徴用工訴訟問題

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徴用工訴訟問題(ちょうようこうそしょうもんだい)とは、第二次世界大戦中日本の統治下にあった朝鮮および中国において、日本の企業によって徴用された市民による訴訟問題。元徴用工は奴隷のように扱われたとし、日本の複数の企業を相手に多くの元徴用工が訴訟を起こしている。韓国で同様の訴訟が進行中の日本の企業は、三菱重工業不二越IHIなど70社を超える[1]2018年10月30日、韓国の最高裁にあたる大法院新日本製鉄(現新日鉄住金)に対し韓国人4人へ1人あたり1億ウォン(約1000万円)の損害賠償を命じた。徴用工訴訟において大法院で結審したのは初めて。

日韓間の財産請求権の問題については、2005年盧武鉉大統領の時徴用工は1965年日韓請求権協定で「解決済み」としてきたが、大法院は個人の請求権は消滅していないとしたため、日本政府は日韓関係の「法的基盤を根本から覆すもの」だとして強く反発した。安倍晋三首相は「本件は1965年(昭和40年)の日韓請求権協定で完全かつ最終的に解決している。今般の判決は国際法に照らしてあり得ない判断だ。日本政府としては毅然と対応する」と強調した。日韓請求権協定には、両国に紛争が起きた際は協議による解決を図り、解決しない場合は「仲裁」という手続きが定められている。日本政府はこの手続きにより解決しない場合、国際司法裁判所への提訴も視野に入れている。

呼称[編集]

安倍晋三首相は2018年11月1日、国会予算委員会でこれまで日本政府が使ってきた「徴用工」という表現の代わりに今後は「旧朝鮮半島出身労働者」という表現を使うと明らかにした[2][3]。安倍首相は「当時、国家総動員法(1938年制定)の下、国民徴用令には募集、官斡旋、徴用があった」として、2018年10月30日の大法院での原告4名はいずれも「募集」に応じた人たちとした[2]。韓国政府は国家総動員法が施行された後に動員されたすべての労働者を「強制動員被害者」と認定している[3]

徴用工訴訟の経緯[編集]

1965年日韓請求権並びに経済協力協定によって日韓の財産及び請求権問題に関する外交的保護権が放棄されていることについては異論がない。しかし、個人請求権に関しては、1991年、日本の柳井俊二条約局長の国会答弁によって請求権協定は個人請求権に影響を及ぼさないという立場を表明したため、韓国国民が個人請求訴訟を提起するようになった。日本政府は条約締結以降2007年頃まで、請求権協定が個人請求権に影響を及ぼすことはないという立場であったが、現在は請求権協定によって日韓の請求権問題は個人請求権も含めて終局的に解決されたという立場に変遷している。逆に韓国政府は条約締結以降2000年頃までは請求権協定によって個人請求権が消滅したという立場であったが、日本政府が外交権保護放棄説に立っていることが広く知られるようになるとその立場を変遷させ、2000年には韓国においても放棄されたのは外交保護権であり個人の請求権は消滅していないとの趣旨の外交通商部長官答弁がなされるに至った[4]。旧朝鮮半島出身労働者の訴訟は当初日本の裁判所で争われたが日本の最高裁はこれを認めなかったため、現在は韓国の裁判所で争われている。賠償義務判決は2012年5月の大法院で初めて出され、東亜日報によると当時の判事であった金能煥が「建国する心情で判決を書いた」と語ったという[5]。韓国の対日請求に関する問題には、徴用工訴訟のほか、慰安婦問題サハリン残留韓国人、韓国人原爆被害者の問題、日本に略奪されたと主張される文化財の返還問題、などがある。

個人請求権に関する日本政府の見解[編集]

日韓請求権協定締結時の外務省の内部文書には日韓請求権協定第2条の意味は外交保護権を行使しないと約束したもので、個人が相手国に請求権を持たないということではないと書かれていた[6]

請求権協定締結の1年後である1966年に協定の交渉担当者の外務事務官谷田正躬は協定で放棄されるのは外交保護権にすぎならいから、政府は朝鮮半島に資産を残してきた日本人に補償責任を負わないと解説した[7]

