金剛寺 (河内長野市)

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金剛寺
南門
所在地 大阪府河内長野市天野町996
位置 北緯34度25分46.42秒 東経135度31分44.57秒 / 北緯34.4295611度 東経135.5290472度 / 34.4295611; 135.5290472座標: 北緯34度25分46.42秒 東経135度31分44.57秒 / 北緯34.4295611度 東経135.5290472度 / 34.4295611; 135.5290472
山号 天野山
宗派 真言宗御室派
寺格 大本山
本尊 大日如来国宝
創建年 伝・天平年間(729年 - 748年
開山 伝・行基
開基 聖武天皇(勅願)
正式名 天野山金剛寺
別称 女人高野
札所等 新西国三十三箇所第7番
河泉二十四地蔵霊場第12番
河内飛鳥古社寺霊場第8番
神仏霊場巡拝の道第55番
文化財 延喜式神名帳、延喜式第十二残巻・第十四・第十六、紙本著色日月四季山水、剣 無銘、木造大日如来坐像・木造不動・降三世明王坐像 3躯(国宝
楼門・金堂ほか(重要文化財
法人番号 6120105005422 ウィキデータを編集
地図
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金堂(左)・食堂(じきどう)
多宝塔
摩尼院表門
庭園
鎮守丹生高野明神社本殿

金剛寺(こんごうじ)は大阪府河内長野市にある真言宗御室派の大本山。山号は天野山(あまのさん)。高野山女人禁制だったのに対して女性も参詣ができたため、「女人高野」とも呼ばれる。奥河内の観光地の一つ。

南北朝時代1336年 - 1392年)には、南朝の最重要拠点の一つとして、枢要の地位にあった。延元元年/建武3年(1336年)10月1日には、後醍醐天皇によって勅願寺に指定された。さらに、正平9年/文和3年(1354年10月28日から正平14年/延文4年(1359年)12月まで、南朝第2代後村上天皇行宮(仮の皇居)が置かれている。また、正平12年/延文2年(1357年)に後醍醐・後村上両帝の腹心で南朝最大の高僧・画僧文観房弘真が入滅した地でもある。

大阪みどりの百選に選定されている[1]。また日本遺産『中世に出逢えるまち 〜千年にわたり護られてきた中世文化遺産の宝庫〜』の構成文化財のひとつでもある。

歴史

初期

寺伝ではインドアショーカ王(阿育王)が投げた8万4千の鉄塔のうちの一つがこの地に落ちたとする。奈良時代天平年間(729年 - 749年)に聖武天皇の勅願によって行基が開いたとされる。弘法大師(空海)も修行をしたとされている。

平安時代末期に高野山の僧・阿観(あかん)が住すると、後白河上皇と妹の八条院の篤い帰依を受けた他、治承4年(1180年)には地元の武士である源貞弘から土地を寄進されるなどし、金堂・御影堂などを建立し、再興した。八条院の帰依を受けたほか、八条院の侍女大弐局(浄覚尼)と妹の六条局(覚阿尼)が阿観の弟子となり、二代続けて院主となるなどし、女性の参詣ができたため「女人高野」と呼ばれて有名となった。

南北朝時代

鎌倉時代末期には100近い塔頭があり、後醍醐天皇と近しい関係を築き、南北朝時代には観心寺と共に南朝方の一大拠点となった。延元元年/建武3年(1336年10月1日には後醍醐天皇によって勅願寺とされた[2]。もともと後醍醐天皇は河内国の真言宗諸寺院とは親しく、また(既に故人となっていたが)武将楠木正成との関係もあると考えられている[2]。この時の綸旨には「皇統の長久を祈るべし」とあるが、数百通ある後醍醐天皇の綸旨の中でこのような文言が書かれた綸旨は他にはない。

正平9年/文和3年(1354年)3日22日、南朝は観応の擾乱末期に捕縛していた北朝光厳上皇光明上皇崇光上皇廃太子直仁親王を、大和国賀名生から当寺に移動させると観蔵院をその行宮(仮の住まい)とした[3]10月28日には後村上天皇自身も到来し、摩尼院を行宮として、南朝の本拠地に定めた[3]。また、食堂を政庁天野殿(あまのでん)とした。

