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「平和大通り」の版間の差分

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{{Otheruses2|||平和通り|平和通}}
{{Vertical_images_list
{{Vertical_images_list
|幅= 250px
|幅= 350px
| 1=Peace Boulevard 20150426-2.JPG
| 1=Hana-no-to2.jpg
| 2=[[鶴見橋 (広島市)|鶴見橋]]西詰から西方向を望む。
| 2=ひろしまフラワーフェスティバル
| 3=Heiwaodori.JPG
| 3=Hiroshima Japan.png
| 4=2014年。右側が市中心部で、右端中央が[[比治山]]、そこから左斜め上に伸びる道路が平和大通り。その中央付近の帆のような土地が[[広島平和記念公園]]。
| 4=[[平和大橋]]東詰から白神社方面を望む
| 5=AtomicEffects-p7a.jpg
| 6=原爆投下前の市中央部。同心円の中心が爆心地。建物疎開が確認できる。
| 7=Hiroshima autograph Tibbets.jpg
| 8=被爆後の広島市。現在の[[舟入 (広島市)|河原町]]付近から東方向を撮影。中央に縦断する道がのちの平和大通りとなる。左部分が平和公園となる。
}}
}}
'''平和大通り'''(へいわおおどおり、{{Lang-en-short|Peace Boulevard}}<ref name="e-pHiroshima2_6">{{Cite web|url=http://www.pcf.city.hiroshima.jp/Peace/E/pHiroshima2_6.html|title=Peace Boulevard|language=英語|publisher=広島平和記念資料館|accessdate=2015-04-25}}</ref>)は、[[広島県]][[広島市]]中心部を東西に横断する約4kmの[[通り]]である。別称「[[100m道路]]」<ref name="pHiroshima2_6">{{Cite web|url=http://www.pcf.city.hiroshima.jp/Peace/J/pHiroshima2_6.html|title=平和大通り|publisher=広島平和記念資料館|accessdate=2015-05-22}}</ref>。全線が[[広島市道比治山庚午線]]に指定されている。
'''平和大通り'''(へいわおおどおり)は[[広島県]][[広島市]]を東西4kmに渡って横断する[[通り]]の名称である。[[日本の道100選]]の一つ。通称として「'''[[100m道路]]'''(ひゃくメーターどうろ、または、ひゃくメートルどうろ)」「100米道路」と呼ばれる事もあるが、実際に幅員が両脇の緑地帯と側道、歩道を含めると100mある(橋梁区間を除く)。英語表記は「Peace [[ブールバール|Boulevard]]」。[[広島市道比治山庚午線]]の一部で、[[鶴見橋 (広島市)|鶴見橋]]西詰交差点から[[新己斐橋]]東詰交差点までの区間に相当する。


== 概要 ==
== 概要 ==
{{ external media
道路の両サイドには緑地帯を設け、沿線の[[広島平和記念公園]]とともに市民の憩いの空間を形成し、供木運動により広島県内・日本全国・海外からの花や樹木の苗木や種子や樹木資金などの寄贈により緑化され様々な樹を見ることができる。
| topic =
| align =
| width = 250px
| video1 = [http://www.hitp.ac.jp/livecam/ ライブカメラ] - 広島工業大学専門学校
| video2 = [http://www.nhk.or.jp/peace/library/program/19910706.html 西日本の旅 祈りの道 緑映えて~広島・平和大通り~] - NHK平和アーカイブス
}}
1965年開通<ref name="hb665">{{Cite web|url=http://www.hiroshima-bunka.jp/modules/newdb/detail.php?id=665|title=平和大通り(へいわおおどおり)|publisher=ひろしま文化大百科|accessdate=2015-05-22}}</ref>、平和大通りの名は1951年公募で決定した<ref name="pHiroshima2_6" />。[[日本の道100選]]の一つであり、沿道の[[広島平和記念公園]]とともに[[都市景観100選]]に選ばれている。別称「100m道路」のとおり、道路幅が100mある道路である。

[[太平洋戦争]]末期に整備された[[防火帯]]([[疎開道路]])の一つに、戦後すぐの日本政府方針である[[戦災復興都市計画]]から派生した[[100m道路]]計画が実施されることになり、それに国際平和文化都市として発展していく広島市において象徴化していった[[公園道路]]([[ブールバール]])である<ref name="hb665" /><ref name="cgr">{{Cite web|url=https://www.cgr.mlit.go.jp/konjyaku/0507.htm|title=平和大通り|publisher=国交省中国地方整備局|accessdate=2015-05-22}}</ref>。1946年10月「広島復興都市計画」が立案した時に「平和公園」「河岸緑地」とともに目玉プランとして組み込まれたものであり、今日における広島市都市計画の基礎となった「広島平和都市建設計画」が1952年3月立案した際にはこの道路が市内における道路計画の基本軸となった{{Sfn|石丸紀興|1998|p=248}}<ref>{{Cite web|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1131328219626/index.html|title=ひろしまの復興~広島平和記念都市建設法と復興の都市計画~|publisher=広島市|accessdate=2015-05-22}}</ref><ref name="34sendai">{{Cite journal|和書 |author = 千代章一郎 |year = 2012 |title = 丹下健三による「広島平和公園計画」の構想過程 |journal = 広島平和科学 |volume = 34 |page = 64 |publisher = 広島大学 |url = http://home.hiroshima-u.ac.jp/heiwa/JNL/34/34sendai.pdf |format = PDF |accessdate = 2015-05-22 }}</ref>。なお100m道路計画が実施されたのは、ここと名古屋市の[[若宮大通]]と[[久屋大通]]の3例のみである{{Sfn|石丸紀興|1998|p=243}}。一部で言われている、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]が戦後焼け野原となった広島の地図上に一本の線を引きそこに100m道路が出来た、という話は間違いである{{Refnest|group=補足|name=ghq|これに関連して、他の100m道路計画はGHQが”敗戦国に立派な道路は必要ない”と反対されたため頓挫したという通説も存在する<ref>「日本再生の記憶と遺産」 『日本経済新聞』 平成23年8月10日 朝刊社会面</ref>。しかしこれは計画を取りやめたい自治体役人が住民を説得する際にGHQの名を使った方便だったとも言われている<ref>{{Cite web|url=http://www.asahi.com/area/tokyo/articles/MTW20150312131190002.html|title=新橋…サラリーマンの街(2)|publisher=朝日新聞|date=2015-03-12|accessdate=2015-05-22}}</ref>。}}<ref>{{Cite web|url=http://www.nli-research.co.jp/report/researchers_eye/2012/eye120806.html|title=100m道路に想う~語り継ぐべき被爆と復興の歴史~|publisher=ニッセイ基礎研究所|accessdate=2015-05-22}}</ref>。

[[広島市道比治山庚午線]]の一部を構成し、西端が[[太田川放水路]]西、東端が[[京橋川]]東までで、[[太田川]]が形成した広島[[三角州]]の中央を東西に貫く<ref name="pHiroshima2_6" /><ref name="hpm22131">{{Cite web|publisher=中国新聞|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=22131|title=平和大通り―復興の軌跡 <1> デルタを貫く|accessdate=2015-05-22}}</ref>。つまり川に挟まれた内側ではなく外側までであり、西端が[[西区 (広島市)|西区]][[己斐]]の新己斐橋西詰交差点、東端が[[南区 (広島市)|南区]][[比治山]]の鶴見橋東詰交差点である{{Sfn|広島市|2002|p=}}。その先には西は[[西広島駅]]、東は比治山がある。

市民が用いる生活道であるとともに、平和公園へ訪れる観光客が用いる道であり、多くの人々が通行する<ref name="cgr" />{{Sfn|中国新聞|2015-01|p=}}。毎年5月3日から5日に催される平和の祭典[[ひろしまフラワーフェスティバル]]の会場である{{Sfn|中国新聞|2015-01|p=}}。

2000年代に入り「平和大通りリニューアル事業」として再編が進められている{{Sfn|中国新聞|2003-05|p=}}。

== 呼称 ==
正式名称は、日本語表記で”平和大通り”、100m道路は通称である。ラテン表記では”Peace Boulevard”(ピース・ブールバール<ref name="hpm19227">{{Cite web|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=19227|title=『論』 標識の英語化 おもてなし考える契機に|publisher=中国新聞|date=2013-12-26|accessdate=2015-05-25}}</ref>)で、英語読みのブールバードではなくフランス語読みのブールバールを用いている。

計画当初は100m道路と呼ばれていたが後に公募で平和大通りと正式決定した<ref name="pHiroshima2_6" />。

ラテン表記は、以前の道路標識や観光資料などではローマ字表記である”Heiwa Odori Avenue”が使われていた<ref>{{Cite web|url=http://www.nhk.or.jp/peace/english/library/program/19910706.html|title=Journeys in Western Japan Hiroshima's Heiwa Odori: Avenue of Prayers|publisher=NHK|language=英語|accessdate=2015-05-25}}</ref><ref name="hpm19227" />。[[観光立国推進基本法]]施行以降の[[国土交通省]]外国人旅行者の受入環境整備事業などにより表記が協議され”Peace Boulevard”に統一され<ref name="hpm19227" /><ref>{{Cite web|url=http://www.cgr.mlit.go.jp/hirokoku/p_release/pdf/2013press/20140127hyousiki.pdf|format=PDF|title=広島国道事務所管内(国道2号・54号)で「道路案内標識等」の改善を始めます。|publisher=国交省広島国道事務所|date=2014-01-27|accessdate=2015-05-25}}</ref>、あるいは”Peace Boulevard (Heiwa Odori)””Heiwa Odori(Peace Boulevard)”<ref>{{Cite web|url=http://www.hij.airport.jp/english/news/2013_heiwast_limousine_e.html|title=The Airport Limousine bus has operated the “Heiwa Odori Line".|publisher=広島空港|language=英語|accessdate=2015-05-25}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.nhk.or.jp/hiroshima/hibakumap/e/spot/TR-0006.html|title=Various trees including Japanese hackberry, muku trees, and kurogane holly (on Heiwa-odori (Peace Blvd.) near Shirakamisha)|publisher=NHK|language=英語|accessdate=2015-05-25}}</ref>と併記するようになっている。そのため2013年現在でPeace Boulevardが市民に定着しておらず<ref name="hpm19227" />、未だ観光案内資料などでもHeiwa Odoriの単独記載しているものもある。

== 諸元 ==
<div style="border:1px solid #aaa; margin-left:0em; padding:0em; overflow:auto">
{{multiple image
| footer =
| align = left
| width = 250
| image1 = New Koi Bridge at Hiroshima pt1.jpg
| caption1 = [[新己斐橋]]([[太田川放水路]])
| image2 = Fukushima-chō Tramstop pt1.jpg
| caption2 = [[福島町停留場]]
| image3 = Nishi-Kan-on-machi Tramstop pt1.jpg
| caption3 = [[西観音町停留場]]
| image4 = Peace Boulevard 20150506-1.JPG
| caption4 = 西観音町電停(東)交差点から西方向を望む。[[広島市道駅前観音線|中広通り/空港通り]]との交点であり、ここから[[広島電鉄本線]]が別れる。
| image5 = Midori Big Bridge at Hiroshima 01.jpg
| caption5 =[[緑大橋]]([[天満川 (広島県)|天満川]])
| image6 = Peace Boulevard 20150506-2.JPG
| caption6 =小網町交差点から西方向を望む。[[広島市道横川江波線|寺町通り/舟入通り]]との交点であり、[[広島電鉄江波線]]が交差する。
| image7 = 西平和大橋 02.JPG
| caption7 =[[西平和大橋]]([[旧太田川]])
| image8 = Peace Boulevard 20150506-3.JPG
| caption8 =平和大橋西詰から西方向を望む。緑地帯のない右側が[[広島平和記念公園]]。
| image9 = 平和大橋 02.JPG
| caption9 =[[平和大橋 (広島市)|平和大橋]]([[元安川]])
| image10 = Peace Boulevard 20150506-4.JPG
| caption10 =白神社前交差点から西方向を望む。[[鯉城通り]]との交点であり、[[広島電鉄宇品線]]が交差する。
| image11 = Peace Boulevard 20150506-5.JPG
| caption11 =三川町交差点から西方向を望む。[[中央通り (広島市)|中央通り]]との交点。
| image12 = Tsurumi-bashi at hiroshima 02.jpg
| caption12 =[[鶴見橋 (広島市)|鶴見橋]]([[京橋川]])
}}
</div>
{{wide image|Peace Boulevard (Hiroshima) 2015.png|650px|中央の道が平和大通り。中央付近の帆のような地が平和公園、その上が[[広島市中央公園|中央公園]]、その右上の矩形が[[広島城]]。地図右上が[[広島駅]]、右下が[[比治山]]、左上が[[西広島駅]]および[[広電西広島駅]]。なお元地図は2015年[[オープンストリートマップ]]によるものであり縮尺どおりの道路幅ではない。}}
{{Vertical_images_list
|幅= 250px
| 1=TURUMI Bridge Hiroshima 1988.jpg
| 2=1988年工事中の鶴見橋<ref name="mlitpic" />。左側(西)が鶴見橋西詰交差点であり、緑地帯の外側の道路(副道)の外端までが平和大通りにあたる。
| 3 = Peace Boulevard 20150426-1.JPG
| 4 =鶴見橋西詰交差点から西方向を望む。緑地帯は公園として整備されている。
}}
* 路線名 : [[広島市道比治山庚午線]](平和大通り){{Sfn|広島市|2002|p=}}

* 区間 : [[鶴見橋 (広島市)|鶴見橋]]東詰 - [[新己斐橋]]西詰{{Sfn|広島市|2002|p=}}
** [[南区 (広島市)|南区]][[比治山|比治山本町]] - ([[京橋川]]) - [[中区 (広島市)|中区]]鶴見町、宝町、[[富士見町 (広島市)|富士見町]]、[[国泰寺町 (広島市)|小町]]、[[大手町 (広島市)|大手町]] - ([[元安川]]) - 中区[[中島町 (広島市)|中島町]] - ([[旧太田川]]) - 中区[[舟入 (広島市)|河原町、舟入町]] - ([[天満川 (広島県)|天満川]]) -[[西区 (広島市)|西区]][[観音 (広島市)|東観音町、西観音町]]、福島町二丁目 - ([[太田川放水路]]) - 西区[[己斐|己斐本町一丁目]]

* 延長 : 約4km(広島市公式、比治山庚午線4.8kmの一部{{Sfn|広島市|2002|p=}})
** 地元紙中国新聞では3.8km{{Sfn|中国新聞|2015-01|p=}}。
** 3.5(あるいは3.6)kmとする資料もあるが、これは鶴見橋西詰から新己斐橋東詰まで(つまり2つの河川の内側)の距離で、開通当初は鶴見および新己斐橋は平和大通りから除外されていた<ref name="hpm22131" />。


* 標準全幅 : 100m{{Sfn|広島市|2002|p=}}
緑地帯の一部は舗装され市営有料駐車場となっており、自家用車での観光にも便利である。大きな交差点には左折レーンを設置しており、歩行者と他車に注意しながら信号によらず左折できる。
** 中央部 : 車道16.0m + 歩道2@5.0m{{Sfn|広島市|2002|p=}}
** 緑地 + 副道部
*** 片側標準1 : 緑地23.5m + 車道8.0m + 歩道5.5m{{Sfn|広島市|2002|p=}}
*** 片側標準2 : 緑地21.5m + 車道6.0m + 歩道5.5m + 駐車場4.0m{{Sfn|広島市|2002|p=}}


* 橋梁部幅員(道路管理上)
毎年5月3日から5日に催される広島市の平和の祭典[[ひろしまフラワーフェスティバル]]はこの通りの[[鶴見橋 (広島市)|鶴見橋]]西詰めから[[西平和大橋]]西詰めまでの区間を車両通行止めにして開催される。
** 鶴見橋(京橋川) : 30m <ref name="doukan">[http://www2.wagamachi-guide.com/hiroshimacity/ ひろしま地図ナビ]、広島市</ref>
** 平和大橋(元安川) : 15m <ref name="doukan" />
** 西平和大橋(旧太田川) : 15.1m <ref name="doukan" />
** 緑大橋(天満川) : 12m <ref name="doukan" />
** 新己斐橋(太田川放水路) : 22.1m <ref name="doukan" />


