刀工
刀工(とうこう)は、刀剣、特に日本刀を作る職人のことである。鍛人(かぬち)、鍛師(かなち)、刀鍛冶(かたなかじ)、刀匠(とうしょう)などとも呼ばれる。
刀剣を製造することを鍛刀(たんとう)といい、鍛刀される場所・地域を鍛刀地(たんとうち)という。
また、鍛刀地および鍛刀技術や特徴を同じくするものを刀派(とうは)、流派(りゅうは)、刀工群(とうこうぐん)、刀工集団(とうこうしゅうだん)と呼ぶ。[1][2][3][4]
鍛刀
日本刀を作るには数段階あり、それぞれの段階の職人がいる。
- 鉱山師 - 鉱物を掘り出す
- 鉄穴師(かんなじ) - 砂鉄を採集し砂と分ける
- タタラ師 - たたら吹きの一種たたら製鉄し砂鉄を溶かす
- 山子 - 炉の火のための炭を焼く
- 刀鍛冶 - 鉄を製品に加工する(ここでは、鉄の塊を鍛造し日本刀にする)
- 彫師 - 刀に梵字や装飾図を彫る[5]
- 鞘師 - 刀にあわせて、鞘を作る
- 研師 - できあがった刀を研ぐ
広義には上記全てが刀工とも言えるが、本項では主に刀鍛冶(職人以外を含む)について述べる。
歴史と主な刀派
日本刀は、慶長以前を古刀期、以降を新刀期に分けられる。また、流派(刀派)で記載するのが一般的である。[6]ここでは、主な刀派と国宝、重要文化財に指定されている代表的な刀匠を中心に記載する。
古刀期
上古
古事記や日本書紀などに記録されている神代(かみよ)から奈良時代(延暦24(805年)まで。
- 祖神:天目一箇神(あめのまひとつのかみ)
刀匠の祖神は『日本書紀』に高皇産霊神が大物主神に詔(みことのり)した段にみられる天目一箇神で、[7] 『古事記』天岩戸の段で、思金神に呼ばれた鍛人天津麻羅(あまつまら)[8]と同一神との説もあるが、天叢雲剣を天照皇大神のために造ったと伝承されている。この剣は人皇第12代景行天皇の皇子日本武尊の草薙剣で、熱田神宮の御神体として伝来されている。
- 倭鍛部(やまとかぢべ)の天津真浦(あまつまうら)
『日本書紀』綏靖天皇記[9]に鹿を射る鏃(やじり)を作らせる記事があり、職制としての鍛冶が伺われる。
- 太刀佩部の川上部(かはかみのとも)
『日本書紀』垂仁天皇記に、五十瓊敷命(いそたましきのみこと)は太刀佩部の川上部(かわかみのとも)に千振の剣を作らせた。[10]
『古事記』応神天皇記に、百済の照古王(近肖古王か)が和邇吉師に鍛冶の卓素を献上した。[11] 近肖古王は七支刀を神功皇后時代に献上している。
銘尽には、大宝年中に作刀し銘を切るとある。[12]同書には、次の順序で神代の鍛冶を記載している。藤戸(神武天皇御剣)、国重(宇佐明神)、天国(村雲剣)、天藤(春日大明神)、海中(龍王)など。
平安時代
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大同元年(806年)から寿永2年(1183年)まで。 坂上田村麻呂の蝦夷征伐、藤原秀郷、平高望、源経基ら武士の台頭、僧兵、承平天慶の乱、治承・寿永の乱(源平合戦)などの時代背景から、湾刀形で芯鉄(しんがね)を入れた鍛刀による強靭でしなやか、かつ信仰の対象ともなる日本刀の誕生はこの頃であるといわれている。「小烏丸」(御物)は平貞盛が平将門の乱を天慶3年(940年に平定した褒賞の刀と伝承されており、鍛造の特徴から、平安時代中期頃の大和鍛冶の作と見られている。製鉄技術は当時貴重であり、租税として製鉄品が朝廷や寺社が取り立てており、自然と刀工の活躍地域は近畿地方、もしくは製鉄の産地から始まった。最も古いと見られているのは大和国に興った「大和伝」で、続いて「山城伝」、「備前伝」が興ったと見られている。この3伝法が今日に至るまでの刀剣製作の基本的な技法となる。特に大和伝は、奈良時代より奈良を中心に各地の寺社領へと広まったため、その影響下にある刀工は多い。(相州伝、美濃伝は上述3伝法を発展させて誕生した)
各地の伝法、流派、著名刀工は以下の通り。
- 大和伝 - 大和国(古千手院派・行信、重弘)。西国等(豊前国の神息、豊後国の僧定秀、行平、薩摩国の(波平派)行安、安行)、陸奥国(寶寿、舞草、月山等)。
- 山城伝 - 山城国(三条派・宗近、五条派・国永、兼永)