1991年8月27日、柳井俊二 外務省条約局長が参議院 予算委員会で、「(日韓請求権並びに経済協力協定は)いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではない。日韓両国間で政府としてこれを外交保護権の行使として取り上げることができないという意味だ」と答弁した[8]

これ以降、韓国より個人請求権を根拠にした訴訟が相次ぐようになった[112]

1992年2月26日の柳井俊二外務省条約局長の答弁は請求権協定2条3項が「国及び個人の財産、権利及び利益に対する措置」及び「請求権」に対する外交保護権が消滅したと答弁した。そしてこの「財産、権利及び利益」は協定時の合意議事録で「法律上の根拠により実体法的価値を認められるすべての種類の実体的権利」であることが合意されていて、条約が直接外交保護権を消滅させた「請求権」は実体法上の根拠のないクレームに過ぎないと述べた。そして、実体法上の根拠がある「財産、権利及び利益」についてはそれ自体の外交保護権が放棄されたわけではないものの、「財産、権利及び利益に対する措置」として国内法たる財産措置法を制定して韓国民の財産権を国内法によって消滅させたことを明らかにした[9]

さらに、1992年3月9日の予算委員会において柳井条約局長は「請求権の放棄ということの意味は外交保護権の放棄であるから、個人の当事者が裁判所に提訴する地位まで否定するものではない」と答えた。また、内閣法制局長官の工藤敦夫は「外交保護権についての定めが直接個人の請求権の存否に消長を及ぼすものではない」とし、「訴えた場合にそれらの訴訟が認められるかどうかまで裁判所が判断する」と述べた[10]

1993年5月26日の衆議院予算委員会 丹波實外務省条約局長答弁[11][12]では、日本国内においては財産、権利及び利益は外交的保護権のみならず財産措置法によって実体的にその権利も消滅しているが、請求権は外交的保護権の放棄ということにとどまっている、としている。

*この第二条の一項で言っておりますのは、財産、権利及び利益、請求権のいずれにつきましても、外交的保護権の放棄であるという点につきましては先生のおっしゃるとおりでございますが、しかし、この一項を受けまして三項で先ほど申し上げたような規定がございますので、日本政府といたしましては国内法をつくりまして、財産、権利及び利益につきましては、その実体的な権利を消滅させておるという意味で、その外交的な保護権のみならず実体的にその権利も消滅しておる。ただ、請求権につきましては、外交的保護の放棄ということにとどまっておる。個人のいわゆる請求権というものがあるとすれば、それはその外交的保護の対象にはならないけれども、そういう形では存在し得るものであるということでございます。

2003年に参議院に提出された小泉総理の答弁書によれば同条約を受けて日本国内で成立した措置法によって請求の根拠となる韓国国民の財産権は国内法上消滅した[13]。実際に日本の裁判所で争われた旧日本製鉄大阪訴訟において、大阪高裁2002年11月19日の判決で協定の国内法的措置である財産措置法による財産権消滅を根拠に一審原告の控訴を棄却している。その後最高裁でも上告を棄却され確定した。大阪高裁が決め手とした財産措置法は日本の国内法であるから、日本法が準拠法として採用されない限り韓国の裁判所を拘束しない。そのため、大阪高裁で決め手となった財産措置法は韓国の裁判所では争点となっていない。

盧武鉉政権以降の再請求(2005年)[編集]

日本国に対して新たな賠償請求を主張しだした盧武鉉大統領

韓国政府や韓国メディアはこの協定による賠償請求権の解決について1965年当時からも韓国国民に積極的に周知を行うことはなく、民間レベルでは日本政府への新たな補償を求める訴えや抗議活動がされ続けていた。賠償請求の完全解決は、韓国側議事録でも確認されており、日本政府もこの協定により日韓間の請求権問題が解決したとしているが[14]、韓国政府は2005年盧武鉉政権以降から、慰安婦サハリン残留韓国人、韓国人原爆被害者の問題は対象外だったと主張をはじめた[15]#韓国政府における議事録の公開参照)。また2005年4月21日、韓国の与野党議員27人が、日韓基本条約が屈辱的であるとして破棄し、同時に日本統治下に被害を受けた個人への賠償などを義務付ける内容の新しい条約を改めて締結するように求める決議案を韓国国会に提出するとともに、日韓両政府が日韓基本条約締結の過程を外交文書ですべて明らかにした上で韓国政府が日本に謝罪させるよう要求した。