このとき、後醍醐・後村上両帝の腹心で護持僧(祈祷によって天皇を守護する僧)を務めた文観房弘真もまた、金剛寺に居住した[3]。このときの金剛寺の学頭(寺務を統括する僧職)は、膨大な仏教書を書写した学僧として名高い禅恵で、文観に弟子入りし「門弟随一」を称している[4]

正平10年/文和4年(1355年)には光明上皇を京都に返し、正平12年/延文2年(1357年)2月には光厳上皇・崇光上皇・直仁親王も京都に返された。

正平12年/延文2年10月9日1357年11月21日)、文観は当寺の大門往生院において入滅した[5]

正平14年/延文4年(1359年)12月には、後村上天皇の行宮は観心寺に移った。

翌正平15年/延文5年(1360年)、北朝の畠山国清の攻撃を受けて40余りの塔頭が焼失する。さらに、文中2年/応安6年(1373年)には、和平に反対する長慶天皇が行在所としていた当寺に、和平派ゆえに北朝に寝返った楠木正儀があえて攻撃を加え、長慶天皇を当寺から除かせて、しばらくの間占領する事件も起きた。

その後

その後は戦火に遭うこともなく、室町時代永享4年(1432年)頃からは銘酒「天野酒」を販売して収入源にしたりし、永正11年(1514年)には依然として塔頭が70から90もあって威勢を誇った。

慶長11年(1606年)から翌年にかけて豊臣秀頼によって伽藍が整備され、金堂、多宝塔、食堂、楼門が修理された。また、五仏堂、薬師堂が再建され、護摩堂、法具蔵、摩尼院書院、鎮守社の水分明神社、丹生高野明神社、鎮守社拝殿、鎮守社鐘楼が建立されている。

元禄13年(1700年)には、江戸幕府将軍徳川綱吉の命で岸和田藩主の岡部長泰を奉行として伽藍の修理が再び行われた他、求聞持堂、開山堂が建立された。江戸時代末期には307石の寺領があった。

しかし、明治時代となって廃仏毀釈のためもあり、塔頭は減少し、現在では摩尼院、観蔵院、吉祥院を残すのみである。とはいえ、主要伽藍などは戦火に掛からなかったため、貴重な文化財が数多く残されている。

境内

  • 金堂
    堂内には中央に本尊の金剛界大日如来坐像、向かって右に不動明王坐像、左に降三世明王(ごうざんぜみょうおう)坐像を安置する(いずれも2017年度に国宝に指定)。密教曼荼羅の一つである尊勝曼荼羅を立体的に現したものでありこの金剛寺にしか存在しない。
    木造大日如来坐像 - 平安時代後期。
    木造不動明王坐像 - 鎌倉時代。修理時に像内銘が確認され、天福2年(1234年)、快慶の弟子、行快の作と判明した[6]
    木造降三世明王坐像 - 鎌倉時代。降三世明王像は四面八臂三眼の立像として表すのが通例だが、本像は一面二臂二眼の坐像で、図像的に珍しい。像内銘はないが、作風から、不動明王像と同様、行快工房の作と推定される[7]
  • 多宝塔 - 平安時代末の建立で多宝塔としては日本最古である。ただし、慶長11年(1606年)から12年(1607年)にかけて大改修されている。上層の隅行に日本の現存建築で唯一かつ最多となる九手先の組物がある。
  • 鐘楼
  • 楼門
  • 食堂 - 南朝の政庁・天野殿。
  • 経蔵
  • 宝蔵
  • 薬師堂 - 慶長年間(1596年 - 1615年)に豊臣秀頼により再建。
  • 五仏堂 - 慶長年間(1596年 - 1615年)に豊臣秀頼により再建。
  • 求聞持堂 - 元禄13年(1700年)に徳川綱吉により建立。
  • 閼伽井屋
  • 御影堂
  • 観月亭
  • 法具蔵 - 慶長年間(1596年 - 1615年)に豊臣秀頼により建立。
  • 護摩堂 - 慶長年間(1596年 - 1615年)に豊臣秀頼により建立。
  • 開山堂 - 元禄13年(1700年)に徳川綱吉により建立。
  • 築地塀
  • 天照皇大神
  • 八大龍王善女龍王社
  • 弁財天
  • 南門
  • 総門
  • 本坊
    • 持仏堂
    • 客殿
    • 奥殿 - 北朝行在所。
    • 宝物館
    • 庭園 - 蜂須賀家政の作とされる。
  • 無量寿院
  • 大講堂
  • 摩尼院 - 塔頭。南朝行在所。
    • 書院 - 慶長年間(1596年 - 1615年)に豊臣秀頼により建立。
  • 観蔵院 - 塔頭。北朝行在所。
  • 吉祥院 - 塔頭。
  • 光厳天皇陵(分骨所)
  • 天野山八十八ヶ所巡り - 四国八十八箇所霊場石仏群がある。
  • 水分明神社 - 鎮守社。慶長年間(1596年 - 1615年)に豊臣秀頼により建立。
  • 丹生高野明神社 - 鎮守社。慶長年間(1596年 - 1615年)に豊臣秀頼により建立。
  • 鎮守社拝殿 - 慶長年間(1596年 - 1615年)に豊臣秀頼により建立。
  • 鎮守社鐘楼 - 慶長年間(1596年 - 1615年)に豊臣秀頼により建立。