- 備前伝 - 備前国(古備前派・友成、正恒、包平)
- その他 - 伯耆国の安綱、安家、真守、国宗。備中国(古青江派の正恒、貞次、恒次)。
鎌倉時代
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元暦元年(1184年)から元弘3年(1333年)まで。 鎌倉幕府が相州鎌倉の地で興り、京都中心の前政治体制から大きく転換。前時代から萌芽の見られた武家社会が本格的に始まった。依然として製鉄産地での刀剣製作が主流であったが、鎌倉の地にても刀剣製作が始まった。幕府が各地の著名工を集ったと伝わり、備前から福岡一文字の助真、備前三郎国宗。京都から粟田口藤六左近国綱、新藤五国光が赴いた。 鎌倉で刀剣研究が行われる一方、承久の乱を引き起こした後鳥羽上皇は自らも作刀し、天皇家に遣える武家に太刀を与えた。これは「御番鍛冶制度」と呼ばれ、月替わりで、京、備前、備中等の著名刀工を招いた。茎に十六葉の菊紋が彫ってあることから「菊御作」と呼ばれる。 承久の乱後、蒙古襲来があり、大鎧対抗を前提とした重厚な刀剣の姿から反省を生かし、今までの刀剣の姿に改良が加えられつつ、南北朝時代を迎えることとなる。鎌倉で作刀が始まったとは言え鎌倉時代の主力産地は備前であり、鎌倉で新たに興った「相州伝」は次の時代にその特徴が全国へ広まることとなる。主な流派は以下の通り。
- 山城伝 - 山城国(粟田口派の則国、国友、久国、国吉、吉光、国安、国綱。綾小路派の定利、守利。来派の国行、国俊、国光、光包、了戒)。肥後国(延寿派の国村、国資、国時)
- 備前伝 - 福岡一文字派諸工。吉岡一文字派諸工。長船派の光忠、長光、景光。畠田派の守家、真守。宇甘派の雲生、雲次、雲重。
- 大和伝 - 大和国(千手院派。当麻派の国行、有俊。手掻派の包永。尻縣派の則弘、保昌派の貞吉、貞宗。)。備後国の古三原派、二王派。越中国の宇多派。その他は前時代の門跡を継ぐ(著名刀工に、筑前国の西蓮、実阿がいる)。
- 相州伝 - 相模国(新藤五国光、国廣、藤三郎行光、正宗)。越中国の則重
- その他 - 備中国(中青江派の貞次、為次、康次、吉次、次吉)
南北朝時代
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建武元年(1334年)から明徳4年(1393年)まで。 後醍醐天皇の建武の新政は足利尊氏の離叛で南北朝の争乱として60年続く。刀剣は勇壮で実用的な相州伝が全国へ普及した時代でもある。主な流派は以下のとおり。
- 山城国(了戒と相州伝系:信国と信国派、相州伝系:長谷部国重と長谷部派。三条派:吉則)
- 大和国(手掻派:包次、尻縣派:則長、保昌派)
- 陸奥国(月山派)
- 相模国(相州伝:貞宗、廣光、秋広)
- 美濃国(志津派:兼氏、金重派:金重)
- 備前国(相伝:兼光、義光、長船派:長光、雲次と鵜飼派、盛景と大宮派)
- 備中国(貞次(後代)と青江派)
- 備後国(三原正家と三原派)
- 周防国(清綱とニ王派)
- 筑前国(左衛門三郎安吉と左文字派、金剛兵衛盛高と金剛兵衛派)
- 豊後国(高田友行と高田派)
- 肥後国(延寿派:国時)
- 薩摩国(波平行安と波平派)
- 土佐国(吉光)
室町時代
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刀剣史では前期を応永元年(1394年)から文正2年(1467年)まで、後期を応仁の乱(応仁元年(1467年)から文禄4年(1595年)までを戦国時代としている。 南北朝の戦乱が終わり平和な時代が始まり、御番鍛冶様式の優美な作が増える。偑刀(はいとう)方法が変わり、刀と脇指(わきざし)の二本を指すようになった。また、備前伝が全国へ普及した時代である。主な流派は以下のとおり。
- 山城国(京信国派:応永信国、三条派:三条吉則、平安城派:平安城長吉)
- 大和国(尻縣派:包吉、手掻派:包吉、金房派(かなぼうは):正重)
- 摂津国(来国長と中島来派)
- 相模国(相州伝:正広、広正)
- 美濃国(直江志津派:兼友、善定兼吉と善定派)
- 加賀国(友重と藤島派)
- 越後国(安信と山村派)
- 越中国(国宗と宇田派)
