では、1401年、[[オワイン・グリンドゥール]](オウェン・グリンドゥル<ref>[[#Aoyama|青山 (1991)]]、408・461-465・473-474頁</ref><ref name=Kawakita_113>[[#Kawakita|川北 (1998)]]、113頁</ref>)軍により包囲され、1403年と1404年に包囲攻撃されても持ちこたえた。1485年に[[テューダー朝]]がイングランドの王位を得ると、ウェールズとイングランド間の緊張は弱まり始め、城はそれほど重要ではないと見なされた。結果、カーナーヴォン城は荒廃状態に陥っていった。そんな荒れ果てた状態にも関わらず、[[イングランド内戦]]時代、カーナーヴォン城は[[騎士党|国王派]]の要塞となり、[[円頂党|議会派]]軍に3度取り囲まれた。城が戦争に使われたのはこの1646年が最後であった。城は国が修繕資金を投じる19世紀まで放置されていた。カーナーヴォン城は、1911年(後の[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード8世]])と1969年([[チャールズ皇太子]])に[[プリンス・オブ・ウェールズ]]の叙位式に使用された。また、[[国際連合教育科学文化機関]](ユネスコ、UNESCO)[[世界遺産]]の「[[グウィネズのエドワード1世の城郭と市壁]]」の一部として登録されており<ref name=UNESCO>{{Cite web |url=https://whc.unesco.org/en/list/374 |title=Castles and Town Walls of King Edward in Gwynedd |work=[[世界遺産|World Heritage List]] |publisher=[[UNESCO]] [[世界遺産センター|World Heritage Centre]] |accessdate=2021-08-15}}</ref>、{{仮リンク|ウェールズ政府|en|Welsh Government}}の歴史的環境保全機関である{{仮リンク|カドゥ|en|Cadw}} (''Cadw'') により管理されている<ref name=cadw>{{Cite web |url=https://cadw.gov.wales/visit/places-to-visit/caernarfon-castle |title=Caernarfon Castle |website=cadw.gov.wales |accessdate=2021-08-15}}</ref>。
ウェールズ大公[[ルウェリン・アプ・グリフィズ]]は、もしウェールズの独立をあきらめたなら年1,000[[ポンド (通貨)|ポンド]]の年金とイングランド国内の所領を与えるという賄賂の申し出を拒絶し、1282年12月11日、罠にはまって戦死に追い込まれた。彼の弟ダフィズは兄の後を継いでウェールズ独立の戦いを続行したが、彼もイングランドの策略にはまり1283年6月にGarth Celynの高地ベラ山地で捕らえられた。


== 歴史 ==
エドワード1世はGarth Celynを包囲して保護下におき、イングランド王家の住まいとイングランド支配に対する抵抗を封じ込めるための本拠地としてカーナーヴォン城を築き、さらに現在のスノードニア国立公園を囲むその他の要塞として[[コンウィ]]、ハーレフ、ビューマリスに城を築いていった。これら4つの城が[[UNESCO]][[世界遺産]]に「[[グウィネズのエドワード1世の城郭と市壁]]」の名で登録されている。
=== ローマ時代 ===
{{see also|{{仮リンク|セゴンティウム|en|Segontium}}}}
カーナーヴォンの最初の砦は、西暦75年頃の[[ローマ時代]]に築かれた<ref name=Kotobank />。{{仮リンク|セゴンティウム|en|Segontium}}と名付けられたこの砦([[カストラ]])は、現代の町の郊外となる<ref name=Kotobank /><ref name="Taylor 4">{{harvnb|Taylor|1997|p=4}}</ref>。砦は{{仮リンク|セイオント川|en|River Seiont}}のほとり付近に設けられており、その砦はおそらくそこが隠れた安全な場所にあってセイオント川を経由した補給が可能なことから建設された<ref name="Taylor 5">{{harvnb|Taylor|1997|p=5}}</ref>。カーナーヴォンは、その名をこのローマ人の砦から得ている。[[ウェールズ語]]で、その場所は ''y gaer''(''caer'' の[[子音弱化]])''yn Arfon'' と呼ばれ、「モーン (''Môn'') の真向かいの土地にある砦」(河岸の砦<ref>[[#Nishino|西野 (1995)]]、159頁</ref>)を意味する<ref name=worldhistory />。モーン (''Môn'') は[[アンルグシー島]]({{lang-cy|''Ynys Môn''}}<ref>{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%BC%E5%B3%B6-29088 |title=アングルシー島 |website=コトバンク |publisher=朝日新聞社 |accessdate=2021-08-15}}</ref>、アニス・モーン<ref>{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%B3-170588 |title=アニスモーン |website=コトバンク |publisher=朝日新聞社 |accessdate=2021-08-15}}</ref>)のウェールズ語名である<ref name="Taylor 4"/>。西暦394年に放棄された<ref name=worldhistory />セゴンティウムのその後やローマ人が[[ブリタンニア]](ローマ領ブリテン<ref>[[#Grant;et_al|グラント ほか (2012)]]、29頁</ref>)を去った5世紀初頭<ref>[[#Grant;et_al|グラント ほか (2012)]]、33頁</ref>以降の一般集落についてはほとんど知られていない<ref name="Taylor 5"/>。


=== ノルマン時代 ===
カーナーヴォンが城を建てる地として選ばれたのは、[[メナイ海峡]]へSeiont川が注ぐ、河岸に位置することから戦略上重要であったためである。かつてこの地には古代ローマ人の砦があり、後に[[モット・アンド・ベーリー]]型の城が1090年頃初代[[チェスター伯]]ユー・ダヴランシュによって建てられた。当時の城は、両側が水辺であり、他方はカーナーヴォンの城壁に囲まれていた。19世紀、Seiont川に面した地域はカーナーヴォン港拡張のため埋め立てられ、現在はカーナーヴォン城の駐車場の一部となっている。
イングランドのノルマン征服([[ノルマン・コンクェスト]])に次いで、[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]](征服王)はウェールズに注意を向けた<ref>[[#Aoyama|青山 (1991)]]、299-300頁</ref>。1086年のドゥームズデイ調査(「[[ドゥームズデイ・ブック]]」)によれば、ノルマンの{{仮リンク|ロバート・オブ・リズラン|en|Robert of Rhuddlan}}が名目上ウェールズ北部全土を保有していた<ref>[[#Nakamura|中村 (1999)]]、897-898頁</ref>。ロバートは1093年にウェールズ勢力により殺害された<ref>[[#Nakamura|中村 (1999)]]、898頁</ref>。ロバートの所領を引き継いだ<ref>[[#Nakamura|中村 (1999)]]、898頁</ref>初代[[チェスター伯]]{{仮リンク|ヒュー・ダヴランシュ (初代チェスター伯爵)|en|Hugh d'Avranches, Earl of Chester|label=ヒュー・ダヴランシュ}}(ヒュー・オブ・アヴランシュ<ref>[[#Aoyama|青山 (1991)]]、300頁</ref>)は<ref>[[#Nakamura|中村 (1999)]]、886頁</ref>、3か所に城を築くことによる北ウェールズのノルマン支配を重ねて主張した。それらの1つは{{仮リンク|メリオネスシャー|en|Merionethshire}} (''[[w:Meirionnydd|Meirionnydd]]'') のどこか、1つはアングルシー島の ''[[w:Castell Aberlleiniog|Aberlleiniog]]''、そしてもう1つがカーナーヴォンに配置された<ref>{{harvnb|Taylor|1997|pp=6-7}}</ref>。カーナーヴォンが城を建てる地として選ばれたのは、[[メナイ海峡]]へセイオント川が注ぐ、河岸に位置することから戦略上重要であったためである<ref>[[#Phillips|フィリップス (2014)]]、93頁</ref>。このかつての城は、その1093年頃<ref name=worldhistory />、セイオント川とメナイ海峡に囲まれた半島に建てられ、両側が水辺であり、その城塞は木材の柵({{仮リンク|パリセード (柵)|en|Palisade|label=パリセード}})と[[土塁]](モット<ref>[[#Mitani|三谷 (2013)]]、280頁</ref>、[[ノルマン語]]: ‘motte [mote]’〈{{lang-en-short|‘mound [mount]’}}〉<ref>[[#Mitani|三谷 (2013)]]、315頁</ref>)に防御された[[モット・アンド・ベーリー]]であったとされる。モットすなわち土塁は、後のエドワードの城に取り込まれており、もとのベーリー(包囲地<ref>[[#Hislop|ヒスロップ (2014)]]、68頁</ref>)の位置はモットの北東であろうとされるが明らかでない<ref name="Taylor 7">{{harvnb|Taylor|1997|p=7}}</ref>。1969年のモット頂部の掘削では、中世の占有の痕跡は明らかにならず、いずれの証拠も残っていないことを示唆している<ref>{{harvnb|Wilson|Hurst|1970|p=179}}</ref>。モットには、おそらく[[キープ (城)|キープ]](天守)として知られている木造の塔があった。ウェールズ勢力は1115年までに{{仮リンク|グウィネズ王国|en|Kingdom of Gwynedd}}を奪還し、カーナーヴォン城はウェールズ公のものとなった<ref name=coflein /><ref name=worldhistory />。城に書き留められた同時代の文書から、{{仮リンク|大サウェリン|en|Llywelyn the Great}}(大ルウェリン<ref>[[#Aoyama|青山 (1991)]]、309-312頁</ref><ref>[[#Haywood|ヘイウッド (2003)]]、108-109頁</ref>〈サウェリン・アプ・イオルウェルス<ref>[[#Aoyama|青山 (1991)]]、309頁</ref>、ルウェリン・アプ・ヨーワース<ref>[[#Aoyama|青山 (1991)]]、309・316・318頁</ref><ref name=Haywood_108>[[#Haywood|ヘイウッド (2003)]]、108頁</ref>)や孫の<ref name=Haywood_108 />[[サウェリン・アプ・グリフィズ]]が時折カーナーヴォンに滞在したことが知られている<ref name="Taylor 7"/>。


