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== 略歴 ==
== 略歴 ==

2012年3月12日 (月) 09:33時点における版

JTサンダーズ
原語表記 日本たばこ産業男子バレーボール部
ホームタウン 広島県広島市
クラブカラー
創設年 1931年
所属リーグ V.プレミアリーグ
チーム所在地 広島県広島市
体育館所在地 同上
代表者 栗生澤淳一
監督 久保義人
ホームページ 公式サイト
猫田記念体育館
猫田記念体育館
広島県立総合体育館グリーンアリーナ
広島県立総合体育館グリーンアリーナ
呉市総合体育館オークアリーナ
呉市総合体育館オークアリーナ

JTサンダーズ(じぇいてぃサンダーズ、: JT Thunders)は、広島県広島市を本拠地に活動する、Vプレミアリーグ所属の男子バレーボールチーム。

概要

1931年ごろ創部。母体は「日本たばこ産業(JT)」。1985年の専売制度廃止までは、日本専売公社広島地方専売局のバレーボールチームだった。同じくJTを母体とするバレーボールチームに、女子のJTマーヴェラスが存在する。チーム名はプレーする選手たちの勇姿から、「稲妻(Thunder)」をイメージして名づけられた。チームカラーは母体の企業カラーと同じ「緑」。チームマスコットは、雷をモチーフとした「サンダー坊や」。

広島県内での試合会場は、広島市中区広島県立総合体育館や、呉市呉市総合体育館などを用いている。練習拠点は広島市南区にある猫田記念体育館[注 1]

戦前から活動している日本でも古参のチームで、1967年から始まった全日本バレーボール選抜男女リーグ(日本リーグ)の初期6チームの一つである。それから今日のプレミアリーグ(Vリーグ)に至るまで、1度も2部落ちせずトップリーグで活躍する唯一のチームである。その間2位が6回あるものの、優勝はない。2007年、日本リーグ時代から1度も2部落ちせずトップリーグで在籍した業績を讃え、節目のリーグ40回目に日本バレーボールリーグ機構から特別功労賞として唯一の団体表彰を受けた。

歴史

創設期

1931年(昭和6年)、大正時代末からあった女子排球部[注 2]の練習相手をしていた男子選手たちが中心となり、『大蔵省広島専売局男子排球部』として正式に発足したと言われているが、広島市への原子爆弾投下による記録資料消滅の為、詳細などは不明である。現在もVリーグに参加するチームでは、堺ブレイザーズ(元新日鉄)と共に最も古くから有るチームである。戦前は黄金期を築いた呉海軍工廠が全国大会で5度優勝するなど圧倒的に強く、全国大会には1度も出場出来なかった。

1945年(昭和20年)、被爆により広島専売局は6日間燃え続け7割方を焼き尽くし、従業員の8割が重軽傷を負った。このため部活動は再開されたもののバレー部の選手は、当時レベルが高く全盛時代だった地域のクラブチームへ参加した。

1952年(昭和27年)の第1回全日本都市対抗優勝大会では、芸陽クラブに主力選手を送り3位となった。翌年1953年、当時の宿敵であった帝人三原を全国実業団選手権大会県予選で降し、ようやく全国大会に初出場した。1955年の同大会では、メンバーギリギリの9人で優勝候補筆頭の日本鋼管(現JFE)を破り、ベスト4入りし名声を高めた。ところが、今度は帝人三原が1956年の全国実業団を制すなど絶頂期を迎え、更に東洋工業(現マツダ)まで強くなって、なお苦難が続いた。

専売広島

1957年(昭和32年)、国際オリンピック委員会総会がバレーボールを正式種目とすることを決定し、国際ルールである6人制への切り替えが急がれ、チームも6人制と9人制を両立した。

1958年(昭和33年)、チーム名を『専売広島』に変更。同年、富山国体ではベスト8に進出。またこの頃から力を付け始めた地元・崇徳高校からの出身者が増えチームの主軸となっていった。

1962年(昭和37年)、崇徳高校から他チームの勧誘を振り切って猫田勝敏が入社。同時に全日本入りした猫田に対して、日本バレーボール協会から「中央の6人制のチームへ移るべき」との意見が出され、当時の全日本監督・松平康隆からも「専売広島にいてはダメだ」と叱咤を受けた。これを機にチームも6人制に力を入れ、1965年(昭和40年)からは一本化した。

昭和30年代(1950年代中期)に入り、大学卒の地方局採用が中止されたため、補強出来ない状況になった。チーム強化はうまく進まなかったものの、厳しい練習の甲斐あって1967年(昭和42年)の全日本6人制実業団選手権で3位、同年の都市対抗でも3位。

