山下清

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山下 清
戎橋にたたずむ山下清
誕生日 1922年3月10日
出生地 東京府東京市浅草区田中町
(現:東京都台東区日本堤
死没年 (1971-07-12) 1971年7月12日(49歳没)
国籍 日本の旗 日本
芸術分野 ちぎり紙細工
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山下 清(やました きよし、1922年(大正11年)3月10日 - 1971年(昭和46年)7月12日)は、日本画家。日本中を放浪していたことで知られる。

経歴・人物

東京府東京市浅草区田中町(現:東京都台東区日本堤)に、大橋清治・ふじの長男として生まれる[1]。翌年には関東大震災によって田中町一帯が焼け、両親の郷里である新潟県新潟市(現:中央区)白山に転居するが、その2年後の3歳の頃に重い消化不良になり、一命は取りとめたものの、後遺症で軽い言語障害知的障害に進行。1926年大正15年)[元号要検証]には浅草に戻る[1]1932年(昭和7年)に父清治が脳出血により他界すると、母ふじが再婚するが、清が小学校(石浜小学校)でいじめられたことを話すと「刃物で相手を怪我させろ」と唆す養父で、清はいじめに遭った際に鉛筆削り用の小さなナイフを手に持つようになり、同級生を大けがさせた事がある。[1]

1934年昭和9年)の春に、母ふじが夫が不在の間に清を含む子供3人を連れて北千住(足立区千住)の木賃宿へ逃れるが、生活が困窮し、すぐに杉並区方南町(現:杉並区方南)にある母子家庭のための社会福祉施設「隣保館」へ転居。この頃に母ふじの旧姓である山下清を名乗るようになる[1]。しかし、新しい学校でも勉強についていくことができず、同年5月千葉県東葛飾郡八幡町[1]大字八幡字衣川(現:千葉県市川市本北方3-13-11)[2][3]知的障害児施設八幡学園」へ預けられる。この学園での生活で「ちぎり紙細工」に遭遇。これに没頭していく中で磨かれた才能は、1936年昭和11年)から八幡学園の顧問医を勤めていた精神病理学者の式場隆三郎の目に止まり、式場の指導を受けることで一層充実していった[1]1937年昭和12年)秋には、八幡学園の園児たちの貼り絵に注目した早稲田大学講師の戸川行男により早稲田大学で小さな展覧会が行われたほか、1938年昭和13年)11月には同大学の大隈小講堂において「特異児童労作展覧会」が行われ、清の作品も展示された。そして1938年昭和13年)12月に、東京市京橋区銀座(現:中央区銀座)の画廊で初個展を開催、1939年(昭和14年)1月には、大阪の朝日記念会館ホールで展覧会が開催され、清の作品は多くの人々から賛嘆を浴びた。梅原龍三郎も清を高く評価した一人であった[4]

八幡学園での在籍期間は長かったものの、18歳の時に突如学園を後にし、放浪の旅へと出て行った(1940年(昭和15年)から1954年(昭和29年)まで)[5]。しかも、脱走の翌々年、受けることになっていた徴兵検査を受けたくなかったため、更に放浪を続けた[6]。21歳の時、食堂で手伝いをしていたところにやって来た八幡学園の職員によって、無理やり徴兵検査を受けさせられたが、兵役免除となる。この記録は『放浪日記』(1956年(昭和31年))にまとめられた。なお、この時のいでたちとして、テレビドラマなどの影響もあり、リュックを背負う姿はあまりにも有名であるが、実際にリュックを使っていた期間は2年程度と短く、当初は茶箱を抱えての旅であり、その後風呂敷、リュックと変化していく。

驚異的な映像記憶力の持ち主で、「花火」「桜島」など行く先々の風景を、多くの貼絵に残している。とりわけ、花火が好きだった清は、花火大会開催を聞きつけると全国に足を運び、その時の感動した情景をそのまま作品に仕上げている。花火を手掛けた作品としては、『長岡の花火』が著名である。

しかし、旅先ではほとんど絵を描くことがなく、八幡学園や実家に帰ってから記憶を基に描くというスタイルだった。このエピソードから、清はサヴァン症候群であった可能性が高いといわれている。

戦後は「日本のゴッホ[7][8]、「裸の大将」と呼ばれた。1956年(昭和31年)の東京大丸の「山下清展」を始め、全国巡回展が約130回開かれ、観客は500万人を超えた。大丸の展覧会には当時の皇太子も訪れた。1961年(昭和36年)6月、式場隆三郎らとともに約40日間のヨーロッパ旅行に出発。各地の名所を絵に残した。

晩年には、東京都練馬区谷原に住み、『東海道五十三次』の制作を志して、東京から京都までのスケッチ旅行に出掛けた。およそ5年の歳月をかけて55枚の作品を遺している。ただし、高血圧による眼底出血に見舞われ、その完成は危ぶまれていた。1971年(昭和46年)7月12日脳出血のため49歳の若さで死去。

そのため、常磐線我孫子駅で販売されていた駅弁の包装紙のデザインは、四季をテーマに4種類依頼されたが、3種類しか作成されなかった。

元タレントで画家のジミー大西は、画廊で清の作品を観て衝撃を受けたことを、テレビのトーク番組で多数語っている。日本の画壇では、竹久夢二と並んで人気の高さにもかかわらず、評価されていない画家とされる。[9]

その人気の高さや、所属していた画壇がなかったために、その作品を鑑定できる者がいないこと、各地でお礼の為に作品を残したというテレビドラマの影響(実際には貼り絵はほとんど学園や自宅で制作していて、遺族が保管)から、贋作を本物と偽った展覧会などが開催されることがある。

関連するドラマ・映画・舞台

脚注

  1. ^ a b c d e f 山下清のすべて(サンマーク出版)
  2. ^ 市川市 水木洋子と八幡マップ(山下清入所時期の八幡学園の位置が載っている)
  3. ^ 市川市大字・小字地図
  4. ^ 梅原龍三郎は「作品だけからいうとその美の表現の烈しさ、純粋さはゴッホやアンリ・ルソーの水準に達していると思う」と評価していた。『朝日新聞』1954年(昭和29年)1月6日付朝刊7頁
  5. ^ 後年、この時に脱走した理由を訊ねられても、ただ「イヤになったから」としか答えていないという。
  6. ^ 戦中、戦後と食糧事情の極端に悪化した時代に、放浪生活で施しを受けて生活ができたことは、清に特別な人格的な魅力があったためと考えられる。
  7. ^ 『朝日新聞』1954年1月6日付朝刊7頁
  8. ^ 当時、鹿児島を放浪中であった当人はゴッホもルソーも全然知らないと言っていたが、以前にゴッホの模写などはしており、同年、東京に戻ってからは日本橋丸善で開催されていたゴッホ展を訪れている。『朝日新聞』1954年1月11付朝刊及び1月21日付朝刊
  9. ^ 奇しくも、両者とも49歳で亡くなっている

関連項目

外部リンク