高橋敏

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高橋 敏
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 静岡県袋井市
生年月日 1919年????
没年月日 不明
身長
体重
168 cm
60 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手右翼手
プロ入り 1938年
初出場 1938年6月4日
最終出場 1946年5月27日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

高橋 敏(たかはし さとし、1919年 - 没年不明[1])は静岡県[1]出身のプロ野球選手投手右翼手)。

来歴・人物[編集]

袋井市出身。旧袋井東小(現袋井南小)時代は浜松元城小の松井栄造との対戦もあり、右の高橋、左の松井と言われ県下で注目されていた。島田商業(現・静岡県立島田商業高等学校)在学中は、甲子園に3回出場(内訳は春2回〔1937年1938年〕。夏1回〔1937年〕)。このうち1937年夏はエースとして出場した[2](初戦で浅野中に0-1で惜敗)。島田商のチームメイトには、根津辰治(のち慶大で首位打者を取るなど活躍)、大友一明(のち大東京など)、犬塚俊夫(慶大中退、藤倉電線)、一言多十(のちセネタースなど)、福田勇一(のち国鉄)など大学野球や社会人野球、プロ野球で活躍した人物が何人もいた。

島田商卒業後間もない1938年5月17日阪急軍に入団。同年6月4日金鯱戦(後楽園球場)で、当時のエース・森弘太郎の後を受けた2番手でプロ初登板。カーブを武器に、4回1/3を1失点と上々のデビューを飾った。同年6月24日名古屋戦(後楽園球場)で完封してプロ初勝利を挙げた。

1939年に入ると、高橋の投球にますます磨きがかかった。3月28日の金鯱戦(後楽園球場)で4安打完封勝利を挙げると、5月18日巨人戦(甲子園球場)で敗れるまで開幕7連勝(うち完封は4試合ある)を記録した。この記録は、西勇輝2014年5月13日楽天戦(コボスタ)で並ぶまで、75年もの間、阪急・オリックスの球団記録でもあった[2][3]。さらに開幕から38回1/3無失点も2021年平良海馬に更新されるまで82年間プロ野球記録であった(ただし、プロ野球規則上は平良海馬の記録は38イニング無失点である)。同年は19完投・9完封と大活躍し、チーム一の勝ち数である17勝を挙げ、防御率若林忠志大阪)に次ぐリーグ2位の1.60という素晴らしい成績を挙げた[4](尚、この年シーズン42勝というプロ野球記録を打ち立てたヴィクトル・スタルヒン〈巨人・この年の防御率はリーグ3位の1.73〉よりも防御率は良かった[2])。この年には職業野球東西対抗戦の西軍メンバーにも選出された。また打撃面でも活躍し、チーム3位の打率.277をマークしている。

しかし、1939年シーズン終了後、応召された。1942年復員し、1943年より阪急軍に復帰。しかし、投手としての実績は振るわず、戦時中の選手層の薄さもあってか外野手右翼手)との兼任になった。それでも1943年から引退まで失策ゼロで切り抜けるなど、野球センスの高さを伺わせた。打撃面は非力だったが、選球眼は良く、四球の数が三振を上回っている。1944年は14安打に対し20四球を選び、結果として打率.200に対し出塁率が.378と高く、IsoD(出塁率-打率)が.178と高率になっている(通算でも.122の高率だった)[5]1946年になると主力選手が戦地から次々と復員してくるに伴い、出場機会が減少(この年より野手に専念)。結局この年限りで阪急を退団した。

プロ野球を引退しても、高橋の野球センスの高さは社会人野球でも発揮された。阪急退団の翌年、1947年鐘紡高砂に入団。その年、いきなり1947年の都市対抗野球大会に出場し、チームを決勝まで導く大活躍を見せた(決勝で、大日本土木岐阜市〉に2-8で敗れ、準優勝)。この大会では17打数7安打。準々決勝では、強豪の八幡製鉄相手にサヨナラヒットを打ち、決勝でもホームランを放っている。1950年の都市対抗野球大会で補強選手制度ができると、1950年、1951年の都市対抗野球大会と2年連続で、鐘淵化学(鐘紡高砂より改称)の補強選手として出場。そして、1952年に地元・富士市日本軽金属に移籍。1953年の都市対抗野球大会では、大昭和製紙の補強選手として、齊藤了英(別名:東海の暴れん坊。後に大昭和製紙(現・日本製紙)名誉会長を務めた。フジテレビアナウンサーの斉藤舞子は孫娘に当たる[要出典])監督の下、見事黒獅子旗の奪還(優勝)を果たした。準決勝の東洋レーヨン(大津市)戦では、決勝のホームランを打っている。また大会後のハワイ遠征全日本チームにも選抜された。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1938 阪急 5 3 1 1 0 1 1 -- -- .500 99 24.1 17 1 9 -- 0 15 0 0 10 6 2.16 1.07
1938 4 3 1 0 0 1 2 -- -- .333 74 16.1 17 0 8 -- 0 8 0 0 10 8 4.24 1.53
1939 37 22 19 9 3 17 10 -- -- .630 933 242.0 165 3 52 -- 1 65 1 1 53 43 1.60 0.90
1943 10 2 2 0 0 1 2 -- -- .333 197 45.2 46 2 18 -- 0 6 0 0 19 13 2.54 1.40
1944 5 4 2 1 1 1 1 -- -- .500 102 23.1 25 1 7 -- 1 9 1 0 16 11 4.13 1.37
通算:4年 61 34 25 11 4 21 16 -- -- .568 1405 351.2 270 7 94 -- 2 103 2 1 108 81 2.07 1.04

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1938 阪急 6 13 9 1 0 0 0 0 0 0 0 -- 1 -- 3 -- 0 1 -- .000 .250 .000 .250
1938 5 6 5 0 0 0 0 0 0 0 0 -- 0 -- 1 -- 0 3 -- .000 .167 .000 .167
1939 45 109 94 7 26 1 0 0 27 7 0 -- 4 0 11 -- 0 8 -- .277 .352 .288 .640
1943 22 44 39 0 6 0 0 0 6 4 0 0 1 -- 4 -- 0 4 -- .154 .233 .154 .387
1944 20 91 70 9 14 5 0 0 19 13 1 0 1 -- 20 -- 0 2 -- .200 .378 .271 .649
1946 11 31 26 0 4 0 0 0 4 1 0 0 0 -- 4 -- 1 8 -- .154 .290 .154 .444
通算:5年 109 294 243 17 50 6 0 0 56 25 1 0 7 0 43 -- 1 26 -- .206 .328 .230 .558

記録[編集]

その他の記録
  • 開幕から38回1/3無失点(1939年)、※プロ野球記録

背番号[編集]

  • 20 (1938年 - 1939年)
  • 26 (1943年)
  • 13 (1946年)
  • 1944年は全球団で背番号制を廃止。

脚注[編集]

  1. ^ a b プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、321ページ
  2. ^ a b c スタルヒンより防御率良かった 75年前に開幕7連勝の高橋敏投手スポニチアネックス2014年5月13日記事
  3. ^ 参考までに、現在のオリックスの前身の一つである近鉄では、岩隈久志2004年に開幕12連勝の記録を打ち立てている。
  4. ^ 年度別成績・1939年(日本野球機構オフィシャルサイト)
  5. ^ IsoDのプロ野球記録は王貞治(巨人)の.145であり、シーズンでは1974年の.199である。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]