そして、同年1967年に始まったバレーボール選抜男女リーグの、最初の参加6チームの一つに選ばれた。この頃、人気が出始めたバレーに、各企業もイメージアップのため参加を検討。公社である専売広島は思うような部費が得られず、選に洩れるのでは、という予想が多かったが、関係者各位の努力によって参加が認められた。

その後、1979年(昭和54年)の宮崎国体で優勝し、チーム初の日本一に輝く。1981年(昭和56年)の滋賀国体でも優勝。

母体の都合により、1985年(昭和60年)から 『日本たばこ』、1988年(昭和63年)から『JT』に名称変更。この間、日本リーグ時代は2位が2回と一度も優勝は出来なかった。また、リーグで2度最下位になるも、入替戦で勝利し残留を果たしている。

JTサンダーズ

1994年から始まったVリーグにも、最初の8チームとして参加。同年、平野信孝が入団してからは、チームはさらに力を付けVリーグや全日本選手権(黒鷲旗)でも度々優勝争いに加わるようになった。

1999年、元ソ連男子代表監督のゲンナジー・パルシンを初の外国人監督として、元ソ連代表のオレーク・アントロポフをコーチに招聘する。パルシンのもと、2001年全日本選手権(黒鷲旗)で悲願の初優勝[1]、2004年にも同大会で優勝した。国体では2001年の宮城国体で20年ぶりに国体優勝を果たすと[2]、翌2002年高知国体も優勝し2連覇、2004年埼玉国体[3]・2005年岡山国体でも2連覇した。2005年、RPAペルージャから加藤陽一を獲得し強化に務めた。

2006年、パルシン勇退に伴いアントロポフが監督に昇格する[4]。同シーズン末、特別功労賞として唯一の団体表彰される[5]。翌2007年秋田国体優勝する[6]も、リーグ開幕前にアントロポフが体調不良により帰国したため栗生澤淳一コーチが監督代行に、臺光章と平野がコーチ兼任選手を務めた[7]。栗生澤のもと、同年の天皇杯優勝し初代チャンプとなる[8][9]

2年連続で準決勝リーグ入りを逃した2008年、堺で監督を経験し日本バレーにも精通したアメリカ人ゴードン・メイフォースを監督に招聘する[9]2009年、日本人としては初のJT出身外コーチとなる久保義人を招聘した[10]。同シーズンの天皇杯準優勝。

2010年3月、ゴードンがバレーボールギリシャ男子代表監督就任に伴いチームを退団すると、同年4月から久保が監督に昇格した[11]。同年の黒鷲旗準優勝[12]。2011/12シーズン、豊田合成とセット率0.01差で7位になり、18年ぶりに入替戦に回ることになった[13]。 

略歴

成績

主な成績

日本リーグ/Vリーグ/Vプレミアリーグ
  • 優勝なし
  • 準優勝6回(1973年度、1978年度、1996年度、2000年度、2002年度、2003年度)
黒鷲旗全日本男女選抜バレーボール大会
  • 優勝2回(2001年、2004年)
  • 準優勝4回(1969年、1974年、1975年、2010年)
天皇杯・皇后杯全日本バレーボール選手権大会
国民体育大会バレーボール競技

