陸軍特殊船
特種船(とくしゅせん)は、大日本帝国陸軍が建造・運用した揚陸艦の総称。俗称は特殊船。
ドック型揚陸艦・強襲揚陸艦(上陸用舟艇母船)の狭義の特種船と、小型の戦車揚陸艦が存在したが、本項では主に前者について説明する。
背景
島国である日本の地理的条件、第一次世界大戦の戦訓(ガリポリ上陸作戦)、在フィリピンのアメリカ(極東陸軍)を仮想敵国とする大正12年帝国国防方針によって、1920年代より上陸戦に関心のあった帝国陸軍は、同年代中頃には専用の上陸用舟艇として大発動艇(大発)・小発動艇(小発)を開発。1932年(昭和7年)の第一次上海事変では、それらを用いて上海派遣軍の第11師団を中国国民革命軍第19路軍の背後に上陸させる七了口上陸作戦を成功させた(この結果、第19路軍は撤退し日中停戦の決定打となった)。
戦間期当時の上陸用舟艇母船は「宇品丸」の様に一般の貨物船(軍隊輸送船)と大差無いもので、上甲板に舟艇を搭載し、デリック・ガントリークレーン・ボートダビット・ホイスト等で泛水(へんすい・海面に降ろすこと)させる方式をとっていた。泛水時には基本的に舟艇は空船で、将兵は泛水後に母船の舷側に垂らされた縄ばしごを伝って舟艇に乗り込み、火砲や車輛、馬匹等はクレーンで舟艇内に吊り降ろしていた。この方式は舟艇が多数の場合に時間がかかるほか、波浪の状態によっては泛水・乗船・積載が難しく、また将兵等が移乗時に落下する危険性もあるため迅速な上陸戦を行うのに不向きであった。
これらの経緯・戦訓から、上陸用舟艇を大量に積載可能で人員や装備を乗せたまま連続的に泛水できる新鋭の舟艇母船(揚陸艦)こと特種船の開発を開始、当初は軍隊や物資の輸送を担当する官衙たる陸軍運輸部の独力で着手された。なお、陸軍が本格的な揚陸艦を開発・保有した背景について、当時の海軍は戦闘艦の整備に傾注し、揚陸艦といった支援・補助艦艇の開発には極めて消極的で、近代戦において進化する上陸戦のみならず遠隔地への軍隊輸送・海上護衛(船団護衛)に対して理解が無く、揚陸艦のみならず上陸用舟艇・上陸支援艇の開発・保有は必然的に陸軍が行う必要があった事に留意しなければならない。かつ、陸軍が海軍とは別に(揚陸や輸送を目的とする)独自の船舶部隊(陸軍船舶部隊)を保有する事は、日本だけでなく同時期のアメリカ陸軍でも大々的に行われていた行為である[1]。
概要
「神州丸」
1933年(昭和8年)4月8日、紆余曲折を経て計画された舟艇母船「R1」は播磨造船所で起工、翌1934年(昭和9年)2月8日に「神州丸」と命名[2]され、同年3月14日に進水、11月30日に陸軍に引き渡され12月15日に竣工した。「神州丸」は演習のみならず、1937年(昭和12年)7月に勃発した支那事変に早速投入され、初陣となった8月14日の太沽上陸作戦では第10師団諸部隊を無事に揚陸。以降も数多の各上陸作戦やその搭載能力を生かした輸送任務にも参加し、文字通り大活躍した[3]
量産特種船
「神州丸」の成功を受け1938年(昭和13年)10月に陸軍中央は特種船増産を決定。予算の制約により、大量の特種船を「宇品丸」・「神州丸」のような陸軍省保有船(陸軍船)として維持する事は難しいため、陸軍は戦時の徴用を前提として民間海運会社に補助金を出し、建前上とはいえ特種船を民間籍の商船として建造する事とし[4]、平行して各海運会社・造船所とも協議を重ね9隻・80,000tの建造を計画。その計画量産特種船は船型によって大別して以下の通りとなる。
- 甲型 - 10,000t級貨客船型(のちの戦時標準船M型構造はM甲型と称す)
- 甲(小)型 - 5,000t級砕氷貨物船型(乙型とも)
- 丙型 - 10,000t級航空母艦型(甲型・甲(小)型と異なり航空機運用能力を有す、のちの戦時標準船M型構造はM丙型と称す)
- 丙型は平時は第1形態として一般商船型の構造物を甲板上に有し、戦時にはそれを撤去し飛行甲板を装着し第2形態となる。
「神州丸」に次ぐ2隻目の特種船、また新鋭量産特種船の第1号として選ばれた丙型は、「神州丸」と同じ播磨造船所において1940年(昭和15年)9月17日に起工、「あきつ丸」と命名された。秘匿・偽装のために計画通り商船型第1形態として建造が初められた「あきつ丸」であったが、起工後に国際情勢を鑑みて(商船型第1形態を取りやめ)当初より飛行甲板を装着した空母型第2形態とする事に決定、1941年9月24日に進水し、太平洋戦争(大東亜戦争)突入間もない1942年(昭和17年)1月30日に竣工した。