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 略歴 ===
[[1945年]]、時の日本政府の要請に拠り、日本各地の大都市で空襲による延焼を防ぐ目的の防火帯を作るべく「[[建物疎開]]」が開始された。[[軍都]]であった広島でも、市街地を東西に横切るように幅100mの[[防火帯]]を作る計画が立てられ、市民や学生が木造家屋の町並みを撤去する建物疎開に動員された。同年[[8月6日]]、動員された人々が働く頭上で[[原子爆弾]][[リトルボーイ]]が炸裂。[[爆心地|爆心]]から近い作業地域では学生など作業者数万名が死亡した(正確な戦災者の数は今日でも判っていない)。
''以下、2015年1月8日付[[中国新聞]]特集記事{{Sfn|中国新聞|2015-01|p=}}を元に記載する。''
* 1945年8月 : [[広島市への原子爆弾投下]]{{Sfn|中国新聞|2015-01|p=}}
* 1946年2月 : 広島市復興審議会が発足、100m道路計画が動き出す{{Sfn|中国新聞|2015-01|p=}}
* 1946年11月 : [[国泰寺町 (広島市)|小町]](現[[中区 (広島市)|中区]])にて整地が始まる{{Sfn|中国新聞|2015-01|p=}}
* 1949年5月 : [[広島平和記念都市建設法]]可決{{Sfn|中国新聞|2015-01|p=}}
* 1951年11月 : 平和大通りの名前決定{{Sfn|中国新聞|2015-01|p=}}
* 1952年3月 : 平和大橋/西平和大橋完成{{Sfn|中国新聞|2015-01|p=}}
* 1957年2月 : 市が樹木提供をよびかけ(供木運動){{Sfn|中国新聞|2015-01|p=}}
* 1965年5月 : 平和大通り全通{{Sfn|中国新聞|2015-01|p=}}
* 1975年10月 : [[広島東洋カープ]]がリーグ初優勝、パレード開催{{Sfn|中国新聞|2015-01|p=}}
* 1977年5月 : 第1回[[ひろしまフラワーフェスティバル]]開催{{Sfn|中国新聞|2015-01|p=}}
* 1986年8月 : [[日本の道100選]]に選出{{Sfn|中国新聞|2015-01|p=}}
* 1996年1月 : 第1回[[天皇盃全国都道府県対抗男子駅伝競走大会]]スタート{{Sfn|中国新聞|2015-01|p=}}
* 2002年11月 : 第1回[[ひろしまドリミネーション]]開催{{Sfn|中国新聞|2015-01|p=}}
* 2012年12月 : [[サンフレッチェ広島F.C|サンフレッチェ広島]]がリーグ初優勝、パレード開催{{Sfn|中国新聞|2015-01|p=}}
* 2015年5月 : 全通50周年{{Sfn|中国新聞|2015-01|p=}}


=== 前史 ===
[[1948年]]、[[広島平和記念都市建設法]]が制定され、被爆中心地である[[中島町 (広島市)|中島地区]]に併せ、この防火帯も'''平和大通り'''として、両脇を緑地化した公園通りに生まれ変わる計画が動き始める。しかし、計画が発表された当時は、「百メートルも幅のある道をつくって、どうするつもりだろうか、もったいない」という批判も強かった。
{{Vertical_images_list
|幅= 250px
| 1=Shirakami-sha 20130727-1.JPG
| 2=白神社の岩礁
| 3=Ex Seitou bridge 20150506.JPG
| 4=西堂橋跡
}}
古代、この地は海であった。現在平和大通りと[[鯉城通り]]の交点付近にある「[[白神社]]の[[岩礁]]」には、当時航行の目印として白紙が建てられていた<ref>{{Cite web|url=http://www.mogurin.or.jp/maibun/bunkazai/shirakamisya.htm|title=白神社の岩礁(しらかみしゃのがんしょう)|publisher=広島市文化財団|accessdate=2015-05-22}}</ref>。陸地が形成されたのは中世以降で、[[太田川]]上流部で盛んだった[[踏鞴製鉄|たたら製鉄]]での[[鉄穴流し]]により大量の土砂が下流に流出し堆積したことで形成されたもので、1500年代後半([[戦国時代 (日本)|戦国時代]]後半から[[安土桃山時代]])には現在の平和大通り付近が海岸線となった<ref name="mlit02plan">{{Cite web|publisher=国土交通省|url=http://www.cgr.mlit.go.jp/ootagawa/plan2/planpdf/02plan.pdf|format=PDF|title=太田川水系河川整備基本方針 2.太田川水系の概要|accessdate=2015-05-22}}</ref>。この頃、[[広島城]]が築城され城下町ができ、以降の土地開発により更に南に陸地が伸びていった<ref name="mlit02plan" /><ref name="jsce16-0327">{{Cite journal|和書 |author = 小谷俊哉 | title = 広島市都市形成発祥の地における空間構造の変遷に関する研究| journal = 土木史研究 | volume = 16| pages = 327-334 | publisher = [[土木学会]]| date = 1996-06| url = http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00044/1996/16-0327.pdf |format=PDF | accessdate =2015-05-22}}</ref>。海岸線付近に位置していた白神社そばの地に、1594年(文禄3年)[[安国寺恵瓊]]によって新安国寺(のちの[[国泰寺 (広島市)|国泰寺]])が創建、その後様々な経緯で移転し、現在は「旧国泰寺愛宕池」として沿道にその面影を残す<ref>{{Cite web|url=http://www.mogurin.or.jp/maibun/bunkazai/atagoike.htm|title=旧国泰寺愛宕池(きゅうこくたいじあたごいけ)|publisher=広島市文化財団|accessdate=2015-05-22}}</ref>。


当時の城下町は、現在の平和大通り付近が城下町の南端の基軸になり<ref name="jsce16-0327" />、城を基準に碁盤目状に通りが配置されそれを繋ぐ幾つかの小路(しょうじ)ができたものの<ref>{{Cite web|publisher=広島城公式|url=http://www.rijo-castle.jp/rijo/pdf/sirouya23.pdf|format=PDF|title=しろうや!広島城 第23号|accessdate=2015-05-22}}</ref>、[[広島藩]]制時代は防衛上かつ防犯上の理由により橋の架橋は制限されており<ref name="jsce16-0327" /><ref>{{Cite web|publisher=広島城公式|url=http://www.rijo-castle.jp/rijo/pdf/sirouya20.pdf|format=PDF|title=しろうや!広島城 第20号|accessdate=2015-05-22}}</ref>、現在の平和大通り付近にも通りあるいは小路が存在し城から伸びる運河(川)には橋が架けられたが大きな川には橋は架けられなかった。城の南の中央を縦断する西堂川(現在の鯉城通り)には「西堂橋」という橋があったが現存しておらず、現在は[[NHK広島放送局]]前の沿道に西堂橋跡としてモニュメント化されている。その東には平田屋川(現在の[[並木通り (広島市)|並木通り]]/[[じぞう通り (広島市)|じぞう通り]])があり、そこには「竹屋橋」<ref>{{Cite web|publisher=中の棚商店街|url=http://www.nakanotana.jp/history.html|title=中の棚商店街の歴史|accessdate=2015-05-22}}</ref>という橋があったが現存しておらず、その橋の傍にあった地蔵が別の場所に移されたのが竹屋地蔵尊{{Refnest|group=補足|[[じぞう通り (広島市)|じぞう通り]]の名前の由来でもある<ref name="jizou">{{Cite web|publisher=広島商工会議所|url=http://www.hiroshimacci.or.jp/shoutengai/zanmai/shoutengai-ichiran/jizou.html|title=じぞう通り振興会|accessdate=2015-05-22}}</ref>。}}として平和大通りとじぞう通りの交点付近に現存している<ref>{{Cite web|publisher=市立国泰寺中学校|url=http://www.kokutaiji-j.edu.city.hiroshima.jp/new/gaku_oitati.html|title=国泰寺中学校区の生い立ち|accessdate=2015-05-22}}</ref>。
[[1955年]]4月に行われた広島市長選挙で当選した保守系の渡辺忠雄は、「'''住宅敷地の不足を緩和するため、百メートル道路の幅員を50メートルまで縮小し、緑地帯の一部に鉄筋製の文化アパートを建設する'''」としたものの、当時の広島市助役の説得によりアパートの建設等について翻意し、道路の緑化運動を市民参加で行うことにした(供木運動)。その結果、[[1954年]]から[[1958年]]にかけて、県内から12万本以上の木が寄付されたほか、日本・世界からも苗木が贈られて、緑化が進められた。


明治時代以降になると架橋規制は解かれ<ref name="jsce16-0327" />、[[鶴見橋 (広島市)|鶴見橋]](当時は歩道橋)、新橋(現在の[[平和大橋 (広島市)|平和大橋]])、新大橋(現在の[[西平和大橋]])、[[広島電鉄本線]]の鉄橋([[新己斐橋]]参照)が架けられたが、[[天満川 (広島県)|天満川]]には橋は架けられなかった。当時の地図でもわかる通り、この時点では一本の道ではない。広島において近代的な道路計画が立てられたのは[[都市計画法]](旧法)施行後である1928年(昭和3年)で、この際にのちの防火帯つまり平和大通りの原型となる道路(当時の路線名不明)が鶴見橋から鯉城通りまで計画され<ref>{{Cite web|publisher=国立公文書館|url=https://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/detail/detailArchives/0000000537|title=広島都市計画地域指定参考図|accessdate=2015-05-22}}</ref>、1940年(昭和15年)都市計画ではそこから新大橋まで延伸する計画が立てられた{{Refnest|group=補足|1939年(昭和14年)[[大日本帝国陸軍]]が撮影した空中写真で、鶴見橋から鯉城通りまでの道は開通し、そこから先は繋がっていない小路がいくつかあることが確認できる<ref>[http://mapps.gsi.go.jp/ 国土地理院空中写真閲覧サービス] , 地図番号NI-53-33-10 , 撮影日1939年12月6日</ref>。}}<ref name="ch52eb2301009">{{Cite web|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1391050531094/html/common/52eb2301009.htm|title=広島平和記念都市建設計画 - 広島復興都市計画 -|publisher=広島市|accessdate=2015-05-22}}</ref>。
[[1965年]]5月に当初の計画通り、[[南区 (広島市)|南区]]の[[鶴見橋 (広島市)|鶴見橋]]東詰から[[西区 (広島市)|西区]]の[[観音 (広島市)|観音]]・福島地区を通る己斐(西広島駅前)までの区間が全面開通した。


また、1927年(昭和2年)には洪水被害軽減のため太田川全域の改修計画が建てられ市西側の山手川/福島川を改修し放水路を整備する、つまり[[太田川放水路]]整備計画が決定し、現在の平和大通り西端にあたる福島町の大規模な開発が始まった<ref name="ootagawa">{{Cite web | title = 太田川放水路について | publisher = 国土交通省太田川工事事務所 | url = http://www.cgr.mlit.go.jp/ootagawa/plan2/pdf/0215.pdf |format=PDF | accessdate =2015-05-22}}</ref>{{Refnest|group=補足|実際に工事が動き出したのは戦後<ref name="ootagawa"/>。}}。
[[1975年]]、プロ野球[[広島東洋カープ]]が球団創立25年目にして、セ・リーグ初優勝を達成。平和大通りで優勝記念パレードを行い、沿道に40万人のファンが集まった。これは、優勝パレードとしては、現在でも日本史上最大の動員数記録であり、後のフラワーフェスティバル開催の契機になったと言われる。


{{multiple image
[[1977年]]以降は、この通りを主要な会場とする市民の祭典「[[ひろしまフラワーフェスティバル|フラワーフェスティバル]]」が開催されるようになった。[[1996年]]からスタートした[[天皇盃全国都道府県対抗男子駅伝競走大会]]のスタート&ゴール地点は平和公園であり、ランナーたちはこの通りを走りぬける。[[2005年]]には沿道に[[平和の門]]が設置された。
| footer =各年代ごとの広島市地図。それぞれの地図の右側に[[比治山]]があり、現在の平和大通りはそこから左へ伸びることになる。
| align = left
| width = 200
| image1 = Hiroshima Castle Town 1644.jpg
| caption1 = 『[[正保城絵図]]』内の安芸国広島城所絵図。中央を縦断する川が西堂川であり、上から2つ目の橋が西堂橋。城の東側外堀からまっすぐ下に伸びる川は平田屋川でこの時点では橋がないことがわかる。
| image2 = Hiroshima city map 1880.jpg
| caption2 =1878年郡区町村編制法後、広島市として想定された範囲の地図。この時点で新橋と新大橋(後の平和大橋と西平和大橋)が架橋していることがわかる。また、西堂橋と竹屋橋(川沿の下から2つ目)もこの時点では存在している。
| image3 = Hiroshima map circa 1930.PNG
| caption3 =1930年ごろ。鶴見橋、広島電鉄本線筋の電車橋が架橋していることがわかる。また西堂川は1912年(大正元年)に消滅<ref>{{Cite web|publisher=広島城公式|url=http://www.rijo-castle.jp/rijo/sub4f.html|title=近代の広島城|accessdate=2015-05-22}}</ref>、平田屋川は昭和30年代に消滅している<ref name="jizou" />ことから、この時点で西堂橋はないが竹屋橋は存在している。
}}{{-}}


=== 防火帯 ===
近年、[[広島高速交通広島新交通1号線|アストラムライン]]を延伸する際の経路として平和大通りの地下を通す計画が挙がっている。また、「平和大通りリニューアル事業」として緑地帯再整備や現橋の架替と歩道橋併設、[[広島電鉄本線]]の[[西観音町電停]] - [[土橋電停]]間の[[クランク (道路)|クランク]]解消のため白神社前交差点までの延伸も検討されている。また、かつても広島電鉄本線は[[白神社]]まで伸ばす計画があった。
{{multiple image
| footer =アメリカ軍が撮影した原爆投下前後の空中写真。写真中央右の丘が比治山であり、そこから左斜め上に伸びる道が後の平和大通りになる。
| align = left
| width = 300
| image1 = Pre-attack.jpg
| caption1 = 1945年4月13日被爆前。
| image2 = Post-attack.jpg
| caption2 =1945年8月11日被爆後。
}}{{-}}
{{Vertical_images_list
|幅= 250px
| 1=Hiroshima - Extend Of Fire & Limits Of Blast Damage.jpg
| 2=アメリカ軍作成の被爆による被害分布図。同心円の中心が[[爆心地]]、赤色が全焼区域。図中に斜線で"PREPARED FIRE BREAKS"(防火帯)が表記されている。
| 3=Hiroshima autograph Tibbets.jpg
| 4=現在の中区[[舟入 (広島市)|河原町]]付近から東方向を望む。中央に縦断する道がのちの平和大通り。手前左部分が後に平和公園。当日の建物疎開地点の一つ、県庁付近にあたる。なお左上のサインは[[ポール・ティベッツ]]のもの。
}}
1937年(昭和12年)[[防空法]]制定、広島市でも防空態勢の充実が図られるようになる{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=10}}。[[太平洋戦争]]末期になると、戦況の悪化によりアメリカ軍による本土空爆が激しくなっていった。そこで、市街での延焼を防ぐため[[防火帯]]を設けることになり[[疎開#建物疎開|建物疎開]]が全国で実施される{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=13}}。1944年(昭和19年)11月、広島市において建物疎開実施が決定し、[[内務省 (日本)|内務省]]により疎開地区が決められ、[[国民義勇隊]]や学童勤労奉仕隊([[学徒勤労動員|学徒動員]])により作業が行われた{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=13}}。

現在の平和大通りにあたる道は、この時に鶴見町から福島町を結ぶ全長3,570m幅員100mの防災道路として計画されたものである<ref name="exh090709">{{Cite web|url=http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/exhibit/exh0907/exh090709.html|title=平和の象徴 平和大通り|publisher=広島平和記念資料館|accessdate=2015-05-22}}</ref>。現在の平和大通り周辺の約16,000戸の立ち退き作業が行われ<ref name="hb665" />、上の空中写真のとおりほとんど終えていた地区もあり{{Refnest|group=補足|『広島新史 都市文化編』14ページの1-1-7『建物疎開場所・位置』の地図と比較しても現在の平和大通りの位置と一致している{{Sfn|広島新史|都市文化編|p=14}}。}}、防火帯の中央は幅20mほどの砂利道として整備されていた{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=453}}。

1945年(昭和20年)8月6日8時15分、[[広島市への原子爆弾投下]]。右の被害分布図や被爆後の各写真から、原爆の前では防火帯として全く機能しなかったことがわかる。それでも中央付近は火が及ばなかったため、多くの人がこの道から比治山へ向かって逃げていった{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=453}}{{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=666}}。

またこの日は、第6次建物疎開作業中で<ref>{{Cite web|url=http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/exhibit/exh1007/exh100702.html|title=建物疎開|publisher=広島平和記念資料館|accessdate=2015-05-22}}</ref>、この沿道に限れば鶴見橋西側付近・[[広島県庁]]付近(現在の[[中島町 (広島市)|中島町]]/[[加古町・住吉町 (広島市)|加古町]])・[[十日市町・土橋|土橋]]付近の3箇所、その他[[広島市役所]]付近、[[紙屋町・八丁堀|八丁堀]]付近、電信隊付近(現在の比治山本町)、[[楠木町]]で行われていた<ref name="exh04074">{{Cite web|url=http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/exhibit/exh0407/exh04074.html|title=被害を広げた建物疎開|publisher=広島平和記念資料館|accessdate=2015-05-22}}</ref> 。学徒動員は、この沿道含めた全体で約8,200人が動員されうち約5,900人が死亡した<ref name="hb665" /><ref>{{Cite web|publisher=中国新聞|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=21418|title=65年の夏 広島一中3年生の軌跡 動員学徒 たどる生と死|date=2010-08-18|accessdate=2015-05-22}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/exhibit/exh0407/exh04074.html|title=動員学徒の被害|publisher=広島平和記念資料館|accessdate=2015-05-14}}</ref>。国民義勇隊は明快な資料が残っていないため推定ではあるが、同様にこの沿道含めた全体で約11,600人が動員されうち約4,600人が死亡した(県社会援護課推測)<ref>{{Cite web|url=http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/exhibit/exh1007/exh100709.html|title=国民義勇隊の被害の全容|publisher=広島平和記念資料館|accessdate=2015-05-22}}</ref>。疎開地点でもあり比治山への避難経路だった鶴見橋両岸は、凄惨を極めた{{Sfn|原爆戦災誌|1971|pp=453-454}}。