=== エドワード征服 ===
==建設==
{{See also|{{仮リンク|エドワード1世のウェールズ征服|en|Conquest of Wales by Edward I}}}}
グウィネズ王国(ウェールズ北部にあった王国)の心臓部スノードニアが強固な軍に侵略された後の1283年に建設が始まり、1323年に現在の様子に似た状態となった。城は未完成のまま、今日でさえ接合部分が、さらなる未完成の壁を擁する内側城壁の数カ所で見られる。城を建設していた時代の記録には、城の建設には22,000ポンドかかったと記録されている。当時としては莫大な金額で、王家の年間収入と同等かそれ以上だった。城のリニア([[:en:Linear castle|Linear]])設計は初期のイギリスの城と比較して精巧であり、城壁はかつて[[第8回十字軍]]に参加したエドワード1世が見た[[コンスタンティノープル城壁]]を参考にしたとされる。
1282年3月22日、イングランドとウェールズ間で再び戦争が勃発した。ウェールズ大公[[サウェリン・アプ・グリフィズ]]は<ref>[[#Aoyama|青山 (1991)]]、320頁</ref><ref name=Haywood_108・110>[[#Haywood|ヘイウッド (2003)]]、108・110頁</ref>、同年12月11日、戦死に追い込まれた<ref>[[#Aoyama|青山 (1991)]]、325-326頁</ref>。サウェリンの弟{{仮リンク|ダヴィズ・アプ・グリフィズ|en|Dafydd ap Gruffydd|label=ダヴィズ}}(デイヴィッド<ref name=Haywood_108・110 /><ref>[[#Aoyama|青山 (1991)]]、322頁</ref>)が後を継いでウェールズ独立の戦いを続行したが、彼も策略にはまり<ref>[[#Haywood|ヘイウッド (2003)]]、110頁</ref>1283年6月に<!--Garth Celynの高地ベラ山地で-->捕らえられた<ref>[[#Aoyama|青山 (1991)]]、326頁</ref>。ウェールズ北部に侵攻したエドワードは、{{仮リンク|ドルゥイゼラン城|en|Dolwyddelan Castle}}(1283年1月<ref>{{Cite book |last=Prestwich |first=Michael |authorlink=w:Michael Prestwich |title=Edward I |url=https://books.google.com/books?id=Vp2r3xyaDaEC&q=dolwyddelan%20castle&pg=PA195 |accessdate=2021-08-15 |year=1988 |publisher=[[w:University of California Press|University of California Press]] |isbn=0-520-06266-3 |pages=194-195}}</ref>)などを占領し、[[コンウィ]]に自らの城を置くようにすると、ダヴィズ・アプ・グリフィズの最後の牙城であった[[ドルバダーン城]](1283年5月頃<ref>{{harvnb|Taylor|1986|p=77}}</ref>)を占領していた。その後間もない夏には<ref name=worldhistory />、エドワードは[[ハーレフ]]とカーナーヴォンにおける築城を開始している<ref>[[#Ota|太田 (2010)]]、76・84・88頁</ref>。カーナーヴォン、[[コンウィ城|コンウィ]]、[[ハーレフ城|ハーレフ]]の城は、ウェールズで当時極めて広壮なもので、その建造物は、北ウェールズの{{仮リンク|スノードニア|en|Snowdonia}}({{lang-cy|''Eryri''}}<ref>[[#Tanabe|田辺 (2002)]]、13・109頁</ref>、エラリ<ref>[[#60chapter|太田直也「ウェールズ概観」、『ウェールズを知るための60章』(2019)]]、19頁</ref>)を囲む「{{仮リンク|鉄の輪|en|Ring of Iron}}<ref>[[#Grant;et_al|グラント ほか (2012)]]、90頁</ref>」(鉄環<ref>[[#Stephenson|スティーヴンソン (2012)]]、86頁</ref>、城の鎖<ref>[[#Tanabe|田辺 (2002)]]、163-164頁</ref>)となる<ref>{{Cite web |url=https://walescoastpath.co.uk/edward-1-iron-ring-welsh-castles/ |title=Edward I’s ‘Iron Ring’ of world-class Welsh castles |last=Bowerman |first=Tony |year=2015 |website=wales coast path |publisher=Northern Eye |accessdate=2021-08-15}}</ref>他のエドワードの城とともに<ref>[[#60chapter|太田美智子「北ウェールズの巨城群」、『ウェールズを知るための60章』(2019)]]、26頁</ref>、イングランド人の支配を確立する役割を果たした<ref name="Taylor 9">{{harvnb|Taylor|1997|p=9}}</ref>。


==歴史==
=== 建設 ===
[[ファイル:Caernarfon_castle_from_the_west.jpg|thumb|300px|西側から見たカーナーヴォン城。]]
エドワード1世の王子エドワード(のちの[[エドワード2世 (イングランド王)|エドワード2世]])は、城を建設中の1284年に城内で生まれ<ref name=Mizuno>{{Cite book|和書 |author = 水野久美 |year = 2014 |title = いつかは行きたいヨーロッパの世界でいちばん美しいお城 |publisher = [[大和書房]] |page = 198 |isbn = 978-4-479-30489-0}}</ref>、彼はエドワード・オブ・カーナーヴォンとも呼ばれていた。
ウェールズ北部にあった{{仮リンク|グウィネズ王国|en|Kingdom of Gwynedd}}一帯を強固な軍により掌握した1283年に建設が始まり、イングランド王家の住まいとイングランド支配に対する抵抗を封じ込めるための本拠地としてカーナーヴォン城を築いていった。城の設計ならびに建設を担った[[石工]]棟梁は、ウェールズのエドワードの城の建設に重要な役割を果たした熟練建築家で軍事技術者の[[マスター・ジェイムズ]](セント・ジョージのジェイムズ<ref>[[#Hislop|ヒスロップ (2014)]]、48頁</ref>)であった<ref name=worldhistory /><ref name="Taylor 10">{{harvnb|Taylor|1997|p=10}}</ref>。新たな石造城郭の建設は、カーナーヴォンを一変させる建築事業の一部であり、市壁が築かれて城に接続され、同じく新しい岸壁が建設された<ref name=cadw />。カーナーヴォンにおける構築の最初の言及は、1283年6月24日、城の用地を北の町から分離する溝([[溝渠]]、こうきょ)が掘られたことに始まる。永続的な防備が建設中である間、一種の{{仮リンク|囲い柵|en|Stockade}} ''bretagium'' が、防御のために敷地の周囲に施された。木材は遠く[[リヴァプール]]から運ばれた<ref name="Taylor 9" />。石材は[[アングルシー島]]や町の周囲といった近場から採石された<ref>{{harvnb|Taylor|1986|p=94}}</ref>。何百人もの労力によって堀の掘削や城の基礎の開削作業がなされた。敷地が拡大するにつれ、それが町にもおよび始めると、家屋はその建設を可能にするために一掃されたが、住民は3年後まで代償を支払われなかった。石の壁の基礎が造営されている間、エドワード1世と王妃[[エリナー・オブ・カスティル]]のために[[木骨造り]]の区画が建設された。彼らは1283年7月11日か12日にカーナーヴォンに到着すると、1か月余り滞在した<ref name="Taylor 10" />。


[[ファイル:Caernarfon Castle plan labelled.png|thumb|300px|カーナーヴォン城の平面図<br />A. 水門 (Water Gate) B. 鷲の塔 (Eagle Tower) C. 王妃の塔 (Queen's Tower) D. 井戸の塔 (Well Tower); E. 外廓 (Outer Bailey, Lower Ward) F. 大広間 ([[w:Great Hall|Great Hall]]) G. 台所 (Kitchens) H. 侍従の塔 (Chamberlain Tower) I. 王の門 (King's Gate) J. 内廓 (Inner Bailey, Upper Ward) K. 黒い塔 (Black Tower) L. 穀倉の塔 (Granary Tower) M. 北東の塔 (North-East Tower) N. 貯水の塔 (Cistern Tower) O. 王妃の門 (Queen's Gate)<br />{{legend2|#3a555e|1283-1292年}} {{legend2|#5f0505|1295-1323年}}]]
1294年から295年にかけての反乱で、カーナーヴォン城はルウェリン・アプ・グリフィズの遠縁メドック・アプ・ルウェリン軍によって攻略されたが、1295年にイングランド軍が再度攻略した。城の守備は完璧に近くなった。1403年と1404年、[[オーウェン・グレンダワー]]軍により包囲されても持ちこたえた。[[イングランド内戦]]時代、1646年に王党派の要塞であった城を議会軍が取り囲んだ。
カーナーヴォン城の建設は1283-1284年の冬も続けられた。1284年3月19日に発布された{{仮リンク|リズラン法令|en|Statute of Rhuddlan}}(ウェールズ法<ref>[[#Grant;et_al|グラント ほか (2012)]]、91頁</ref>)により<ref>{{Cite web |url=https://rekiseek.hydeen.com/today/0319/ |title=今日は何の日(3月19日の出来事) |author=中西正和 |authorlink=中西正和 |coauthors=ソフトヴィジョン |date=1999-03-31 |website=暦seek |work=歴史データ大型版 Ver.9.03 |accessdate=2021-08-15}}</ref>、カーナーヴォンはグウィネズの自治および行政の中心的[[シャイア]]となった<ref>[[#Aoyama|青山 (1991)]]、450頁</ref><ref name="Taylor 13">{{harvnb|Taylor|1997|p=13}}</ref>。[[建築史家]]{{仮リンク|アーノルド・J・テイラー|en|A. J. Taylor|label=アーノルド・テイラー}}は、エドワードとエリナーが1284年4月の<ref name=Ota_84>[[#Ota|太田 (2010)]]、84頁</ref>[[復活祭]](イースター)に再訪した際、鷲の塔<ref name=Stephenson_88>[[#Stephenson|スティーヴンソン (2012)]]、88頁</ref> (Eagle Tower) が完備されたのではないかと推測したが、完成については明らかでない<ref name="Taylor 10-11">{{harvnb|Taylor|1997|pp=10–11}}</ref>。伝説によれば、1284年4月25日<ref name=worldhistory /><ref name="Taylor 10-11" />、エドワード1世の王子エドワード(後の[[エドワード2世 (イングランド王)|エドワード2世]])が<ref name=Ota_84 />、建設中の城内(鷲の塔<ref name=worldhistory />)で生まれ<ref>{{Cite book|和書 |author=水野久美 |year=2014 |title=いつかは行きたいヨーロッパの世界でいちばん美しいお城 |publisher=[[大和書房]] |page=198 |isbn=978-4-479-30489-0}}</ref>、翌26日、エドワード1世はウェールズの諸侯らに、ウェールズ大公となる子であると紹介したという<ref name=Kimizuka_117>[[#Kimizuka|君塚 (2015)]]、117頁</ref>。彼はエドワード・オブ・カーナーヴォンとも呼ばれていた。