- 豊後国(高田派:高田長盛、了戒能真と了戒派)
- 筑後国(家永と大石左派)
- 肥前国(盛広と平戸左派)
戦国時代
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応仁の乱(応仁元年(1467年)から文禄4年(1595年)まで。 京鍛冶は応仁の乱により地方へ移住。注文刀とは別に、応仁の乱と対明貿易により大量の刀剣が必要となり数打ち物という粗製濫造刀も出現した。後期には伝統古法の技術の衰微ともなった。
- 山城国(三条派、平安城派、鞍馬派)
- 伊勢国(村正と千子派)
- 美濃国(兼定派、孫六派)
- 駿河国(島田派)
- 相模国(相州伝:綱広)
- 武蔵国(下原鍛冶)
- 若狭国(小浜派)
- 加賀国(藤島派)
- 備前国(長船派:勝光、宗光))
- 備後国(三原派、法華系、長房派)
- 伯耆国(広賀派)
- 土佐国(吉光派)
- 阿波国(海部派)
- 豊前国(宇佐信国派)
- 豊後国(高田派、筑紫了戒派)
- 肥後国(銅田貫派)
- 薩摩国(末波平)
新刀期
慶長元年(1596年)から現在まで)。さらに安永以降を新々刀、大正以降を現代刀と細分している。
江戸時代前期〜中期
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織田信長、豊臣秀吉、徳川家康等が刀剣を政策的に利用したことで刀工の地位が上がった。また運輸交通の発達による砂鉄の確保、南蛮鉄の利用などにより、鍛刀法が変化した。埋忠明寿は古三条宗近の末孫を名乗り、綺麗な地鉄による作刀を行ったため、新刀の祖と呼ばれている。[13] その後、寛文新刀の時代を経るが、その後、元禄時代(1688年~1703年)では最も衰微した時代となるが、徳川吉宗が享保6年(1721年)、全国から名工を集め鍛刀させ、一平安代、主水正正清、信国重包に一つ葵紋を許可し、尚武を推進し、次の新々刀期へむかう。主な流派は以下のとおり。
- 山城国(埋忠明寿と埋忠派、堀川国広と堀川派)、伊賀守金道と三品派)
- 摂津国(津田助広と津田派、和泉守国貞派:井上真改)
- 紀伊国(南紀重国と重国派)
- 武蔵国(長曽禰虎徹、野田繁慶と野田派)
- 陸前国(山城大掾国包と国包派)
- 筑前国(信国吉貞と筑前信国派)
- 肥前国(初代忠吉と近江大椽忠広:陸奥守忠吉))
- 薩摩国(氏房派:主水正正清、波平派:一平安代)
新々刀期
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安永(1772年)期から明治末期(1912年)頃までを言う。 新々刀の祖水心子正秀は南北朝を理想とし古伝模倣を推奨し、復古刀全盛となった。また、幕末の世情により刀剣の需要も増えたため、刀工も増加した、しかし、明治9年(1876年)の廃刀令で刀工が激減した。しかし、廃刀令には軍人の軍刀は認められており、また、明治天皇が刀剣に趣味があり、帝室技芸員に月山貞一(初代)および宮本包則が選ばれるなど鍛刀技術の保護育成もあった。主な刀工を以下に記す。
現代刀
昭和6年(1931年)の満州事変以降、軍刀需要が増加し、昭和8年(1933年)、栗原彦三郎(昭秀)の日本刀鍛錬伝習所、同年靖国神社に日本刀鍛錬会が設立され、刀工養成に力がそそがれた。 昭和20年の終戦で武装解除としてGHQは赤羽に数十万口の刀剣類を没収(赤羽刀としてあったが、平成7年1995年には法律により関連の美術館。博物館で展示されている)、刀剣の制作も禁止した。その後関係者の努力で、昭和29年(1954年)に、第一回新作刀展が開催されるなど。伝統的刀工を育成・増加させる試みがなされた。 平成の現代では、刀鍛冶になるために、刀匠資格を有する刀工の下で4年の修業を終え文化庁主催の作刀実地研修会を終了した者、約300人が芸術家として活躍している。
重要無形文化財保持者は以下のとおり。
逸話・伝説
鉄の塊から鋭利な刃物を作る技術者である彼らは、しばしば神秘的な存在としてみられた。 たとえば、正宗には「刀の切れ味を決める焼き入れの際の水の温度を知ろうとして水に手を触れた弟子の手を斬って落とした」、小鍛冶宗近の「小狐丸」には稲荷大明神の化身が作刀を手伝ったなどの逸話がある。他にも伝説上の刀工「天国」(あまくに)は日本刀剣の祖とされ、平家重代の宝刀「小烏丸」や江戸亀戸天神の宝剣も天国の作といわれる。特に後者は「一度鞘から抜き放てば必ず豪雨を呼ぶ」という逸話も残されている。