年度別成績

大会名 順位 チーム数 試合数 勝率 備考 監督
日本リーグ 第1回 (1967) 4位 6チーム 10 4 6
第2回 (1968/69) 3位 6チーム 10 7 3
第3回 (1969/70) 3位 6チーム 10 4 6
第4回 (1970/71) 4位 6チーム 10 4 6
第5回 (1971/72) 5位 6チーム 10 3 7
第6回 (1972/73) 4位 6チーム 10 3 7
第7回 (1973/74) 準優勝 6チーム 10 7 3
第8回 (1974/75) 4位 6チーム 10 6 4
第9回 (1975/76) 6位 6チーム 10 2 8
第10回 (1976/77) 3位 6チーム 10 5 5
第11回 (1977/78) 3位 6チーム 10 6 4
第12回 (1978/79) 準優勝 6チーム 10 7 3
第13回 (1979/80) 3位 6チーム 10 6 4
第14回 (1980/81) 3位 8チーム 14 9 5 日本の旗猫田勝敏
第15回 (1981/82) 3位 8チーム 21 13 8
第16回 (1982/83) 5位 8チーム 21 9 12
第17回 (1983/84) 6位 8チーム 21 10 11 日本の旗西本哲雄
第18回 (1984/85) 3位 8チーム 21 15 6
第19回 (1985/86) 4位 8チーム 21 12 9
第20回 (1986/87) 4位 8チーム 21 12 9
第21回 (1987/88) 4位 8チーム 14 6 8
第22回 (1988/89) 5位 8チーム 14 6 8 日本の旗小田雅志
第23回 (1989/90) 3位 8チーム 17 11 6
第24回 (1990/91) 4位 8チーム 17 9 8
第25回 (1991/92) 6位 8チーム 14 5 9
第26回 (1992/93) 5位 8チーム 14 7 7
第27回 (1993/94) 7位 8チーム 14 3 11
Vリーグ 第1回 (1994/95) 5位 8チーム 21 10 11 .476
第2回 (1995/96) 3位 8チーム 21 13 8 .619
第3回 (1996/97) 準優勝 8チーム 21 14 7 .667
第4回 (1997/98) 8位 8チーム 21 3 18 .143
第5回 (1998/99) 7位 10チーム 18 6 12 .333
第6回 (1999/00) 5位 10チーム 18 10 8 .556 ラトビアの旗パルシン
第7回 (2000/01) 準優勝 10チーム 18 13 5 .722
第8回 (2001/02) 5位 10チーム 18 11 7 .611
第9回 (2002/03) 準優勝 8チーム 21 15 6 .714
第10回 (2003/04) 準優勝 8チーム 21 13 8 .542
第11回 (2004/05) 3位 8チーム 28 17 11 .607
第12回 (2005/06) 4位 8チーム 28 16 12 .571
V・プレミア 2006/07シーズン 5位 8チーム 28 14 14 .500 ラトビアの旗カザフスタンの旗アントロポフ
2007/08シーズン 6位 8チーム 28 12 16 .429 [注 3]
2008/09シーズン 5位 8チーム 28 14 14 .500 アメリカ合衆国の旗ゴードン
2009/10シーズン 6位 8チーム 28 14 14 .500
2010/11シーズン 5位 8チーム 24 12 12 .500 [注 4] 日本の旗久保義人
2011/12シーズン 7位 8チーム 21 7 14 .333

選手・スタッフ

三大大会における全日本経験者
(WS/OP)村上情次原秀治平野信孝直弘龍治八子大輔
(MB)西本哲雄栗生澤淳一尾上健司
(S)猫田勝敏下村英士 (R)山本健之 (L)酒井大祐
他チームでの全日本経験者
(WS/OP)加藤陽一高橋智則甲斐祐之

太字は、JTサンダーズに現役在籍中(2011年11月現在)。

ユニフォーム

チームカラーである緑を基調とし、ホーム用は緑、アウェー用は白を主体としている。サプライヤーはアシックス。両肩口にあるのはJTの企業スローガンロゴ、左胸にあるのがチーム名およびマスコットキャラクターである。

マーヴェラスも同じ仕様であり、違いは左胸のマスコット「サンダー坊や」(マーヴェラスは「マーヴェりん」)と、サンダーズの方の右胸には「トップス広島ロゴ」[注 5]が付いている。

育成・普及事業

親会社であるJTのメセナトップス広島での活動の一環として、また2000年代からVリーグ機構がジュニア世代育成を奨励していることもあり[14]、地元広島を中心にバレーボール教室を開催し、自治体が主催する地域活性化事業に参加するなど、若年層選手の育成およびバレーボール普及に積極的に貢献している[15]

JTサンダーズバレーボール教室
広島県内を中心とした地元自治体が主催するバレーボール教室に現役選手やコーチを派遣し指導を行っている。 ちなみにこのバレーボール教室はマーヴェラスの方も同様に行っている。
  • 対象 - 小中高校の若年層およびママさんチームなど
  • スタッフ - JT現役選手およびスタッフ
トップス広島バレーボール学校
2002年開校。トップス広島および県バレーボール協会が主催、JTが指導協力の形で運営している。現在JTのジュニアチームとして位置づけられており[16]全国ヤングバレーボールクラブ男女優勝大会などに出場している。2009/10シーズンには、1期生が初めてプレミアリーグ入りした[16]
  • 対象 - 広島県在住の中学生男子
  • 期間 - 毎年5月から翌年の3月までの毎週土曜日
  • 場所 - 猫田記念体育館
  • スタッフ - 校長:栗生澤淳一、ヘッドコーチ:原秀治、他JTのOBおよび現役選手が指導協力にあたる