[[ファイル:Caernarfon Castle and Town reconstruction.jpg||thumb|300px|西から見た13世紀に完成した直後の{{仮リンク|カーナーヴォンの市壁|en|Caernarfon town walls}}を示す模型。]]
==儀式と慣例==
1284年に、カーナーヴォンは40人の守備隊により防衛されており、コンウィやハーレフの総勢30人余りの守備隊を上回っていた。さらに平時には、ほどんどの城はほんのわずかの衛兵しかいなかったが、カーナーヴォンはその重要性によって20から40人に守られていた<ref>{{harvnb|Friar|2003|p=124}}</ref>。1285年には、{{仮リンク|カーナーヴォンの市壁|en|Caernarfon town walls}}がほぼ完成した。加えて城郭における作業が継続された。建設費は、1289年からはごくわずかとなり、収支報告は1292年に終了している<ref>{{harvnb|Taylor|1997|p=11}}</ref>。1292年までに、カーナーヴォンの城と市壁の建設に1万2000ポンドを要していた<ref name=worldhistory />{{efn2|1292年までの建設費1万2000ポンドは、今日の[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]]にすれば1800万米ドル余りとされる<ref name=worldhistory />。}}。南の壁と市壁によりカーナーヴォンを取り囲む防御網が完成したことで、その構想は最後に城郭の北の[[ファサード]]({{lang-fr-short|façade}})を建設することであった<ref name="Taylor 12" />。
*イングランド王家の王太子を示す称号『[[プリンス・オブ・ウェールズ]]』は、ウェールズを平定したエドワード1世が1301年に息子エドワードにこの称号を与えたことに始まる。有名な伝説によると、イングランド支配を快く思わないウェールズの首領らを前に赤子のエドワード王子を見せ、『ウェールズで生まれ、英語を話さない王子である』とエドワード1世は言って一同を賛同させたという(同時にウェールズの首領らは悔しい思いをしたという)。しかしこの物語は出所が疑わしく、1301年当時エドワード王子は既に10代後半であったことが矛盾する。16世紀の文献にこの話の記述があるのみである。エドワード2世が、父王のウェールズ遠征中にカーナーヴォン城内で生まれたことは史実であり、全ての赤ん坊がそうであるように、新生児のエドワードは英語を話すことができなかったということは事実である(ちなみに、当時イングランド宮廷で話されていたのは[[アングロ=ノルマン語]]であり、英語ではない)。


1294年、ウェールズ公[[マドッグ・アプ・サウェリン]]率いる反乱が勃発した<ref name=Aoyama_456 /><ref>[[#Nishino|西野 (1995)]]、160頁</ref>。カーナーヴォンはグウィネズの行政の中心地であり、イングランドの権力の象徴であったため、ウェールズによる攻撃の的となった。マドッグの軍が9月に町を占領するなか市壁に大きな被害を与えた。城は溝渠と間に合わせのバリケードだけで防御されていた。それはすぐに取り込まれ、可燃性のものはすべて放火された<ref name="Taylor 13"/>。火はカーナーヴォン全域に燃え広がり、そこに破壊の爪痕を残した<ref>{{harvnb|Taylor|1986|p=85}}</ref>。しかし1295年の3月には、イングランドが全ウェールズを制圧し<ref name=Aoyama_456 />、カーナーヴォンは奪還された<ref name=timeline />。
*1911年7月13日、カーナーヴォン城はプリンス・オブ・ウェールズ叙位式典の舞台となった。この時のプリンス・オブ・ウェールズは、のちの[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード8世]]である。それまでのプリンス・オブ・ウェールズは、叙位証書一枚で任じられるものに過ぎず、過去に式典が行われたことはなかった。エドワード王子は1910年6月に叙位証書を受け取っており、プリンス・オブ・ウェールズとしての地位になんら問題はなかったが、時の[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]]を務めていた[[デビッド・ロイド・ジョージ]](ウェールズ出身)が[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]に式典開催を強く進言したことから、実現することとなった。叙位式典の前例がないまま、式典全体を指揮したのは[[紋章院]]総裁の第15代[[ノーフォーク公]][[ヘンリー・フィッツアラン=ハワード (第15代ノーフォーク公)|ヘンリー・フィッツアラン=ハワード]]である。式典でのエドワード王子の答辞は全てウェールズ語で行われ、それを聞く地元ウェールズ代表らやウェールズ人たちを感動させたという。1969年7月1日、[[チャールズ (プリンス・オブ・ウェールズ)|チャールズ]]皇太子がカーナーヴォン城内で叙位式典を行った(式典を祝して[[スウォンジ]]が都市の位に格上げされた)。現在のところ、カーナーヴォン城で叙位式典を行ったプリンス・オブ・ウェールズは以上の2人のみである。


==現在==
=== 再修築 ===
[[ファイル:Caernarfon Castle (7345).jpg|thumb|300px|西からのカーナーヴォン城。1285年に大部分が完成した市壁は再建され、城とつながる。]]
城内には[[イギリス陸軍]]の連隊の一つロイヤル・ウェルチ・フュージリヤーズ([[:en:Royal Welch Fusiliers|Royal Welch Fusiliers]]、プリンス・オブ・ウェールズ師団の一つ)の連隊博物館がある。また、[[国際連合教育科学文化機関|UNESCO]][[世界遺産]]の『[[グウィネズのエドワード1世の城郭と市壁]]』として登録されている。
1295年11月には、イングランドが町を再強化し始めた。市壁の再建が最も必要であり<ref name=worldhistory />、1195ポンド(当初の市壁建設のほぼ半分の費用)が経費に充てられ、予定より2か月早く事業は完了した。次いで焦点が城に移ると、1292年に中止した作業の完遂にあたった<ref name="Taylor 13"/>。1295年にひとまず反乱が鎮圧されると、エドワードはアングルシー島に[[ビューマリス城]]の建設を開始した。その作業は[[マスター・ジェイムズ]]により監督され<ref name="Taylor 1986 86">{{harvnb|Taylor|1986|p=86}}</ref>、結果として、{{仮リンク|ウォルター・オブ・ヘレフォード|en|Walter of Hereford}}が建設の新たな段階の石工棟梁として引き継いでいた。1301年末頃までに、さらに4500ポンドが作業に費やされ、作業の中心は北の壁と塔にあった。


1301年11月から1304年9月にかけての収支記録は見当たらず、おそらくはスコットランドに対するイングランドの戦争を補うために労働力が北に移行した間に作業の中断があったものとされる<ref name="Taylor 1997 15">{{harvnb|Taylor|1997|p=15}}</ref>。記録では、ウォルター・オブ・ヘレフォードはカーナーヴォンを離れて1300年10月には[[カーライル (イングランド)|カーライル]]にいて<ref>{{harvnb|Taylor|1986|p=90}}</ref>、カーナーヴォンで建設が再開される1304年の秋まで、彼はスコットランド戦争に専念していた<ref name="Taylor 1997 15"/>。ウォルターが1309年に亡くなると、その直属の部下ヘンリー・ド・エラートン (Henry de Ellerton<ref>{{Cite web |url=https://www.oxfordreference.com/view/10.1093/oi/authority.20110803095747677 |title=Overview: Henry de Ellerton |website=Oxford Reference |publisher=[[オックスフォード大学出版局|Oxford University Press]] |accessdate=2021-08-15}}</ref>〈Henry of Ellerton<ref>{{Cite web |url=http://www.castlesuncovered.com/castleglossary.html |title=Caernarfon Castle |website=Castles Uncovered |accessdate=2021-08-15}}</ref>〉) が石工棟梁の責務を引き継いでいる<ref>{{harvnb|Taylor|1986|p=92}}</ref>。1323年には現在の様子に似た状態となったといわれるが<ref>[[#Phillips|フィリップス (2014)]]、92頁</ref>、建設は1330年まで一定の割合で継続された<ref name="Taylor 1997 15"/>。
2007年、カーナーヴォン城の『鷲の塔』のサンドアートによる複製が、[[オランダ]]の町[[ザンドフォールト]]の大通りに建てられた。


1283年から1330年に収支報告が終了するまで、カーナーヴォンの城と市壁に2万5000ポンドが費やされた<ref name=cadw />。エドワード1世のウェールズ征服による築城においては、1277年から1304年までに8万ポンド、同じく1277年から1329年までに9万5000ポンドの費用を要している<ref>{{harvnb|McNeill|1992|pp=42-43}}</ref>。そういった当時における莫大な金額はまた、12世紀後半から13世紀初頭の極めて価値が高くかつ壮大な要塞であった[[ドーヴァー城]]やノルマンディーの{{仮リンク|ガイヤール城|en|Château Gaillard}}などの城への出費を妨げた<ref name="AB 87">{{harvnb|Allen Brown|1984|p=87}}</ref>。後のカーナーヴォンの増築は大したものでなく、城跡は大体がエドワード時代からのものである。その出費額にも関わらず、城に計画されたものの多くが完遂されることはなかった。王の門<ref name=Stephenson_88 />(King's Gate、町からの入口<ref name=Phillips_95>[[#Phillips|フィリップス (2014)]]、95頁</ref>)と王妃の門<ref name=Stephenson_88 />(Queen's Gate、東〈南東〉からの入口<ref name=Phillips_95 />)の背後は未完成のままであり、城郭の内部の土台部分が、作業が続けられれば建物を擁したはずの痕跡を見せている<ref name="Taylor 16-17">{{harvnb|Taylor|1997|pp=16–17}}</ref>。
==世界遺産基準==

