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天幕駅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
天幕駅
てんまく
Temmaku
上川 (5.6 km)
(6.7 km) 中越
地図
所在地 北海道上川郡上川町字天幕
北緯43度51分29秒 東経142度49分32秒 / 北緯43.85806度 東経142.82556度 / 43.85806; 142.82556座標: 北緯43度51分29秒 東経142度49分32秒 / 北緯43.85806度 東経142.82556度 / 43.85806; 142.82556
所属事業者 北海道旅客鉄道(JR北海道)
所属路線 石北本線
キロ程 50.5 km(新旭川起点)
電報略号 テマ
駅構造 地上駅
ホーム 1面1線
開業年月日 1929年昭和4年)11月20日[1]
廃止年月日 2001年平成13年)7月1日[2]
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天幕駅(てんまくえき)は、北海道上川郡上川町字天幕に存在した北海道旅客鉄道(JR北海道)石北本線鉄道駅である。2001年(平成13年)7月1日に廃止された。電報略号テマ事務管理コードは▲122509[3]

歴史

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1977年の天幕駅と周囲約500m範囲。右が遠軽方面。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)(現・地図・空中写真閲覧サービス)の空中写真を基に作成

開業当初は旅客も扱っていたが、1986年(昭和61年)11月1日ダイヤ改正で上川駅 - 白滝駅間の普通列車が1日1往復に削減されてから1日1往復のみの停車となり[4]、利用客僅少のため2001年(平成13年)7月1日に廃止された[2][4]

営業末期の2000年(平成12年)4月時点で停車列車は遠軽・網走方面が早朝6時台1本のみ、上川・旭川方面が夕17時台1本のみとなっており、普通列車のみで上川方面へ直接日帰り往復することが不可能となっていた[5]

年表

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駅名の由来

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もともと同地は明治30年代に「上留辺志部」の名称で殖民区画が募集され(当時は入植者が現れず不成功に終わった)[10]、開業時点の地名も「上川村字ルベシベ[6]」であったがその後字名は整理改称されている。

「天幕」の名称は1889年(明治22年)から1893年(明治26年)にかけて中央道路(のちの国道39号に相当)建設にあたって天幕(テント)が張られたことから出た通称とされ、『駅名の起源』(1939年版)ではこの説を採る[11]。この天幕については、測量時に張られたテントであったという説や[12]、土木工事に際しての天幕張りの事務所であったという説[11][13]がある。

このほか、後述の当地に住んでいた男性の渾名が「天幕三次郎」であったことから、それに由来するとした俗説があり、しばしば人名由来の地名・駅名と紹介される[14][15]

天幕三次郎

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殖民区画の制定前、おそらく中央道路建設と同時期の1890年(明治23年)ごろから[10]、同地の留辺志部川畔(留辺志部川と岩内川が合流する地点の西側で現在も小道が残る[16])で清水三次郎という男(以下三次郎)が小屋で狩猟生活をしていた[12]。彼は1866年頃に幕府旗本とアイヌの女性の間に生まれた子の一人(三男)とされ、「天幕三次郎」の渾名で呼ばれていた。この名がついた経緯については、中央道路測量のテントを張った場所に住みついたことから三次郎が自称したとする説[12]や、三次郎が天幕生活をしていたことからついた名とする説[14]などがある。なお、1869年明治2年)に現在の札幌市に同名の清水三次郎(1845年弘化2年)生まれ)と称する人物の存在が確認でき、同人物と天幕三次郎は親子の可能性があるとする説もある[16]

1897年(明治30年)頃には4間×9間の広い家を建て、4.5頭の馬を飼い同地で私設駅逓の役割を果たしていた。その後未亡人と結婚したが、未亡人の連れ子であったお花という女性と1903年(明治36年)に駆け落ちし、六号野上(現在の遠軽町栄野)の駅逓で駅逓夫として働いた[12]

その後、住民との間にお花とのうわさ話が広まったことと、1年後の10月に中央道路の郵便駅逓が廃止されたのを機に、栄野地内の沢筋(のちに三次郎が隠れ住んだことに由来して「隠れ沢」と呼ばれるようになる)でお花と共に再び猟業を始めた。しかし三次郎は翌春までに熊害に遭い死亡し、残されたお花は湧別屯田兵佐藤小三郎(1874年(明治7年)7月2日生まれ、1936年(昭和11年)9月29日没)と再婚し、1913年大正2年)に白滝においてやまさ旅館を営んだ後、1933年昭和8年)雄武に移って時計店(飲食店とも)を開業した[17][12]田辺朔郎の自著では、佐藤小三郎はお花と出会った当初から白滝の旅館の主人であり、結婚後は興部町に引っ越したとする[18])。