韓国政府による対日補償要求終了の告知(2008年)[編集]

2009年8月14日、ソウル行政裁判所による情報公開によって韓国人の個別補償は日本政府ではなく韓国政府に求めなければならないことがようやく韓国国民にも明らかにされてから、日本への徴用被害者の未払い賃金請求は困難であるとして、韓国政府が正式に表明するに至った [16]。補償問題は1965年の日韓国交正常化の際に日本政府から受け取った「対日請求権資金」ですべて終わっているという立場を、改めて韓国政府が確認したもので、いわゆる慰安婦等の今後補償や賠償の請求は、韓国政府への要求となることを韓国政府が国際社会に対して示した[17]

韓国大法院、日本企業の徴用者に対する賠償責任を認める(2012年)[編集]

韓国大法院は2012年5月23日、日韓併合時の日本企業による徴用者の賠償請求を初めて認めた。元徴用工8人が三菱重工業新日本製鉄を相手に起こした損害賠償請求訴訟の上告審で、原告敗訴判決の原審を破棄し、原告勝訴の趣旨で事案をそれぞれ釜山高法とソウル高法に差し戻した。韓国大法院は「1965年に締結された日韓請求権協定は日本の植民支配の賠償を請求するための交渉ではないため、日帝が犯した反人道的不法行為に対する個人の損害賠償請求権は依然として有効」とし、「消滅時効が過ぎて賠償責任はないという被告の主張は信義誠実の原則に反して認められない」と主張した。また、元徴用工が日本で起こした同趣の訴訟で敗訴確定判決が出たことに対しても、「日本の裁判所の判決は植民地支配が合法的だという認識を前提としたもので、強制動員自体を不法と見なす大韓民国憲法の核心的価値と正面から衝突するため、その効力を承認することはできない」と主張した [18]

相次ぐ旧朝鮮半島出身労働者と遺族による裁判[編集]

韓国の下級裁判所では元徴用工と元徴用工の遺族が日本企業3社(新日鉄住金、三菱重工業、不二越)に損害賠償を求める裁判を相次いで起こしている。

2013年2月、富山市の機械メーカー不二越による戦時中の動員に対して、強制動員被害者13人と遺族が計17億ウォン(約1億5000万円)の賠償を求める訴訟をソウル中央地裁に起こした。

2013年3月、日本製鐵(現新日鐵住金)の釜石製鉄所(岩手県)と八幡製鐵所福岡県)に強制動員された元朝鮮人労務者ら8人が、新日本製鐵(現新日鐵住金)に8億ウォン(約7000万円)支払いを要求してソウル中央地裁に損害賠償請求訴訟をおこした。2013年7月10日、ソウル高裁は判決で新日鉄住金に賠償を命じたが、その後新日鉄住金は上告した。菅義偉 官房長官は「日韓間の財産請求権の問題は解決済みという我が国の立場に相いれない判決であれば容認できない」とコメントした。

2013年11月8日にソウルで行われた日韓外務次官級協議では、日本の外務審議官杉山晋輔が韓国の外務第1次官である金奎顕(キム・ギュヒョン)に対し、元徴用工問題で韓国大法院で日本企業の敗訴が確定した場合、日韓請求権協定に基づき韓国側に協議を求める方針を伝えた。また韓国側が協議に応じなかったり、協議が不調に終わった場合は国際司法裁判所への提訴のほか、第三国の仲裁委員を入れた処理を検討すると表明した[19][20]

2015年12月24日現在、確認されただけで係争中の裁判が13件あり、このうち5件で日本企業側に損害賠償を命じる判決が出ており、3件が韓国大法院の判断を待つ状態になっている[21]

2016年8月23日、ソウル中央地方裁判所は新日鉄住金に対し元徴用工遺族らに計約1億ウォン(約890万円)の支払いを命じる判決を出した[22]

2016年8月25日、ソウル中央地方裁判所は三菱重工業に対し元徴用工遺族ら64人に被害者1人あたり9000万ウォン(約800万円)ずつ賠償するよう命じる判決を出した[23]

2016年11月23日、ソウル中央地方裁判所は不二越に対し元女子勤労挺身隊の5人に1人あたり1億ウォン(約950万円)の支払いを命じる判決を出した[24]

