加藤康子

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加藤 康子(かとう こうこ、1959年 - )は、日本の都市経済研究家・評論家。民間研究者として「産業遺産」「近代化遺産」の発掘・保存に尽力し、筑豊地方の炭鉱労働者の私的記録である「山本作兵衛炭坑記録画・記録文」の国連教育科学文化機関(ユネスコ)「世界記憶遺産」への登録(2011年5月)、九州・山口地方を中心とする8県23件の「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の同「世界文化遺産」への登録(2015年7月)の実現に中心的役割を果たした。これら遺産群の保存・継承を民間の立場から支援・推進する目的で2013年(平成25年)に一般財団法人産業遺産国民会議を設立し、専務理事に就任。2015年(平成27年)7月2日より、安倍晋三内閣における内閣官房参与(産業遺産の登録および観光振興を担当)を務める。

経歴・業績[編集]

1959年(昭和34年)生まれ、東京都出身。1981年(昭和56年)、慶應義塾大学文学部国文科卒業。国際会議通訳、CBSニュース調査員を経て、1989年(平成元年)、ハーバード大学ケネディスクール政治行政大学院修士課程修了(MCRP取得)。慶應大在学中に産業遺産の概念に出会い、ハーバード大学院では企業城下町を研究し、在学中に第一法規出版の『まちづくりVIEW』に「アメリカのまちづくり」シリーズを連載した。

卒業後は日本に帰国し、大学院時代の友人とベンチャーを起業。企業経営のかたわら、学生時代から続けていた「産業遺産」の調査・研究活動を継続。英国、ドイツ、北欧、米国、豪州など世界各地に実際に足を運び、鉱工業を中心とした産業遺産の保存と活用事例を現地で調査。その成果を順次、『観光開発データファイル』(第一法規出版)、『エコノミスト』(毎日新聞社)、『マルコポーロ』(文藝春秋)、『三田評論』(慶應義塾大学出版会)、『学燈』(丸善出版)などに寄稿した。

1999年(平成11年)1月、それまでの調査研究活動の集大成として『産業遺産~「地域と市民の歴史」への旅~』(日本経済新聞社)を上梓し、国内外の主要な産業遺産を収録するとともに、英国、米国、豪州などの産業遺産保存先進国における保存スキームや産業遺産を活用した観光・地域振興の取り組みを詳細に解説した。

同書刊行を契機に欧米の産業遺産の専門家や国内の産業遺産・同関連施設の所有者(個人、企業、地方自治体)などとの交流をさらに深め、それら関係者との意見交換や助言を基に「九州・山口の近代化産業遺産群」(後に「明治日本の産業革命遺産」に修正・発展)のユネスコ世界遺産リストへの登録を提唱し、その実現を目指す活動をスタートさせた。

発端は同年1月、鹿児島市の旧集成館を所有・管理する島津興業社長(当時)の島津公保から旧集成館の世界遺産登録構想について相談を受けたこと。この出会いをきっかけに産業遺産の世界遺産登録活動に着手した。

まず、英アイアンブリッジ峡谷博物館元館長のスチュワート・スミスを鹿児島に招き、現地調査を開始する。ギリシャのミロス島で開催された国際会議での発表をきっかけに、2003年(平成5年)、北海道庁の支援で国際鉱山歴史会議を空知炭鉱の赤平に誘致。同会議の後のゲストスピーカーにドイツのユネスコ委員であったバージッタ・リングベック博士を招いた。同氏は北海道の会議開催後のエクスカージョンの九州視察に参加し、「シリアルノミネーション」(後述)による世界遺産登録の可能性を示唆した。

2005年(平成17年)4月、加藤は島津公保と鹿児島県知事の伊藤祐一郎を訪問し、「九州の産業遺産群」を世界遺産申請する案を持ちかけ、伊藤はこれを受け、県庁企画部内に専任担当者を配置した。翌2006年(平成18年)、伊藤は九州地方知事会において、「九州近代化産業遺産の保存・活用」を政策連合の項目として提案し、採択された。加藤は産業遺産の「世界遺産プロデューサー」として知られるスミスと共に、北九州の製鉄関連施設、長崎の造船関連施設などを含めた九州地区の産業遺産群を訪れた。ここから、8県11市に点在する23の遺産群を1つのストーリーにまとめる「シリアル・ノミネーション」方式による世界遺産登録のヒントを得て、具体的計画づくりに着手する。