{{multiple image
| footer =アメリカ軍が撮影した被爆後の広島市写真
| align = left
| width = 200
| image1 = Piction (15321775625).jpg
| caption1 =現在の広島駅付近から西方向を望む。写真中央を横断する道がのちの平和大通りになる。この道の写真右端が当日の建物疎開地点の一つである土橋付近、そこから左側の川を超えたところが県庁付近にあたる。
| image2 = Piction AL-135B JL Highfill Album Image (15318333651).jpg
| caption2 =現在の中区寺町・広瀬から東方向を望む。中央の丘が比治山で中央の橋が鶴見橋、そこから右下へ伸びる道がのちの平和大通り。カーブ地点より向こう側が当日の建物疎開地点の一つ、鶴見橋付近にあたる。
| image3 = AL-135B JL Highfill Album Image (15135389270).jpg
| caption3 = 現在の中区吉島付近から北方向を望む。写真中央やや右を縦断する太い道が鯉城通り、その下の橋が[[南大橋 (広島市)|南大橋]]。その一つ上の交差点が[[鷹野橋 (広島市)|鷹野橋]]交差点、その一つ上が白神社交差点であり、そこを横断する道がのちの平和大通り。
}}{{-}}
以下、この沿道に限った被爆当日における建物疎開の動員状況を示す。
{{hidden begin
|toggle=right |title=疎開動員状況<ref name="exh04074" /><ref>{{Cite web|url=http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/exhibit/exh1007/exh100702.html|title=国民義勇隊 建物疎開|publisher=広島平和記念資料館|accessdate=2015-05-22}}</ref> |titlestyle = background:lightgrey;
}}
{| class="wikitable" style="text-align:left"
|-
!疎開<br />作業場所!!colspan="2"|区分!!義勇隊名あるいは学校名
|-
!rowspan="4"|鶴見橋付近
|rowspan="3" style="width:8em;"|国民義勇隊
|style="width:8em;"|市内義勇隊||尾長、矢賀、荒神、段原、比治山、楠那、白島、竹屋
|-
||郡部義勇隊||坂村、中野村
|-
||職域義勇隊||[[マツダ|東洋工業]]、鈴木化学工業
|-
|colspan="2"|学童勤労奉仕隊<br />(学校報国隊)||[[広島翔洋高等学校|広島女子商]]、[[比治山大学短期大学部|比治山高女]]、[[進徳女子高等学校|進徳高女]]、[[広島市立広島工業高等学校|市立第一工]]、[[広島国際学院高等学校|広島電気]]、[[広島県瀬戸内高等学校|松本工業]]、[[広島県立広島国泰寺高等学校|県立第一中]]、[[広陵高等学校 (広島県)|広陵中]]、[[広島市立段原中学校|第一国民学校]]、[[広島市立楠那小学校|楠那国民学校]]、[[広島市立牛田小学校|牛田国民学校]]、[[広島市立白島小学校|白島国民学校]]
|-
!rowspan="4"|県庁付近
|rowspan="3"|国民義勇隊
||市内義勇隊||本川、中島、観音
|-
||郡部義勇隊||安村、川内村
|-
||職域義勇隊||住宅営団、川本組、[[広島銀行|芸備銀行]]、[[油谷重工|油谷重工業]]、県義勇隊本部事務隊、宇品造船所、[[広島ガス|広島瓦斯]]、広島県庁、藤川製鋼所、[[日本勧業銀行|勧銀広島支店]]、[[中国新聞]]、広島県水産業会、県加計土木出張所
|-
|colspan="2"|学童勤労奉仕隊<br />(学校報国隊)||第二国民学校、[[広島県立広島観音高等学校|県立第二中]]、[[広島県立広島工業高等学校|県工]]、市立第一工、[[広島市立広島商業高等学校|市立造船工]]、[[広島市立舟入高等学校|市立第一高女]]、[[崇徳中学校・高等学校|崇徳中]]、松本工業、[[安田女子中学校・高等学校|安田高女]]、[[山陽高等学校|山陽商業]]、[[広島新庄中学校・高等学校|新庄中]]
|-
!rowspan="4"|土橋付近
|rowspan="3"|国民義勇隊
||市内義勇隊||草津、神崎、大芝、三篠、天満、古田、広瀬、本川
|-
||郡部義勇隊||大竹町、小方村、玖波町
|-
||職域義勇隊||広島醤油KK、内務省中四国土木、[[帝人|帝人広島工場]]、昭和金属、住野工業、[[三菱重工業]]、高密機械製作所、広島機械製作所、広島食料品組合、広島工業、広島航空機KK、広島工業KK(廿日市)、東亜有機化学工業所、県加計土木出張所
|-
|colspan="2"|学童勤労奉仕隊<br />(学校報国隊)||[[広島市立本川小学校|本川国民学校]]、[[広島市立千田小学校|千田国民学校]]、[[広島市立草津小学校|草津国民学校]]、[[広島市立天満小学校|天満国民学校]]、県立第一中、県立第一高女、[[広島市立基町高等学校|市立中]]、崇徳中、西高、安芸高女、[[広島県立広島商業高等学校|県立商業]]
|}
{{hidden end}}

同1945年9月には大型の[[枕崎台風]]・同年10月には[[阿久根台風]]を伴って豪雨が広島市内を直撃し、更に被害は拡大した<ref>{{Cite web|url=http://www.pcf.city.hiroshima.jp/Peace/J/pHiroshima1_4.html|title=焼け跡を直撃した枕崎台風|publisher=広島平和記念資料館|accessdate=2015-05-22}}</ref>。

=== 100m道路 ===
1945年(昭和20年)12月、「[[戦災復興都市計画]]基本方針」が[[閣議]]決定される{{Sfn|石丸紀興|1998|p=243}}。この中で以下の規定が盛り込まれた。
{{Quotation|必要ノ個所ニハ幅員50米乃至100米ノ広路又ハ広場ヲ配置シ利用上防災及美観ノ構成ヲ兼ネシムルコト
|戦災地復興計画基本方針 4、主要施設 (1) 街路 ハ<ref>{{Cite web|publisher=国立国会図書館|url=https://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib00699.php|title=戦災地復興計画基本方針|date=1945-12-30|accessdate=2015-05-22}}</ref>}}
こうして、全国で[[100m道路]]が計画され最大で24路線(1947年時点)が立案した{{Sfn|石丸紀興|1998|p=243}}。

広島の復興は、[[木原七郎]]次いで[[浜井信三]]が広島市長となり、[[呉市]]に駐屯していた[[イギリス連邦占領軍]]ハービー・サテン少佐(医学・公衆衛生)およびS・A・ジャビー少佐(都市計画)そしてアメリカ軍ジョン・D・モンゴメリー中尉(都市計画)が復興顧問に就任し、1946年(昭和21年)1月広島市復興局が設立、同年2月に復興審議会が設立されると、広島の復興プランが市民や国内外の識者から少なくとも30以上提唱された<ref name="alessandro">{{Cite journal|和書|author = アレッサンドロ・カルーゾ|date = 2006|title = 破壊された広島|journal = 日本語・日本文化研修プログラム 研修レポート集|issue = 21|publisher = 広島大学|url = http://www.iie.hiroshima-u.ac.jp/center/activities/japanese/pdf/2006/.pdf|format = PDF
|accessdate = 2015-05-22}}</ref><ref name="pHiroshima2_2">{{Cite web|publisher=広島平和記念資料館|url=http://www.pcf.city.hiroshima.jp/Peace/J/pHiroshima2_2.html|title=さまざまな復興計画|accessdate=2015-05-22}}</ref>。その中の一つである、[[戦災復興院]]の意向を受けて[[竹重貞蔵]]広島県都市計画課長が練った都市計画(広島県都市計画課立案{{Refnest|group=補足|被爆当時、県都市計画課は26人在籍、爆心地から約410mに位置した[[広島市立本川小学校|本川国民学校]]に疎開しており、そこにいた職員は全員死亡した(学校側の生存者は教師1人生徒1人の2人のみ){{Sfn|原爆戦災誌|1971|p=586}}<ref>{{Cite web|publisher=広島平和記念資料館|url=http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/tour/ireihi/tour_01.html|title=旧本川国民学校|accessdate=2015-05-22}}</ref>。竹重が被爆したのは通勤途中だった<ref name="hpm12714">{{Cite web|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=12714|title=広島復興 伝える内実 建築史家・石丸さん 計画策定者や住民に聞き取り|publisher=中国新聞|date=2014-01-20|accessdate=2015-05-22}}</ref>(自転車のチェーンが切れた説あるいはパンクした説がある)ため難を逃れることが出来た。こうしたことからこの時の都市計画は県都市計画課名義ではあるが実際は竹重一人で線を引いている。}})をベースに復興審議会での諮問の中で他案のアイデアを取り入れ、同年10月「広島復興都市計画」として立案した<ref name="pHiroshima2_2" />{{Sfn|石丸紀興|1998|p=245}}<ref name="ch52eb2301009" /><ref name="jice_rpt20_03">{{Cite web|url=http://www.jice.or.jp/report/pdf20/jice_rpt20_03.pdf|format=PDF|title=国土政策研究所 講演会「震災復興・戦災復興の成果・失敗とその反省を踏まえて」|publisher=国土技術研究センター|accessdate=2015-05-22}}</ref>。100m道路はこの時の計画に盛り込まれたもので、この時点では以下の2路線であった。
{| class="wikitable"
|-
!等級{{Refnest|group=補足|旧[[街路構造令]]でのものであり、現在の[[道路構造令]]のものとは異なる。広路は”ひろぢ”と読む<ref>{{Cite journal|和書 |author = [[越沢明]] |year = 1996-05 |title = 都市計画における並木道と街路樹の思想 |journal = 国際交通安全学会誌 |volume = 22 | issue = 1 |pages = 13-23 |publisher = 国際交通安全学会 |url = http://www.mlit.go.jp/road/ir/kihon/sankou2-2.pdf |format = PDF |accessdate = 2015-05-27 }}</ref>。}}
!路線名!!詳細!!
|-
|広路Ⅰ号||比治山庚午線||
* 橋梁部分を除く鶴見町から福島町{{Refnest|group=補足|この時点で太田川放水路工事は完了していない。}}まで。
* 後の平和大通り。
||{{Sfn|石丸紀興|1998|p=245}}{{Sfn|広島新史|都市文化編|pp=44-45}}
|-
|Ⅰ等第2類第3号||出汐庚午線||
* 橋梁部分を除く[[舟入 (広島市)|舟入]]および[[観音 (広島市)|観音]]地区に。
* 後の[[広島市道霞庚午線]]。
||{{Sfn|石丸紀興|1998|p=245}}
|}
[[ファイル:Kenzo Tange 1981.jpg|170px|thumb|right|丹下健三。1947年2月100m道路含めた具体的な道路計画を復興審議会に答申するなど戦災復興都市計画の中心人物となり、のち平和公園の設計にも携わり、今日においては広島市都市計画の原型を作った人物と評されている<ref name="34sendai" /><ref name="hpm22131" />。]]
{{See also|[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3856359 戦争被害調査資料  広島復興都市計画街路網公園配置図] - 国会図書館}}

同1946年11月、この計画に戦災復興院嘱託であった[[丹下健三]]が参加{{Refnest|group=補足|丹下が来広した時期として1946年夏頃ともされるが、ここでは用いたソースから1946年11月説を採用する<ref name="34sendai" />。}}し具体的に進められていった<ref name="34sendai" />。まず工事が始まったのは比治山庚午線からであり、同年11月整地が始まり区画整理が進められたが、他の復興事業とそれに対する人口の不足、そして財政難でなかなか進まなかった{{Sfn|石丸紀興|1998|p=246}}。そこへ浜井市長ら関係者の尽力により1949年(昭和24年)8月「[[広島平和記念都市建設法]]」が[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)お墨付きで公布、復興事業が進むようになった{{Sfn|石丸紀興|1998|p=246}}<ref>{{Cite web|publisher=中国新聞経済メールマガジン|date=2006-12-01|url=http://www.media-club.jp/media/backnumber/cmail230/index.html|title=広島のマッカーサー道路|accessdate=2015-05-26}}</ref>。また海外からの支援もこうした復興の手助けとなり、例えば新橋と新大橋(後の平和大橋と西平和大橋)は[[米国対日援助見返資金特別会計]]によって架橋されたものである<ref name="alessandro" /><ref>{{Cite web|publisher=中国新聞|url=http://web.archive.org/web/20061007040233/http://www.chugoku-np.co.jp/abom/03abom/kiroku/52pray.html|title=祈りの場への橋(52年)|date=2003-05-13|accessdate=2015-05-22}}</ref>。

この間、復興審議会での論議と平和記念都市建設法成立を経て、今後の広島の方向性を明確なものとした「広島平和都市建設構想」が確立し、復興都市計画をベースに新たな都市計画「広島平和都市建設計画」が作成されていった<ref name="alessandro" /><ref name="34sendai" /><ref name="4ae6aedd007">{{Cite web|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1131328219626/html/common/4ae6aedd007.htm|title=広島市の復興 ~広島平和記念都市建設計画の誕生~|publisher=広島市|accessdate=2015-05-22}}</ref>。

一方で国内で最大24路線計画された100m道路であったが、1949年[[ドッジ・ライン]]に基づく緊縮財政を理由に、ほとんどが頓挫した<ref group="補足" name="ghq" /><ref name="jice_rpt20_03" />。広島においても、100m道路は[[広島平和記念公園]]とともに計画当初から住宅難に悩む市民にとっては不評だったこと、2路線のうち出汐庚午線は復興都市計画立案当初から整備する意義が不明瞭であったため否定的な意見がでたことから、後に立案した広島平和都市建設計画では比治山庚午線は100m道路のままであったが出汐庚午線は幅員30mに縮小されている{{Sfn|石丸紀興|1998|p=245}}{{Sfn|広島新史|都市文化編|pp=44-45}}{{Sfn|中国新聞|2003-05|p=}}。
{{-}}
{{wide image|Hiroshima Peace Memorial Museum 1955.jpg|800px|工事中の広島平和記念資料館。1950年代。現在における平和大通りの副道から撮影されたものであり、車が通っている路が現在の中央道。手前の木が植えられている場所が現在の緑地帯にあたる。}}

1950年(昭和25年)市が公表した広島平和都市建設構想試案には100m道路を「平和緑道」と仮称したことに加え、以下の文面が記されていた<ref name="4ae6aedd007" />{{Sfn|中国新聞|2003-05|p=}}。
{{Quotation|広島を訪れる人々や、市民の平和を希求する心を平和公園に鳩合する通路となるであらう。(中略)。公園から湧出する雰囲気を全市に布衍すると共に世界の各地に伝える通路となるであらう。
|1950年広島平和都市建設構想試案{{Sfn|中国新聞|2003-05|p=}}}}

[[ファイル:Hiroshima Peace Bridge 1955.jpg|250px|thumb|right|開通直後の平和大橋。工事は[[建設省]]によるもので、丹下の推薦により[[イサム・ノグチ]]が欄干をデザインした<ref>{{Cite web|publisher=中国新聞|date=1995-01-29|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=27153|title=検証 ヒロシマ 1945-95 <2> 平和公園|accessdate=2015-05-22}}</ref>。]]
1951年(昭和26年)工事中の100m道路の名称を公募し「平和大通り」となった{{Sfn|広島新史|都市文化編|p=59}}{{Refnest|group=補足|名称指定と同時に、平和祈念施設の位置づけを外れている{{Sfn|広島新史|都市文化編|p=59}}。}}。あわせて、平和大橋・西平和大橋も名付けられた{{Sfn|石丸紀興|1998|p=245}}。1952年(昭和27年)3月「広島平和都市建設計画」が立案、この時から平和大通りが市中心部での主要道路配置の基準軸となった<ref name="4ae6aedd007" />。同年には平和大橋・西平和大橋完成<ref>{{Cite web|publisher=ヒロシマピースメディア|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=26348|title=ヒロシマの記録1952 6月|accessdate=2015-05-22}}</ref>、1953年(昭和28年)平和大通りにとって三番目の橋となる[[緑大橋]]が完成した<ref>{{Cite web|publisher=ヒロシマピースメディア|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=26338|title=ヒロシマの記録1953 7月|accessdate=2015-05-22}}</ref>。

こうして、100m道路は復興計画から平和都市建設構想へと移行する中で2路線あったものが1路線となったが、その構想を推し進めようとした浜井市長以下広島市の強い意志が働き<ref>{{Cite web|publisher=広島市|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1300240193174/index.html|title=平和記念施設保存・整備方針 資料編4.平和記念施設の保存・整備に係る過去の理念・議論|accessdate=2015-05-22}}</ref>、平和大通り工事は進んでいった。

=== 供木運動 ===
1955年(昭和30年)発売した[[大田洋子]]の小説『夕凪の街と人と―一九五三年の実態』の中で、登場人物の一人が当時の復興事業を語っている。