文化財

日月四季山水図屏風 右隻
日月四季山水図屏風 左隻
伽藍を西から見る。右手奥は多宝塔、左手奥は金堂。手前は左から法具蔵、御影堂、五仏堂、その手前(石柵で囲われた区域)は光厳天皇陵。

国宝

  • 延喜式神名帳
  • 延喜式第十二残巻、第十四、第十六
  • 剣 無銘(附 黒漆宝剣拵)
  • 木造大日如来坐像、木造不動・降三世明王坐像 3躯(附 木造天蓋) - 2017年国宝指定[8][9][10]
  • 紙本著色日月四季山水図(じつげつしきさんすいず、六曲屏風一双) - 2018年度国宝指定[11][12]
中世やまと絵屏風の代表作として名高い作品。この屏風に関する史料は殆ど残っておらず、制作時期も15世紀半ばとする説から、16世紀後半とする意見もある。同時期の洗練されたやまと絵屏風にあまり見られない工芸的な手法や、仏画に通じる波の描き方、泥臭ささえ感じる素朴な表現から、大和絵師ではなく絵仏師が描いた可能性がある[13]。山や松、波などが動き出さんばかりに誇張され、その特異で迫力ある造形から美術書などの表紙にしばしば使われ、日本画家加山又造や山本太郎などが本作を下敷きにした作品を発表している。

重要文化財

建造物
  • 楼門
  • 金堂
  • 御影堂(御影堂と観月亭からなる)
  • 多宝塔
  • 食堂(天野殿)
  • 鐘楼
  • 金剛寺(建造物)22棟[14][15]
    • 五仏堂(附:須弥壇1基、棟札1枚)
    • 薬師堂
    • 閼伽井屋
    • 護摩堂
    • 法具蔵
    • 求聞持堂(ぐもんじどう)
    • 開山堂(附:石造三重塔2基)
    • 宝蔵
    • 経蔵
    • 弁財天社本殿
    • 八大龍王善女龍王社本殿
    • 天照皇大神社本殿(てんしょうこうたいじんじゃほんでん)
    • 築地塀(2所)
    • 鎮守水分明神社本殿(ちんじゅみくまりみょうじんしゃほんでん)(附:棟札3枚)
    • 鎮守丹生高野明神社本殿(附:棟札3枚、蟇股部材4点)
    • 鎮守社拝殿
    • 鎮守社鐘楼
    • 旧理趣院表門
    • 旧真福院表門
    • 南門
    • 総門
  • 摩尼院 4棟[16] ※所有者は摩尼院
    • 書院(附:化粧野地板1枚、棟札1枚)
    • 表門
    • 築地塀(2所)
絵画
  • 絹本著色五秘密曼荼羅図
  • 絹本著色弘法大師像
  • 絹本著色虚空蔵菩薩像
  • 絹本著色尊勝曼荼羅図
彫刻
工芸品
金銅柄香炉(附 金銅牡丹文透蓋)
腹巻及膝鎧のうち黒韋威腹巻
腹巻及膝鎧のうち腹巻2領
  • 蓮花蒔絵経筥
  • 腹巻及膝鎧 伝楠氏一族所用 20領、1双(明細は後出)※「腹巻」は鎧の一種
  • 白銅鏡(花鳥文様)
  • 野辺雀蒔絵手箱
  • 金銅柄香炉(附 金銅牡丹文透蓋)
  • 金銅装戒体箱
  • 蓮唐草螺鈿蝶形三足卓
書跡・典籍、古文書
  • 宝篋印陀羅尼経
  • 梵漢普賢行願賛
  • 紺紙金泥法華経 巻第八 藤原基衡願経
  • 紙本金泥宝篋印陀羅尼経 料紙消息及歌集切
  • 大般涅槃経 12巻 各巻正平十四年後村上天皇加筆奥書
  • 遊仙窟 1帖 元亨元年加点奥書[19][20]
  • 楠木氏文書 1巻