2006年(平成18年)9月、文化庁は世界遺産暫定一覧表追加記載候補を地方公共団体から公募。同年10月、経済産業省は近代化遺産シンポジウムを開催した。加藤は同シンポジウムのコーディネーター役としてスチュワート・スミス、英国の世界遺産コンサルタントであるバリー・ギャンブルを招請。シンポジウムにおいて、スミスは本遺産群の世界遺産価値について言及した。その後、鹿児島、山口、福岡、長崎、佐賀、熊本、の各県、山口県萩、北九州、長崎などの各市といった関係地元自治体に協力を呼びかけた。その際、山口県と萩市は、萩の城下町としての単独推薦を目指していたため、離脱の動きがあったが、加藤は急きょ萩市を訪問し、萩市長の野村を説得。6県8市で「九州・山口近代化産業遺産群」として鹿児島県を事務局に文化庁へ世界遺産暫定一覧表記載の申請書を提出することができた。だが、同遺産群は2007年(平成19年)1月の文化審議会において暫定一覧表への追加記載に採択されず、継続審議となった。

同年2月3日、加藤は島津公保と協議をし、陣容を立て直すため、世界遺産萩シンポジウムを萩市と共同開催、現職のイングリッシュ・ヘリテージ総裁であったニール・コソンを萩に自費で招き、再起を期した。コソンは萩シンポジウムで登壇し、本遺産群の世界遺産価値について言及する。このシンポジウムを契機に、同年12月、関係6県11市(萩市、下関市、北九州市、大牟田市、飯塚市、田川市、長崎市、唐津市、荒尾市、宇城市、鹿児島市)は、世界遺産登録に向けて再出発を図り、「九州・山口の近代化産業遺産群―非西洋世界における近代化の先駆け」を、文化庁へ再提案する。その結果、本遺産群は2008年(平成20年)12月、世界文化遺産暫定一覧表へ記載された。これに先駆け、加藤は同年10月に文化庁と事前調整をし、幹事県である鹿児島県と協議。知事の伊藤祐一郎を会長とする「九州山口の近代化産業遺産群世界遺産登録推進協議会」を設立し、自身は同協議会のコーディネーターとして正式に調整の労をとることになった。

同年12月、文化庁からの暫定一覧表記載時の課題を検討するために、九州山口の近代化産業遺産群世界遺産登録推進協議会の下に、ニール・コソンを統括委員長、スチュワート・スミス(当時TICCIH・国際産業遺産保存委員会の事務局長)を副委員長に、世界6か国〈英国、カナダ、オーストラリア、オランダ、インド、中国〉の専門家を招き、国内外の専門家16名で構成する専門家委員会を設置した。

同協議会では、専門家委員会において協議を重ね、数多くの現地視察を経て、ユネスコの基準を満たす構成遺産を選定した。2009年(平成21年)10月、東京プリンスホテルで開催された「第三回世界遺産シンポジウム」において、統括委員長のコソン卿からユネスコの基準を満たした遺産群の提言書が発表された。同シンポジウムで発表された提言書においては、当初案にあった田川、飯塚、唐津などの構成資産が省かれる一方、新日鉄住金㈱、三菱重工業㈱などが施設を所有する民間企業の資産が新たに構成資産群に加えられた。

新たな提言書発表の翌日、加藤は田川市に説明と謝罪に行った。筑豊の炭鉱労働者・山本作兵衛による「炭坑の記録画・記録文」の世界記憶遺産への推薦は、その時のお詫び行脚の中で加藤が発案し、推進したもの。「明治日本の産業革命遺産」登録推進構想をまとめる過程で、当初候補に挙げ、推進の原動力となっていた福岡県田川市の関連遺産が、地元の期待に応えられず、世界遺産の推薦資産より外さざるをえなくなったことに心を痛め、“代替案”として、同市がその多くを保管していた山本作兵衛の記録画・記録文を世界記憶遺産に登録するアイデアを思いついた。世界記憶遺産は、世界遺産、無形文化遺産と並ぶ“ユネスコ三大遺産”とされるが、当時は日本から1つも登録されておらず、国内ではほとんど知られていなかった。また別途、日本政府は記憶遺産委員会が立ち上がろうとしているタイミングでもあったが、他の2つと異なり、ユネスコ記憶遺産は、当事国政府の推薦がなくても誰でも推薦できる制度となっていることから、加藤は3か月で英文推薦書のたたき台を作成し、オーストラリアの前ICOMOS会長で世界遺産コンサルタントであるマイケル・ピアソン博士に最終の推薦書のとりまとめを依頼、第三国より推薦書を提出するという形で、登録を実現させた。2010年(平成22年)3月に、田川の山本作兵衛記憶遺産の推薦書をオーストラリアよりユネスコへ提出。2011年(平成23年)5月にユネスコ世界記憶遺産に日本第一号として登録された。