{{世界遺産基準|1|3|4|}}
=== 中世後期以降 ===
[[ファイル:Caernarfon.1610 cropped.jpg|thumb|300px|{{仮リンク|ジョン・スピード|en|John Speed}}による1610年の[[カーナーヴォン]]の地図(城は町の南端<ref>[[#Ota|太田 (2010)]]、83頁</ref>)。]]
ウェールズの征服後約2世紀、国の統治のためにエドワード1世により制定された配置はそのままであった。この時代、城には守備隊が常駐しており、カーナーヴォンは事実上北ウェールズの首都であった<ref name="Taylor 19">{{harvnb|Taylor|1997|p=19}}</ref>。民族対立を根底とするウェールズ人とイングランド征服者間の緊張は、15世紀初頭に[[グリンドゥールの反乱]](1400-1415年)の勃発におよんでいった<ref>[[#Aoyama|青山 (1991)]]、408・460頁</ref><ref>{{harvnb|Davies|1995|pp=68-69}}</ref>。蜂起の間、カーナーヴォンは[[オワイン・グリンドゥール]]の軍の標的の1つであった。町と城は1401年に包囲され、同年11月、グリンドゥールによる{{仮リンク|トゥトヒルの戦い (1401年)|en|Battle of Tuthill|label=トゥトヒルの戦い}}がカーナーヴォンの防衛隊と蜂起軍の間に繰り広げられた<ref>{{harvnb|Davies|1995|p=105}}</ref>。1403年および1404年には、カーナーヴォンはフランス軍からの支援によってウェールズ人部隊に包囲されている<ref name="Taylor 19"/>。

1485年に[[テューダー朝]]がイングランド王の座に就いたことで、ウェールズに変化をもたらし始めた。[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー・テューダー]]はウェールズ出身であり、ヘンリーの統治はウェールズとイングランド間の対立を和らげた<ref>[[#Aoyama|青山 (1991)]]、467-470頁</ref>。結果として、カーナーヴォンの城のような、国が統治するために難攻不落の拠点を備える重要性は薄くなり、それらの城は放置された。

[[ファイル:Caernafon Castle Panorama (8074250217).jpg|thumb|300px|王の門。1620年にもなお屋根があった数少ない城の正面[[ゲートハウス]](門塔)。]]
カーナーヴォンの場合、町や城の壁は良好な状態にあったが、屋根など保守を要するものは崩壊の様相を呈しており、多くの木材は腐っていた。城の7基の塔と<ref name=Stephenson_88 />2棟の[[ゲートハウス]](門塔<ref>[[#Mitani|三谷 (2013)]]、18頁</ref>)のうち、1620年には鷲の塔と王の門だけに屋根があるといった寂しい状態であった。城内の敷地の建物は、ガラスや鉄などの高価なものは剝ぎ取られていた。敷地の建物の荒廃をよそに、城の防御は十分な状態にあり、17世紀中頃の[[イングランド内戦]]においては[[騎士党|国王派]]が駐屯した。カーナーヴォン城は戦争のなか3度包囲された。城代 ([[w:Castellan|constable]]) は[[ジョン・バイロン (初代バイロン男爵)|ジョン・バイロン]]で、1646年にカーナーヴォンを[[円頂党|議会派]]軍に明け渡した。カーナーヴォン城が交戦を見たのはこれが最後であった。1660年に城郭および市壁は取り壊すよう命じられたが、作業は早い段階で中止され、開始されなかったものと考えられる<ref name="Taylor 19"/>。

[[ファイル:Demolition work to clear the buildings around Caernarfon Castle (17193461497).jpg|thumb|200px|鷲の塔周辺の近代建築物を排除する1959年の解体作業。]]
[[ファイル:Caernarfon town plan.jpg|thumb|200px|現代のカーナーヴォン城と市壁の平面図。]]
廃城 ([[w:Slighting|slighting]]<ref>[[#Komuro|小室 1964]]、159頁</ref>) を逃れたにも関わらず、城は19世紀後半まで放置されていた。1870年代になって、政府はカーナーヴォン城の修繕に資金を供給した。城代補佐の{{仮リンク|ルウェリン・ターナー|en|Llewellyn Turner}}が<ref>[[#Nishino|西野 (1995)]]、160頁</ref>作業を監督し、現存する石積みを単に保存するのではなく、多くの場合に物議を醸すような城の修復や再建がなされた<ref>{{harvnb|Avent|2010|pp=143-148}}</ref>。階段、[[胸壁]]、屋根が修繕され、城郭の北の堀では、その土地の人の抵抗にも関わらず、中世より後の建物が景観を損なうものとして一掃された。[[w:Office of Works|Office of Works]] および1908年からはそれを継承した保護のもと、城はその歴史的意義により保存されていった<ref>{{harvnb|Taylor|1997|pp=20-21}}</ref>。19世紀前半には、セイオント川に面した地域はカーナーヴォン港拡張のため埋め立てられ<ref>{{Cite web |url=https://historypoints.org/index.php?page=slate-quay-and-harbour-office |title=Caernarfon slate quay |publisher=historypoints.org |accessdate=2021-08-15}}</ref>、現在はカーナーヴォン城の駐車場の一部となっている<ref>{{Cite news |title=The big change that could hit Caernarfon's biggest car park - and some people are really worried |newspaper=[[w:Daily Post (North Wales)|Daily Post]] |date=2019-01-11 |url=https://www.dailypost.co.uk/business/business-news/big-change-could-hit-caernarfons-15657364 |accessdate=2021-08-15}}</ref>。

<gallery widths="200"|gallery heights="150">
ファイル:Joseph Farington - Caernarvon Castle - Google Art Project.jpg|18世紀のカーナーヴォン城({{仮リンク|ジョセフ・ファリントン|en|Joseph Farrington}})
ファイル:Joseph Mallord William Turner, Caernarfon Castle (1830-1835).jpg|1830–1835年頃に描かれたカーナーヴォン([[ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー|J・M・W・ターナー)]]
</gallery>

=== 現代 ===
カーナーヴォン城はその建設時からずっと[[国王 (法人)|国王]]のものであったが、現在はウェールズの歴史的建造物の維持・管理を担う{{仮リンク|ウェールズ政府|en|Welsh Government}}の歴史的環境保全機関である{{仮リンク|カドゥ|en|Cadw}} (''Cadw'') によって管理されている<ref>{{harvnb|Taylor|1997|p=21}}</ref>{{efn2|カドゥ (''Cadw'') は、[[ウェールズ語]]で「保存」({{lang-en-short|‘to keep’}})<ref>{{Cite web |url=http://www.cadw.wales.gov.uk/default.asp?id=3&lang=en |title=About Cadw |year=2008 |website=Cadw |publisher=[[w:Welsh Government|Welsh Government]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110629171439/http://www.cadw.wales.gov.uk/default.asp?id=3&lang=en |archivedate=2011-06-29 |accessdate=2021-08-15}}</ref>ないし「保護」({{lang-en-short|‘to protect’}})を意味する<ref>{{Cite web |url=https://cadw.gov.wales/about-us |title=Caring for our historic places, inspiring current and future generations |website=Cadw |publisher=Welsh Government |accessdate=2021-07-24}}</ref>。}}。1986年、カーナーヴォンは、その世界的な重要性が認められ、その保存や保護の支援ために<ref>{{Cite web |url=http://portal.unesco.org/en/ev.php-URL_ID=15244&URL_DO=DO_TOPIC&URL_SECTION=201.html |title=UNESCO Constitution |publisher=UNESCO |archiveurl=https://web.archive.org/web/20190329170647/http://portal.unesco.org/en/ev.php-URL_ID%3D15244%26URL_DO%3DDO_TOPIC%26URL_SECTION%3D201.html |archivedate=2019-03-29 |accessdate=2021-08-15}}</ref>「[[グウィネズのエドワード1世の城郭と市壁]]」の一部として[[ユネスコ]]の[[世界遺産]]に登録された<ref name=UNESCO />。城内には[[イギリス陸軍]]の連隊の1つ{{仮リンク|ロイヤル・ウェールズ・フュージリア連隊|en|Royal Welch Fusiliers|Royal Welch Fusiliers}}({{仮リンク|プリンス・オブ・ウェールズ師団|en|Prince of Wales's Division}}の1部隊)の{{仮リンク|ロイヤル・ウェールズ・フュージリア連隊博物館|en|Royal Welch Fusiliers Museum|label=連隊博物館}}がある<ref>{{Cite web |url=https://www.rwfmuseum.org.uk/index.php |title=The Royal Welch Fusiliers Museum at Caernarfon Castle |website=[[w:Royal Welch Fusiliers Museum|Royal Welch Fusiliers Museum]] |accessdate=2021-08-15}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.culture24.org.uk/wa000082 |title=Royal Welch Fusiliers Regimental Museum |website=[[w:Culture24|Culture24]] |accessdate=2021-08-15}}</ref>。2015年には、歴史建築会社{{仮リンク|ドナルド・インソール・アソシエイツ|en|Donald Insall Associates}}により設計された新「エントランスパビリオン」(入口分館)が建設された<ref>{{Cite web |url=http://www.donaldinsallassociates.co.uk/news/article/new-entrance-and-ticketing-facility-completed-at-caernarfon-castle |title=New Entrance Pavilion Completed at Caernarfon Castle |date=2015-06-12 |publisher=[[w:Donald Insall Associates|Donald Insall Associates]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20151009031749/http://www.donaldinsallassociates.co.uk/news/article/new-entrance-and-ticketing-facility-completed-at-caernarfon-castle |archivedate=2015-10-9 |accessdate=2021-08-15}}</ref>。カーナーヴォン城は今日の主要な観光地であり、2018年には20万5000人余りがこの城を訪れている<ref>{{Cite report |date=2020-01-30 |title=Visits to Tourist Attractions in Wales 2018 ||url=https://gov.wales/visits-tourist-attractions-2018 |format=PDF |publisher=Welsh Assembly Government |pages=13, 44, 55, 62 |accessdate=2021-08-15}}</ref>。