典拠:2000年までに指定の国宝・重要文化財については『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。2001年以降の新規指定、追加指定等については個別に注を付した。

登録有形文化財

以下の建造物12件が2017年6月28日付けで国の登録有形文化財に登録された[21][22]

  • 本坊持仏堂
  • 本坊客殿
  • 本坊大玄関
  • 本坊奥殿
  • 本坊渡廊下
  • 本坊茶室
  • 本坊表門
  • 無量寿院・籠堂
  • 天野川東岸旧子院築地塀
  • 大講堂
  • 大講堂食堂
  • 鎮守橋

重要美術品

  • 銅製飛雁文鏡
  • 銅製瑞花雙鴛文八稜鏡
  • 紙本墨書清水寺仮名縁起

大阪府指定有形文化財

河内長野市指定有形文化財

国の史跡

  • 金剛寺境内

大阪府指定天然記念物

河内長野市選定保存地域

河内長野市指定無形民俗文化財

  • 天野山金剛寺の正御影供百味飲食

札所

新西国三十三箇所
6 宝亀院 -- 7 金剛寺 -- 客番 観心寺
河泉二十四地蔵霊場
11 明忍寺 -- 12 金剛寺 -- 13 善正地蔵寺
河内飛鳥古社寺霊場
7 西琳寺 -- 8 金剛寺 -- 9 延命寺
神仏霊場巡拝の道
54 七宝瀧寺 -- 55 金剛寺 -- 56 観心寺

アクセス

脚注

  1. ^ 大阪みどりの百選”. 大阪府. 2016年12月23日閲覧。
  2. ^ a b 内田 2006, p. 206.
  3. ^ a b c 内田 2006, p. 270.
  4. ^ 内田 2006, pp. 270–278.
  5. ^ 内田 2006, pp. 270–278, 351.
  6. ^ 『なら仏像館名品図録』(奈良国立博物館、2012)、pp.14 - 15
  7. ^ 『なら仏像館名品図録』(奈良国立博物館、2012)、pp.14 - 15
  8. ^ 平成29年9月15日文部科学省告示第113号
  9. ^ 国宝・重要文化財の指定について(文化庁サイト)
  10. ^ 附(つけたり)の天蓋は2012年追加指定(平成24年9月6日文部科学省告示第135号)
  11. ^ 「文化審議会答申〜国宝・重要文化財(美術工芸品)の指定について〜」(文化庁サイト、2018年3月9日発表)
  12. ^ 平成30 年10 月31日文部科学省告示第204号
  13. ^ 泉万里 『光をまとう中世絵画 ─やまと絵屏風の美』 角川学芸出版、2007年 ISBN 978-4-04-702137-2
  14. ^ 令和元年12月27日文部科学省告示第113号
  15. ^ 重要文化財(建造物)の指定について(2019年10月18日)”. 文化庁. 2019年10月22日閲覧。
  16. ^ 1965年に「摩尼院書院1棟」として指定。2019年に表門、築地塀2所、化粧野地板、棟札を追加指定(令和元年12月27日文部科学省告示第114号)。
  17. ^ 平成23年6月27日文部科学省告示第101号
  18. ^ 平成17年6月7日文部科学省告示第87号
  19. ^ 平成26年8月21日文部科学省告示第107号
  20. ^ 2019年の官報告示で追加指定と名称変更が行われている。(追加指定前)「遊仙窟残巻 1帖」=>(追加指定後)「遊仙窟 1帖」(令和元年7月23日文部科学省告示第28号)
  21. ^ 平成29年6月28日文部科学省告示第89号)
  22. ^ 同じ2017年6月28日付けで登録された旧理趣院表門と旧真福院表門については、2019年に重要文化財に指定されたことにともない、登録有形文化財としての登録は抹消されている(令和元年12月27日文部科学省告示第115号)。

参考文献

  • 内田啓一『文観房弘真と美術』法藏館、2006年。ISBN 978-4831876393 

関連項目

外部リンク