韓国憲法裁判所、「日韓請求権協定は違憲」の訴えを却下(2015年)[編集]

韓国憲法裁判所2015年12月23日、1965年に締結された日韓請求権協定は違憲だとする元徴用工の遺族の訴えを審判の要件を満たしていないとして却下した。原告である元徴用工の遺族は、韓国政府による元徴用工への支援金支給の金額の算定方法や対象範囲を不服として、支給を定めた韓国の国内法と日韓請求権協定が財産権などを侵害しているとし、韓国の憲法に違反していると告訴していた。韓国憲法裁判所の決定は国内法の不備を認めず、支援金支給に関して日韓請求権協定が「適用される法律条項だとみるのは難しい」とした。また日韓請求権協定が仮に違憲であっても原告の請求には影響しないとし、審判の要件を満たしていないと却下した[25][26]

大法院が新日鉄住金に対し損害賠償を命じる(2018年)[編集]

2018年10月30日、韓国の最高裁にあたる大法院は差し戻し審で新日本製鉄(現新日鉄住金)に対し韓国人4人へ1人あたり1億ウォン(約1000万円)の損害賠償を命じた。徴用工訴訟において大法院で結審したのは初めて。これにより、新日鉄住金の韓国内の資産差し押さえの可能性がでてきた。韓国で同様の訴訟が進行中の日本の企業は、三菱重工業不二越IHIなど70社を超えており[1]、この判決以降韓国の政府機関や支援する財団に「訴訟を起こしたい」という問い合わせの電話が鳴り止まない状況が続いている[27]

個人請求権の問題点[編集]

日本政府は請求権協定についてその締結の当初から個人請求権は消滅していないと解釈していた[28]。このような日本政府の解釈は日韓請求権協定締結前から一貫したものであった[29]。というのも日韓請求権協定に先立って締結されたサンフランシスコ平和条約や、日ソ平和宣言の請求権放棄条項に関し、原爆やシベリア抑留の被害者が請求権放棄条項によって損害回復の機会を奪われたと主張し、国に補償を求める訴訟を提起したからである[30]。これらの訴訟において国は請求権放棄条項によって個人の請求権は消滅しないから、損害回復の機会は奪われていないと主張した[31]。韓国との関係に関しても韓国に残る資産を失った日本国民が国に対して訴訟を提起する可能性があるため、日本は当初から請求権放棄条項によっては個人の請求権は消滅しないという立場に立っていた[32]。その後1991年8月27日に日本の参議院予算委員会で柳井俊二条約局長が『(日韓請求権並びに経済協力協定は)いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではない。日韓両国間で政府としてこれを外交保護権の行使として取り上げることができないという意味だ』と答弁した[33]。これ以降韓国の個人請求権を根拠にした訴訟が相次ぐようになった[34]

1993年5月26日衆議院予算委員会における丹波實外務省条約局長答弁[35]や2003年に参議院に提出された小泉純一郎総理の答弁書[36]は韓国民の財産権を消滅させたのは協定を受けて日本の国内法として成立した措置法であるとする。実は日本政府は日韓請求権協定の請求権放棄条項が個人の請求権を消滅させるものではないという解釈に立つ一方で、請求権協定を国内で施行するための措置法で韓国民の財産権のみを消滅させたのである[37]。措置法で消滅させたのは韓国民の財産権のみであるから、日本国民から財産権回復の機会を奪われたとして訴訟を提起されることはない。また、請求権協定があるから、この法律に対し韓国から外交ルートで抗議されることはない[38]。実際に日本の裁判所で争われた旧日本製鉄大阪訴訟において、大阪高裁は2002年11月19日の判決で協定の国内法的措置である財産措置法による財産権消滅を根拠に一審原告の控訴を棄却している[39]。この裁判はその後上告を棄却され確定した。

しかしながら、国内法の効力は日本法が準拠法として採用されない限り韓国や米国等の第三国の裁判所を拘束せず[40]、措置法で財産権が消滅したとの法理は国外の裁判所では使えない[41]。また1990年代後半には日本政府に一部不利な判断が出るようになってきた[42][43]。そのため日本政府は次第に戦後補償は請求権放棄条項で解決済みであるとの主張をするようになった[44][45]。2007年には最高裁判決がサンフランシスコ平和条約についてこのような政府の主張を認め[46]、日本政府は日韓請求権協定に関しても個人の請求権を含め協定によって一切解決済みとの立場を取っている[47][48]