== 儀式と慣例 ==
[[ファイル:Britain Before the First World War; Prince Edward, Duke of Windsor Q107152.jpg|thumb|200px|1911年7月13日のプリンス・オブ・ウェールズ叙位式典後、イングランド国室の一行がカーナーヴォン城を出る様子。]]
イングランド王家の王太子を示す称号「[[プリンス・オブ・ウェールズ]]」は、ウェールズを平定したエドワード1世が1301年に<ref>[[#Kawakita|川北 (1998)]]、87-88頁</ref>息子エドワードにこの称号を与えたことに始まる<ref name=Kimizuka_117 /><ref>[[#Aoyama|青山 (1991)]]、457頁</ref>。有名な伝説によると、1284年、イングランド支配を快く思わないウェールズの諸侯らを前に、エドワード1世は赤子のエドワード王子を見せ、ウェールズで生まれ、英語を話さない王子であるとして一同を賛同させたといい<ref>[[#Nishino|西野 (1995)]]、157・162頁</ref>、同時にウェールズの諸侯らは悔しい思いをしたという<ref name=Kimizuka_117 />。ウェールズの大公(プリンス・オブ・ウェールズ)は、ウェールズで生まれ、英語を話さず、一度も罪を犯したことのない者とされていた<ref name=Kimizuka_117 />。しかしこの物語は出所が疑わしく、16世紀にこの記述があるのみである<ref name="Taylor 12">{{harvnb|Taylor|1997|p=12}}</ref>。1301年、エドワード王子は17歳であった<ref name=Kimizuka_117 />。エドワード2世が、父王のウェールズ遠征中にカーナーヴォンで生まれたことは事実である<ref>[[#Kawakita|川北 (1998)]]、87頁</ref>。ちなみに、当時イングランド(アングリア<ref>[[#Sashi|指 (2015)]]、11頁</ref>、「[[アングル人]]の住む土地」の意<ref>[[#McDowall|McDowall (1989)]]、12頁</ref>)宮廷で話されていたのは[[アングロ=ノルマン語]]であり、英語ではない。

1911年7月13日、カーナーヴォン城はプリンス・オブ・ウェールズ叙位式典の舞台となった。この時のプリンス・オブ・ウェールズは、後の[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード8世]]である。それまでのプリンス・オブ・ウェールズは、叙位証書一枚で任じられるものに過ぎず、過去に式典が行われたことはなかった。エドワード王子は1910年6月に叙位証書を受け取っており、プリンス・オブ・ウェールズとしての地位に何ら問題はなかったが、時の[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]]を務めていたウェールズ出身の[[デビッド・ロイド・ジョージ]]が、[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]に式典開催を強く進言したことから実現することとなった<ref>{{Cite book |last1=Windsor |first1=HRH the Duke of |title=A King's Story |date=1951 |publisher=Cassell and Co. |location=London}}</ref><ref>{{cite web |url=http://churches-of-christ.ws/Criccieth.htm |title=Criccieth Church of Christ and David Lloyd George |website=Churches of Christ |accessdate=7 March 2015}}</ref>。叙位式典の前例がないまま、式典全体を指揮したのは[[紋章院]]総裁の第15代[[ノーフォーク公]][[ヘンリー・フィッツアラン=ハワード (第15代ノーフォーク公)|ヘンリー・フィッツアラン=ハワード]]である。式典でのエドワード王子の答辞は全てウェールズ語で行われ、それを聞く地元ウェールズ代表らやウェールズ人たちを感動させたという。1969年7月1日、[[チャールズ (プリンス・オブ・ウェールズ)|チャールズ]]皇太子がカーナーヴォン城内で叙位式典を行った。2日後の7月3日、チャールズ皇太子により、これを祝して[[スウォンジー]]が[[シティ・ステータス (イギリス)|シティ]]の位に格上げされた<ref>{{Cite web |url=https://swansea.gov.uk/article/51253/Were-you-there-in-the-summer-of-69-to-hear-Swansea-gain-city-status |title=Were you there in the summer of '69 to hear Swansea gain city status? |date= 2019-06-20 |work=Council |publisher=[[w:Swansea Council|Swansea Council]] |accessdate=2021-08-15}}</ref>。21世紀までにこの称号は21人に授けられ、13人が王位に就いているが<ref name=Kimizuka_117 />、現在のところ、カーナーヴォン城で叙位式典を行ったプリンス・オブ・ウェールズは以上の2人のみである。

== 構造 ==
[[ファイル:Caernarfon castle interior.jpg|thumb|300px|カーナーヴォン城の東の内廓から外廓方向。左から黒い塔、侍従の塔、鷲の塔。]]
カーナーヴォン城の設計は、ウェールズの新たなイングランド統治の象徴として強い印象を与える構造物にしたいという要求に半ば影響された。カーナーヴォンがウェールズ北部の行政の中心地になったことから、これはとりわけ重大であった。エドワードの城の配置はおおむね地勢より決定されたが、先の城のモット(土塁)も包含している<ref name=Ota_84 />。城郭は東西に長く<ref>[[#Ota|太田 (2010)]]、85頁</ref>、幅の狭い囲いで<ref>{{harvnb|Allen Brown|1984|p=86}}</ref>、およそ8の字のような形をしている<ref name="Taylor 25">{{harvnb|Taylor|1997|p=25}}</ref>。城内は東と西にそれぞれ上の内廊 (Inner Bailey<ref name=Stephenson_88 />, Upper Ward) と下の外廓 (Outer Bailey<ref name=Stephenson_88 />, Lower Ward) の2つの「廓」(曲輪)の囲い地に分割され、東側の内廓には王室の宿泊施設が含まれたが、これは完成しなかった。その分配は一連の防御を施した建物より配置されるはずであったが、これらも構築されなかった<ref name="AB 87" />。

幕壁([[カーテンウォール]])に沿って側射できるよう配置された多角形の塔がいくつか点在する。壁や塔の頂部に[[狭間胸壁]]があり、南面沿いには射撃の桟敷があって、北面伝いにもその桟敷を備える予定であったがそれらは築かれなかった。これが一体化されたならばカーナーヴォン城は、中世まれに見る射撃力が集積されたものであったといわれる<ref name="AB 87" />。

塔の多くは1階(地階)を含めて4階建てであり<ref name="Taylor 30">{{harvnb|Taylor|1997|p=30}}</ref>、城の西角にある鷲の塔が最大であった。その塔にある3つの[[タレット (建築)|タレット]](小塔)は<ref>[[#Ota|太田 (2010)]]、85-86・88頁</ref>、かつて[[鷲]]の像を載せていた<ref name="AB 87" />。塔には大きな滞在場所があって、おそらくはウェールズの初代の総督 ([[w:Justiciar|justiciar]]) であった<ref>{{harvnb|Taylor|1986|p=98}}</ref>{{仮リンク|オットー・ド・グランドソン|en|Otto de Grandson}}のために構築された<ref name="Taylor 30"/>。1階には水門 (Water Gate) があり、セイオント川からの来訪者はそこから城に入ることができた<ref name="Taylor 30" />。また水は、名前のもととなった井戸の塔 (Well Tower) の井戸から汲み上げられた<ref>{{harvnb|Taylor|1997|p=29}}</ref>。

[[ファイル:Caernafon Kings Gate.jpg|thumb|left|町から城への表口である王の門の未完成の内側。]]
[[ファイル:Caernarfon Castle (7332).jpg|thumb|left|東からの表口である王妃の門。]]
カーナーヴォン城の外観は他のエドワードの様相とは異なり、壁に[[縞模様]]の色の石材が使用され、その塔は多角形であって円形でない。これらの特徴の解釈について多くの学術的議論があった<ref>{{harvnb|Wheatley|2010|p=129}}</ref>。城の{{仮リンク|連鎖型城郭|en|Linear castle}}の設計は<ref>{{Cite web |url=https://www.bbc.co.uk/wales/history/sites/themes/society/castles_linear.shtml |title=Linear castles |date=2008-08-13 |work=wales history |publisher=[[BBC]] |accessdate=2021-08-15}}</ref>、初期のイギリスの城と比較して精巧であり、城壁はかつて[[第8回十字軍]]に参加したエドワード1世が見た[[コンスタンティノープルの城壁]]を参考にしたともいわれる。[[ビュザンティオン|ビザンティン]]・[[ローマ帝国]]からの形象の意識的な使用については、エドワード1世の権威の証しであり、ローマ皇帝[[マグヌス・マクシムス]]の伝説的な夢に影響されたとする。マキシムスは夢の中で、山の多い地方の島の向かいにある河口の町に「人がこれまでに見た最も美しい」砦を見ていた。エドワードは、これはセゴンティウムがマキシマスの夢の町であったことを指すものと解いて、カーナーヴォン城を建設する際に帝国のつながりを利用したとされる<ref>{{harvnb|Allen Brown|1984|p=88}}</ref>。その後の研究の1つでは、カーナーヴォンの設計は確かにエドワードの権威の象徴であったが、それは[[グレートブリテン島|ブリテン]]([[ブリタンニア]])のローマの地を引き継ぐような印象を促し、王における[[アーサー王]]の正系をほのめかすように仕向けることにあったとしている<ref>{{harvnb|Wheatley|2010|p=136}}</ref>。

2つの表口があり、1つは町から通じる王の門で、もう1つは町を通らず城に直接入る女王の門である。それらの様式はその時代に典型的なもので、2つの両側の塔(側堡塔<ref>[[#Mitani|三谷 (2013)]]、112頁</ref>)の間に通路がある<ref name="AB 87" />。王の門が完成していたならば<ref name=Stephenson_88 />、来訪者は2つの[[跳ね橋]]を渡り、5か所の扉口と6か所の[[落とし格子]]の下を通過して、直角に曲るように通り抜けて下の外廓の前に出ていた。その経路は多くの[[矢狭間]]と[[殺人孔]]によって監視されていた<ref name="Taylor 26">{{harvnb|Taylor|1997|p=26}}</ref>。[[エドワード2世 (イングランド王)|エドワード2世]]の像が町を見渡す王の門の入口の上の[[壁龕]](ニッチ)に立っている<ref>{{harvnb|Taylor|1997|p=38}}</ref>。建築史家アーノルド・テイラーによれば、「カーナーヴォン城の大きな左右一対の[[ゲートハウス]]ほど中世の要塞の量感的な力強さをより顕著に示す建物はイギリスにない」とされる<ref name="Taylor 26"/>。王妃の門は、入口が地面より上にあるという点で異例であり、これは先のモットの統合において、内側の地盤面が隆起していることによる。外面的に、門には石の傾斜路による通路があったはずであるが、もはやそこに残ってはいない<ref>{{harvnb|Taylor|1997|p=35}}</ref>。