2009年にニール・コソンが発表した提言書の構成資産には、明治の後期の現役稼働中の産業設備が構成資産に含まれていた。加藤は、その後産業設備の所有者と接触を図るなかで、文化財保護法での法的保護が困難であると判断をし、文化財保護法以外の法律での保全の模索を始めた。ただ、文化庁、文部科学省内では「明治後期の歴史問題が教科書問題に発展するのではないか」という懸念も浮上していた。そこで2010年、加藤は産業関係者と共に規制改革にむけて働きかけを強め、「規制改革に関する分科会内農林・地域活性化WG」において、各府省庁が取り組む規制・制度改革事項に、「稼働中の産業遺産の世界遺産登録」に向けての規制改革を提起。同年12月、その呼びかけに応える形で、内閣府特命担当大臣の蓮舫が新日鉄住金八幡製鉄所を訪問。翌2011年には、蓮舫、内閣官房副長官の平野達男らの支援で「規制・制度改革に関する方針」が閣議決定、現行の文化財保護法に基づく保全方策以外の方策についての検討が始まる。加藤はこれを契機に研究機関・大学などの研究者、さらには内閣府、文化庁、国土交通省など中央省庁への働きかけを加速していく。同時に、一般市民への啓発と世界遺産登録への機運醸成のために、全国各地でシンポジウムを開催していった。

2012年(平成24年)までに、九州山口の近代化産業遺産群世界遺産登録推進協議会は専門家委員会の開催と審議を重ねた結果、新たな構成資産に、岩手県釜石市の橋野鉄鉱山、静岡県伊豆の国市の韮山反射炉を追加する一方、下関の前田砲台などの一部の資産が外され、現在の8県11市の23の構成資産に集約された。

この間、日本政府の取り組みも加速する。2011年の「山本作兵衛の記録画・記録文」のユネスコ世界記憶遺産登録を契機に、政府は世界遺産の推薦の仕組みについて、内閣官房地域活性化統合事務局内に産業遺産室を設置。2012年4月、関係自治体は衆議院議員の高木義明を中心に要望活動を行い、日本政府は要望に応え、5月に「稼働中の産業遺産またはこれを含む産業遺産群を世界遺産登録に向けて推薦する場合の取り扱い等」について閣議決定を行った。同年7月に日本政府は「稼働資産を産業遺産に関する有識者会議」を設置し、産業遺産の世界遺産登録に向けての体制を整えた。

内閣官房内部では推薦書作成のため産業史の整理検討を始めるため、2013(同25)年3月、有識者会議の下に「明治日本産業革命遺産」産業プロジェクトチームを設置。加藤は内閣官房の産業プロジェクトチームコーディネーターに就任し、技術史の整理に着手する。なお、同年9月に加藤は、関係者・有志とともに新日鉄住金名誉会長の今井敬、三菱商事元会長(現取締役相談役)の小島順彦ら財界の重鎮を説得し、民間の推進母体となる「一般財団法人産業遺産国民会議」を設立、自ら専務理事に就任した。この時点で、十数年かけ、産官学一体の推進体制ができあがった。

同年8月23日、文化庁の文化審議会が開催された。同審議会では「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」が同年度中の正式推薦候補に選ばれた。一方、内閣官房の産業遺産室の有識者会議は8月27日に開催され、文化庁から提示された課題に反論、文化審議会の決定を覆し、全会一致で本遺産群を推薦した。こうして「明治日本の産業革命遺産」は9月17日、安倍内閣の内閣官房長官・菅義偉の記者会見において、政府推薦の決定が発表された。そして同月27日、内閣官房より推薦書暫定版がユネスコに提出される運びになった。

規制改革によるこの新しい政府推薦のスキームが実現する過程においては、この当時内閣官房地域活性化統合事務局局長(現在の首相補佐官)だった和泉洋人ら、加藤の構想に賛同し支援・協力を惜しまなかった政府関係者の存在が大きい。とりわけ和泉は民主党政権の時より、実質的に規制改革のプロセスと、世界遺産の推薦の道筋を拓き、構想の実現を支えた。

2014年(平成26年)1月、安倍内閣は「明治日本の産業革命遺産-九州・山口と関連地域」(この時点での名称)をユネスコ世界文化遺産に推薦することを閣議了承、推薦書がユネスコに提出された。英文で484ページに及ぶ推薦書本体や新しい戦略的枠組みの元での稼働資産の保存管理計画など、加藤本人が編集責任をもちまとめ上げた。