一方の韓国は請求権協定締結当初は協定によって個人の請求権が消滅したとの立場に立っていた[49]。そもそも韓国政府は請求権協定締結前の交渉において、徴用工の未払金及び補償金は国内措置として韓国側で支払うので日本側で支払う必要はないと主張していた[50][51]。しかし、91年の柳井条約局長答弁が大きく報道されて個人の請求権を主張する訴訟なども提起され、日本政府が外交権保護放棄説に立っていることが広く知られるようになるとその立場を変遷させ、2000年には韓国においても放棄されたのは外交保護権であり個人の請求権は消滅していないとの趣旨の外交通商部長官答弁がなされるに至った[52][53]。また韓国政府は2005年に官民共同委員会において請求権協定の効力範囲問題を検討し、植民地支配賠償金や慰安婦問題等の日本政府の国家権力が関与した反人道的不法行為については請求権協定によっては解決しておらず日本政府の法的責任が残っていると結論した。ただし、徴用工については同委員会は明示的に範囲外に位置付けず、請求権協定によって日本から受け取った資金に韓国政府が強制動員被害者に対する補償問題を解決するための資金が包括的に勘案されているとし、韓国政府は受け取った資金の相当額を強制動員被害者に使用すべき道義的責任があると判断した[54][55]

弁護士の山本晴太の整理によれば日韓両国の見解は徴用工個人の実体法上の損害賠償請求権が消滅していないという点では一致している。残る問題は日韓請求権協定で徴用工の損害賠償請求権に関する外交上の保護権の有無という請求権協定の効力範囲の問題と、外交上の保護権が失われた場合の日韓の裁判所における司法的救済の可否である[56]。前述のように日韓請求権協定には韓国民の財産権のみを消滅させた措置法があるため、旧日本製鉄大阪訴訟においてこれらの点は判断の対象にならなかった[57]。しかし、日本の国内法である措置法の効力が及ばない韓国ではこれらの点が大きな争点になった[58]。請求権の効力範囲に関する韓国側の見解は日本政府の国家権力が関与した反人道的不法行為については請求権協定によっては解決していないというもので[59]、今回の大法院判決も請求内容が日本の違法な植民地支配及び日本企業の反人道的不法行為を前提にした慰謝料であることを指摘している[60]。一方で外交上の保護権が失われた場合の司法救済の可否について、かつての日本政府の見解を前提とすれば韓国における司法的救済の可否は韓国の国内法の問題となる[61]。これに対し、現在の日本政府の見解は、徴用工の損害賠償請求権についての実体的権利は消滅していないが、これを裁判上訴求する権利が失われたというものになっている[62]。ただし、日本政府の立場を肯定した2007年最高裁西松建設事件判決は司法上の救済を否定する一方で被害救済に向けた関係者の自発的努力を促した[63]。これを受けて、西松建設は実際に被害者に対する謝罪と賠償を行った[64]。 判断を左右する条約解釈上の対立点に関する日本政府の立場の変遷やサンフランシスコ平和条約に関して政府の立場を肯定した2007年最高裁判決が同時に被害救済の必要性を指摘していることは日本側の主張の弱点といえる[65][66][67]

2018年10月30日の韓国大法院判決の多数意見は、徴用工の個人賠償請求権は請求権協定の効力範囲に含まれないと判断した。これに対し、3人の裁判官の個別意見は、徴用工の個人賠償請求権は請求権協定の効力範囲に含まれるが、両国間で外交上の保護権が放棄されたに過ぎないとした。この中でサンフランシスコ平和条約についても言及し、個人損害賠償請求権の放棄を明確に定めたサンフランシスコ平和条約と「完全かつ最終的な解決」を宣言しただけの請求権協定を同じに解することは出来ないとしている。また、2人の裁判官の反対意見は、徴用工の個人賠償請求権は請求権協定の効力範囲に含まれ、かつ、請求権協定によって日韓両国民が個人損害賠償請求権を裁判上訴求する権利が失われたとした。その意見によれば、個人損害賠償請求権自体は消滅していないものの、日韓請求権協定によって外交上の保護権が放棄されただけでなく、日韓両国民が個人損害賠償請求権を裁判上訴求する権利も制限されたため、個人損害賠償請求権の裁判上の権利行使は許されないとのことである[68]

