博義王

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博義王
HIH Fushimi Hiroyoshi.jpg
博義王
続柄 伏見宮博恭王第一王子
身位
敬称 殿下
His Imperial Highness
出生 1897年12月8日
死去 (1938-10-19) 1938年10月19日(40歳没)
配偶者 一条朝子
子女 光子女王
博明王
令子女王
章子女王
父親 伏見宮博恭王
母親 博恭王妃経子
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博義王(ひろよしおう、1897年明治30年)12月8日 - 1938年昭和13年)10月19日)は、明治・大正期の伏見宮家皇族海軍軍人[1][2]。 最終階級は海軍大佐[3][2]。 伏見宮第25代当主の伏見宮博恭王第1王子[4]。伏見宮の継承はしていないが、伏見宮博義王と通称されることもある[5][6]

来歴・人物[編集]

東京府立四中を経て、当時の皇族の軍学校入学の慣例として海軍兵学校入学。

1917年(大正6年)11月24日、海兵第45期で卒業し[7]、海軍少尉候補生任官(同日附で装甲巡洋艦磐手乗組)[8]。海軍将校となる[9]。この頃より気管支喘息が持病となった[3]。 同年12月8日、成年式を挙行[10]

1918年(大正7年)8月1日、海軍少尉任官と共に、戦艦扶桑乗組となる[11]

1924年(大正13年)12月1日、博義王(海軍大尉)は、峯風型駆逐艦島風水雷長に任命される[12]。当時の島風駆逐艦長は、小沢治三郎少佐[13]横須賀鎮守府は「田浦駅まで博義王を出迎えるように」と指示したが、小沢は「いくら殿下でも自分の部下だから出迎える必要はない」と判断[13]。博義王が島風に着任して艦長室での挨拶を終えてから、乗組員一同に新任水雷長(博義王)を紹介した[13][14]

1925年(大正14年)1月20日、小沢少佐(島風駆逐艦長)は第三号駆逐艦(改名後は朝風)駆逐艦長へ転任[15][16]。後任の島風駆逐艦長は小林宗之助中佐となった[16]。 4月20日、日本海軍は駆逐艦島風と姉妹艦波風の水雷長を入れ替える[17]西田正雄大尉(当時、波風水雷長)が島風水雷長に、博義王(当時、島風水雷長)が波風水雷長になった[17]

1926年(大正15年)1月15日、博義王(波風水雷長)は装甲巡洋艦出雲分隊長に補職[18]

1927年(昭和2年)5月20日、博義王(海軍大尉、出雲分隊長)は軽巡洋艦那珂水雷長に補職された[19]8月24日、第五戦隊(第1小隊〈加古古鷹〉、第2小隊〈神通那珂〉)は日本海での夜間演習に参加、神通は駆逐艦と衝突(蕨沈没、神通大破)、那珂は駆逐艦と衝突事故を起こす(美保関事件[20]。この事故発生時も、博義王は那珂水雷長として同艦に勤務していた[21]。 9月3日、那珂水雷長を免じられ第五戦隊司令部附となる[22]

1928年(昭和3年)12月10日、海軍少佐へ進級[23]。同日附で、駆逐艦の駆逐艦長に任命される[23]

1929年(昭和4年)12月1日、蓬駆逐艦長と蓮駆逐艦長を兼任していた伊集院松治少佐は兼務を解かれる[24]。博義王(少佐、樺駆逐艦長)は駆逐艦艦長に補職[24]。駆逐艦艦長の瀬戸山安秀大尉が、桐駆逐艦長と樺駆逐艦長を兼務した[24]

1930年(昭和5年)12月1日、駆逐艦2隻(波風、神風)艦長を兼任していた大森仙太郎少佐は、神風艦長の職を解かれる(大森は波風艦長に専念)[25]。博義王(少佐、蓬駆逐艦長)は神風型駆逐艦の1番艦神風艦長に任命された[25]。また神風が所属する第1駆逐隊の駆逐隊司令も、小沢治三郎大佐となった[25][26]。小沢の末娘と夫によると、小沢(第1駆逐隊司令)は博義王が操艦などを部下や侍従武官にやらせるのが気にいらず、「フネの一隻や二隻を沈めてもいいから、自分でやらせろ」と海軍省に怒鳴り込んだという[14]