{{Quotation|なんの用があって作ったか知りませんが、あの広い幅を持った、百メートル道路をみてごらんなさい。昼なお暗いほど、雑草にうずもれて、人通りもろくにありはしません。(中略)。ここは公園にするからどいてくれ、百メーター道にするからどいてくれと云って追いはらったんですからね。(中略)。市民の方でそれを愛していませんから、草も花も、木も育ちはしません。
|夕凪の街と人と<ref name="pHiroshima2_6" />{{Sfn|中国新聞|2003-05|p=}}{{Sfn|石丸紀興|1998|p=246}}{{Sfn|広島新史|都市文化編|pp=72-73}}}}
[[ファイル:Hijiyama Hiroshima 1955.jpg|center|700px|thumb|比治山から広島市内を望む。1950年代。立ち退きにより行き場を失った住人は手前に見えるように川沿いなどにバラックを建てた<ref name="hpm12714" />。また写真に見えるように立退きに応じないものもいた。1960年代の[[モータリゼーション]]以降も続いており、平和大橋の下に[[足場]]で居住空間を作って住んでいたものもいた<ref>{{Cite web|publisher=広島平和記念資料館|url=http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/exhibit/exh0907/exh090711.html#house|title=復興の光と影|accessdate=2015-05-22}}</ref>。これらの撤去に[[行政上の強制執行|強制執行]]までに至った{{Sfn|石丸紀興|1998|p=248}}。]]

平和大通りや平和公園建設のため半ば強制的に立ち退きを迫られた住民にとって<ref name="hpm12714" />、この通りは相変わらず批判の的であった。これが顕著となったのが[[1955年広島市長選挙]]で、復興事業を進めていた現職の浜井信三([[革新政党|革新]])に対し、対抗馬[[渡辺忠雄]]([[自由党 (日本 1950-1955)|保守]])は公約に計画再検討を掲げ「百メートル道路の幅員を半分にし住宅を建設する」とぶち上げた{{Sfn|石丸紀興|1998|p=246}}{{Sfn|広島新史|都市文化編|p=73}}。結果、1947年から市長を2期務めた浜井は落選、渡辺が新しい市長に就任した。渡辺は公約通り進めようとしたが、市の幹部や道路担当者に説得され頓挫、結果平和大通りはそのまま工事が進んでいった{{Sfn|石丸紀興|1998|p=246}}{{Refnest|group=補足|なお代わりの住宅計画が[[広島市中央公園]]を縮小し住宅地にあてる、つまり[[市営基町高層アパート|基町のアパート群建築]]事業である{{Sfn|石丸紀興|1998|p=246}}。}}。

平和大通り改修を諦めた渡辺が次に行ったのが「供木運動」である。これは平和大通りのグリーンベルト部分の緑化キャンペーンであり、県内を問わず全国レベルで植樹を呼びかけた{{Sfn|石丸紀興|1998|p=246}}<ref name="pHiroshima2_6" />。この呼びかけに「廃墟の街に緑を」と世界レベルで応じてもらうことができ、1957年(昭和32年)から1958年(昭和33年)にかけて行われ、多くの木が植えられた<ref name="pHiroshima2_6" /><ref name="hb665" />。広島市の公式発表によれば1957年に[[高木]]約1,200本、1958年に高木約1,300本、その他[[低木]]も多数植えられた<ref>{{Cite web|publisher=広島市|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1110846940468/index.html|title=戦後の緑化の歴史について知りたい|accessdate=2015-05-22}}</ref>。

こうして、当初は歓迎されなかったどころか存続の危機さえあった100m道路は、供木運動を経て緑化が進み、広島が国際平和文化都市として成長していく中で象徴の一つとなっていった<ref name="hirano20080201" /><ref name="kyushu-up029">{{Cite journal|和書 |author1 = 朴九遠 |author2 = 飯日繁 |author3 = 堺正紘 |year = 1998 |title = 地方中枢都市における緑の構造形成に関する研究 (1) |journal = 九大演報 |volume = 78 |publisher = 九州大学 |url = http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/10938/p029.pdf |format = PDF |accessdate = 2015-05-22 }}</ref>。

=== 全線開通 ===
東端である[[鶴見橋 (広島市)|鶴見橋]]は被爆に耐えた木橋の歩行者専用橋であったが、1958年(昭和32年)再び木橋の歩道橋に架けなおされた<ref name="nilim">{{Cite web|publisher=国交省国土技術政策総合研究所|url=http://www.nilim.go.jp/lab/ddg/seika/ks/ks043309.pdf|format=PDF|title=鶴見橋|accessdate=2015-05-22}}</ref>。なお、この橋はこの後も歩道橋のままつまり平和大通りは東端(京橋川)で車両は渡河できず、道路橋となり車両が通行できるようになるのは[[平成]]に入ってからである<ref name="nilim" />。

[[ファイル:Ota river and Nishi-Hiroshima Station 1988.jpg|250px|thumb|right|1988年<ref name="mlitpic" />。太田川放水路と新己斐橋・平和大通り。]]
そしてこの工事で最後の難所となったのは西端の福島町である。この地区は戦前からの[[太田川放水路]]工事により大規模な土地区画整理と河川改修に伴う[[新己斐橋]]架橋、戦後乱立した[[バラック]]の強制退居、そして[[漁業権]]問題からの放水路工事反対運動で
工事が一旦ストップし、これに国([[建設省]])・県・市の事業が同時進行していたことも相まって、幾重にも問題を抱えていた{{Sfn|石丸紀興|1998|p=246}}<ref name="jsce46-09-0015">{{Cite journal|和書 |author = 秋竹敏実 |author2 = 藤吉三郎 | title = 太田川分流工事の概要について | journal = 土木学会誌 | volume = 46 | issue = 9 | pages = 15-20 | publisher = [[土木学会]]| date = 1961| url = http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00034/46-09/46-09-0015.pdf |format=PDF | accessdate =2015-05-22}}</ref>。諸問題が解決し放水路の工事が再開したのが1955年(昭和30年)、1962年(昭和37年)建設省と市の合同事業で新己斐橋工事が着工したものの、この時点で福島町の埋め立て工事が進行中だったため平和大通り工事は未着工だった{{Sfn|石丸紀興|1998|p=246}}<ref name="jsce46-09-0015" />。

その後工事は順調に進み、1965年(昭和40年)太田川放水路の通水・新己斐橋竣工、そして同年5月平和大通りが全線開通した{{Sfn|石丸紀興|1998|p=246}}。

=== パレードとFF ===
1965年(昭和40年)10月、[[自衛隊]]発足15周年記念として[[第13師団 (陸上自衛隊)|第13師団]][[観閲式]]が初めて行われた<ref name="65tank">{{Cite web|publisher=中国新聞|url=http://web.archive.org/web/20061007040240/http://www.chugoku-np.co.jp/abom/03abom/kiroku/65tank.html|title=戦車も走った(65年)|date=2003-05-13|accessdate=2015-05-22}}</ref>。市民団体による反対運動の中、市長の浜井信三は道路使用を許可し、鶴見橋から西へ進み白神社前まで行進、反対側の市民感情に配慮し平和公園前までは行かなかった<ref name="65tank" /><ref>{{Cite web|publisher=ヒロシマピースメディア|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=26197|title=ヒロシマの記録1965 10月|accessdate=2015-05-22}}</ref>。参加隊員1,600人、参加車両は戦車14両を含む190両、市民約30,000人が見物した<ref name="65tank" />。翌1966年(昭和41年)も同ルートで行われている<ref name="65tank" />。

[[ファイル:Hiroshima FF 2011.JPG|250px|thumb|right|2011年ひろしまフラワーフェスティバル準備中の様子。中央に見えるのがカープの花車。]]
1975年(昭和50年)、被爆30年目にあたり変化があった。8月6日[[広島平和記念式典]]で、平和公園前900mが初めて車両通行止めとなった<ref>{{Cite web|publisher=ヒロシマピースメディア|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=26075|title=ヒロシマの記録1975 8月|accessdate=2015-05-22}}</ref>。そして、「静」となる鎮魂の式典に対し「動」となる華やかな祭りで平和と生きている尊さを喜び合おうと、大規模な祭りの構想が地元紙[[中国新聞社]]や地元自治体首長などによって考えられていた<ref name="hpn22335">{{Cite web|publisher=中国新聞|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=22335|title=『信頼』 山本朗 回想録 <22> フラワーフェスティバル(FF)|accessdate=2015-05-22}}</ref>。

そこへ[[1975年の野球|この年のプロ野球]]において、地元[[広島東洋カープ]]が球団創立25年目にしてセ・リーグ初優勝。と同時に球団主催で優勝パレードが企画された<ref name="nikkan20080229">{{Cite web|publisher=日刊スポーツ|url=http://blog.nikkansports.com/sports/legend/2008/02/100.html|title=【広島初優勝 赤ヘル旋風の軌跡(10)】|date=2008-02-29|accessdate=2015-05-22}}</ref>。当初[[広島県警察]]は否定的であったが勢いに押され了承、優勝決定から5日後にあたる10月20日西観音町(現西区)から田中町(現中区)までの2.7kmでパレードが行われた<ref name="nikkan20080229" /><ref name="75peaceblvd">{{Cite web|publisher=中国新聞|url=http://web.archive.org/web/20061007040249/http://www.chugoku-np.co.jp/abom/03abom/kiroku/75peaceblvd.html|title=歓喜の大通り(75年)|date=2003-05-13|accessdate=2015-05-22}}</ref>。沿道を人が覆い、約30万人(県警発表)が詰めかけた<ref name="nikkan20080229" /><ref name="75peaceblvd" />。この後、カープ監督の[[古葉竹識]]は広島市長[[荒木武]]と対面した際に「広島には大きな祭りがない。ぜひつくってほしい。」と懇願した話がある<ref name="nikkan20080229" />。

こうした流れから[[宮澤弘]]県知事・荒木市長・[[山田克彦]][[広島商工会議所]]会頭らが会談を行い、1976年(昭和51年)9月市民の祭典「[[ひろしまフラワーフェスティバル]]」が開催が決定、翌1977年(昭和52年)から毎年開催されるようになった<ref name="hpn22335" />。

そして、フラワーフェスティバル開催以降、平和大通りは広島のシンボルロードとして認識されていった<ref name="nilim" />。

=== 軌道系交通網計画 ===
[[ファイル:Astram line 6122 at Omachi station.jpg|250px|thumb|right|2012年現在で有力なのはアストラムラインの地下敷設である<ref name="hpm27153">{{Cite web|publisher=中国新聞|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=27153|title=検証 ヒロシマ 1945~95 <2> 平和公園|date=2012-03-29|accessdate=2015-05-22}}</ref>。]]
1960年代の[[モータリゼーション]]以降、市中心部での交通網再編が始まり軌道系交通機関の計画が検討され、その幾つかで平和大通りの地上ないし地下に通すものが考えられた<ref name="iatss">{{Cite journal|和書|author=横田好明|year=2009|publisher=国際交通安全学会|url=http://www.iatss.or.jp/common/pdf/publication/iatss-review/34-2-06.pdf|format=PDF|title=路面電車からLRTシステムに向けた広島電鉄の取り組み|accessdate=2015-05-22}}</ref>。以下、計画されたものを列挙し、詳細は当該リンク先参照。
* [[広島市営地下鉄|地下鉄東西線]]<ref name="iatss" />
* 広島電鉄平和大通り線 - 1997年(平成9年)広電により発表<ref name="iatss" />。現状の広島電鉄本線には長大車両が通行難となるクランクがあるためその解消として([[広島電鉄#本線クランク解消]]参照)。ただ1998年(平成10年)[[橋口収]]商工会議所会頭が「平和記念公園は聖地でありその前を車に加えて電車も通るのは好ましくない」と話す<ref>{{Cite web|publisher=ヒロシマピースメディア|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=25785|title=ヒロシマの記録1998 2月|accessdate=2015-05-22}}</ref>など、反対勢力もいる。
* [[広島高速交通広島新交通1号線#今後の計画|アストラムライン東西線]]<ref name="iatss" />

=== リニューアル事業 ===
平和大通りの将来像については、早い段階から案が出されていた。例えば1979年(昭和54年)市の依頼で[[丹下都市建築設計|丹下健三都市建築設計研究所]]が出したものでは、通りの中央部分を緑地帯として集約し両外側の側道を拡幅し車道として用いる構想が考えられた<ref>{{Cite web|publisher=ヒロシマピースメディア|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=26020|title=ヒロシマの記録1979 1月|accessdate=2015-05-22}}</ref>。

また、東端につながる[[広島市道比治山東雲線]]が整備されていく中で、1990年(平成2年)には東端の歩道橋である鶴見橋が道路橋として架け替えられ、車両が全線通行可能となった<ref name="nilim" />。

[[ファイル:Midori Big Bridge at Hiroshima 02.jpg|250px|right|thumb|平和大通りで最も狭幅員である[[緑大橋]]]]
1995年(平成7年)被爆50年目にあたり、平和大通りの将来像について協議された<ref>{{Cite web|publisher=ヒロシマピースメディア|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=25840|title=ヒロシマの記録1994 1月|accessdate=2015-05-22}}</ref>。その中で平和大通りの課題がいくつか浮かび上がった。
* 魅力の欠如 - 道路の周辺変化に乏しい。緑地が十分に生かされておらず、また一部夜間が暗いところがあり安全性にも問題がある{{Sfn|広島市|2002|p=}}。
* 中央道路部での交通混雑 - 当初は広幅員として開通した平和大通りであるが、現状の交通量では一部で対応できていない。また両脇の歩道では自転車道と歩道が分列されておらず、そのため交錯する{{Sfn|広島市|2002|p=}}。
* 狭い橋梁部 - (鶴見橋以外の)橋梁部分は幅は狭く現状の交通量では満足できなくなっている。歩道は特に狭く、通行に支障がある。そして老朽化の問題もある。その中でも平和大橋と西平和大橋はイサム・ノグチがデザインした貴重な欄干であるという面で、改修には別の問題も発生する{{Sfn|広島市|2002|p=}}。
* 軌道系交通機関敷設への対応 - 将来の軌道系交通網構築(2012年現在では地下式として構想)のため{{Sfn|広島市|2002|p=}}<ref name="hpm27153" />。

2002年(平成14年)「平和大通りリニューアル事業」を広島市が公表した。「人間尺度を尊重した使い勝手のよさ」「道路と一体化した街並みの形成」「美しい風景づくり」をテーマに掲げ、中央部では車道部の拡幅とバスレーン・自転車道を配置し歩道を除外、緑地副道部では周辺環境と一体となった環境を整備する{{Sfn|広島市|2002|p=}}。橋梁部は架替で進められていたが、平和大橋/西平和大橋は現状を残し外側に歩道橋を新設する方針で進んでいる{{Sfn|広島市|2002|p=}}。

== 構造 ==
=== 路面 ===
[[ファイル:ANA Crowne Plaza, Hiroshima (7170066110).jpg|250px|right|thumb|北東側から見た白神社前交差点。左右方向が平和大通り、上下方向が[[鯉城通り]]。]]
戦前の都市計画を踏襲した「広島復興都市計画」によって計画された通り、つまり[[相生通り]]や[[鯉城通り]]など戦前から整備された通りとともに近世から近代における広島の中心施設である[[広島城]]を基準に碁盤目状に配置され、その後に成立した「広島平和都市建設計画」においてはこの道が軸となって市内中心部の主要道路は碁盤目状に配置された<ref name="jsce16-0327" /><ref name="4ae6aedd007" />。こうした経緯から、広島の主要道路は城を基準にほぼ碁盤目状に配置されるようになった。

中央道路の両サイドに幅約20mの緑地帯、その外側に副道を設ける。中央車道、副道ともに歩道が付き、副道の一部は市営有料駐車場<ref>{{Cite web|publisher=広島市|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1195536687655/index.html|title=市営駐車場のご案内|accessdate=2015-05-22}}</ref>として整備されている。大きな交差点には左折レーンを設けている。西端のみ中央車道に[[広島電鉄本線]]が通り停留場がある。

[[舗装]]は、平和大通りが整備された当初はコンクリート舗装であり、その後も部分的に残っていたが2010年代初頭に全面アスファルト舗装となった<ref>{{Cite web|publisher=広島市|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1267159986247/index.html|title=平和大通りの整備について|date=2009-07-01|accessdate=2015-05-22}}</ref>。広電(本線・[[広島電鉄江波線]]・[[広島電鉄宇品線]])の軌道部分はコンクリートブロック敷設([[スラブ軌道]])。

緑地帯は市民の憩いの空間を形成している{{Sfn|中国新聞|2015-01|p=}}。

=== 平和祈念 ===
特筆すべきは、[[広島平和記念公園]]とともに平和祈念の意味合いを持っていることである。
* 上から原爆ドーム、平和公園の空中写真<ref name="mlitpic">{{国土航空写真}}</ref>、平和記念資料館と平和大通り。
* その左が西平和大橋、右が平和大橋。
{| style="text-align: center;"
|-
|colspan="3"|[[ファイル:Hiroshima A-Dome.JPG|250px]]
|-
|colspan="3"|[[ファイル:Hiroshima Peace Memorial Park 1988.jpg|250px]]
|-
|[[ファイル:西平和大橋 01.JPG|150px]]
||[[ファイル:Hiroshima Peace Memorial Museum and International Conference Center Hiroshima2.jpg|380px]]
||[[ファイル:平和大橋 03.JPG|150px]]
|}