幕壁([[カーテンウォール]])とその塔は大部分が損なわれずに残っているが、城郭内にある構造物の遺構はすべてが土台である<ref name="Taylor 25" />。王室の滞在場所は内廓にあり、外廓には台所 (Kitchens) などの建物があって、台所は王の門のすぐ西に位置している。それらのわずかな土台に基づき、テイラーは、台所はしっかりと建てられていなかったという<ref>{{harvnb|Taylor|1997|p=28}}</ref>。城の廓内のもう1つの重要な特徴は大広間 ([[w:Great Hall|Great Hall]]) であり、これは外廓の南側に接していた<!--要出典 {{convert|30.5|m}} -->。その基礎のみ残存するが、大広間は壮麗な建築物であり、王室の催しの会場に使われていた<ref>{{harvnb|Taylor|1997|p=33}}</ref>。カーナーヴォンが目論みどおりに完成していたならば、数百人の王室一族が収容できたものとされる<ref>{{harvnb|Brears|2010|p=91}}</ref>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{reflist}}
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}

== 参考文献 ==
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=== 関連資料 ===
* {{Cite book |last=Phillips |first=Alan |title=Caernarvon Castle: MPBW Official Guidebook |url=https://archive.org/details/CaernarvonCastleGuideHMSOImages |accessdate=2021-08-15 |year=1961 |publisher=Her Majesty's Stationery Office (HMSO) |location=London}}

== 関連項目 ==
* [[グウィネズのエドワード1世の城郭と市壁]]
* [[カーナーヴォン]]
* {{仮リンク|カーナーヴォンの市壁|en|Caernarfon town walls}}


==外部リンク==
== 外部リンク ==
{{commonscat|Caernarfon Castle}}
{{Commonscat|Caernarfon Castle}}
* {{Citation |url=https://cadw.gov.wales/visit/places-to-visit/caernarfon-castle |title=Caernarfon Castle |publisher=Cadw}}
*[http://www.cadw.wales.gov.uk/default.asp?id=6&PlaceID=19 Official Cadw page for Caernarfon Castle]
*http://www.castlewales.com/caernarf.html
* {{Citation |url=http://www.castlewales.com/caernarf.html |title=Caernarfon Castle |last=Thomas |first=Jeffrey L. |work=Castles of Wales}}
* {{Citation |url=http://www.cyngortrefcaernarfon.llyw.cymru/english/mayors.html |title=Mayors of the Town |year=2020 |publisher=Caernarfon Royal Town Council}}
*http://www.llywelyn.co.uk


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2021年8月29日 (日) 22:19時点における版

カーナーヴォン城
Caernarfon Castle
Castell Caernarfon
イギリスの旗 イギリスウェールズの旗 ウェールズ
グウィネズカーナーヴォン
OS grid reference SH4779862668[1]
夕景
カーナーヴォン城の位置(グウィネズ内)
カーナーヴォン城
グウィネズ州内の位置
座標北緯53度08分22秒 西経4度16分37秒 / 北緯53.13944度 西経4.27694度 / 53.13944; -4.27694座標: 北緯53度08分22秒 西経4度16分37秒 / 北緯53.13944度 西経4.27694度 / 53.13944; -4.27694
種類連鎖型城郭英語版
施設情報
管理者カドゥ英語版 (Cadw)
一般公開
現況城跡
ウェブサイト Caernarfon Castle, Cadw, https://cadw.gov.wales/visit/places-to-visit/caernarfon-castle 
歴史
建設1283 (-1323年[2]) -1330年[3]
建設者マスター・ジェイムズ
建築資材石材、木材
主な出来事マドッグ・アプ・サウェリン英語版の反乱(1294-1295年)
オワイン・グリンドゥール反乱(1400-1415年)
イングランド内戦(1642年-1651年)
ユネスコ世界遺産
所属グウィネズのエドワード1世の城郭と市壁
登録区分文化遺産: (1), (3), (4)
参照374
登録1986年(第10回委員会)
指定建築物 – 等級 I
登録日1983年3月31日[4]

カーナーヴォン城(カーナーヴォンじよう、英語: Caernarfon Castleウェールズ語: Castell Caernarfon; ウェールズ語発音: [kastɛɬ kaɨrˈnarvɔn]〈カステス・カエルナルヴォン[5]〉)は[注 1]ウェールズ北西部英語版グウィネズ州カーナーヴォンにある中世英語版の城である。1283年にウェールズを征服したイングランドエドワード1世によって建設された。

概要

エドワードの時代の町や城は、北ウェールズ行政の中心地となり、そのため大規模な防備が建築された。イングランドのエドワード1世が現在の石造りの城の建造を開始した1283年には、11世紀後半からノルマン人[13]モット・アンド・ベーリー型の城がそこにあった。さらにこの地にはかつて古代ローマ人の砦があり[13]チェスターのディーヴァ(デーウァ[14]Deva)につながるローマ街道が延びていた[15]

エドワード1世は、1283年に独立国家ウェールズ公国を征服したのに伴い、この地域を平定するために城を築き、城塞都市を建設した。城が建設されるなか、カーナーヴォンの周りには市壁英語版が構築された。着工から1330年の終了までの47年間の建造費は2万5000ポンドであった[16]。城は、外側からはほとんど完成した状態に見えるが、内部の建造物はもはや残存せず、それに建築設計の多くも完了しなかった。

1294年から1295年にかけてのイングランドに対する反乱で、カーナーヴォンの町と城は、サウェリン・アプ・グリフィズ(ルウェリン・アプ・グリフィズ[17][18])の遠縁マドッグ・アプ・サウェリン英語版(マドッグ・アプ・ルウェリン[19])軍によって破られたが、1295年にイングランド軍が再度攻略した。1400-1415年のグリンドゥールの反乱では、1401年、オワイン・グリンドゥール(オウェン・グリンドゥル[20][21])軍により包囲され、1403年と1404年に包囲攻撃されても持ちこたえた。1485年にテューダー朝がイングランドの王位を得ると、ウェールズとイングランド間の緊張は弱まり始め、城はそれほど重要ではないと見なされた。結果、カーナーヴォン城は荒廃状態に陥っていった。そんな荒れ果てた状態にも関わらず、イングランド内戦時代、カーナーヴォン城は国王派の要塞となり、議会派軍に3度取り囲まれた。城が戦争に使われたのはこの1646年が最後であった。城は国が修繕資金を投じる19世紀まで放置されていた。カーナーヴォン城は、1911年(後のエドワード8世)と1969年(チャールズ皇太子)にプリンス・オブ・ウェールズの叙位式に使用された。また、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)世界遺産の「グウィネズのエドワード1世の城郭と市壁」の一部として登録されており[22]ウェールズ政府英語版の歴史的環境保全機関であるカドゥ英語版 (Cadw) により管理されている[16]

歴史

ローマ時代

カーナーヴォンの最初の砦は、西暦75年頃のローマ時代に築かれた[13]セゴンティウム英語版と名付けられたこの砦(カストラ)は、現代の町の郊外となる[13][23]。砦はセイオント川英語版のほとり付近に設けられており、その砦はおそらくそこが隠れた安全な場所にあってセイオント川を経由した補給が可能なことから建設された[24]。カーナーヴォンは、その名をこのローマ人の砦から得ている。ウェールズ語で、その場所は y gaercaer子音弱化yn Arfon と呼ばれ、「モーン (Môn) の真向かいの土地にある砦」(河岸の砦[25])を意味する[12]。モーン (Môn) はアンルグシー島ウェールズ語: Ynys Môn[26]、アニス・モーン[27])のウェールズ語名である[23]。西暦394年に放棄された[12]セゴンティウムのその後やローマ人がブリタンニア(ローマ領ブリテン[28])を去った5世紀初頭[29]以降の一般集落についてはほとんど知られていない[24]

ノルマン時代

イングランドのノルマン征服(ノルマン・コンクェスト)に次いで、ウィリアム1世(征服王)はウェールズに注意を向けた[30]。1086年のドゥームズデイ調査(「ドゥームズデイ・ブック」)によれば、ノルマンのロバート・オブ・リズラン英語版が名目上ウェールズ北部全土を保有していた[31]。ロバートは1093年にウェールズ勢力により殺害された[32]。ロバートの所領を引き継いだ[33]初代チェスター伯ヒュー・ダヴランシュ英語版(ヒュー・オブ・アヴランシュ[34])は[35]、3か所に城を築くことによる北ウェールズのノルマン支配を重ねて主張した。それらの1つはメリオネスシャー英語版 (Meirionnydd) のどこか、1つはアングルシー島の Aberlleiniog、そしてもう1つがカーナーヴォンに配置された[36]。カーナーヴォンが城を建てる地として選ばれたのは、メナイ海峡へセイオント川が注ぐ、河岸に位置することから戦略上重要であったためである[37]。このかつての城は、その1093年頃[12]、セイオント川とメナイ海峡に囲まれた半島に建てられ、両側が水辺であり、その城塞は木材の柵(パリセード英語版)と土塁(モット[38]ノルマン語: ‘motte [mote]’〈: ‘mound [mount]’[39])に防御されたモット・アンド・ベーリーであったとされる。モットすなわち土塁は、後のエドワードの城に取り込まれており、もとのベーリー(包囲地[40])の位置はモットの北東であろうとされるが明らかでない[41]。1969年のモット頂部の掘削では、中世の占有の痕跡は明らかにならず、いずれの証拠も残っていないことを示唆している[42]。モットには、おそらくキープ(天守)として知られている木造の塔があった。ウェールズ勢力は1115年までにグウィネズ王国英語版を奪還し、カーナーヴォン城はウェールズ公のものとなった[1][12]。城に書き留められた同時代の文書から、大サウェリン英語版(大ルウェリン[43][44]〈サウェリン・アプ・イオルウェルス[45]、ルウェリン・アプ・ヨーワース[46][47])や孫の[47]サウェリン・アプ・グリフィズが時折カーナーヴォンに滞在したことが知られている[41]