田辺朔朗と三次郎

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三次郎が当地で暮らしていたころの、1896年(明治29年)8月21日、北海道庁鉄道建設部長として鉄道敷設調査を行っていた土木技師、田辺朔郎らの一行は、同地で泊地を探している途上で彼の小屋に一泊することとなった。三次郎は彼らの寝食の世話をした[12][19][15]。田辺の自伝に引用された田辺の日記によると、三次郎は35~36歳のよく喋る小男であり、田辺と会う3年前に永山村(現在の旭川市永山)から移住し、1年前にはテンを数百匹捕まえて皮を剥ぎ、それを旭川で売って米と交換し生計を立てたと語ったとされている。天幕は9尺2間の広さがあり、屋根は雁皮蝦夷松の皮で葺いてあった。家具としては鍋や釜といった食事道具やランプ、神棚も持っていた。風呂は大きな木箱を川の支流に置き、石油缶に火をつけてそれを水の中に入れてお湯を沸かしていたというが、田辺が訪れた際には水が温まらず煙たかったために身体を拭くことしかできなかった[18]

このため、1973年に国鉄北海道総局が発行した『北海道 駅名の起源』をはじめとし、田辺による三次郎への感謝の気持ちの表れ、として、同地に設置される駅の名称が「天幕」となったと紹介する文献もある[19][15]

その後、1933年(昭和8年)6月に田辺は開通4年後の石北本線に乗車し、天幕駅を通過した際、三次郎を思い出し、恩返しをしたいと思い立ち、7月6日に当時の遠軽駅長・津田に「おそらく亡くなっているであろうが、もし遺族がいたらこれを届けてほしい」と香典を託した。その後、駅長雄武あるいは興部で暮らしていたお花のもとへ香典を届け、お花は駅長の計らいで旭川駅に立ち寄った田辺と興部駅鉄道電話で三次郎の思い出話を交わしたという[12][18]

廃止時の駅構造

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1993年(平成5年)時点で相対式ホーム2面2線を有する交換駅であり、下り本線側に駅舎が設けられていた[20]。しかし、廃止直前に交換機能が廃されたことにより、末期は1面1線の単式ホームとなっていた。

利用状況

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旅客営業当時の乗車人員の推移は以下のとおり。年間の値のみ判明している年については、当該年度の日数で除した値を括弧書きで1日平均欄に示す。乗降人員のみが判明している場合は、1/2した値を括弧書きで記した。

年度 乗車人員 出典 備考
年間 1日平均
1965年(昭和40年) (22,264.0) (61.0) [21] 年間乗降客数:44,528
1966年(昭和41年) (19,435.0) (53.2) 年間乗降客数:38,870
1967年(昭和42年) (16,233.0) (44.4) 年間乗降客数:32,466
1968年(昭和43年) (15,099.0) (41.4) 年間乗降客数:30,198
1969年(昭和44年) (13,418.0) (36.8) 年間乗降客数:26,836
1970年(昭和45年) (10,791.0) (29.6) 年間乗降客数:21,582
1971年(昭和46年) (8,114.0) (22.2) 年間乗降客数:16,228
1972年(昭和47年) (7,373.0) (20.2) 年間乗降客数:14,746
1973年(昭和48年) (8,039.0) (22.0) 年間乗降客数:16,078
1974年(昭和49年) (6,208.0) (17.0) 年間乗降客数:12,416
1975年(昭和50年) (4,527.0) (12.4) 年間乗降客数:9,054
1976年(昭和51年) (1,112.0) (3.0) 年間乗降客数:2,224
1977年(昭和52年) (590.5) (1.6) 年間乗降客数:1,181
1978年(昭和53年) (651.0) (1.8) 年間乗降客数:1,302
1979年(昭和54年) (278.0) (0.8) 年間乗降客数:556
1980年(昭和55年) (372.0) (1.0) 年間乗降客数:744
1981年(昭和56年) (292.0) (0.8) 年間乗降客数:584
1982年(昭和57年) (359.0) (1.0) 年間乗降客数:718
1992年(平成4年) (0) [22] 一日平均乗降客数:0

周辺

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駅跡記念碑

廃止後に駅舎は解体されたが、信号関係の建物は今でも残っている。かつての構内を通る本線の線形は2016年現在でも直されておらず、駅舎側に寄ったそのままの形に残されている。

駅舎があった所には旭川支社により記念碑が設置された。

  • 国道273号
  • リサイクルかみかわ(産業廃棄物処理施設)

隣の駅

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北海道旅客鉄道
石北本線
上川駅 - 天幕駅 - *中越駅
*:現在の中越信号場