公園を設計した[[丹下健三]]・[[浅田孝]]・[[大谷幸夫]]・[[木村徳国]]のいわゆる”丹下グループ”は、平和大通りを南端の横軸とし、そこから[[原爆ドーム]]まで垂直に伸びる縦軸上に[[平和の灯 (広島市)|平和の灯]]/[[原爆死没者慰霊碑]]/[[広島平和記念資料館]]を配置し、南北軸でヒロシマというドラマを表現し原爆ドームをその頂点とすることにより被爆を受け継ぐ証言者としてまた復興の象徴とした<ref name="hb665" /><ref name="hpm17579">{{Cite web|publisher=中国新聞|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=17579|title=故丹下氏の平和公園設計 大谷幸夫さんに聞く 慰霊碑は「慚愧」表現|date=2009-07-22|accessdate=2015-05-22}}</ref>。平和資料館は形状は平和大通りから公園へのゲートとしてデザインし、平和大通りから原爆ドームを望めるようにした<ref name="hpm17579" />。そして平和大通りから平和公園へ導く橋は、[[イサム・ノグチ]]がヒロシマの過去と未来を表現した[[平和大橋 (広島市)|平和大橋]]と[[西平和大橋]]<ref name="hb665" />。

平和大通りの緑地帯には、著名な造形家がデザインした慰霊碑やモニュメント・石灯籠が83箇所に存在する<ref name="hb665" />{{Sfn|中国新聞|2015-01|p=}}<ref>{{Cite web|publisher=中国新聞|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=22141|title=平和大通り―復興の軌跡 <3> 慰霊碑|accessdate=2015-05-22}}</ref>。以下主なものを順不同で列挙する。
{{Col-begin}}
{{Col-break}}
* 被爆動員学徒慰霊慈母観音像
* [[広島県立広島皆実高等学校|広島第一県女]]原爆犠牲者追憶之碑
* 広島市立第二国民学校慰霊碑
* [[広島市立舟入高等学校|広島市立高女]]原爆慰霊碑
* 竹屋地蔵尊
* 小網町町内会原爆慰霊碑
* 旧天神町南組慰霊碑
* 福島地区原爆犠牲者慰霊之碑
* [[桜隊|移動演劇さくら隊]]原爆殉難碑
* 広島市医師会原爆殉職碑
{{Col-break}}
* 嵐の中の母子像
* [[平和の門]]
* 原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑
* 友愛碑
* 慈母の像
* ラ・パンセ(瞑想の像)
* 平和の像「若葉」([[湯川秀樹]]歌碑)
* [[解放運動無名戦士墓|解放運動無名戦士之碑]]
* 拓友よ眠れ・碑(広島県送出元満州開拓青年義勇隊物故者)
* [[国民義勇隊|殉国国民義勇隊]]原爆慰霊碑
{{Col-end}}
<gallery>
HiroshimaStatueFountainMuseum7042.jpg|嵐の中の母子像
Peace Gates.jpg|[[平和の門]]
Monument of the A-bombed Teachers and Students of National Elementary Schools.jpg|原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑
Sakura-tai 20150506-2.JPG|移動演劇さくら隊原爆殉難碑
</gallery>

=== 緑地 ===
[[ファイル:Peace Boulevard 20150516-1.JPG|250px|right|thumb|西観音町のナツメ。元々はこの近くの民家前(爆心地から約1.4km)にあり、後にここに移植された<ref name="hpm13335">{{Cite web|publisher=中国新聞|url=https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=13335|title=被爆ナツメ元気になれ 広島市西区で「公開治療」|date=2014-03-24|accessdate=2015-05-22}}</ref>。樹の幹に被爆時の傷がある<ref name="hpm13335" />。<br />なお全ての被爆樹木には写真のような説明板が付いていたが、被爆70年目にあたる2015年から[[QRコード]]付きの新しい説明板に随時更新している<ref>{{Cite web|publisher=中国新聞|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=44844|title=被爆樹木説明板 70年機に充実 児童ら設置「大切に継承」 広島東南RCなど 英語やQR併記|date=2015-05-26|accessdate=2015-05-29}}</ref>。]]
平和大通りの緑地帯は単なる[[グリーンベルト]]としてでなく、平和公園および[[広島市中央公園|中央公園]]を中心に置き、南北に流れる[[太田川]]水系各支川それぞれの河川美を活かした「河岸緑地」と、市内中心から見て東側にある[[比治山]]・西側にある[[己斐]]の山々を、東西に貫く平和大通りがそれらを繋ぎあわせる、という壮大な緑化計画のもと整備されたものである<ref name="kyushu-up029" />。

この通りの樹木のほとんどが1957年からの「供木運動」により植えられたもの<ref name="kyushu-up029" />。戦後の広島は、[[被爆]]により荒廃した地、更には[[被曝]]により「原爆で攻撃された地域は70年間死に満ちる」「70年(75年とも)は草木も生えない」と風評被害を受けた地<ref>{{Cite web|publisher=中国新聞|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/hiroshima-koku/exploration/index_20070514.html|title=外国の人が「放射線汚染続いてるの」|accessdate=2015-05-22}}</ref>で、緑とはこの地で生きていける証であり復興の象徴、緑化運動とはそこから平和都市へと進んでいく情熱であった<ref name="kyushu-up029" />。こうした考えで供木運動により植樹されたものであることから、平和大通りにある樹木には立ち枯れや自然に倒木する以外ではほとんど手を付けてはならないという暗黙の了解が存在する<ref name="hirano20080201">{{Cite web|publisher=広島市議平野博昭|url=http://www.hirano-hiroaki.com/my_thinking/20080201.html|title=平和の壁と明日の神話|date=2008-02-01|accessdate=2015-05-22}}</ref>。平和祈念のためモニュメントを設置する際に伐開したとしても問題にされるほどである<ref name="hirano20080201" />。

樹木は全体で約2,000本{{Sfn|中国新聞|2015-01|p=}}。ほぼ沿道全線に植えられているが、唯一広島平和記念公園前だけ植えられていない。市民団体の調査によれば、150種植えられており、多い種の順に[[クスノキ]]・[[ケヤキ]]・[[トウカエデ]]・[[ユリノキ]]・[[シラカシ]]<ref>[http://www.geocities.jp/kinokaihiroshima/index.htm 平和大通り 樹の会]</ref>。外来種もあり、貴重な種がいくつかあるが中でも、[[観音 (広島市)|西観音町]]の[[ナツメ]]<ref>{{Cite web|publisher=NHK広島|url=http://www.nhk.or.jp/hiroshima/hibakumap/spot/TR-0029.html|title=ナツメ (平和大通り緑地)|accessdate=2015-05-22}}</ref>、[[白神社]]前([[国泰寺 (広島市)|旧国泰寺]]敷地)の[[エノキ]]・[[ムクノキ]]・[[クロガネモチ]]・[[センダン]]・[[カキノキ]]<ref>{{Cite web|publisher=NHK広島|url=http://www.nhk.or.jp/hiroshima/hibakumap/spot/TR-0006.html|title=エノキ・ムクノキ・クロガネモチなど (白神社前平和大通)|accessdate=2015-05-22}}</ref>、は現存する[[被爆建造物|被爆樹木]]である。なお[[鶴見橋 (広島市)|鶴見橋]]東詰の[[シダレヤナギ]]は、被爆樹木だった先代の木は2007年に枯死し、現在のものは同じ根から新しく生えたものである<ref>{{Cite web|publisher=ヒロシマピースメディア|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?insight=2013080114492451_ja|title=鶴見橋|accessdate=2015-05-22}}</ref>。
<gallery>
Former Kokutai-ji Atago-ike 130526-1.JPG|旧・国泰寺のエノキ
Peace Boulevard 20150516-3.JPG|旧・国泰寺愛宕池周辺のムクノキ・クロガネモチ・センダン
</gallery>


== 交差する道路 ==
=== 交差する道路 ===
* 上側が起点側、下側が終点側。左側が上り側、右側が下り側。
* 上側が起点側、下側が終点側。左側が上り側、右側が下り側。
* 全線広島県広島市に所在。
* 全線広島県広島市に所在。

{| class="wikitable"
{| class="wikitable"
|-
|-
72行目: 428行目:
|}
|}


=== 交通センサス ===
== 沿道の概要と主要施設 ==
以下、判明分のみの平日24時間交通量を記す。数字単位は台。
[[鶴見橋 (広島市)|鶴見橋]]西詰めを東端とし、西に向かって[[元安川]]に架かる[[平和大橋 (広島市)|平和大橋]]、[[旧太田川|本川]]に架かる[[西平和大橋]]、[[天満川]]に架かる[[緑大橋]]を渡り、[[新己斐橋]]東詰が西端である。
{| class="wikitable" style="text-align:right"
|-
! !!比治山<br />本町!!河原町!!舟入町!!福島町<br />二丁目!!
|-
|2010年
||24,115||32,347||28,478||30,529
||<ref name="census">{{Cite web|publisher=国交省中国地方整備局|url=http://www.cgr.mlit.go.jp/chiki/doyroj/sensasu/pdf/hiroshima.pdf|format=PDF|title=広島県:断面交通量|accessdate=2015-05-22}}</ref>
|-
|2005年
||42,096||33,818||33,818||33,818
||<ref name="census" />
|-
|1999年
||||||||
||
|}
平和大通り全体では交通渋滞は問題視されていない<ref name="mlitjutaimap">{{Cite web|publisher=国交省中国地方整備局|url=http://www.cgr.mlit.go.jp/chiki/doyroj/jutaimap/link/data_hiroshima.pdf|format=PDF|title=広島県の主要渋滞箇所(一般道)|accessdate=2015-05-22}}</ref>。ただ、一部の交差点(下記参照)や平和大橋・西平和大橋・緑大橋の狭い橋梁部では交通量に対応できていない{{Sfn|広島市|2002|p=}}<ref name="mlitjutaimap" />。なお、比治山本町(鶴見町東詰)の交通量減少について言及している資料は不明。

=== 防災 ===
[[ハザードマップ]]では大規模な災害が発生した場合以下の区間で浸水する可能性があるとして注意を促している。下記表記の内、内水氾濫とは[[集中豪雨]]が原因で排水処理が追いつかず陸地に溢れる現象、外水氾濫とは河川の氾濫により溢れる現象。

また、この通りには広島県道路交通渋滞対策部会が問題視する主要交通渋滞箇所<ref name="mlitjutaimap" />がある。

{| class="wikitable"
|+浸水/洪水ハザードマップ
|-
!style="width:14em;" |場所!!最低標高<ref>[http://maps.gsi.go.jp/ 地理院地図] - 国土地理院</ref>!!区分!!想定被害||
|-
|rowspan="2"|鶴見町から大手町<br >(京橋川 - 元安川)||rowspan="2"|1.0m
||内水||
*富士見町で最大10cmから20cm浸水。
*交差する地下道の[[田中町トンネル]]でも注意。
||<ref>{{Cite web|publisher=広島市|url=http://gesui.city.hiroshima.lg.jp/hazardmap/1senda.pdf|format=PDF|title=広島市浸水(内水)ハザードマップ ~白島・幟町・大手町・京橋地区~|accessdate=2015-05-22}}</ref>
|-
||外水||
* 両端の鶴見町と大手町を除きほぼ水没。
* 最大が田中町付近で床上、その他が床下浸水。
||<ref>{{Cite web|publisher=広島市|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1285647778478/simple/common/other/4ca16fc9005.pdf|format=PDF|title=袋町小学校区 中区の小学校区の洪水ハザードマップ|accessdate=2015-05-22}}</ref>
|-
|rowspan="2"|中島町<br >(元安川 - 旧太田川)||rowspan="2"|2.0m
||内水||
*川沿いを除いてほぼ全線で最大100cmから150cm浸水。
*最寄りの避難場所は[[広島国際会議場]]。
||<ref>{{Cite web|publisher=広島市|url=http://gesui.city.hiroshima.lg.jp/hazardmap/2yoshijima.pdf|format=PDF|title=広島市浸水(内水)ハザードマップ ~加古町・吉島・光南地区~|accessdate=2015-05-22}}</ref>
|-
||外水||
*平和公園前交差点付近のみで1階部分が水没。
||<ref>{{Cite web|publisher=広島市|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1285647778478/simple/common/other/4ca16fc9008.pdf|format=PDF|title=中島小学校区 中区の小学校区の洪水ハザードマップ|accessdate=2015-05-22}}</ref>
|-
|rowspan="2"|河原町、舟入町<br >(旧太田川 - 天満川)||rowspan="2"|1.8m
||内水||
*川沿いを除いてほぼ全線で最大50cmから100cm浸水。
*最寄りの避難場所は[[広島市立神崎小学校]]と神崎保育園。
||<ref>{{Cite web|publisher=広島市|url=http://gesui.city.hiroshima.lg.jp/hazardmap/3eba.pdf|format=PDF|title=広島市浸水(内水)ハザードマップ~本川・舟入・江波地区~|accessdate=2015-05-22}}</ref>
|-
||外水||
*川沿いを除いてほぼ全線で1階部分が水没。
||<ref>{{Cite web|publisher=広島市|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1285647778478/simple/common/other/4ca16fc9013.pdf|format=PDF|title=神崎小学校区 中区の小学校区の洪水ハザードマップ|accessdate=2015-05-22}}</ref>
|-
|rowspan="2"|観音町、福島町<br >(天満川 - 太田川放水路)||rowspan="2"|1.5m
||内水||
*東・西観音町の大部分、福島町二丁目の一部で、最大50cmから100cm浸水。
*この区間は沿道に西区役所・西消防署がある。
||<ref>{{Cite web|publisher=広島市|url=http://gesui.city.hiroshima.lg.jp/hazardmap/4misasa.pdf|format=PDF|title=広島市浸水(内水)ハザードマップ~三篠・横川・中広・観音地区~|accessdate=2015-05-22}}</ref>
|-
||外水||
*東・西観音町の大部分で1階部分が水没。
*西観音町停留所付近で床上浸水、放水路に近づくにつれ浸水被害はない。
||<ref>{{Cite web|publisher=広島市|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1285764629961/simple/common/other/4ca337c8005.pdf|format=PDF|title=観音小学校区 中区の小学校区の洪水ハザードマップ|accessdate=2015-05-22}}</ref>
|}
{| class="wikitable" style="float:center;"
|+高潮ハザードマップ
|-
|全線で想定範囲に指定されていない||<ref>{{Cite web|publisher=広島市|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/shobou/takashio/|title=高潮浸水区域図|accessdate=2015-05-22}}</ref>
|}
{| class="wikitable"
|+主要交通渋滞箇所
|-
|style="width:14em;"|西観音町電停東交差点||
*広島電鉄本線の軌道がカーブする四差路交差点で、すぐ近くに[[西観音町停留場]]がある立地であることから、視界が悪い地点がある。
*2012年度広島市ワースト4交通事故多発交差点。
||<ref name="mlitjutaimap" /><ref>{{Cite web|publisher=広島県|url=http://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/police16/24kousaten.html|title=平成24年 広島県 交通事故ワースト交差点|date=2012|accessdate=2015-05-22}}</ref><ref>{{Cite web|publisher=日本損害保険協会|url=https://www.sonpo.or.jp/protection/kousaten/kousatenmap24/34/3404.html|title=ワースト4:西観音町電停東交差点|date=2012|accessdate=2015-05-22}}</ref>
|-
|白神社前交差点||
* 交通渋滞区間である国道54号(鯉城通り)との交点、更に[[広島電鉄宇品線]]との交点でもある。なお最寄りの停留所([[袋町停留場|袋町]]・[[中電前停留場|中電前]])は交差点から離れた位置にある。
*2013年度広島市ワースト3交通事故多発交差点。
||<ref name="mlitjutaimap" /><ref>{{Cite web|publisher=広島県|url=http://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/police16/25kousaten.html|title=平成25年 広島県 交通事故ワースト交差点|date=2013|accessdate=2015-05-22}}</ref>
|}

=== 景観 ===
この通りの沿道は全線で景観性を配慮しなければならない。
* 平和記念施設保存・整備方針<ref name="ch1144650095908">{{Cite web|publisher=広島市|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1144650095908/index.html|title=平和記念施設保存・整備方針|accessdate=2015-05-22}}</ref>
:平和公園周辺である平和大橋東詰から西平和大橋西詰までの一帯は、[[世界遺産]]である原爆ドームのバッファーゾーン([[緩衝地帯]])に含まれる<ref name="ch1144650095908" />。この周辺の開発は、「平和記念公園の軸線上の見通しの確保」「平和祈念のため有効活用」そして「民間地においても原爆ドーム周辺に相応しい景観形成」が求められている<ref name="ch1144650095908" />。
:1996年世界遺産に登録された原爆ドームだが、[[レストハウス (広島市)#保存問題|1999年レストハウスの改修問題]]、2006年中層マンション建設問題<ref>{{Cite web|publisher=[[読売新聞]]|date=2006-05-08|url=http://web.archive.org/web/20131005002828/http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hiroshima/feature/hiroshima1196996933047_02/news/20071207-OYT8T00310.htm|title=原爆ドーム近くマンション建設|accessdate=2015-05-22}}</ref>、そして2014年現在[[かき船#広島市のかき船移転問題|かき船移転問題]]など、周辺の環境変化に対し市民団体のみならず[[国際記念物遺跡会議]]も改善要求することもあった。そこで広島市は2006年に平和記念施設保存・整備方針を制定している<ref name="ch1144650095908" />。
* 平和大通り沿道建築物等美観形成要綱
: 1983年施行。平和公園周辺以外の沿道はこの要綱による<ref>{{Cite web|publisher=広島市|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/genre/1149512851526/index.html|title=平和大通り沿道建築物等美観形成要綱|accessdate=2015-05-22}}</ref>。
* リバーフロント建築物等美観形成協議制度
: 1989年施行。河川周辺のみに限ればこの制度による<ref>{{Cite web|publisher=広島市|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/genre/1149513050193/index.html|title=リバーフロント建築物等美観形成協議制度|accessdate=2015-05-22}}</ref>。