1931年(昭和6年)1月31日附で第1駆逐隊司令小沢治三郎大佐は第4駆逐隊司令へ転任[26]原顕三郎中佐が第1駆逐隊司令に補職される[27]10月31日、第1駆逐隊司令は原顕三郎中佐から阿部弘毅中佐に交代した[28]

1932年(昭和7年)5月2日、神風駆逐艦長と沖風駆逐艦長を交代する人事が行われる[29]。神風駆逐艦長の博義王は沖風駆逐艦長となり、沖風駆逐艦長の田村劉吉少佐が神風駆逐艦長となった[29]。 12月1日附で、中原達平中佐(白雪および深雪艦長)は駆逐艦敷波艦長へ転任[30]。金桝義夫中佐(天霧艦長)は白雪駆逐艦長に、大森正直中佐(当時、姉妹艦吹雪艦長)が深雪駆逐艦長に、それぞれ補職[30]。日本海軍は博義王(沖風駆逐艦長)を、吹雪型駆逐艦天霧艦長に任命した[30]

1933年(昭和8年)10月11日、博義王(海軍少佐、天霧艦長)は海軍大学校選科学生となり、天霧を離れた[31]。11月15日、海軍中佐に昇進[32]

1934年(昭和9年)11月6日、軽巡那珂副長の佐藤波蔵中佐が青島特務艦長へ転任する[33]。この人事にともない、博義王(海軍中佐)は那珂副長に任命された[33]

1935年(昭和10年)11月15日、博義王(中佐、那珂副長)は敷設艦「厳島」艦長に補職[34]

1936年(昭和11年)12月1日、第3駆逐隊司令平塚四郎中佐が第30駆逐隊司令へ転任[35]。日本海軍は博義王(中佐、厳島艦長)を第3駆逐隊司令に任命する[35]。また皇族附武官も浦孝一中佐から早川幹夫中佐に交代した[35]1937年(昭和12年)の第二次上海事変に際し、引き続き第3駆逐隊司令として出征する[3][36]。同年9月25日、黄浦江にて作戦中、乗艦の駆逐艦「島風」が中国軍の射撃を受け[9]、博義王は左手を負傷した[37]。同乗の早川幹夫中佐も重傷を負った(後日、早川は第二水雷戦隊司令官として島風型駆逐艦島風沈没時に戦死)[38]。 博義王負傷の報は米内光政海軍大臣より昭和天皇に伝えられ、天皇は直ちに負傷見舞いを送っている[39][40]。10月25日、博義王第二女の令子女王が死去する[41]。前線の博義王は10月29日の葬儀に出られなかった[42]

同年11月15日、博義王は吹雪型駆逐艦3隻()で編制された第6駆逐隊司令に補職される[43]。 揚子江方面で行動中[9]、病気療養(潰瘍性口内炎)のため1938年(昭和13年)3月24日に帰国(芝浦着)、築地の海軍軍医学校に30日まで入院した[44]。4月18日、宮城にて昭和天皇および香淳皇后に対面した[44]。4月20日附で第6駆逐隊司令を免じられ、海軍大学校教官となる(第5駆逐隊司令江戸兵太郎中佐が、第5駆逐隊と第6駆逐隊司令を兼務)[45]

1938年(昭和13年)10月18日より持病の喘息が悪化[2]10月19日午前2時、心臓マヒのために薨去[46][2]。治療のため医者が薬を注射したところ、1時間後に急死したという[9]。享年42(満40歳)[46]。死亡により海軍大佐に進級[2]。父宮よりも早く薨去したため、伏見宮は承継しなかった。

血縁[編集]