こうして2015年(平成27年)7月5日、ドイツ・ボンで開催された第39回世界遺産委員会において「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産リストへの記載(遺産登録)が正式に決定。日本政府からユネスコ世界遺産センターへの推薦書の提出後、ICOMOS(国際記念物遺跡会議)の審査期間中、さらにその後のユネスコ世界遺産審査中において、韓国政府がICOMOS、世界遺産委員会の審査委員国を訪問し、激しい反対活動・反日プロパガンダを展開した。それに対し、加藤は、日本政府と共に推薦書の執筆責任者として、半年で17か国を訪問、各国に世界遺産の意義を説明した。会議の直前、加藤は内閣官房参与に就任し、日本政府代表団の一員として、同委員会や各国代表などへのロビー活動を積極的に展開、登録実現に奮闘した。その後も引き続き、同遺産の管理・保全・活用策や観光振興、世界遺産センターから出された課題、なお続く韓国の反対プロパガンダ活動への対応など、ユネスコ関連政策の再構築・実行に取り組んでいる。

この他、加藤は2008年(平成20年)に設立された一般社団法人日本プロジェクト産業協議会の日本創生委員会委員も務めている。

人物・エピソード[編集]

父親は国土庁長官、北海道開発庁長官、農林水産大臣を歴任した加藤六月(1926~2006年)。第3次安倍改造内閣で内閣府特命担当大臣を務める加藤勝信は義弟(妹・周子の婿)。1989年(平成元年)にトランスパシフィック・エデュケーション・ネットワーク㈱を一緒に起業した友人と結婚し、一男一女をもうける。夫とはその後離婚した。

類い希なバイタリティーと強烈な個性の持ち主。グローバルスケールの構想力、実現可能性を見極めた卓越した企画力、雄弁かつ情熱溢れる対話力・説得力には定評があり、外国語は英語のほか、インドネシア語も嗜む。わけても型破りな行動力はつとに名高く、「明治日本の産業革命遺産」の登録推進過程では、当該地域の県知事、市町村長など自治体トップや企業幹部をアポイントなしで訪問したことも度々。当初は反発、困惑していた多くの関係者が「いつの間にか加藤ファンになっていた」旨の証言をしている[1]

また、2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災発生の際には、「明治日本の産業革命遺産」の構成資産を抱える岩手県釜石市の被害状況を案じて、自ら6トントラックを手配して震災発生7日後には現地に駆けつけて救援物資を提供。同時に、目の当たりにした被災地・釜石の惨状を長文のレポートにまとめてメールで関係者や友人たちに緊急発信し、支援を呼びかけた。

国内外に幅広い人脈・ネットワークを持つことでも知られる。「明治日本の産業革命遺産」の計画作成過程では前出のスミス、イングリッシュ・ヘリテージ元総裁のニール・コリン、カナダの元ICOMOS会長ディヌ・ブンバル、豪ICOMOS元会長マイケル・ピアソン、豪ICOMOSのダンカン・マーシャル、豪文化審議会元会長ヘレン・ラードナー、豪ICOMOS元会長ジェーン・ハリントン、豪TICCIHのイアン・スチュアート、英国世界遺産コンサルタントのバリー・ギャンブル、TICCIH会長パトリック・マーチン、ヒストリック・スコットランドのマイルズ・オグリソープ、オランダ国防省研究所のアラン・レマーズ、独地理学会のディートリッヒ・ソイエ、インドのムルシュリ・ジョシほか、世界遺産・産業遺産の世界的権威を次々に日本に招き、候補選定に協力を仰ぐとともにグローバル的視点による“お墨付き”を得ることに結びつけた。

国内の政・財界にも知己が多い。一般財団法人産業遺産国民会議には、会長に三菱商事取締役相談役の小島順彦、代表理事に元大蔵事務次官の保田博が就任しているほか、理事、評議員には関係者に加え、父・加藤六月のかつての人脈も名を連ね加藤を支えている。名誉会長を務める今井敬(新日本製鐵元社長、第9代経済団体連合会会長)もその1人で、「六月先生から娘を頼むと言われているようだ」と語っている[2]。 ㈱フジテレビジョン代表取締役会長の日枝久、㈱渡辺プロダクション名誉会長の渡邊美佐らも名を連ねている。また、高校時代に師事した作家の林望、友人としては安倍晋三夫人の安倍昭恵、作家の林真理子がとも親しい。

脚注[編集]

  1. ^ 「PEOPLE」vol.1~10、明治日本の産業革命遺産ホームページ(http://www.japansmeijiindustrialrevolution.com/people/)所収など
  2. ^ 「人間邂逅 今井敬×加藤康子 『蛤の会』のご縁」、PRESIDENT2015年2月2日号(プレジデント社)所収

著書・論文等[編集]

関連項目[編集]

  • 内閣官房
  • 産業PT(造船産業、石炭産業、製鐵・製鋼産業、港湾) 座長
  • インタープリテ―ション部会座長

外部リンク[編集]