自由民主党は、2018年11月1日、日本政府に対し日韓請求権協定に基づく協議や仲裁の速やかな開始を韓国に申し入れるよう求める決議をまとめた[69]。2015年6月26日のソウル中央地方法院判決によれば、韓国側は被爆者の個人損害賠償請求権が消滅したか否かに関する請求権協定解釈上の両国間の紛争を解決するため2011年以降日本政府に対して繰り返し協議を求めているものの、日本政府はこれに応じていない[70]。山本によれば請求権協定3条の解決手続きを回避している日本政府が請求権協定3条の仲裁手続きに入ることは考え難い[71]。また、山本は国際司法裁判所(ICJ)に提訴した場合も日本が敗れる可能性が高いと述べている[72]

一方、前大阪府知事・前大阪市市長の橋下徹弁護士は上記のような問題点を指摘した上で、結論としては日韓請求権協定によってもはや個人請求権は認められないとの考えを明らかにしている[73]

また、国際法が専門の東京大学教授大沼保昭は請求権協定2条の解釈について、これまでの国際法の一般的解釈からすると個々の国民の権利や利益に関わるものを含めて全ての問題が包括的に解決されたと解釈でき、日本政府だけでなく、かつての韓国政府や、米国の政府及び裁判所も同じ立場だったとする。また、徴用工に関する2010年代の一連の韓国裁判所の判断については、人権への考慮が他の価値とそれに関わる判断への考慮に優越して扱われるという流れに沿ったものではあるが、このような流れが拡大していくとそもそも国家間で条約を締結して問題を解決する意義が揺らいでしまうと指摘している[74]

脚注[編集]