== 沿道 ==
沿道の主要施設としては以下、東から西へ;
;平和公園以東
この沿道は高層および中層ビルが立ち並ぶビジネスゾーンであり、ホテルや商業店舗が並ぶ。ただ主要交通手段がバスだけであるというアクセスの問題から[[相生通り]]周辺と比べ発展しているとは言いがたい<ref>{{Cite web|url=http://www.cbre-propertysearch.jp/article/business_area_guide-hiroshima|title=全国主要都市ビジネスゾーンガイド|publisher=CBRE|date=2007-12-01|accessdate=2015-05-26}}</ref>。
<gallery>
<gallery>
Fuji GRAND Hiroshima 201109.JPG|[[フジグラン広島]]<!-- 平和大通りからギリギリ見える -->
ファイル:Tsurumi-bashi_at_hiroshima_01.jpg|鶴見橋
Hiroshima-kenshin.JPG|[[広島県信用組合|広島県信用組合本店]]
ファイル:広島 円隆寺01.jpg|[[とうかさん|円隆寺]]。「[[とうかさん|とうかさん祭り]]」の寺として知られる
<!--広島東警察署.JPG|[[広島東警察署]] →平和大通りからは見えない-->
ファイル:Shirakami-sha.jpg|[[白神社]]
ファイ:NHK広島放送局01.jpg|[[NHK広島放送局]]
オリエンタルホテル広島01.JPG|[[オリエンタルホテル広島]]
広島信用金庫01.jpg|[[広島信用金庫|広島信用金庫本店]]
ファイル:平和大橋_01.JPG|平和大橋
広島 円隆寺01.jpg|[[とうかさん|円隆寺]]。「[[とうかさん|とうかさん祭り]]」の寺として知られる。<!-- 平和大通りからギリギリ見える -->
ファイル:Hiroshima Peace Memorial Museum 2008 01.JPG|[[広島平和記念公園|平和公園]]内の[[広島平和記念資料館|平和資料館]]。手前の道路が平和大通り。
三井ガーデンホテル広島01.JPG|[[三井不動産ホテルマネジメント|三井ガーデンホテル広島]]
ファイル:西平和大橋_01.JPG|西平和大橋。奥の白い建物が[[中国新聞|中国新聞社本社]]。
広島クリスタルプラザ01.JPG|[[広島クリスタルプラザ]]
ファイル:Midori Big Bridge at Hiroshima 02.jpg|緑大橋
<!--広島テレビ01.jpg|[[広島テレビ放送|広島テレビ放送本社]] →平和大通りからは見えない-->
ファイル:Nishi Ward Office in Hiroshima City.jpg|[[西区 (広島市)|西区役所]]
ANAクラウンプラザホテル広島01.JPG|[[全日空ホテルズ|ANAクラウンプラザホテル広島]]
ファイル:New Koi Bridge at Hiroshima pt2.jpg|新己斐橋
Former_Kokutai-ji_Atago-ike_130526-2.JPG|[[国泰寺 (広島市)|旧・国泰寺愛宕池跡]]
Shirakami-sha.jpg|[[白神社]]
NHK広島放送局01.jpg|[[NHK広島放送局]]
</gallery>
</gallery>



== パノラマ ==
;平和公園以西
{{wide image|Hijiyama Hiroshima 1955.jpg|800px|比治山から広島市内を望む。1955年頃。}}
こちらも中層ビルが並ぶが、西に行くにつれ住宅街になる。
{{wide image|Hiroshima Peace Memorial Museum 1955.jpg|800px|工事中の広島平和記念資料館。手前の道路が平和大通り。1955年頃。}}
<gallery>
{{wide image|Hiroshima Peace Memorial Museum and International Conference Center Hiroshima2.jpg|800px|広島平和記念資料館。2009年。}}
Chugoku Shimbun Headquarters 2.jpg|[[中国新聞|中国新聞社本社]]
平和大通り電気ビル01.JPG|[[中電工|平和大通り電気ビル]]
Hirosima Nishi Fire Station01.jpg|広島西消防署
Nishi Ward Office in Hiroshima City.jpg|[[西区 (広島市)|西区役所]]
</gallery>


== 主なイベント ==
== 主なイベント ==
{| class="wikitable"
* [[ひろしまフラワーフェスティバル]]
|-
* [[天皇盃全国都道府県対抗男子駅伝競走大会]]
!style="width:20em;"|イベント名
* [[ひろしまドリミネーション]]
!style="width:15em;"|開催時期
! |備考
|-
|[[天皇盃全国都道府県対抗男子駅伝競走大会]]||1月中旬頃<ref>[http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1206694270286/index.html 天皇盃全国都道府県対抗男子駅伝競走大会(ひろしま男子駅伝)について教えてください。(FAQID-2732・2733)] - 広島市</ref>||スタート&ゴール地点は平和公園であり、ランナーたちはこの通りを走りぬける。
|-
|[[ひろしまフラワーフェスティバル]]||5月3日 - 5日||
|-
|[[ひろしまドリミネーション]]||11月17日 - 翌年1月3日<ref>[http://www.dreamination.com/gaiyou.html ひろしまドリミネーション2014開催概要]</ref>||
|-
|ひろしま朝市||毎週日曜日<ref>[http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1132113878226/ ひろしま朝市]広島市</ref>||
|}

工事中だった1950年代、さらに[[モータリゼーション]]が始まる1960年代後半までガラガラだったこの通りでは、その中央で様々なイベントが開催された。1950年代[[木下大サーカス]]が興行を行った<ref name="pHiroshima2_6" />。1958年には[[広島復興大博覧会]]の会場として用いられた<ref name="pHiroshima2_6" />。1965年頃まで[[エスキーテニス]]のコートもあった<ref>{{Cite web|publisher=中国新聞|url=http://web.archive.org/web/20061007040229/http://www.chugoku-np.co.jp/abom/03abom/kiroku/64tennis.html|title=テニスコートもあった(64年)|date=2003-05-13|accessdate=2015-05-22}}</ref>。2010年[[ヒロシマ・オリンピック構想]]ではマラソンと競歩の会場に想定された<ref>{{Cite web|publisher=広島市|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/shimin/olympic/honpen.pdf|format=PDF|title=2020 年ヒロシマ・オリンピック基本計画(案)|date=2010-09-13|accessdate=2015-05-24}}</ref>。

<gallery>
FF2005 hana no to.JPG|フラワーフェスティバル
Hiroshima Dreamination.jpg|ドリミネーション
</gallery>

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 補足 ===
<references group = "補足"/>

=== 出典 ===
{{reflist}}

== 参考資料 ==
* {{Cite web|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1313999740355/index.html|title=「平和大通りリニューアル事業」基本方針 -道づくりから街づくりへ-|publisher=広島市|date=2002-10|accessdate=2015-05-22
|ref = {{sfnRef|広島市|2002}}
}}
* {{Cite book|和書
|author = 広島市
|title = 広島原爆戦災誌
|origdate = 1971
|url = http://a-bombdb.pcf.city.hiroshima.jp/pdbj/bookdownload/sensai0.pdf
|format = PDF
|accessdate = 2015-05-22
|edition = 改良版
|date = 2005
|ref = {{sfnRef|原爆戦災誌|1971}}
}}
* {{Cite journal|和書
|author = 石丸紀興
|date = 1998-03
|title = 百メートル道路から平和大通りへ -広島における広幅員道路の姿と役割の遍歴-
|journal = 国際交通安全学会誌
|volume = 23
| issue = 4
|publisher = 国際交通安全学会
|url = http://www.iatss.or.jp/common/pdf/publication/iatss-review/23-4-06.pdf
|format = PDF
|accessdate = 2015-05-22
|ref = {{sfnRef|石丸紀興|1998}}
}}
* {{Cite news |和書
| title =平和大通り 街支え半世紀 原爆からの復興象徴 カープVパレード・FF舞台 広島
| newspaper =中国新聞
| date = 2015-01-08
| url =http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=39592
| accessdate =2015-05-22
|ref = {{sfnRef|中国新聞|2015-01}}
}}
* {{Cite news |和書
| title =ヒロシマの記録 平和大通り
| newspaper =中国新聞
| date = 2003-05-13
| url =http://web.archive.org/web/20080205205755/http://www.chugoku-np.co.jp/abom/03abom/kiroku/
| accessdate =2015-05-22
|ref = {{sfnRef|中国新聞|2003-05}}
}}
* {{Cite book|和書
|author = 広島市
|title = 広島新史 都市文化編
|date = 1983-08
|ref = {{sfnRef|広島新史|都市文化編|}}
}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[平和通り]](愛媛県松山市) - [[松山城 (伊予国)|松山城]]の北側山麓に沿って走る片側2車線の通り。[[古町駅]]と上一万交差点とを結んでいる。付近には[[愛媛大学|愛媛大]]や[[松山大学|松山大]]などの教育施設が多く集まっており、俗に言う文教地区となっている。2005年8月現在、送電線を地中に埋設する工事がなされている。
* [[平和通 (札幌市)|平和通]](札幌市白石区) - [[札幌市|札幌]]東部の[[白石区]]を横断している片側2車線の通り。市内中心部の[[苗穂駅|苗穂]]と郊外の[[ひばりが丘駅|ひばりヶ丘]]、[[北広島市|北広]]とを結んでいる。途中の[[豊平川]]には広島と同様に[[平和大橋 (札幌市)|平和大橋]]が架かっている。
* [[平和通買物公園]](北海道旭川市) - 日本初の恒久[[歩行者天国]]。[[旭川駅]]前のメインストリートであり、沿道には[[百貨店]]が連なっている。戦後になって「平和通」と名付けられた点において、広島と似ている。
* [[大通り]]
* [[日本の通り一覧]]
* [[日本の通り一覧]]
* [[広島市道比治山庚午線]]
* [[広島市内の通り]]
* [[大通り]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Peace Boulevard (Hiroshima)}}
{{Commonscat|Peace Boulevard (Hiroshima)}}
* [http://www.chugoku-np.co.jp/abom/03abom/kiroku/ 平和大通り] - 中国新聞
* [http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/genre/1001000000784/index.html 平和大通りの再整備] - 広島市
* [http://www.hiroshima-ff.com/ ひろしまフラワーフェスティバル]
* [http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1195536687655/index.html 市営駐車場のご案内] - 広島市
* [http://www.geocities.jp/kinokaihiroshima/index.htm 平和大通り樹の会] - 広島市公式でも紹介されている平和大通りの緑化を推進する市民団体
* [http://www.dreamination.com/ ひろしまドリミネーション]
* [http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/genre/0000000000000/1001000000784/index.html 平和大通りリニューアル事業の推進] - 広島市


{{広島平和記念公園}}
{{広島平和記念公園}}


{{Road-stub}}
{{Road-stub}}
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[[Category:広島市の道路]]
[[Category:広島市の道路]]
[[Category:広島市南区の交通]]
[[Category:広島市南区の交通]]

2015年5月31日 (日) 14:07時点における版

鶴見橋西詰から西方向を望む。
鶴見橋西詰から西方向を望む。
2014年。右側が市中心部で、右端中央が比治山、そこから左斜め上に伸びる道路が平和大通り。その中央付近の帆のような土地が広島平和記念公園。
2014年。右側が市中心部で、右端中央が比治山、そこから左斜め上に伸びる道路が平和大通り。その中央付近の帆のような土地が広島平和記念公園

平和大通り(へいわおおどおり、: Peace Boulevard[1])は、広島県広島市中心部を東西に横断する約4kmの通りである。別称「100m道路[2]。全線が広島市道比治山庚午線に指定されている。

概要

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ライブカメラ - 広島工業大学専門学校
西日本の旅 祈りの道 緑映えて~広島・平和大通り~ - NHK平和アーカイブス

1965年開通[3]、平和大通りの名は1951年公募で決定した[2]日本の道100選の一つであり、沿道の広島平和記念公園とともに都市景観100選に選ばれている。別称「100m道路」のとおり、道路幅が100mある道路である。

太平洋戦争末期に整備された防火帯疎開道路)の一つに、戦後すぐの日本政府方針である戦災復興都市計画から派生した100m道路計画が実施されることになり、それに国際平和文化都市として発展していく広島市において象徴化していった公園道路ブールバール)である[3][4]。1946年10月「広島復興都市計画」が立案した時に「平和公園」「河岸緑地」とともに目玉プランとして組み込まれたものであり、今日における広島市都市計画の基礎となった「広島平和都市建設計画」が1952年3月立案した際にはこの道路が市内における道路計画の基本軸となった[5][6][7]。なお100m道路計画が実施されたのは、ここと名古屋市の若宮大通久屋大通の3例のみである[8]。一部で言われている、GHQが戦後焼け野原となった広島の地図上に一本の線を引きそこに100m道路が出来た、という話は間違いである[補足 1][11]

広島市道比治山庚午線の一部を構成し、西端が太田川放水路西、東端が京橋川東までで、太田川が形成した広島三角州の中央を東西に貫く[2][12]。つまり川に挟まれた内側ではなく外側までであり、西端が西区己斐の新己斐橋西詰交差点、東端が南区比治山の鶴見橋東詰交差点である[13]。その先には西は西広島駅、東は比治山がある。

市民が用いる生活道であるとともに、平和公園へ訪れる観光客が用いる道であり、多くの人々が通行する[4][14]。毎年5月3日から5日に催される平和の祭典ひろしまフラワーフェスティバルの会場である[14]

2000年代に入り「平和大通りリニューアル事業」として再編が進められている[15]

呼称

正式名称は、日本語表記で”平和大通り”、100m道路は通称である。ラテン表記では”Peace Boulevard”(ピース・ブールバール[16])で、英語読みのブールバードではなくフランス語読みのブールバールを用いている。

計画当初は100m道路と呼ばれていたが後に公募で平和大通りと正式決定した[2]

ラテン表記は、以前の道路標識や観光資料などではローマ字表記である”Heiwa Odori Avenue”が使われていた[17][16]観光立国推進基本法施行以降の国土交通省外国人旅行者の受入環境整備事業などにより表記が協議され”Peace Boulevard”に統一され[16][18]、あるいは”Peace Boulevard (Heiwa Odori)””Heiwa Odori(Peace Boulevard)”[19][20]と併記するようになっている。そのため2013年現在でPeace Boulevardが市民に定着しておらず[16]、未だ観光案内資料などでもHeiwa Odoriの単独記載しているものもある。

諸元

西観音町電停(東)交差点から西方向を望む。中広通り/空港通りとの交点であり、ここから広島電鉄本線が別れる。
小網町交差点から西方向を望む。寺町通り/舟入通りとの交点であり、広島電鉄江波線が交差する。
平和大橋西詰から西方向を望む。緑地帯のない右側が広島平和記念公園
白神社前交差点から西方向を望む。鯉城通りとの交点であり、広島電鉄宇品線が交差する。
三川町交差点から西方向を望む。中央通りとの交点。
中央の道が平和大通り。中央付近の帆のような地が平和公園、その上が中央公園、その右上の矩形が広島城。地図右上が広島駅、右下が比治山、左上が西広島駅および広電西広島駅。なお元地図は2015年オープンストリートマップによるものであり縮尺どおりの道路幅ではない。
1988年工事中の鶴見橋[21]。左側(西)が鶴見橋西詰交差点であり、緑地帯の外側の道路(副道)の外端までが平和大通りにあたる。
1988年工事中の鶴見橋[21]。左側(西)が鶴見橋西詰交差点であり、緑地帯の外側の道路(副道)の外端までが平和大通りにあたる。
鶴見橋西詰交差点から西方向を望む。緑地帯は公園として整備されている。
鶴見橋西詰交差点から西方向を望む。緑地帯は公園として整備されている。
  • 延長 : 約4km(広島市公式、比治山庚午線4.8kmの一部[13]
    • 地元紙中国新聞では3.8km[14]
    • 3.5(あるいは3.6)kmとする資料もあるが、これは鶴見橋西詰から新己斐橋東詰まで(つまり2つの河川の内側)の距離で、開通当初は鶴見および新己斐橋は平和大通りから除外されていた[12]
  • 標準全幅 : 100m[13]
    • 中央部 : 車道16.0m + 歩道2@5.0m[13]
    • 緑地 + 副道部
      • 片側標準1 : 緑地23.5m + 車道8.0m + 歩道5.5m[13]
      • 片側標準2 : 緑地21.5m + 車道6.0m + 歩道5.5m + 駐車場4.0m[13]
  • 橋梁部幅員(道路管理上)
    • 鶴見橋(京橋川) : 30m [22]
    • 平和大橋(元安川) : 15m [22]
    • 西平和大橋(旧太田川) : 15.1m [22]
    • 緑大橋(天満川) : 12m [22]
    • 新己斐橋(太田川放水路) : 22.1m [22]