高松宮妃喜久子とは従兄妹にあたる。

栄典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ #皇室近状コマ46『ヒロヨシ王 博恭王第一王子 明治三十年十二月八日御誕生 海軍中佐 大勲位』
  2. ^ a b c d e 昭和13年10月19日号外 国立国会図書館デジタルコレクション コマ1『告示◎宮内告示第二十七號 海軍大佐大勲位博義王殿下本日午前二時東京府東京市麹町區紀尾井町四番地伏見宮邸ニ於テ薨去セラル 昭和十三年十月十九日 宮内大臣 松平恒雄|敍任◎昭和十三年十月十九日 海軍中佐大勲位博義王 任海軍中佐|◎宮廷録事(略)◎博義王殿下御容体 海軍大佐大勲位博義王殿下ニハ去ル八月二十八日以來軽微ナル御持病ノ氣管支喘息御發作アリシモ比較的輕易ニ拝セシカ本月十八日午前一時頃急劇ニ激烈ナル御發作アリ今十九日午前一時再ヒ強烈ナル御發作アリ種々御手當申上ケタルモ同二時心臓麻痺ニテ薨去遊ハサル』
  3. ^ a b c 昭和天皇実録七649-650頁『博義王略歴』
  4. ^ #皇室画報コマ26『伏見宮家』
  5. ^ #皇室近状コマ41『御武勲赫々 尊き御身を以て上海、黄浦江上に於て驅逐隊司令として御奮戰、御名譽の御負傷あらせられ誠に恐懼の極みである。赫々たる武勲を立てさせられ御歸還の伏見宮博義王殿下〔御右〕』
  6. ^ #皇室近状コマ75(原本62頁)『伏見宮博義王殿下 御奮戰中名譽の御負傷』
  7. ^ 昭和天皇実録第二342頁『(大正十一年十二月)五日 水曜日(略)今般海軍兵学校卒業の博義王に、御悦として三種交魚を御贈進になる。御昼餐後、御礼言上のため参殿の博義王に御対顔になる。』
  8. ^ 大正6年11月25日 官報第1601号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ5-6
  9. ^ a b c d 天皇・伏見宮と日本海軍57-59頁『日本海軍とともに歩んだ伏見宮』
  10. ^ 昭和天皇実録第二342頁『(大正六年十二月)八日 土曜日(略)博義王成年式挙行につき、東宮侍従亀井茲常を同王在住の華頂宮邸へ差し遣わされ、鮮鯛一折を御進呈になる。』
  11. ^ 大正7年8月2日官報1800号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ4(原本30)『任海軍少尉 海軍少尉候補生 博義王』、コマ5(原本332)『扶桑乗組被仰付 海軍少尉 博義王』
  12. ^ 大正13年12月2日(火)官報3684号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ14(原本58)二段
  13. ^ a b c 智将小沢治三郎102-103頁
  14. ^ a b 智将小沢治三郎103-105頁
  15. ^ 智将小沢治三郎108頁
  16. ^ a b 大正14年1月21日(水)官報第3722号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ5(原本417、三段)
  17. ^ a b 大正14年4月21日(火)官報3796号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ3(原本529)三段
  18. ^ 大正15年1月16日(土)官報第4016号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ3(原本285)四段
  19. ^ 昭和2年5月21日(土)官報第116号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ6(原本561)
  20. ^ 天皇・伏見宮と日本海軍18-19頁『伏見宮の心情』
  21. ^ 「美保関沖で夜間演習中軍艦四隻の大衝突」1927年8月6日付 大阪朝日新聞(神戸大学附属図書館 新聞記事文庫)
  22. ^ 昭和2年9月5日(月)官報第207号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ4(原本102)二段
  23. ^ a b 昭和3年12月11日(火)官報第587号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3(原本357)三段『海軍大尉大勲位 博義王 任海軍少佐』・コマ10(原本270)四段(補樺艦長)
  24. ^ a b c 昭和4年12月2日(月)官報第878号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ13(原本25)二段
  25. ^ a b c 昭和5年12月2日(火)官報第1179号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ10(原本50、一段)小澤補職・(原本51、四段)大森免職、コマ11(原本53、二段)博義王補職
  26. ^ a b 智将小沢治三郎111頁
  27. ^ 昭和6年2月3日(火)官報第1227号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ6