「あきつ丸」に続き、甲型特種船として「摩耶山丸」・「玉津丸」・「吉備津丸」が続々と建造され、最終的に以下の特種船が量産されている。
機動艇(SS艇)
以上の特種船と平行して、砂浜に接岸して戦車等を直接に揚陸するLST型の開発も行われており、これは機動艇(SS艇)として実用化・量産され太平洋戦争に投入された。広義の特種船に含まれる[5]。約40隻が量産され、海上機動旅団等で運用された。
上陸支援艇
なお、特種船の範疇には入らないものの、帝国陸軍は一連の揚陸艦・上陸用舟艇の他に各種の小型支援艇を整備している。1920年代後期には(上陸時の舟艇護衛・支援攻撃を目的とした)砲艇の装甲艇(AB艇)、同年代中後期には(上陸時の偵察を目的とした)高速偵察艇の高速艇甲(HB-K)、1930年代初期には(揚陸艦同士の指揮連絡を目的とした)連絡艇の高速艇乙(HB-O)、1940年代初期には駆潜艇兼高速戦闘艇の駆逐艇(高速艇丙、カロ艇)を開発・量産・投入した。
設備
泛水装置
舟艇母船型の特種船の最大の特色は、船内に設けられた全通式の舟艇格納庫と、船尾の泛水(へんすい[6])装置である。格納庫には主力上陸用舟艇であった大発を約30隻収容できる。格納庫床にはローラー式の軌条が敷かれ、その上に置いた上陸用舟艇は天井のワイヤーで牽引して移動でき、兵員や物資を搭載したまま船尾のハッチから連続発進させることができた。その能力は構造的には異なるものの、後世のウェルドック(ドック型揚陸艦)に相当する優秀なものであった。ただし、喫水線近くに全通式の格納庫を有する構造は、浸水に対して脆弱で弱点でもあった[7]。
このほか、通常の貨物船と同じデリックを利用した泛水も可能であった。装甲艇などの重量級の小型艇も運用できるように、強力なデリックを装備していた。
「神州丸」では格納庫側面の舷側にもハッチとクレーンが設置されていたが、2番船以降では廃止されている。
航空艤装
「神州丸」及び丙型/M丙型特種船には、上陸作戦支援を目的に限定的な航空機運用能力も与えられていた。そのため「陸軍空母」と称されることがある。「神州丸」には火薬式カタパルト、丙型「あきつ丸」・M丙型「熊野丸」には航空母艦類似の全通飛行甲板が設けられ、約10機の戦闘機が搭載可能だった。ただし、いずれも着艦は考慮されておらず、機体は占領した陸上飛行場へ着陸ないし不時着予定であったため、実戦では使用されなかった。
太平洋戦争中には、「あきつ丸」と「熊野丸」は対潜哨戒機を運用し船団護衛を行う護衛空母機能を持つように改装された。障害物となるデリックの移設や着艦設備の追加が施され、爆雷を装備した三式指揮連絡機等の搭載が行われた。なお、陸軍はこの他に対潜哨戒機運用能力を備えた護衛空母型の商船特TL型(あくまでタンカーであり揚陸艦ではなく特種船ではない)を建造している。
武装
固定武装としては各船によって異なるものの、自衛防空用に基筒式の高射砲・高射機関砲・打上筒、上陸部隊の支援攻撃用兼対艦用に基筒式の野砲(および高射砲)、対潜用に爆雷および基筒式の迫撃砲(二式水中弾使用の二式十二糎迫撃砲)を装備していた。臨時武装として高射砲・高射機関砲多数が増設でき、飛行甲板を有す「あきつ丸」は15cm重加農4門(八九式十五糎加農)を放列布置可能であった。
ソナー
対潜警戒用として各船はソナー(水中聴音機)である「す」号機(「す」号装置) を装備している。
注記
- ^ 21世紀初頭現代においても、アメリカ陸軍は大規模な船舶部隊を海軍とは別に保有している。
- ^ 陸軍省軍務局防備課 「特種運送船名ニ関スル件」 1934年2月8日、アジア歴史資料センター、Ref.C01004029800
- ^ 奥本 2011、43項。
- ^ 何れも竣工当時は既に太平洋戦争(大東亜戦争)下であるため、竣工と同時に陸軍徴用船となっている。
- ^ 防衛研修所戦史室 『陸海軍年表 付・兵器・兵語の解説』 朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1980年、175頁。
- ^ 舟艇を水面に発進させること(帝国陸海軍補助艦艇、166頁)
- ^ 岩重(2009)、10頁。
参考文献
- 岩重多四郎 『戦時輸送船ビジュアルガイド』 大日本絵画、2009年。
- 『帝国陸海軍補助艦艇』 学習研究社〈歴史群像太平洋戦史シリーズvol.37〉、2002年。
- 福井静夫 『世界空母物語』 新装版、光人社〈福井静夫著作集―軍艦七十五年回想記〉、2008年。
- 奥本剛 『日本陸軍の航空母艦 舟艇母船から護衛空母まで』 大日本絵画、2011年。