  1. ^ a b “徴用工訴訟、70社超が対象に 訴状未着の企業多く” (日本語). 日本経済新聞 電子版. (2018年10月30日). https://www.nikkei.com/article/DGXMZO37131870Q8A031C1FF2000/ 2018年11月2日閲覧。 
  2. ^ a b 安倍首相「原告は『徴用』でない『募集』に応じた」…韓国の判決を全面否定”. 中央日報 (2018年11月1日). 2018年11月2日閲覧。
  3. ^ a b 日本政府が企業に対して「強制徴用賠償に応じるな」説明会”. hankyoreh japan (2018年11月2日). 2018年11月3日閲覧。
  4. ^ 山本晴太「日韓両国政府の日韓請求権協定解釈の変遷」[1]
  5. ^ 김능환, 6년전 상고심때 “건국하는 심정으로 판결문 썼다”東亜日報 2018年10月30日
  6. ^ 東亜日報「日本外務省文書「日韓協定と個人請求権は無関係」」[2]
  7. ^ 時の法令別冊1966年3月10日
  8. ^ 第121回 参議院 予算委員会 平成3年8月27日 第3号”. 2018年10月30日閲覧。
  9. ^ 外務委員会議事録第2号平成4年2月26日、10頁[3]
  10. ^ いずれも予算委員会会議録15号平成4年3月9日、11頁[4]
  11. ^ 予算委員会会議録第26号平成5年5月26日36頁[5]
  12. ^ 神戸大学法学部 国際法概論 資料”. 神戸大学 法学部. 2014年10月27日閲覧。
  13. ^ 第155回国会(臨時会)参議院議員櫻井充君提出日本の戦後処理問題に関する質問に対する答弁書[6]
  14. ^ “「個人請求権は解決済み」日本外務省が立場表明”. 聯合ニュース. (2010年3月18日). http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2010/03/18/0200000000AJP20100318002200882.HTML 2010年8月22日閲覧。 
  15. ^ “慰安婦、日本に法的責任 韓国政府が再確認”. 産経新聞. (2010年3月15日). http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100315/plc1003152251018-n1.htm 2010年8月22日閲覧。 
  16. ^ 徴用被害者の未払い賃金請求は困難、政府が立場表明 聯合ニュース 2009/08/14
  17. ^ “対日補償要求は終了 韓国政府が公式見解”. 産経新聞. (2009年8月16日). http://megalodon.jp/2009-1224-0010-36/sankei.jp.msn.com/world/korea/090816/kor0908161337004-n1.htm 2011年8月20日閲覧。 
  18. ^ http://japanese.joins.com/article/640/152640.html
  19. ^ 戦時徴用訴訟で韓国に警告 政府、敗訴確定なら「国際司法裁に提訴」(1/2ページ) 産経新聞 2013年11月25日
  20. ^ 戦時徴用訴訟で韓国に警告 政府、敗訴確定なら「国際司法裁に提訴」(2/2ページ) 産経新聞 2013年11月25日
  21. ^ “韓国内で解決図る方針、大統領の意思反映か 請求権問題”. 朝日新聞デジタル. (2015年12月24日). オリジナル2016年2月28日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160228002617/http://www.asahi.com/articles/ASHDR7FMCHDRUHBI01J.html 2017年1月15日閲覧。 
  22. ^ 韓国・徴用工訴訟で新日鉄住金に890万円賠償命令 ソウル中央地裁 昨年11月に続き 産経新聞 2016.8.23
  23. ^ 日本の三菱、韓国強制動員被害者に9000万ウォンずつ賠償命令 中央日報 2016年08月26日
  24. ^ 挺身隊として強制徴用 不二越に賠償命令=韓国地裁 聯合ニュース 2016/11/23
  25. ^ 韓国憲法裁、日韓請求権協定「違憲」の訴えを却下 朝日新聞 2015年12月23日
  26. ^ 韓日請求権訴訟、韓国憲法裁が訴え却下 中央日報 2015年12月23日
  27. ^ “元徴用工や遺族ら「訴訟を起こしたい」 電話鳴りやまず:朝日新聞デジタル” (日本語). 朝日新聞デジタル. (2018年11月1日). https://www.asahi.com/articles/ASLC146HJLC1UHBI01T.html 2018年11月3日閲覧。 
  28. ^ 時の法令別冊1966年3月10日において協定交渉担当者の外務事務官谷田正躬は協定で放棄されるのは外交保護権にすぎならいから、政府は朝鮮半島に資産を残してきた日本人に補償責任を負わないとの解説をしている。
  29. ^ 東亜日報「日本外務省文書「日韓協定と個人請求権は無関係」」[7]
  30. ^ 五十嵐正博「日本の戦後補償と国際法」国際法外交雑誌105巻1号[8]
  31. ^ 東京地判1963年12月7日下級裁判所民事裁判例集14巻2451頁、国立国会図書館「調査と情報」230号
  32. ^ 機関紙連合通信社「〈韓国徴用工問題〉上/「解決済み」という未解決問題/一貫性欠ける両国政府の姿勢」[9]