歴史

略歴

以下、2015年1月8日付中国新聞特集記事[14]を元に記載する。

前史

白神社の岩礁
白神社の岩礁
西堂橋跡
西堂橋跡

古代、この地は海であった。現在平和大通りと鯉城通りの交点付近にある「白神社岩礁」には、当時航行の目印として白紙が建てられていた[23]。陸地が形成されたのは中世以降で、太田川上流部で盛んだったたたら製鉄での鉄穴流しにより大量の土砂が下流に流出し堆積したことで形成されたもので、1500年代後半(戦国時代後半から安土桃山時代)には現在の平和大通り付近が海岸線となった[24]。この頃、広島城が築城され城下町ができ、以降の土地開発により更に南に陸地が伸びていった[24][25]。海岸線付近に位置していた白神社そばの地に、1594年(文禄3年)安国寺恵瓊によって新安国寺(のちの国泰寺)が創建、その後様々な経緯で移転し、現在は「旧国泰寺愛宕池」として沿道にその面影を残す[26]

当時の城下町は、現在の平和大通り付近が城下町の南端の基軸になり[25]、城を基準に碁盤目状に通りが配置されそれを繋ぐ幾つかの小路(しょうじ)ができたものの[27]広島藩制時代は防衛上かつ防犯上の理由により橋の架橋は制限されており[25][28]、現在の平和大通り付近にも通りあるいは小路が存在し城から伸びる運河(川)には橋が架けられたが大きな川には橋は架けられなかった。城の南の中央を縦断する西堂川(現在の鯉城通り)には「西堂橋」という橋があったが現存しておらず、現在はNHK広島放送局前の沿道に西堂橋跡としてモニュメント化されている。その東には平田屋川(現在の並木通り/じぞう通り)があり、そこには「竹屋橋」[29]という橋があったが現存しておらず、その橋の傍にあった地蔵が別の場所に移されたのが竹屋地蔵尊[補足 2]として平和大通りとじぞう通りの交点付近に現存している[31]

明治時代以降になると架橋規制は解かれ[25]鶴見橋(当時は歩道橋)、新橋(現在の平和大橋)、新大橋(現在の西平和大橋)、広島電鉄本線の鉄橋(新己斐橋参照)が架けられたが、天満川には橋は架けられなかった。当時の地図でもわかる通り、この時点では一本の道ではない。広島において近代的な道路計画が立てられたのは都市計画法(旧法)施行後である1928年(昭和3年)で、この際にのちの防火帯つまり平和大通りの原型となる道路(当時の路線名不明)が鶴見橋から鯉城通りまで計画され[32]、1940年(昭和15年)都市計画ではそこから新大橋まで延伸する計画が立てられた[補足 3][34]

また、1927年(昭和2年)には洪水被害軽減のため太田川全域の改修計画が建てられ市西側の山手川/福島川を改修し放水路を整備する、つまり太田川放水路整備計画が決定し、現在の平和大通り西端にあたる福島町の大規模な開発が始まった[35][補足 4]

正保城絵図』内の安芸国広島城所絵図。中央を縦断する川が西堂川であり、上から2つ目の橋が西堂橋。城の東側外堀からまっすぐ下に伸びる川は平田屋川でこの時点では橋がないことがわかる。
1878年郡区町村編制法後、広島市として想定された範囲の地図。この時点で新橋と新大橋(後の平和大橋と西平和大橋)が架橋していることがわかる。また、西堂橋と竹屋橋(川沿の下から2つ目)もこの時点では存在している。
1930年ごろ。鶴見橋、広島電鉄本線筋の電車橋が架橋していることがわかる。また西堂川は1912年(大正元年)に消滅[36]、平田屋川は昭和30年代に消滅している[30]ことから、この時点で西堂橋はないが竹屋橋は存在している。
各年代ごとの広島市地図。それぞれの地図の右側に比治山があり、現在の平和大通りはそこから左へ伸びることになる。

防火帯

1945年4月13日被爆前。
1945年8月11日被爆後。
アメリカ軍が撮影した原爆投下前後の空中写真。写真中央右の丘が比治山であり、そこから左斜め上に伸びる道が後の平和大通りになる。
アメリカ軍作成の被爆による被害分布図。同心円の中心が爆心地、赤色が全焼区域。図中に斜線で"PREPARED FIRE BREAKS"(防火帯)が表記されている。
アメリカ軍作成の被爆による被害分布図。同心円の中心が爆心地、赤色が全焼区域。図中に斜線で"PREPARED FIRE BREAKS"(防火帯)が表記されている。
現在の中区河原町付近から東方向を望む。中央に縦断する道がのちの平和大通り。手前左部分が後に平和公園。当日の建物疎開地点の一つ、県庁付近にあたる。なお左上のサインはポール・ティベッツのもの。
現在の中区河原町付近から東方向を望む。中央に縦断する道がのちの平和大通り。手前左部分が後に平和公園。当日の建物疎開地点の一つ、県庁付近にあたる。なお左上のサインはポール・ティベッツのもの。

1937年(昭和12年)防空法制定、広島市でも防空態勢の充実が図られるようになる[37]太平洋戦争末期になると、戦況の悪化によりアメリカ軍による本土空爆が激しくなっていった。そこで、市街での延焼を防ぐため防火帯を設けることになり建物疎開が全国で実施される[38]。1944年(昭和19年)11月、広島市において建物疎開実施が決定し、内務省により疎開地区が決められ、国民義勇隊や学童勤労奉仕隊(学徒動員)により作業が行われた[38]

現在の平和大通りにあたる道は、この時に鶴見町から福島町を結ぶ全長3,570m幅員100mの防災道路として計画されたものである[39]。現在の平和大通り周辺の約16,000戸の立ち退き作業が行われ[3]、上の空中写真のとおりほとんど終えていた地区もあり[補足 5]、防火帯の中央は幅20mほどの砂利道として整備されていた[41]

1945年(昭和20年)8月6日8時15分、広島市への原子爆弾投下。右の被害分布図や被爆後の各写真から、原爆の前では防火帯として全く機能しなかったことがわかる。それでも中央付近は火が及ばなかったため、多くの人がこの道から比治山へ向かって逃げていった[41][42]

またこの日は、第6次建物疎開作業中で[43]、この沿道に限れば鶴見橋西側付近・広島県庁付近(現在の中島町/加古町)・土橋付近の3箇所、その他広島市役所付近、八丁堀付近、電信隊付近(現在の比治山本町)、楠木町で行われていた[44] 。学徒動員は、この沿道含めた全体で約8,200人が動員されうち約5,900人が死亡した[3][45][46]。国民義勇隊は明快な資料が残っていないため推定ではあるが、同様にこの沿道含めた全体で約11,600人が動員されうち約4,600人が死亡した(県社会援護課推測)[47]。疎開地点でもあり比治山への避難経路だった鶴見橋両岸は、凄惨を極めた[48]

現在の広島駅付近から西方向を望む。写真中央を横断する道がのちの平和大通りになる。この道の写真右端が当日の建物疎開地点の一つである土橋付近、そこから左側の川を超えたところが県庁付近にあたる。
現在の中区寺町・広瀬から東方向を望む。中央の丘が比治山で中央の橋が鶴見橋、そこから右下へ伸びる道がのちの平和大通り。カーブ地点より向こう側が当日の建物疎開地点の一つ、鶴見橋付近にあたる。
現在の中区吉島付近から北方向を望む。写真中央やや右を縦断する太い道が鯉城通り、その下の橋が南大橋。その一つ上の交差点が鷹野橋交差点、その一つ上が白神社交差点であり、そこを横断する道がのちの平和大通り。
アメリカ軍が撮影した被爆後の広島市写真

以下、この沿道に限った被爆当日における建物疎開の動員状況を示す。

疎開動員状況[44][49]
疎開
作業場所
区分 義勇隊名あるいは学校名
鶴見橋付近 国民義勇隊 市内義勇隊 尾長、矢賀、荒神、段原、比治山、楠那、白島、竹屋
郡部義勇隊 坂村、中野村
職域義勇隊 東洋工業、鈴木化学工業
学童勤労奉仕隊
(学校報国隊)
広島女子商比治山高女進徳高女市立第一工広島電気松本工業県立第一中広陵中第一国民学校楠那国民学校牛田国民学校白島国民学校
県庁付近 国民義勇隊 市内義勇隊 本川、中島、観音
郡部義勇隊 安村、川内村
職域義勇隊 住宅営団、川本組、芸備銀行油谷重工業、県義勇隊本部事務隊、宇品造船所、広島瓦斯、広島県庁、藤川製鋼所、勧銀広島支店中国新聞、広島県水産業会、県加計土木出張所
学童勤労奉仕隊
(学校報国隊)
第二国民学校、県立第二中県工、市立第一工、市立造船工市立第一高女崇徳中、松本工業、安田高女山陽商業新庄中
土橋付近 国民義勇隊 市内義勇隊 草津、神崎、大芝、三篠、天満、古田、広瀬、本川
郡部義勇隊 大竹町、小方村、玖波町
職域義勇隊 広島醤油KK、内務省中四国土木、帝人広島工場、昭和金属、住野工業、三菱重工業、高密機械製作所、広島機械製作所、広島食料品組合、広島工業、広島航空機KK、広島工業KK(廿日市)、東亜有機化学工業所、県加計土木出張所
学童勤労奉仕隊
(学校報国隊)
本川国民学校千田国民学校草津国民学校天満国民学校、県立第一中、県立第一高女、市立中、崇徳中、西高、安芸高女、県立商業

同1945年9月には大型の枕崎台風・同年10月には阿久根台風を伴って豪雨が広島市内を直撃し、更に被害は拡大した[50]

100m道路

1945年(昭和20年)12月、「戦災復興都市計画基本方針」が閣議決定される[8]。この中で以下の規定が盛り込まれた。

必要ノ個所ニハ幅員50米乃至100米ノ広路又ハ広場ヲ配置シ利用上防災及美観ノ構成ヲ兼ネシムルコト — 戦災地復興計画基本方針 4、主要施設 (1) 街路 ハ[51]

こうして、全国で100m道路が計画され最大で24路線(1947年時点)が立案した[8]

広島の復興は、木原七郎次いで浜井信三が広島市長となり、呉市に駐屯していたイギリス連邦占領軍ハービー・サテン少佐(医学・公衆衛生)およびS・A・ジャビー少佐(都市計画)そしてアメリカ軍ジョン・D・モンゴメリー中尉(都市計画)が復興顧問に就任し、1946年(昭和21年)1月広島市復興局が設立、同年2月に復興審議会が設立されると、広島の復興プランが市民や国内外の識者から少なくとも30以上提唱された[52][53]。その中の一つである、戦災復興院の意向を受けて竹重貞蔵広島県都市計画課長が練った都市計画(広島県都市計画課立案[補足 6])をベースに復興審議会での諮問の中で他案のアイデアを取り入れ、同年10月「広島復興都市計画」として立案した[53][57][34][58]。100m道路はこの時の計画に盛り込まれたもので、この時点では以下の2路線であった。

等級[補足 7] 路線名 詳細
広路Ⅰ号 比治山庚午線
  • 橋梁部分を除く鶴見町から福島町[補足 8]まで。
  • 後の平和大通り。
[57][60]
Ⅰ等第2類第3号 出汐庚午線 [57]
丹下健三。1947年2月100m道路含めた具体的な道路計画を復興審議会に答申するなど戦災復興都市計画の中心人物となり、のち平和公園の設計にも携わり、今日においては広島市都市計画の原型を作った人物と評されている[7][12]

同1946年11月、この計画に戦災復興院嘱託であった丹下健三が参加[補足 9]し具体的に進められていった[7]。まず工事が始まったのは比治山庚午線からであり、同年11月整地が始まり区画整理が進められたが、他の復興事業とそれに対する人口の不足、そして財政難でなかなか進まなかった[61]。そこへ浜井市長ら関係者の尽力により1949年(昭和24年)8月「広島平和記念都市建設法」が連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)お墨付きで公布、復興事業が進むようになった[61][62]。また海外からの支援もこうした復興の手助けとなり、例えば新橋と新大橋(後の平和大橋と西平和大橋)は米国対日援助見返資金特別会計によって架橋されたものである[52][63]

この間、復興審議会での論議と平和記念都市建設法成立を経て、今後の広島の方向性を明確なものとした「広島平和都市建設構想」が確立し、復興都市計画をベースに新たな都市計画「広島平和都市建設計画」が作成されていった[52][7][64]

一方で国内で最大24路線計画された100m道路であったが、1949年ドッジ・ラインに基づく緊縮財政を理由に、ほとんどが頓挫した[補足 1][58]。広島においても、100m道路は広島平和記念公園とともに計画当初から住宅難に悩む市民にとっては不評だったこと、2路線のうち出汐庚午線は復興都市計画立案当初から整備する意義が不明瞭であったため否定的な意見がでたことから、後に立案した広島平和都市建設計画では比治山庚午線は100m道路のままであったが出汐庚午線は幅員30mに縮小されている[57][60][15]

工事中の広島平和記念資料館。1950年代。現在における平和大通りの副道から撮影されたものであり、車が通っている路が現在の中央道。手前の木が植えられている場所が現在の緑地帯にあたる。

1950年(昭和25年)市が公表した広島平和都市建設構想試案には100m道路を「平和緑道」と仮称したことに加え、以下の文面が記されていた[64][15]

広島を訪れる人々や、市民の平和を希求する心を平和公園に鳩合する通路となるであらう。(中略)。公園から湧出する雰囲気を全市に布衍すると共に世界の各地に伝える通路となるであらう。 — 1950年広島平和都市建設構想試案[15]
開通直後の平和大橋。工事は建設省によるもので、丹下の推薦によりイサム・ノグチが欄干をデザインした[65]

1951年(昭和26年)工事中の100m道路の名称を公募し「平和大通り」となった[66][補足 10]。あわせて、平和大橋・西平和大橋も名付けられた[57]。1952年(昭和27年)3月「広島平和都市建設計画」が立案、この時から平和大通りが市中心部での主要道路配置の基準軸となった[64]。同年には平和大橋・西平和大橋完成[67]、1953年(昭和28年)平和大通りにとって三番目の橋となる緑大橋が完成した[68]

こうして、100m道路は復興計画から平和都市建設構想へと移行する中で2路線あったものが1路線となったが、その構想を推し進めようとした浜井市長以下広島市の強い意志が働き[69]、平和大通り工事は進んでいった。

供木運動

1955年(昭和30年)発売した大田洋子の小説『夕凪の街と人と―一九五三年の実態』の中で、登場人物の一人が当時の復興事業を語っている。

なんの用があって作ったか知りませんが、あの広い幅を持った、百メートル道路をみてごらんなさい。昼なお暗いほど、雑草にうずもれて、人通りもろくにありはしません。(中略)。ここは公園にするからどいてくれ、百メーター道にするからどいてくれと云って追いはらったんですからね。(中略)。市民の方でそれを愛していませんから、草も花も、木も育ちはしません。 — 夕凪の街と人と[2][15][61][70]
比治山から広島市内を望む。1950年代。立ち退きにより行き場を失った住人は手前に見えるように川沿いなどにバラックを建てた[56]。また写真に見えるように立退きに応じないものもいた。1960年代のモータリゼーション以降も続いており、平和大橋の下に足場で居住空間を作って住んでいたものもいた[71]。これらの撤去に強制執行までに至った[5]

平和大通りや平和公園建設のため半ば強制的に立ち退きを迫られた住民にとって[56]、この通りは相変わらず批判の的であった。これが顕著となったのが1955年広島市長選挙で、復興事業を進めていた現職の浜井信三(革新)に対し、対抗馬渡辺忠雄保守)は公約に計画再検討を掲げ「百メートル道路の幅員を半分にし住宅を建設する」とぶち上げた[61][72]。結果、1947年から市長を2期務めた浜井は落選、渡辺が新しい市長に就任した。渡辺は公約通り進めようとしたが、市の幹部や道路担当者に説得され頓挫、結果平和大通りはそのまま工事が進んでいった[61][補足 11]

平和大通り改修を諦めた渡辺が次に行ったのが「供木運動」である。これは平和大通りのグリーンベルト部分の緑化キャンペーンであり、県内を問わず全国レベルで植樹を呼びかけた[61][2]。この呼びかけに「廃墟の街に緑を」と世界レベルで応じてもらうことができ、1957年(昭和32年)から1958年(昭和33年)にかけて行われ、多くの木が植えられた[2][3]。広島市の公式発表によれば1957年に高木約1,200本、1958年に高木約1,300本、その他低木も多数植えられた[73]

こうして、当初は歓迎されなかったどころか存続の危機さえあった100m道路は、供木運動を経て緑化が進み、広島が国際平和文化都市として成長していく中で象徴の一つとなっていった[74][75]

全線開通

東端である鶴見橋は被爆に耐えた木橋の歩行者専用橋であったが、1958年(昭和32年)再び木橋の歩道橋に架けなおされた[76]。なお、この橋はこの後も歩道橋のままつまり平和大通りは東端(京橋川)で車両は渡河できず、道路橋となり車両が通行できるようになるのは平成に入ってからである[76]

