学校法人東洋英和女学院
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創立者 | マーサ・カートメル(メソジスト系宣教師) |
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団体種類 | 学校法人 |
設立 | 1884年 |
所在地 |
東京都港区六本木五丁目14番40号 (旧・麻布鳥居坂町) 北緯35度39分32.4秒東経139度44分6秒座標: 北緯35度39分32.4秒 東経139度44分6秒 |
法人番号 | 6010405001669 |
ウェブサイト | 東洋英和女学院 |
学校法人東洋英和女学院(がっこうほうじんとうようえいわじょがくいん)は、東京都港区六本木五丁目14番40号 (旧: 麻布区鳥居坂町)に本部を置く学校法人。
設立者はカナダ・メソジスト教会の婦人宣教師マーサ・カートメルと東洋英和学校会社(社長・小林光泰、平岩愃保、土屋彦六、淺川廣湖の4牧師による組織)。
来歴[編集]
- 1878年 カナダ・メソジスト教会宣教師のジョージ・コクランとデイヴィッドソン・マクドナルド、本国に婦人宣教師派遣を請願する。
- 1881年11月8日: カナダ・メソジスト教会婦人伝道会社(WMS)が設立される[2]。
- 1881年12月: マーサ・カートメル、WMS日本派遣婦人宣教師に志願[2]。
- 1882年12月27日: マーサ・カートメル、横浜に上陸[2]。
- 1883年: カートメル、女学校設立の必要をWMSに訴え、女学校設立を計画。東洋英和学校会社、カナダ・メソジスト教会の男女ミッションスクールを計画 。WMS、麻布東鳥居坂町14番地に土地(382坪)購入。[2]
- 1884年9月25日: 東京府知事より東洋英和女学校が設立認可される。小林光泰、初代校主に就任。マーサ・カートメル、初代校長に就任。[2]
- 1884年10月20日: 麻布鳥居坂に東洋英和女学校を開校[2]。
- 1884年11月6日: 政府の正式な認可を、村松一が婦人宣教師達に手渡す[2]。
- 1885年: マーサ・カートメル、静養のため校長を辞任。E.J.スペンサー(Eliza Jane Spencer、Mrs.ラージ)、第二代校長就任。
- 1889年: イザベラ・ブラックモーア校長が本科4年の受けに修業期間2年の高等教育を非公式で始める[3][4]。
- 1891年: ジェシー・マンローが校長に就任する。マンローは平岩愃保を議長とする外国人4名と日本人4名による商議員会を設け、組織化する。
- 1896年: 加茂令子が寄宿舎舎監になる。(-1936)
- 1899年: 高等科が公式に認可される。
- 1909年: 高等科が3年制に改められる。また、幼稚科と予科が小学科になる。
- 1913年: 高等科が4年制の英語科になる。
- 1914年: イザベラ・ブラックモーアにより附属幼稚園が設立される[5]。
- 1918年: 高等科が東京女子大学と合併し発展解消した。
- 1919年: 本科が高等女学校となった。また、付属保母養成所が設置され、実習は附属幼稚園で行われるようになる[5]。
- 1921年: 付属保母養成所が付属幼稚園師範科に改称される
- 1924年: 日本福音保母養成所を合併する。
- 1927年: 校章および制服を制定する。
- 1934年: 創立60周年記をむかえ、校歌を制定する。
- 1947年: 保母養成所が保育専攻部となり、高等女学校は中学部と高等部に分かれる。初等学校は小学部に改められる。
- 1950年: 保育専攻部が短期大学保育科に改組される。
- 1951年: 学校法人東洋英和学院が設立される。
- 1954年: 英文科が設置される
- 1963年: 保育専攻科・英文専攻科が設置される。
- 1973年: 横浜市緑区に短期大学付属かえで幼稚園を設立する。
- 1984年: 創立100周年記をむかえ、短期大学が横浜市緑区へ移転され、国際教養部が設置される。
- 1989年: 横浜市緑区に東洋英和女学院大学が設置される。
- 1999年: 短期大学が廃止される
設置校[編集]

幼稚園・小学部 (東京・六本木)
- 東洋英和女学院大学院
- 東洋英和女学院大学
- 東洋英和女学院中学部・高等部
- 東洋英和女学院小学部
- 東洋英和幼稚園
- 東洋英和女学院大学付属かえで幼稚園
- 東洋英和女学院生涯学習センター
歴代理事長[編集]
- 1884年(明治17年)9月25日 - 1887年(明治20年)5月 小林光泰 校主[2]
- 1887年(明治20年)5月 - 1933年(昭和8年)7月 平岩愃保 校主・設立者[6]
- 1933年(昭和8年)10月 - 1934年(昭和9年) 清水由松 設立者[6]
- 1934年(昭和9年)5月 - 1936年(昭和11年)5月 赤澤元造 理事長[6]
- 1936年(昭和11年) - 1950年(昭和25年)4月 清水由松 理事長[6]
- 1950年(昭和25年)6月 - 1974年(昭和49年)6月 古坂嵓城 理事長[6]
- 1974年(昭和49年)6月 - 1976年(昭和51年)7月 長野彌 理事長[6]
- 1976年(昭和51年)7月 - 1985年(昭和60年)3月 大村勇 理事長[6]
- 1985年(昭和60年)4月 - 1990年(平成2年)5月 西野嘉一郎 理事長[6]
- 1990年(平成2年)6月 - ? 亀徳正之 理事長[6]
- 1899年(明治32年)6月 - 1900年(明治33年)8月 村松一 校主代理[6]
- 1900年(明治33年)8月 - 1900年(明治33年) 12月 都筑直 校主代理[6]
- 1901年(明治34年) - ? 清水由松 校主代理[6]
- 1918年(大正7年) - 1919年(大正8年) M.クレイグ 設立者代理[6]
廃止校[編集]
- 東洋英和女学院大学短期大学部(東洋英和女学院短期大学) - 1998年(平成10年)をもって廃止
- 東洋英和学校[7]
脚注[編集]
- ^ 7月1日付で、新理事長が就任しました 東洋英和女学院 Topics
- ^ a b c d e f g h 東洋英和女学院120年史. 東洋英和女学院. (2005年2月25日). p. 385.
- ^ 当時の教育のようすは連続テレビ小説「花子とアン」に取り上げられたほか、林真理子の『白蓮れんれん』で白蓮が継子を東洋英和に入れようとする際の回想で描かれている。具体的には『村岡花子と赤毛のアンの世界』(河出書房新社)の村岡美枝「東洋英和の教育と『赤毛のアン』、「当時の東洋英和女学校と『赤毛のアン』の共通点」に描かれている。
- ^ 東洋英和女学院120年史によると、イザベラ・ブラックモーアが校長になったのは1890年である。
- ^ a b 東洋英和女学院120年史. 東洋英和女学院. (2005年2月25日). pp. 62-69.
- ^ a b c d e f g h i j k l m 東洋英和女学院120年史. 東洋英和女学院. (2005年2月25日). p. 302.
- ^ 現在の麻布中学校・高等学校の前身
参考文献[編集]
- 『東洋英和女学院120年史』東洋英和女学院、2005年2月25日
外部リンク[編集]
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