  33. ^ 参議院予算委員会会議録第三号平成3年8月27日、10頁[10]
  34. ^ 山手治之「日本の戦後処理条約における賠償・請求権放棄条項(1) : 戦後補償問題との関連において」[11]
  35. ^ 予算委員会会議録第26号平成5年5月26日36頁[12]
  36. ^ 第155回国会(臨時会)参議院議員櫻井充君提出日本の戦後処理問題に関する質問に対する答弁書[13]
  37. ^ 財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定第二条の実施に伴う大韓民国等の財産権に対する措置に関する法律[14]
  38. ^ 新日鉄ソウル高等法院判決日弁連仮訳によれば本件差戻し控訴審判決はこの点を明確に指摘すると同時に、財産措置法を制定したこと自体が請求権協定で放棄されたのは外交保護権に過ぎず個人の請求権は消滅していないことの証左であると指摘している。[15]
  39. ^ 出石直「戦後補償訴訟における元徴用工問題と日韓関係」[16]
  40. ^ 神前禎ほか「国際私法(第3版)」(有斐閣アルマ、2012年)、9頁で指摘されているように、裁判地によって準拠法が異なれば結論も異なる。
  41. ^ 新日鉄ソウル高等法院判決日弁連仮訳によれば本件差戻し控訴審判決は旧日本製鉄大阪訴訟で準拠法が日本法とされ請求権協定及び財産措置法で権利が消滅したと判断されたことを認定しつつ、準拠法を日本法とすることを否定し、請求権協定の範囲のみを検討して財産措置法の適否は論じない。[17]
  42. ^ 山手治之「日本の戦後処理条約における賠償・請求権放棄条項(2) : 戦後補償問題との関連において」、89頁[18]
  43. ^ 出石直「戦後補償訴訟における元徴用工問題と日韓関係」、33頁[19]
  44. ^ 山手治之日本の戦後処理条約における賠償・請求権放棄条項(2) : 戦後補償問題との関連において[20]
  45. ^ 山本晴太「日韓両国政府の日韓請求権協定解釈の変遷」[21]
  46. ^ 最判2007年4月27日西松建設事件
  47. ^ 朝日新聞デジタル「徴用工、首相「あらゆる選択肢を視野」政府の対応本格化」[22]
  48. ^ 会計学者で東京大学名誉教授の醍醐聰が外務省に架電して政府見解を詳細に聴取し、その内容を自らの個人ブログで公表している。[23]
  49. ^ 山本晴太「日韓両国政府の日韓請求権協定解釈の変遷」[24]
  50. ^ 李洋秀「韓国側文書に見る日韓国交正常化交渉」[25]
  51. ^ ただし、日本側には「日本は戦争中、東南アジア諸国から略奪したものや破壊したもなどについて賠償しようとしているが、日本は韓国ではそのような事実がないので、賠償することはないと思う。もしあるなら賠償するだろう。」という発言があり、これは被害者の損害賠償請求権が請求権協定で考慮されたことを否定する根拠となっている。 関本克良「国際法と国家の法的責任に関する考察 日本軍「慰安婦」問題と被害者の損害賠償請求権を焦点として[26]
  52. ^ 金昌禄「韓日条約の法的位置付け ~いかに克服するか~」[27]
  53. ^ 山本晴太「日韓両国政府の日韓請求権協定解釈の変遷」[28]
  54. ^ 国務調整室報道資料日弁連仮訳[29]
  55. ^ ただし、日本政府の国会答弁では請求権協定の請求権問題と解決と無償支援との間には対価関係はなく、賠償の意味もないと説明されている。五味洋治「徴用工判決で問われる「日韓国交正常化の闇」 韓国大法廷の判決文を熟読してわかったこと」[30]
  56. ^ 山本晴太「日韓両国政府の日韓請求権協定解釈の変遷」[31]
  57. ^ 出石直「戦後補償訴訟における元徴用工問題と日韓関係」[32]
  58. ^ 新日鉄ソウル高等法院判決日弁連仮訳[33]
  59. ^ 国務調整室報道資料日弁連仮訳[34]
  60. ^ 朝日新聞GLOBE+「韓国人記者が見た元徴用工裁判」[35]
  61. ^ 山手治之「日韓請求権協定2条の解釈について(1)「[36]
  62. ^ 山手治之「日韓請求権協定2条の解釈について(1)「[37]
  63. ^ 最高裁2007年4月27日西松建設事件判決[38]
  64. ^ 出石直「戦後補償訴訟における元徴用工問題と日韓関係」[39]
  65. ^ 週刊プレイボーイ2018年11月26日号「徴用工問題 日韓が自国民には言いたくない「後ろめたい事情とは!?」
  66. ^ 橋下徹は外務省が過去に日本人の戦後補償を否定するための理屈をこねていたことを政治家に説明すべきと指摘している。[40]
  67. ^ もっとも五十嵐正博「日本の戦後補償と国際法」国際法外交雑誌105巻1号[41]にその内容が詳細に引用されているように日本政府はその見解が一貫しているとする。
  68. ^ 山本ほか大法院判決仮訳[42]
  69. ^ 日本経済新聞2018年11月1日「自民、元徴用工巡り韓国と協議求める」[43]
  70. ^ 被爆者問題ソウル中央地方法院判決日弁連仮訳[44]
  71. ^ 山本晴太「日韓両国政府の日韓請求権協定解釈の変遷」[45]
  72. ^ 日本弁護士「強制徴用賠償、ICJでも日本が負ける」…その根拠は?[46]
  73. ^ プレジデントオンライン「橋下徹"徴用工問題、日本が負けるリスク"「法的ケンカ」の準備はあるか」[47]
  74. ^ 大沼保昭、江川紹子著「「歴史認識」とは何かーー対立の構図を超えて」(中央公論社、2015年)、kindle841-870

関連項目[編集]