シャトー・ディフ

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シャトー・ディフ(Château d'If
フランスの旗 フランス マルセイユ
Monte-Cristo if castle - marseille France by JM Rosier.JPG
シャトー・ディフの位置(フランス内)
シャトー・ディフ
座標 北緯43度16分51秒 東経5度19分37秒 / 北緯43.28083度 東経5.32694度 / 43.28083; 5.32694座標: 北緯43度16分51秒 東経5度19分37秒 / 北緯43.28083度 東経5.32694度 / 43.28083; 5.32694
種類 要塞
施設情報
一般公開 一般公開中
現況 観光地
歴史
建設 1527年 (1527)- 1529

シャトー・ディフChâteau d'If)は、フランスマルセイユから4 ㎞ 沖に位置するイフ島に造られた要塞で、1540年から1914年まで牢獄として使用された。アレクサンドル・デュマ・ペールの小説『モンテ・クリスト伯』の舞台として知られる。イフ城とも訳される。

1926年7月7日に、フランス歴史的記念物で保護指定された[1]

飼育小屋[編集]

デューラーのサイの木版画
1681年のシャトー・ディフの立体地図(立体地図博物館

1513年インドグジャラート州スルターンから、ポルトガルマヌエル1世インドサイが送られた。1516年、このサイをローマ教皇のレオ10世に送る途中、船をイフ島に停泊させ、飼育小屋を造った。サイの物珍しさから人々を集め、フランソワ1世マリニャーノの戦い(Battle of Marignano) の帰途に立ち寄っている。アルブレヒト・デューラーは、友人からこのサイの噂を聞いて木版画『サイ』を作っている。

出港したのち、サイを乗せた船は嵐のためジェノヴァ湾で遭難した。沿岸で見つかったサイの死体は剥製にしてローマに届けられた。

要塞[編集]

シャトー・ディフは海からの防御拠点とするために、フランソワ1世の命令により、1524年から1531年にかけて建設された。1481年マルセイユがフランスに占拠されたこともあり、市民への監視にも利用された。

シャトー・ディフの軍事的役割は防御ではなく、抑止であった。1531年7月、神聖ローマ皇帝カール5世はマルセイユを攻撃しようとしたが、シャトー・ディフを見て中止したとされる。

1701年、軍事技術者のヴォーバンはシャトー・ディフの要塞としての弱点を指摘した。

牢獄[編集]

図解
観光客と中庭

シャトー・ディフはその孤島という立地と付近の海流から脱獄が困難であるため、政治犯や宗教的犯罪者を収容する牢獄として利用されるようになった。この間3500人以上のユグノーがここに送られたほか、パリ・コミューンのリーダーであるガストン・クレミュが収監された後1871年に銃殺された。またこの島は、1844年に出版されたアレクサンドル・デュマの小説『モンテ・クリスト伯』の中で主人公のエドモン・ダンテスが収監された場所として、広くその名を知られることとなった。

なお当時の牢獄では身分や財産によって囚人の中でも扱われ方が異なっていた。貧しい囚人は窓もない地下牢に収容されたが、裕福な囚人は資金を出すことによって簡易トイレや暖炉のついた個室に入ることができた。

主な収容者[編集]

マルキ・ド・サドも収容されていたと信じられているが、この城には収容されいない[2]

観光地[編集]

その後牢獄としての役割を終え、1890年9月23日から一般公開が始まった。1926年、歴史的建造物に指定された。現在マルセイユの旧港から観光船が運航している。

トリビア[編集]

1800年カイロで暗殺されたジャン=バティスト・クレベールの遺体は一度フランス本土へ送られたが、彼の墓が共和制の象徴となるのを恐れたナポレオンは、遺体をシャトー・ディフに置くように命じた。これはルイ18世ストラスブールへの埋葬を許可するまでの18年間続いた。

出典[編集]

外部リンク[編集]