脚注

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注釈

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  1. 支笏湖沿岸の美笛に開坑した千歳鉱山の金鉱石は、王子軽便鉄道により苫小牧駅へ、苫小牧駅から当駅へ送られてこの精錬所で精錬された。
  2. 当地では採掘をしない「金の出ない金山」とよばれていて、他山からの買鉱によって運用されていたが、最終的に政府の「自産なき山の精錬所は許可しない」方針により閉鎖となった。

出典

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  1. 1 2 3 4 石野哲 編『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』 II(初版)、JTB、1998年10月1日、917-918頁。ISBN 4-533-02980-9全国書誌番号:99032190
  2. 1 2 3 「JR年表」『JR気動車客車編成表 '02年版』ジェー・アール・アール、2002年7月1日、184頁。ISBN 4-88283-123-6
  3. 日本国有鉄道営業局総務課 編『停車場一覧 昭和41年3月現在』日本国有鉄道、1966年、244頁。doi:10.11501/18732362023年3月21日閲覧
  4. 1 2 3 4 5 6 7 8 曽根悟(監修) 著、朝日新聞出版分冊百科編集部 編『週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』 28号・釧網本線/石北本線、朝日新聞出版〈週刊朝日百科〉、2010年1月31日、22-23頁。
  5. 『JTB時刻表』第76巻第4号、JTB、2000年4月1日、705頁。
  6. 1 2 “鉄道省告示 第231号”. 官報 (内閣印刷局) (866). (1929-11-16). NDLJP:2957333.
  7. 1 2 3 4 都竹一衛・中条良作・松下敏雄 編『上川町史 2巻、上川町、1984年、691-692頁。doi:10.11501/29923912022年11月23日閲覧
  8. 鉄道百年記念 旭鉄略年表(1972年)』日本国有鉄道旭川鉄道管理局、1972年、33頁。doi:10.11501/12061017
  9. “「通報」●石北本線桜岡駅ほか12駅の駅員無配置について(旅客局)”. 鉄道公報. 日本国有鉄道総裁室文書課. 1983年1月10日. p. 2.
  10. 1 2 都竹一衛・青野績 編『上川町史』上川町、1966年9月10日、399-401頁。doi:10.11501/30214512022年11月23日閲覧
  11. 1 2 札幌鉄道局 編『駅名の起源』北彊民族研究会、1939年、96-97頁。NDLJP:1029473
  12. 1 2 3 4 5 6 7 天幕三次郎とカクレ沢”. えんがるストーリー. 遠軽町. 2018年10月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年10月18日閲覧。
  13. 更科, 源蔵アイヌ語地名解 : 北海道地名の起源』北書房、1966年、310頁。doi:10.11501/29855502022年12月6日閲覧
  14. 1 2 本多 貢 (1995-01-25). 児玉 芳明. ed (日本語). 北海道地名漢字解. 札幌市: 北海道新聞社. p. 150. ISBN 4893637606. OCLC 40491505 2018年10月16日閲覧。
  15. 1 2 3 太田幸夫 (2011-08-15). 北の保線 線路を守れ、氷点下40度のしばれに挑む. 交通新聞社. pp. 174-175. ISBN 978-4-330-23211-9
  16. 1 2 丸瀬布町史編集委員会 編『新丸瀬布町史』 下、丸瀬布町、1994年5月1日、1321-1323頁。doi:10.11501/13198174
  17. 丸瀬布町史編集委員会『新丸瀬布町史 下巻』1323頁(丸瀬布町、1994年)
  18. 1 2 3 田辺朔郎『石斎随筆』田辺朔郎、1937年9月10日、112-118頁。doi:10.11501/1221135
  19. 1 2 『北海道 駅名の起源』(第1版)日本国有鉄道北海道総局、札幌市、1973年3月25日、210頁。ASIN B000J9RBUY
  20. 宮脇俊三原田勝正 著、二見康生 編『北海道630駅』小学館〈JR・私鉄各駅停車〉、1993年6月20日、128頁。ISBN 4-09-395401-1
  21. 都竹一衛・中条良作・松下敏雄 編『上川町史 2巻、上川町、1984年、689-696頁。doi:10.11501/29923912022年11月23日閲覧
  22. 宮脇俊三原田勝正 著、二見康生 編『北海道630駅』小学館〈JR・私鉄各駅停車〉、1993年6月20日、128頁。ISBN 4-09-395401-1

関連項目

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外部リンク

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  • 1948年(昭和23年)撮影航空写真 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス。駅舎の右側に上屋のある櫛状の貨物ホームと木材が多く野積みされた土場へ貨物引込線、駅裏側にもホームから離れた位置に主に留置用とみられる側線が認められ、当時の標準的な一般駅構造を持っていた。