1988年[21]。太田川放水路と新己斐橋・平和大通り。

そしてこの工事で最後の難所となったのは西端の福島町である。この地区は戦前からの太田川放水路工事により大規模な土地区画整理と河川改修に伴う新己斐橋架橋、戦後乱立したバラックの強制退居、そして漁業権問題からの放水路工事反対運動で 工事が一旦ストップし、これに国(建設省)・県・市の事業が同時進行していたことも相まって、幾重にも問題を抱えていた[61][77]。諸問題が解決し放水路の工事が再開したのが1955年(昭和30年)、1962年(昭和37年)建設省と市の合同事業で新己斐橋工事が着工したものの、この時点で福島町の埋め立て工事が進行中だったため平和大通り工事は未着工だった[61][77]

その後工事は順調に進み、1965年(昭和40年)太田川放水路の通水・新己斐橋竣工、そして同年5月平和大通りが全線開通した[61]

パレードとFF

1965年(昭和40年)10月、自衛隊発足15周年記念として第13師団観閲式が初めて行われた[78]。市民団体による反対運動の中、市長の浜井信三は道路使用を許可し、鶴見橋から西へ進み白神社前まで行進、反対側の市民感情に配慮し平和公園前までは行かなかった[78][79]。参加隊員1,600人、参加車両は戦車14両を含む190両、市民約30,000人が見物した[78]。翌1966年(昭和41年)も同ルートで行われている[78]

2011年ひろしまフラワーフェスティバル準備中の様子。中央に見えるのがカープの花車。

1975年(昭和50年)、被爆30年目にあたり変化があった。8月6日広島平和記念式典で、平和公園前900mが初めて車両通行止めとなった[80]。そして、「静」となる鎮魂の式典に対し「動」となる華やかな祭りで平和と生きている尊さを喜び合おうと、大規模な祭りの構想が地元紙中国新聞社や地元自治体首長などによって考えられていた[81]

そこへこの年のプロ野球において、地元広島東洋カープが球団創立25年目にしてセ・リーグ初優勝。と同時に球団主催で優勝パレードが企画された[82]。当初広島県警察は否定的であったが勢いに押され了承、優勝決定から5日後にあたる10月20日西観音町(現西区)から田中町(現中区)までの2.7kmでパレードが行われた[82][83]。沿道を人が覆い、約30万人(県警発表)が詰めかけた[82][83]。この後、カープ監督の古葉竹識は広島市長荒木武と対面した際に「広島には大きな祭りがない。ぜひつくってほしい。」と懇願した話がある[82]

こうした流れから宮澤弘県知事・荒木市長・山田克彦広島商工会議所会頭らが会談を行い、1976年(昭和51年)9月市民の祭典「ひろしまフラワーフェスティバル」が開催が決定、翌1977年(昭和52年)から毎年開催されるようになった[81]

そして、フラワーフェスティバル開催以降、平和大通りは広島のシンボルロードとして認識されていった[76]

軌道系交通網計画

2012年現在で有力なのはアストラムラインの地下敷設である[84]

1960年代のモータリゼーション以降、市中心部での交通網再編が始まり軌道系交通機関の計画が検討され、その幾つかで平和大通りの地上ないし地下に通すものが考えられた[85]。以下、計画されたものを列挙し、詳細は当該リンク先参照。

リニューアル事業

平和大通りの将来像については、早い段階から案が出されていた。例えば1979年(昭和54年)市の依頼で丹下健三都市建築設計研究所が出したものでは、通りの中央部分を緑地帯として集約し両外側の側道を拡幅し車道として用いる構想が考えられた[87]

また、東端につながる広島市道比治山東雲線が整備されていく中で、1990年(平成2年)には東端の歩道橋である鶴見橋が道路橋として架け替えられ、車両が全線通行可能となった[76]

平和大通りで最も狭幅員である緑大橋

1995年(平成7年)被爆50年目にあたり、平和大通りの将来像について協議された[88]。その中で平和大通りの課題がいくつか浮かび上がった。

  • 魅力の欠如 - 道路の周辺変化に乏しい。緑地が十分に生かされておらず、また一部夜間が暗いところがあり安全性にも問題がある[13]
  • 中央道路部での交通混雑 - 当初は広幅員として開通した平和大通りであるが、現状の交通量では一部で対応できていない。また両脇の歩道では自転車道と歩道が分列されておらず、そのため交錯する[13]
  • 狭い橋梁部 - (鶴見橋以外の)橋梁部分は幅は狭く現状の交通量では満足できなくなっている。歩道は特に狭く、通行に支障がある。そして老朽化の問題もある。その中でも平和大橋と西平和大橋はイサム・ノグチがデザインした貴重な欄干であるという面で、改修には別の問題も発生する[13]
  • 軌道系交通機関敷設への対応 - 将来の軌道系交通網構築(2012年現在では地下式として構想)のため[13][84]

2002年(平成14年)「平和大通りリニューアル事業」を広島市が公表した。「人間尺度を尊重した使い勝手のよさ」「道路と一体化した街並みの形成」「美しい風景づくり」をテーマに掲げ、中央部では車道部の拡幅とバスレーン・自転車道を配置し歩道を除外、緑地副道部では周辺環境と一体となった環境を整備する[13]。橋梁部は架替で進められていたが、平和大橋/西平和大橋は現状を残し外側に歩道橋を新設する方針で進んでいる[13]

構造

路面

北東側から見た白神社前交差点。左右方向が平和大通り、上下方向が鯉城通り

戦前の都市計画を踏襲した「広島復興都市計画」によって計画された通り、つまり相生通り鯉城通りなど戦前から整備された通りとともに近世から近代における広島の中心施設である広島城を基準に碁盤目状に配置され、その後に成立した「広島平和都市建設計画」においてはこの道が軸となって市内中心部の主要道路は碁盤目状に配置された[25][64]。こうした経緯から、広島の主要道路は城を基準にほぼ碁盤目状に配置されるようになった。

中央道路の両サイドに幅約20mの緑地帯、その外側に副道を設ける。中央車道、副道ともに歩道が付き、副道の一部は市営有料駐車場[89]として整備されている。大きな交差点には左折レーンを設けている。西端のみ中央車道に広島電鉄本線が通り停留場がある。

舗装は、平和大通りが整備された当初はコンクリート舗装であり、その後も部分的に残っていたが2010年代初頭に全面アスファルト舗装となった[90]。広電(本線・広島電鉄江波線広島電鉄宇品線)の軌道部分はコンクリートブロック敷設(スラブ軌道)。

緑地帯は市民の憩いの空間を形成している[14]

平和祈念

特筆すべきは、広島平和記念公園とともに平和祈念の意味合いを持っていることである。

  • 上から原爆ドーム、平和公園の空中写真[21]、平和記念資料館と平和大通り。
  • その左が西平和大橋、右が平和大橋。

公園を設計した丹下健三浅田孝大谷幸夫木村徳国のいわゆる”丹下グループ”は、平和大通りを南端の横軸とし、そこから原爆ドームまで垂直に伸びる縦軸上に平和の灯/原爆死没者慰霊碑/広島平和記念資料館を配置し、南北軸でヒロシマというドラマを表現し原爆ドームをその頂点とすることにより被爆を受け継ぐ証言者としてまた復興の象徴とした[3][91]。平和資料館は形状は平和大通りから公園へのゲートとしてデザインし、平和大通りから原爆ドームを望めるようにした[91]。そして平和大通りから平和公園へ導く橋は、イサム・ノグチがヒロシマの過去と未来を表現した平和大橋西平和大橋[3]

平和大通りの緑地帯には、著名な造形家がデザインした慰霊碑やモニュメント・石灯籠が83箇所に存在する[3][14][92]。以下主なものを順不同で列挙する。

緑地

西観音町のナツメ。元々はこの近くの民家前(爆心地から約1.4km)にあり、後にここに移植された[93]。樹の幹に被爆時の傷がある[93]
なお全ての被爆樹木には写真のような説明板が付いていたが、被爆70年目にあたる2015年からQRコード付きの新しい説明板に随時更新している[94]

平和大通りの緑地帯は単なるグリーンベルトとしてでなく、平和公園および中央公園を中心に置き、南北に流れる太田川水系各支川それぞれの河川美を活かした「河岸緑地」と、市内中心から見て東側にある比治山・西側にある己斐の山々を、東西に貫く平和大通りがそれらを繋ぎあわせる、という壮大な緑化計画のもと整備されたものである[75]

この通りの樹木のほとんどが1957年からの「供木運動」により植えられたもの[75]。戦後の広島は、被爆により荒廃した地、更には被曝により「原爆で攻撃された地域は70年間死に満ちる」「70年(75年とも)は草木も生えない」と風評被害を受けた地[95]で、緑とはこの地で生きていける証であり復興の象徴、緑化運動とはそこから平和都市へと進んでいく情熱であった[75]。こうした考えで供木運動により植樹されたものであることから、平和大通りにある樹木には立ち枯れや自然に倒木する以外ではほとんど手を付けてはならないという暗黙の了解が存在する[74]。平和祈念のためモニュメントを設置する際に伐開したとしても問題にされるほどである[74]

樹木は全体で約2,000本[14]。ほぼ沿道全線に植えられているが、唯一広島平和記念公園前だけ植えられていない。市民団体の調査によれば、150種植えられており、多い種の順にクスノキケヤキトウカエデユリノキシラカシ[96]。外来種もあり、貴重な種がいくつかあるが中でも、西観音町ナツメ[97]白神社前(旧国泰寺敷地)のエノキムクノキクロガネモチセンダンカキノキ[98]、は現存する被爆樹木である。なお鶴見橋東詰のシダレヤナギは、被爆樹木だった先代の木は2007年に枯死し、現在のものは同じ根から新しく生えたものである[99]

交差する道路

  • 上側が起点側、下側が終点側。左側が上り側、右側が下り側。
  • 全線広島県広島市に所在。
交差する道路 交差する場所
市道比治山庚午線
市道駅前吉島線(駅前通り)側道 田中町 中区
市道御幸橋三篠線中央通り 三川町
国道54号鯉城通り 白神社前
大手町通り NHK前
市道中島吉島線(吉島通り) 広島平和記念公園入口 平和公園前
市道横川江波線(舟入通り/寺町通り) 小網町
市道駅前観音線(中広通り) 西観音町電停 西区
市道比治山庚午線

交通センサス

以下、判明分のみの平日24時間交通量を記す。数字単位は台。

比治山
本町
河原町 舟入町 福島町
二丁目
2010年 24,115 32,347 28,478 30,529 [100]
2005年 42,096 33,818 33,818 33,818 [100]
1999年

平和大通り全体では交通渋滞は問題視されていない[101]。ただ、一部の交差点(下記参照)や平和大橋・西平和大橋・緑大橋の狭い橋梁部では交通量に対応できていない[13][101]。なお、比治山本町(鶴見町東詰)の交通量減少について言及している資料は不明。

防災

ハザードマップでは大規模な災害が発生した場合以下の区間で浸水する可能性があるとして注意を促している。下記表記の内、内水氾濫とは集中豪雨が原因で排水処理が追いつかず陸地に溢れる現象、外水氾濫とは河川の氾濫により溢れる現象。

また、この通りには広島県道路交通渋滞対策部会が問題視する主要交通渋滞箇所[101]がある。

浸水/洪水ハザードマップ
場所 最低標高[102] 区分 想定被害
鶴見町から大手町
(京橋川 - 元安川)
1.0m 内水
  • 富士見町で最大10cmから20cm浸水。
  • 交差する地下道の田中町トンネルでも注意。
[103]
外水
  • 両端の鶴見町と大手町を除きほぼ水没。
  • 最大が田中町付近で床上、その他が床下浸水。
[104]
中島町
(元安川 - 旧太田川)
2.0m 内水
  • 川沿いを除いてほぼ全線で最大100cmから150cm浸水。
  • 最寄りの避難場所は広島国際会議場
[105]
外水
  • 平和公園前交差点付近のみで1階部分が水没。
[106]
河原町、舟入町
(旧太田川 - 天満川)
1.8m 内水
  • 川沿いを除いてほぼ全線で最大50cmから100cm浸水。
  • 最寄りの避難場所は広島市立神崎小学校と神崎保育園。
[107]
外水
  • 川沿いを除いてほぼ全線で1階部分が水没。
[108]
観音町、福島町
(天満川 - 太田川放水路)
1.5m 内水
  • 東・西観音町の大部分、福島町二丁目の一部で、最大50cmから100cm浸水。
  • この区間は沿道に西区役所・西消防署がある。
[109]
外水
  • 東・西観音町の大部分で1階部分が水没。
  • 西観音町停留所付近で床上浸水、放水路に近づくにつれ浸水被害はない。
[110]
高潮ハザードマップ
全線で想定範囲に指定されていない [111]
主要交通渋滞箇所
西観音町電停東交差点
  • 広島電鉄本線の軌道がカーブする四差路交差点で、すぐ近くに西観音町停留場がある立地であることから、視界が悪い地点がある。
  • 2012年度広島市ワースト4交通事故多発交差点。
[101][112][113]
白神社前交差点
  • 交通渋滞区間である国道54号(鯉城通り)との交点、更に広島電鉄宇品線との交点でもある。なお最寄りの停留所(袋町中電前)は交差点から離れた位置にある。
  • 2013年度広島市ワースト3交通事故多発交差点。
[101][114]

景観

この通りの沿道は全線で景観性を配慮しなければならない。

  • 平和記念施設保存・整備方針[115]
平和公園周辺である平和大橋東詰から西平和大橋西詰までの一帯は、世界遺産である原爆ドームのバッファーゾーン(緩衝地帯)に含まれる[115]。この周辺の開発は、「平和記念公園の軸線上の見通しの確保」「平和祈念のため有効活用」そして「民間地においても原爆ドーム周辺に相応しい景観形成」が求められている[115]
1996年世界遺産に登録された原爆ドームだが、1999年レストハウスの改修問題、2006年中層マンション建設問題[116]、そして2014年現在かき船移転問題など、周辺の環境変化に対し市民団体のみならず国際記念物遺跡会議も改善要求することもあった。そこで広島市は2006年に平和記念施設保存・整備方針を制定している[115]
  • 平和大通り沿道建築物等美観形成要綱
1983年施行。平和公園周辺以外の沿道はこの要綱による[117]
  • リバーフロント建築物等美観形成協議制度
1989年施行。河川周辺のみに限ればこの制度による[118]

沿道

平和公園以東

この沿道は高層および中層ビルが立ち並ぶビジネスゾーンであり、ホテルや商業店舗が並ぶ。ただ主要交通手段がバスだけであるというアクセスの問題から相生通り周辺と比べ発展しているとは言いがたい[119]


平和公園以西

こちらも中層ビルが並ぶが、西に行くにつれ住宅街になる。

主なイベント

イベント名 開催時期 備考
天皇盃全国都道府県対抗男子駅伝競走大会 1月中旬頃[120] スタート&ゴール地点は平和公園であり、ランナーたちはこの通りを走りぬける。
ひろしまフラワーフェスティバル 5月3日 - 5日
ひろしまドリミネーション 11月17日 - 翌年1月3日[121]
ひろしま朝市 毎週日曜日[122]

工事中だった1950年代、さらにモータリゼーションが始まる1960年代後半までガラガラだったこの通りでは、その中央で様々なイベントが開催された。1950年代木下大サーカスが興行を行った[2]。1958年には広島復興大博覧会の会場として用いられた[2]。1965年頃までエスキーテニスのコートもあった[123]。2010年ヒロシマ・オリンピック構想ではマラソンと競歩の会場に想定された[124]

脚注

補足

  1. ^ a b これに関連して、他の100m道路計画はGHQが”敗戦国に立派な道路は必要ない”と反対されたため頓挫したという通説も存在する[9]。しかしこれは計画を取りやめたい自治体役人が住民を説得する際にGHQの名を使った方便だったとも言われている[10]
  2. ^ じぞう通りの名前の由来でもある[30]
  3. ^ 1939年(昭和14年)大日本帝国陸軍が撮影した空中写真で、鶴見橋から鯉城通りまでの道は開通し、そこから先は繋がっていない小路がいくつかあることが確認できる[33]
  4. ^ 実際に工事が動き出したのは戦後[35]
  5. ^ 『広島新史 都市文化編』14ページの1-1-7『建物疎開場所・位置』の地図と比較しても現在の平和大通りの位置と一致している[40]
  6. ^ 被爆当時、県都市計画課は26人在籍、爆心地から約410mに位置した本川国民学校に疎開しており、そこにいた職員は全員死亡した(学校側の生存者は教師1人生徒1人の2人のみ)[54][55]。竹重が被爆したのは通勤途中だった[56](自転車のチェーンが切れた説あるいはパンクした説がある)ため難を逃れることが出来た。こうしたことからこの時の都市計画は県都市計画課名義ではあるが実際は竹重一人で線を引いている。
  7. ^ 街路構造令でのものであり、現在の道路構造令のものとは異なる。広路は”ひろぢ”と読む[59]
  8. ^ この時点で太田川放水路工事は完了していない。
  9. ^ 丹下が来広した時期として1946年夏頃ともされるが、ここでは用いたソースから1946年11月説を採用する[7]
  10. ^ 名称指定と同時に、平和祈念施設の位置づけを外れている[66]
  11. ^ なお代わりの住宅計画が広島市中央公園を縮小し住宅地にあてる、つまり基町のアパート群建築事業である[61]

出典

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参考資料

関連項目

外部リンク