エドワード征服

1282年3月22日、イングランドとウェールズ間で再び戦争が勃発した。ウェールズ大公サウェリン・アプ・グリフィズ[48][49]、同年12月11日、戦死に追い込まれた[50]。サウェリンの弟ダヴィズ英語版(デイヴィッド[49][51])が後を継いでウェールズ独立の戦いを続行したが、彼も策略にはまり[52]1283年6月に捕らえられた[53]。ウェールズ北部に侵攻したエドワードは、ドルゥイゼラン城英語版(1283年1月[54])などを占領し、コンウィに自らの城を置くようにすると、ダヴィズ・アプ・グリフィズの最後の牙城であったドルバダーン城(1283年5月頃[55])を占領していた。その後間もない夏には[12]、エドワードはハーレフとカーナーヴォンにおける築城を開始している[56]。カーナーヴォン、コンウィハーレフの城は、ウェールズで当時極めて広壮なもので、その建造物は、北ウェールズのスノードニアウェールズ語: Eryri[57]、エラリ[58])を囲む「鉄の輪英語版[59]」(鉄環[60]、城の鎖[61])となる[62]他のエドワードの城とともに[63]、イングランド人の支配を確立する役割を果たした[64]

建設

西側から見たカーナーヴォン城。

ウェールズ北部にあったグウィネズ王国英語版一帯を強固な軍により掌握した1283年に建設が始まり、イングランド王家の住まいとイングランド支配に対する抵抗を封じ込めるための本拠地としてカーナーヴォン城を築いていった。城の設計ならびに建設を担った石工棟梁は、ウェールズのエドワードの城の建設に重要な役割を果たした熟練建築家で軍事技術者のマスター・ジェイムズ(セント・ジョージのジェイムズ[65])であった[12][66]。新たな石造城郭の建設は、カーナーヴォンを一変させる建築事業の一部であり、市壁が築かれて城に接続され、同じく新しい岸壁が建設された[16]。カーナーヴォンにおける構築の最初の言及は、1283年6月24日、城の用地を北の町から分離する溝(溝渠、こうきょ)が掘られたことに始まる。永続的な防備が建設中である間、一種の囲い柵英語版 bretagium が、防御のために敷地の周囲に施された。木材は遠くリヴァプールから運ばれた[64]。石材はアングルシー島や町の周囲といった近場から採石された[67]。何百人もの労力によって堀の掘削や城の基礎の開削作業がなされた。敷地が拡大するにつれ、それが町にもおよび始めると、家屋はその建設を可能にするために一掃されたが、住民は3年後まで代償を支払われなかった。石の壁の基礎が造営されている間、エドワード1世と王妃エリナー・オブ・カスティルのために木骨造りの区画が建設された。彼らは1283年7月11日か12日にカーナーヴォンに到着すると、1か月余り滞在した[66]

カーナーヴォン城の平面図
A. 水門 (Water Gate) B. 鷲の塔 (Eagle Tower) C. 王妃の塔 (Queen's Tower) D. 井戸の塔 (Well Tower); E. 外廓 (Outer Bailey, Lower Ward) F. 大広間 (Great Hall) G. 台所 (Kitchens) H. 侍従の塔 (Chamberlain Tower) I. 王の門 (King's Gate) J. 内廓 (Inner Bailey, Upper Ward) K. 黒い塔 (Black Tower) L. 穀倉の塔 (Granary Tower) M. 北東の塔 (North-East Tower) N. 貯水の塔 (Cistern Tower) O. 王妃の門 (Queen's Gate)
      1283-1292年       1295-1323年

カーナーヴォン城の建設は1283-1284年の冬も続けられた。1284年3月19日に発布されたリズラン法令英語版(ウェールズ法[68])により[69]、カーナーヴォンはグウィネズの自治および行政の中心的シャイアとなった[70][71]建築史家アーノルド・テイラー英語版は、エドワードとエリナーが1284年4月の[72]復活祭(イースター)に再訪した際、鷲の塔[73] (Eagle Tower) が完備されたのではないかと推測したが、完成については明らかでない[74]。伝説によれば、1284年4月25日[12][74]、エドワード1世の王子エドワード(後のエドワード2世)が[72]、建設中の城内(鷲の塔[12])で生まれ[75]、翌26日、エドワード1世はウェールズの諸侯らに、ウェールズ大公となる子であると紹介したという[76]。彼はエドワード・オブ・カーナーヴォンとも呼ばれていた。

西から見た13世紀に完成した直後のカーナーヴォンの市壁英語版を示す模型。

1284年に、カーナーヴォンは40人の守備隊により防衛されており、コンウィやハーレフの総勢30人余りの守備隊を上回っていた。さらに平時には、ほどんどの城はほんのわずかの衛兵しかいなかったが、カーナーヴォンはその重要性によって20から40人に守られていた[77]。1285年には、カーナーヴォンの市壁英語版がほぼ完成した。加えて城郭における作業が継続された。建設費は、1289年からはごくわずかとなり、収支報告は1292年に終了している[78]。1292年までに、カーナーヴォンの城と市壁の建設に1万2000ポンドを要していた[12][注 2]。南の壁と市壁によりカーナーヴォンを取り囲む防御網が完成したことで、その構想は最後に城郭の北のファサード: façade)を建設することであった[79]

1294年、ウェールズ公マドッグ・アプ・サウェリン率いる反乱が勃発した[19][80]。カーナーヴォンはグウィネズの行政の中心地であり、イングランドの権力の象徴であったため、ウェールズによる攻撃の的となった。マドッグの軍が9月に町を占領するなか市壁に大きな被害を与えた。城は溝渠と間に合わせのバリケードだけで防御されていた。それはすぐに取り込まれ、可燃性のものはすべて放火された[71]。火はカーナーヴォン全域に燃え広がり、そこに破壊の爪痕を残した[81]。しかし1295年の3月には、イングランドが全ウェールズを制圧し[19]、カーナーヴォンは奪還された[3]

再修築

西からのカーナーヴォン城。1285年に大部分が完成した市壁は再建され、城とつながる。

1295年11月には、イングランドが町を再強化し始めた。市壁の再建が最も必要であり[12]、1195ポンド(当初の市壁建設のほぼ半分の費用)が経費に充てられ、予定より2か月早く事業は完了した。次いで焦点が城に移ると、1292年に中止した作業の完遂にあたった[71]。1295年にひとまず反乱が鎮圧されると、エドワードはアングルシー島にビューマリス城の建設を開始した。その作業はマスター・ジェイムズにより監督され[82]、結果として、ウォルター・オブ・ヘレフォード英語版が建設の新たな段階の石工棟梁として引き継いでいた。1301年末頃までに、さらに4500ポンドが作業に費やされ、作業の中心は北の壁と塔にあった。

1301年11月から1304年9月にかけての収支記録は見当たらず、おそらくはスコットランドに対するイングランドの戦争を補うために労働力が北に移行した間に作業の中断があったものとされる[83]。記録では、ウォルター・オブ・ヘレフォードはカーナーヴォンを離れて1300年10月にはカーライルにいて[84]、カーナーヴォンで建設が再開される1304年の秋まで、彼はスコットランド戦争に専念していた[83]。ウォルターが1309年に亡くなると、その直属の部下ヘンリー・ド・エラートン (Henry de Ellerton[85]〈Henry of Ellerton[86]〉) が石工棟梁の責務を引き継いでいる[87]。1323年には現在の様子に似た状態となったといわれるが[88]、建設は1330年まで一定の割合で継続された[83]

1283年から1330年に収支報告が終了するまで、カーナーヴォンの城と市壁に2万5000ポンドが費やされた[16]。エドワード1世のウェールズ征服による築城においては、1277年から1304年までに8万ポンド、同じく1277年から1329年までに9万5000ポンドの費用を要している[89]。そういった当時における莫大な金額はまた、12世紀後半から13世紀初頭の極めて価値が高くかつ壮大な要塞であったドーヴァー城やノルマンディーのガイヤール城英語版などの城への出費を妨げた[90]。後のカーナーヴォンの増築は大したものでなく、城跡は大体がエドワード時代からのものである。その出費額にも関わらず、城に計画されたものの多くが完遂されることはなかった。王の門[73](King's Gate、町からの入口[91])と王妃の門[73](Queen's Gate、東〈南東〉からの入口[91])の背後は未完成のままであり、城郭の内部の土台部分が、作業が続けられれば建物を擁したはずの痕跡を見せている[92]

中世後期以降

ジョン・スピード英語版による1610年のカーナーヴォンの地図(城は町の南端[93])。

ウェールズの征服後約2世紀、国の統治のためにエドワード1世により制定された配置はそのままであった。この時代、城には守備隊が常駐しており、カーナーヴォンは事実上北ウェールズの首都であった[94]。民族対立を根底とするウェールズ人とイングランド征服者間の緊張は、15世紀初頭にグリンドゥールの反乱(1400-1415年)の勃発におよんでいった[95][96]。蜂起の間、カーナーヴォンはオワイン・グリンドゥールの軍の標的の1つであった。町と城は1401年に包囲され、同年11月、グリンドゥールによるトゥトヒルの戦い英語版がカーナーヴォンの防衛隊と蜂起軍の間に繰り広げられた[97]。1403年および1404年には、カーナーヴォンはフランス軍からの支援によってウェールズ人部隊に包囲されている[94]

1485年にテューダー朝がイングランド王の座に就いたことで、ウェールズに変化をもたらし始めた。ヘンリー・テューダーはウェールズ出身であり、ヘンリーの統治はウェールズとイングランド間の対立を和らげた[98]。結果として、カーナーヴォンの城のような、国が統治するために難攻不落の拠点を備える重要性は薄くなり、それらの城は放置された。

王の門。1620年にもなお屋根があった数少ない城の正面ゲートハウス(門塔)。

カーナーヴォンの場合、町や城の壁は良好な状態にあったが、屋根など保守を要するものは崩壊の様相を呈しており、多くの木材は腐っていた。城の7基の塔と[73]2棟のゲートハウス(門塔[99])のうち、1620年には鷲の塔と王の門だけに屋根があるといった寂しい状態であった。城内の敷地の建物は、ガラスや鉄などの高価なものは剝ぎ取られていた。敷地の建物の荒廃をよそに、城の防御は十分な状態にあり、17世紀中頃のイングランド内戦においては国王派が駐屯した。カーナーヴォン城は戦争のなか3度包囲された。城代 (constable) はジョン・バイロンで、1646年にカーナーヴォンを議会派軍に明け渡した。カーナーヴォン城が交戦を見たのはこれが最後であった。1660年に城郭および市壁は取り壊すよう命じられたが、作業は早い段階で中止され、開始されなかったものと考えられる[94]