  28. ^ 昭和6年11月2日(月)官報第1454号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ15
  29. ^ a b 昭和7年5月3日(火)官報第1599号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ55
  30. ^ a b c 昭和7年12月2日(金)官報第1778号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ9(原本49)金桝免職、コマ10(原本50)博義王補職
  31. ^ 昭和8年10月11日(水)官報第2035号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ4(原本259)
  32. ^ 昭和8年11月16日(木)官報第2064号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ4(原本394、一段)海軍少佐大勲位 博義王 任海軍中佐
  33. ^ a b 昭和9年11月7日(水)官報第2356号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ2(原本155、四段)
  34. ^ 昭和10年11月16日 国立国会図書館デジタルコレクション コマ9(原382)遠藤昌免厳島艦長、コマ10(原383)博義王補職、コマ11(原384)皇族附武官浦孝一中佐
  35. ^ a b c 昭和11年12月2日 国立国会図書館デジタルコレクション コマ21(原73)平塚免職、コマ22(原74)博義王・早川補職(原74)浦免職
  36. ^ #皇室近状コマ81『博義王殿下第一線に(八、三一)』
  37. ^ 支那事変実記2輯コマ133-134(原本255-256頁)『伏見宮博義王には、第三驅逐隊司令として重要任務に御従事中のところ、本日午後黄浦江江遡航中、日本優先浦東桟橋附近に據れる敵を發見攻撃中、午後三時四十分頃敵彈のため畏くも御左手に御負傷遊ばされたが、御自ら破片をお抜き遊ばされた後、假繃帶まで御自身で遊ばされ、極めて御元氣に、再び御任務に就かれたといふ。此の殿下の御勇敢さに麾下の将兵一同は感激、一層任務に邁進せんことを誓つたと傳へらる。』
  38. ^ #皇室近状コマ75(原本62頁)『繃帶を巻かせられ病院御見舞』
  39. ^ #皇室近状コマ82『博義王御戰傷に御見舞(九、二六)』
  40. ^ 昭和天皇実録七420-421頁『(昭和十二年九月)二十六日(博義王の負傷)』
  41. ^ 昭和天皇実録七441-442頁『(昭和十二年十月)二十六日 火曜日(令子女王薨去)』
  42. ^ #皇室近状コマ84『御父宮は戰線に(一〇、二五)/御葬儀(一〇、二九)』
  43. ^ 昭和12年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報 号外第91号 p.23柴田力大佐(免6dg司令)、p.24大石堅志郎中佐(補3dg司令)・博義王(補6dg司令)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072072500 
  44. ^ a b 昭和天皇実録七542-543頁『(昭和十三年四月)十八日 月曜日(中支より帰還の博義王と御対面)』
  45. ^ 昭和13年4月20日(発令4月20日付)海軍辞令公報(部内限)号外第171号 p.32』 アジア歴史資料センター Ref.C13072073700 
  46. ^ a b 昭和天皇実録七巻649頁『(昭和十三年十月)十九日 水曜日(博義王薨去)』
  47. ^ #皇室近状コマ83-84『伏見宮令子女王殿下薨去(一〇、二五)』
  48. ^ 昭和12年10月26日 国立国会図書館デジタルコレクション コマ3『◎宮内省告示第三十二號 令子女王殿下本日午前二時十五分東京府東京市麹町區紀尾町四番地伏見艇ニ於テ薨去セラル 昭和十二年二十五日 宮内大臣松平恒雄』
  49. ^ 『官報』第1499号、「叙任及辞令」1931年12月28日。p.742

参考文献[編集]

  • 生出寿 『昭和天皇に背いた伏見宮元帥 軍令部総長の失敗』 潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2016年10月(原著1991年)。ISBN 978-4-7698-2971-3
  • 生出寿 「水雷学校、海軍大学校の戦術教官」『智将小沢治三郎 沈黙の提督 その戦術と人格』 潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2017年7月(原著1988年)。ISBN 978-4-7698-3017-7
  • 宮内庁編 『昭和天皇実録 第二 自大正三年至大正九年』 東京書籍株式会社、2015年3月。ISBN 978-4-487-74402-2
  • 宮内庁編 『昭和天皇実録 第七 昭和十一年至昭和十四年』 東京書籍株式会社、2016年3月。ISBN 978-4-487-74407-7
  • 野村實 『天皇・伏見宮と日本海軍』 文藝春秋、1988年2月。ISBN 4-16-342120-3

関連項目[編集]

外部リンク[編集]