また、日本の古い物語上で土蜘蛛あるいは鬼といった妖怪として退治されていった者たちは、この製鉄に関わる者たちであったという説もある(沢史生説)。信仰のなかに火男がおり、天目一箇神や一つ目小僧、産婆との関係も論じられている[14]。
脚注
- ^ 松枝達文『岡山県大百科事典』山陽新聞社(昭和55年)
- ^ 得能一男『日本刀事典』光芸出版(平成15年)
- ^ 歴史群像編集部『図解日本刀事典』学習研究社(2006年)
- ^ 刀工群・刀工集団は同一鍛刀地の刀工を指し、刀派・流派はそれに加えて同一鍛刀地の刀工の技術・特徴も含む呼び方である。
- ^ 簡単な梵字などは刀鍛冶が行う場合も多いが、特に彫刻が装飾化した江戸時代以降の刀で、明らかに上手なものは専門の彫師の手によるものであることが多い。これの代表的な例が、越前康継製作の刀剣であり、康継の彫りある刀剣の殆どは記内一門によるものである。しかし、刀鍛冶に比べて身分が低かったのか、刀の銘に誰が彫ったかなどの銘が記されていることは少ない。江戸時代以降の刀工で自身の刀に彫刻を施す者は少なく、専門の彫師より上手くないことが多い。ただ、例外があって江戸時代の刀工でも埋忠明寿、堀川国広、長曽祢虎徹、一竿子忠綱、栗原信秀、月山貞一などは極めて上手い彫刻を自身の刀に施す。また、彫師は所有者の好みなどで元々彫刻の無い刀に後彫りすることもある。
- ^ 常石英明著『日本刀の研究と鑑定』 書誌所蔵:http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BN13329048 など
- ^ 『日本書紀』巻二神代下第九段一書第二に「高皇産靈尊、大物主神に勅す(中略)天目一箇神、爲作金者」とある。原文:http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=50001943&VOL_NUM=00001&KOMA=34&ITYPE=0国立国会図書館近代デジタルライブラリー『国史大系』第1巻、『日本書紀』巻ニ
- ^ 『古事記』上巻。原文http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=50001943&VOL_NUM=00007&KOMA=27&ITYPE=0 国立国会図書館近代デジタルライブラリー、『国史大系』第7巻 『古事記』
- ^ 『日本書紀』巻四、冬十一月の条「倭鍛部天津真浦造真鏃」。原文:http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=50001943&VOL_NUM=00001&KOMA=56&ITYPE=0 国立国会図書館近代デジタルライブラリー、『国史大系』第1巻『日本書紀』巻四<a/>
- ^ 『日本書紀』巻六、三十九年冬十月条に「五十瓊敷命居於茅渟菟砥川上宮作劔一千口因名其劒謂川上部」とある。http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=50001943&VOL_NUM=00001&KOMA=72&ITYPE=0 原文:国立国会図書館近代デジタルライブラリー、『国史大系』第1巻、『日本書紀』巻六
- ^ 『古事記』品陀和氣命(応神天皇)に「和邇吉師者、文首等祖又貢上手人韓鍛、名卓素、亦呉服西素二人也」とある。原文:http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=50001943&VOL_NUM=00007&KOMA=72&ITYPE=0 国立国会図書館近代デジタルライブラリー、『国史大系』第7巻『古事記』
- ^ http://rarebook.ndl.go.jp/ 国立国会図書館、貴重書、銘尽 p.15
- ^ 『校正古今鍛冶銘早見出』
- ^ 谷川健一『鍛冶屋の母』思索社1979年