鷲の塔周辺の近代建築物を排除する1959年の解体作業。
現代のカーナーヴォン城と市壁の平面図。

廃城 (slighting[100]) を逃れたにも関わらず、城は19世紀後半まで放置されていた。1870年代になって、政府はカーナーヴォン城の修繕に資金を供給した。城代補佐のルウェリン・ターナー英語版[101]作業を監督し、現存する石積みを単に保存するのではなく、多くの場合に物議を醸すような城の修復や再建がなされた[102]。階段、胸壁、屋根が修繕され、城郭の北の堀では、その土地の人の抵抗にも関わらず、中世より後の建物が景観を損なうものとして一掃された。Office of Works および1908年からはそれを継承した保護のもと、城はその歴史的意義により保存されていった[103]。19世紀前半には、セイオント川に面した地域はカーナーヴォン港拡張のため埋め立てられ[104]、現在はカーナーヴォン城の駐車場の一部となっている[105]

現代

カーナーヴォン城はその建設時からずっと国王のものであったが、現在はウェールズの歴史的建造物の維持・管理を担うウェールズ政府英語版の歴史的環境保全機関であるカドゥ英語版 (Cadw) によって管理されている[106][注 3]。1986年、カーナーヴォンは、その世界的な重要性が認められ、その保存や保護の支援ために[109]グウィネズのエドワード1世の城郭と市壁」の一部としてユネスコ世界遺産に登録された[22]。城内にはイギリス陸軍の連隊の1つロイヤル・ウェールズ・フュージリア連隊英語版プリンス・オブ・ウェールズ師団英語版の1部隊)の連隊博物館英語版がある[110][111]。2015年には、歴史建築会社ドナルド・インソール・アソシエイツ英語版により設計された新「エントランスパビリオン」(入口分館)が建設された[112]。カーナーヴォン城は今日の主要な観光地であり、2018年には20万5000人余りがこの城を訪れている[113]

儀式と慣例

1911年7月13日のプリンス・オブ・ウェールズ叙位式典後、イングランド国室の一行がカーナーヴォン城を出る様子。

イングランド王家の王太子を示す称号「プリンス・オブ・ウェールズ」は、ウェールズを平定したエドワード1世が1301年に[114]息子エドワードにこの称号を与えたことに始まる[76][115]。有名な伝説によると、1284年、イングランド支配を快く思わないウェールズの諸侯らを前に、エドワード1世は赤子のエドワード王子を見せ、ウェールズで生まれ、英語を話さない王子であるとして一同を賛同させたといい[116]、同時にウェールズの諸侯らは悔しい思いをしたという[76]。ウェールズの大公(プリンス・オブ・ウェールズ)は、ウェールズで生まれ、英語を話さず、一度も罪を犯したことのない者とされていた[76]。しかしこの物語は出所が疑わしく、16世紀にこの記述があるのみである[79]。1301年、エドワード王子は17歳であった[76]。エドワード2世が、父王のウェールズ遠征中にカーナーヴォンで生まれたことは事実である[117]。ちなみに、当時イングランド(アングリア[118]、「アングル人の住む土地」の意[119])宮廷で話されていたのはアングロ=ノルマン語であり、英語ではない。

1911年7月13日、カーナーヴォン城はプリンス・オブ・ウェールズ叙位式典の舞台となった。この時のプリンス・オブ・ウェールズは、後のエドワード8世である。それまでのプリンス・オブ・ウェールズは、叙位証書一枚で任じられるものに過ぎず、過去に式典が行われたことはなかった。エドワード王子は1910年6月に叙位証書を受け取っており、プリンス・オブ・ウェールズとしての地位に何ら問題はなかったが、時の財務大臣を務めていたウェールズ出身のデビッド・ロイド・ジョージが、ジョージ5世に式典開催を強く進言したことから実現することとなった[120][121]。叙位式典の前例がないまま、式典全体を指揮したのは紋章院総裁の第15代ノーフォーク公ヘンリー・フィッツアラン=ハワードである。式典でのエドワード王子の答辞は全てウェールズ語で行われ、それを聞く地元ウェールズ代表らやウェールズ人たちを感動させたという。1969年7月1日、チャールズ皇太子がカーナーヴォン城内で叙位式典を行った。2日後の7月3日、チャールズ皇太子により、これを祝してスウォンジーシティの位に格上げされた[122]。21世紀までにこの称号は21人に授けられ、13人が王位に就いているが[76]、現在のところ、カーナーヴォン城で叙位式典を行ったプリンス・オブ・ウェールズは以上の2人のみである。

構造

カーナーヴォン城の東の内廓から外廓方向。左から黒い塔、侍従の塔、鷲の塔。

カーナーヴォン城の設計は、ウェールズの新たなイングランド統治の象徴として強い印象を与える構造物にしたいという要求に半ば影響された。カーナーヴォンがウェールズ北部の行政の中心地になったことから、これはとりわけ重大であった。エドワードの城の配置はおおむね地勢より決定されたが、先の城のモット(土塁)も包含している[72]。城郭は東西に長く[123]、幅の狭い囲いで[124]、およそ8の字のような形をしている[125]。城内は東と西にそれぞれ上の内廊 (Inner Bailey[73], Upper Ward) と下の外廓 (Outer Bailey[73], Lower Ward) の2つの「廓」(曲輪)の囲い地に分割され、東側の内廓には王室の宿泊施設が含まれたが、これは完成しなかった。その分配は一連の防御を施した建物より配置されるはずであったが、これらも構築されなかった[90]

幕壁(カーテンウォール)に沿って側射できるよう配置された多角形の塔がいくつか点在する。壁や塔の頂部に狭間胸壁があり、南面沿いには射撃の桟敷があって、北面伝いにもその桟敷を備える予定であったがそれらは築かれなかった。これが一体化されたならばカーナーヴォン城は、中世まれに見る射撃力が集積されたものであったといわれる[90]

塔の多くは1階(地階)を含めて4階建てであり[126]、城の西角にある鷲の塔が最大であった。その塔にある3つのタレット(小塔)は[127]、かつての像を載せていた[90]。塔には大きな滞在場所があって、おそらくはウェールズの初代の総督 (justiciar) であった[128]オットー・ド・グランドソン英語版のために構築された[126]。1階には水門 (Water Gate) があり、セイオント川からの来訪者はそこから城に入ることができた[126]。また水は、名前のもととなった井戸の塔 (Well Tower) の井戸から汲み上げられた[129]

町から城への表口である王の門の未完成の内側。
東からの表口である王妃の門。

カーナーヴォン城の外観は他のエドワードの様相とは異なり、壁に縞模様の色の石材が使用され、その塔は多角形であって円形でない。これらの特徴の解釈について多くの学術的議論があった[130]。城の連鎖型城郭英語版の設計は[131]、初期のイギリスの城と比較して精巧であり、城壁はかつて第8回十字軍に参加したエドワード1世が見たコンスタンティノープルの城壁を参考にしたともいわれる。ビザンティンローマ帝国からの形象の意識的な使用については、エドワード1世の権威の証しであり、ローマ皇帝マグヌス・マクシムスの伝説的な夢に影響されたとする。マキシムスは夢の中で、山の多い地方の島の向かいにある河口の町に「人がこれまでに見た最も美しい」砦を見ていた。エドワードは、これはセゴンティウムがマキシマスの夢の町であったことを指すものと解いて、カーナーヴォン城を建設する際に帝国のつながりを利用したとされる[132]。その後の研究の1つでは、カーナーヴォンの設計は確かにエドワードの権威の象徴であったが、それはブリテンブリタンニア)のローマの地を引き継ぐような印象を促し、王におけるアーサー王の正系をほのめかすように仕向けることにあったとしている[133]

2つの表口があり、1つは町から通じる王の門で、もう1つは町を通らず城に直接入る女王の門である。それらの様式はその時代に典型的なもので、2つの両側の塔(側堡塔[134])の間に通路がある[90]。王の門が完成していたならば[73]、来訪者は2つの跳ね橋を渡り、5か所の扉口と6か所の落とし格子の下を通過して、直角に曲るように通り抜けて下の外廓の前に出ていた。その経路は多くの矢狭間殺人孔によって監視されていた[135]エドワード2世の像が町を見渡す王の門の入口の上の壁龕(ニッチ)に立っている[136]。建築史家アーノルド・テイラーによれば、「カーナーヴォン城の大きな左右一対のゲートハウスほど中世の要塞の量感的な力強さをより顕著に示す建物はイギリスにない」とされる[135]。王妃の門は、入口が地面より上にあるという点で異例であり、これは先のモットの統合において、内側の地盤面が隆起していることによる。外面的に、門には石の傾斜路による通路があったはずであるが、もはやそこに残ってはいない[137]

幕壁(カーテンウォール)とその塔は大部分が損なわれずに残っているが、城郭内にある構造物の遺構はすべてが土台である[125]。王室の滞在場所は内廓にあり、外廓には台所 (Kitchens) などの建物があって、台所は王の門のすぐ西に位置している。それらのわずかな土台に基づき、テイラーは、台所はしっかりと建てられていなかったという[138]。城の廓内のもう1つの重要な特徴は大広間 (Great Hall) であり、これは外廓の南側に接していた。その基礎のみ残存するが、大広間は壮麗な建築物であり、王室の催しの会場に使われていた[139]。カーナーヴォンが目論みどおりに完成していたならば、数百人の王室一族が収容できたものとされる[140]

脚注

注釈

  1. ^ 片仮名表記では、カナーボン[6]、カーナーボン[7]、カナーヴォン[8]、カーナヴォン[9]、カエルナヴォン[10]などとも記される。ウェールズ語での発音は、「カイルナーヴォン」に近い。「f」はウェールズ語では「v」と発音するため、これを正しく読めないイングランド人スペルを英語化して、Carnarvon[11]、Caernarvon[1][12] と変えていた例が過去にあるが、現在ではウェールズ語のスペルが標準的である。
  2. ^ 1292年までの建設費1万2000ポンドは、今日の米ドルにすれば1800万米ドル余りとされる[12]
  3. ^ カドゥ (Cadw) は、ウェールズ語で「保存」(: ‘to keep’[107]ないし「保護」(: ‘to protect’)を意味する[108]

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参考文献

関連資料

関連項目

外部リンク