関連情報

TVおよびラジオ
紙媒体

注釈

  1. ^ 元々はJT広島工場の敷地内にあった体育館であり、隣に合宿所もある。
  2. ^ 日本の女子実業団チームの第1号と言われ、戦前の日本選手権などの全国大会で3度の優勝を誇る強豪チームだったが、1965年を境に自然消滅している。ちなみに、このチームは現在のJTマーヴェラスの前身ではない(マーヴェラス詳細は当該リンク先参照)。
  3. ^ シーズン前に体調不良によりアントロポフが休養したため、コーチの栗生澤淳一が監督代行を務めた[7]
  4. ^ 東日本大震災によるスポーツへの影響に伴い途中終了。
  5. ^ これはトップス広島に加盟するほぼすべてのチームが右袖付近に付けている。

出典

  1. ^ JT 初の栄冠”. 中国新聞(Internet Archive) (2001年5月7日). 2009年4月7日閲覧。
  2. ^ みやぎ秋季国体 バレー成年男子・広島(JT)が初優勝”. 中国新聞(Internet Archive) (2001年10月18日). 2009年8月18日閲覧。
  3. ^ “広島(JT)3度目頂点 埼玉秋季国体”. 中国新聞. (2004年10月28日). http://web.archive.org/web/20041030040104/www.chugoku-np.co.jp/sports/Sp04102801.html 2010年9月11日閲覧。 
  4. ^ “JT新監督にアントロポフ氏 Vリーグ”. 中国新聞. (2006年7月14日). http://web.archive.org/web/20070830071828/http://www.chugoku-np.co.jp/sports/Sp200607140028.html 2010年9月11日閲覧。 
  5. ^ “特別功労賞にJT男子選出 バレーリーグ40年で表彰”. 中国新聞. (2007年4月4日). http://web.archive.org/web/20070430104411/www.chugoku-np.co.jp/sports/Sp200704040119.html 2010年9月11日閲覧。 
  6. ^ “広島 2年ぶり栄冠 バレー成年男子6人制”. 中国新聞. (2007年10月9日). http://web.archive.org/web/20071027215705/www.chugoku-np.co.jp/sports/Sp200710090071.html 2010年9月11日閲覧。 
  7. ^ a b “JT最終戦飾り6位 バレープレミアL男子”. 中国新聞. (2008年3月24日). http://www.chugoku-np.co.jp/sports/Sp200803240101.html 2010年9月11日閲覧。 
  8. ^ “全日本選手権レポート” (PDF). 日本バレーボール協会公式. (2008年1月6日). http://www.jva.or.jp/tournament/2007/alljapan/final/15110_1.pdf 2010年9月11日閲覧。 
  9. ^ a b JT新監督にメイフォース氏”. 中国新聞 (2008年5月20日). 2009年8月19日閲覧。
  10. ^ 悔しさ胸にJT再始動 久保コーチまず「対話」”. 中国新聞 (2009年4月4日). 2009年4月7日閲覧。
  11. ^ “JT新監督に久保氏 バレープレミアL男子”. 中国新聞. (2010年4月2日). http://www.chugoku-np.co.jp/sports/Sp201004020216.html 2010年4月2日閲覧。 
  12. ^ “JT男子、頂点届かず 全日本選抜バレー”. 中国新聞. (2010年5月6日). http://www.chugoku-np.co.jp/sports/Sp201005060146.html 2010年5月6日閲覧。 
  13. ^ “JT7位、18年ぶり入れ替え戦へ プレミアL”. 中国新聞. (2012年3月12日). http://www.chugoku-np.co.jp/sports/Sp201203120095.html 2012年3月12日閲覧。 
  14. ^ 第104号 Vリーグ・メールマガジン”. Vリーグ公式 (2007年9月26日). 2009年12月29日閲覧。
  15. ^ JTのスポーツ社会貢献活動”. 日本トップリーグ連携機構. 2009年8月18日閲覧。
  16. ^ a b 筧本、いざ夢のコートへ JT内定、練習合流”. 中国新聞 (2010年1月9日). 2010年1月9日閲覧。

参考資料

  • 『広島バレーボール50年のあゆみ』 広島県バレーボール協会著 1977年12月
  • 『広島スポーツ100年~広島県のスポーツ史』金枡晴海著 中国新聞社 1979年
  • 『広島スポーツ史』河野徳男著 財団法人広島県体育協会 1984年5月
  • 『白球の飛跡 JTバレーボール部60年の歩み』JTバレーボール部OB会著 日本産業たばこ(株)広島支店同OB会 1992年4月

関連項目

外部リンク