リーマン・ショック

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日本の実質GDP成長率の推移

リーマン・ショックは、アメリカ合衆国で住宅市場の悪化による住宅ローン問題がきっかけ[1]となり投資銀行であるリーマン・ブラザーズ・ホールディングスが2008年9月15日に経営破綻したことにより、連鎖的に世界規模の金融危機が発生した事象を総括的に呼ぶ日本における通称である[2][注釈 1]

「リーマン・ショック」は日本における通称であり、日本においては一連の金融危機における象徴的な出来事として捉えられているためこの語がよく使用される。英語では同じ事象をthe financial crisis of 2007–2008(「2007年から2008年の金融恐慌」)や the global financial crisis(「国際金融危機」)、 the 2008 financial crisis(「2008年の金融危機」)と呼称するのが一般的である。文脈にもよるが the financial crisis(「金融危機」)だけで「リーマン・ショック」を意味することも多い。

概説

2000年代に入り、日本の株式市場は国際経済の波乱に翻弄された。2000年3月10日、IT(情報技術)関連銘柄を多く含む米ナスダック総合株価指数が取引時間中に1年前の2倍以上となる高値5132.52と付けた。「ドットコム・バブル」と呼ばれるインターネット関連株人気が頂点に達した後に、金融引き締めを背景にネット関連株は急落に転じた。ITバブル崩壊は日本にも波及し、2000年3月に2万円台に乗せていた日経平均は同年10月に1万5,000円を割り、2001年8月末には1万713円と1万円の大台割れ寸前まで下がった。

2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件が大きな影響を及ぼした。翌12日の東京市場で日経平均はあっさり1万円を割り、終値で前日比682円 (6.6%) 安い9610円まで下げた。一旦持ち直すが、2002年半ばから米国景気の悪化懸念などを背景に再び下げ足を速めてテロ後の安値を下回り、10月に9,000円を割った。翌2003年3月前半には米国の対イラク戦争が近づいた緊張感も加わって20年ぶりに8,000円を割り込んだ。

その後、株式相場は景気回復への期待から一旦上げに転じたが、2007年のアメリカ合衆国の住宅バブル崩壊をきっかけとして、サブプライム住宅ローン危機を始め、プライムローンオークション・レート証券、カードローン関連債券など多分野にわたる資産価格の暴落が起こっていた。

2007年からの住宅市場の大幅な悪化と伴に、危機的状態となっていたファニー・メイフレディ・マックなどの連邦住宅抵当公庫へは、政府支援機関における買取単価上限額の引上げや、投資上限額の撤廃など様々な手を尽くしていたものの、サブプライムローンなどの延滞率は更に上昇し、住宅差押え件数も増加を続けた。歯止めが効かないことを受け、2008年9月8日アメリカ合衆国財務省が追加で約3兆ドルをつぎ込む救済政策が決定された。「大きすぎて潰せない (Too big to fail)」の最初の事例となる[3]

リーマン・ブラザーズも例外ではなく、多大な損失を抱えており、2008年9月15日月曜日)に、リーマン・ブラザーズは連邦倒産法第11章の適用を連邦裁判所に申請するに至った[4][5]。この申請により、同社が発行している社債投信を保有している企業への影響、取引先への波及と連鎖などの恐れ、及びそれに対するアメリカ合衆国議会連邦政府の対策の遅れから、アメリカ合衆国の経済に対する不安が広がり、世界的な金融危機へと連鎖した。2008年10月3日には、アメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュが、金融システムに7,000億ドルの金銭支援を行う緊急経済安定化法案 (Troubled Asset Relief Program)に署名する[3]

日経平均株価も大暴落を起こし、9月12日金曜日)の終値は12,214円だったが、10月28日には一時は6,000円台 (6,994.90円) まで下落し、1982年(昭和57年)10月以来、26年ぶりの安値を記録した。

破綻とリーマン・ショック

1850年に創立された名門投資銀行であり、1990年代以降の住宅バブルの波に乗ってサブプライムローンの積極的証券化を推し進めた結果、アメリカ五大投資銀行グループの第4位にまで上り詰めた巨大証券会社「リーマン・ブラザーズ」は、サブプライム住宅ローン危機による損失拡大により、2008年9月15日に連邦倒産法第11章(チャプター11)を申請して経営破綻した。この破綻劇は負債総額約6000億ドル(約64兆円)というアメリカ合衆国の歴史上最大の企業倒産であり[5]、世界連鎖的な信用収縮による金融危機を招くことに繋がった。

リーマン・ブラザーズは、破綻の前日までアメリカ合衆国財務省連邦準備制度理事会(FRB)の仲介の下でHSBCホールディングス韓国産業銀行など、複数の金融機関と売却の交渉を行っていた[6]。日本のメガバンク数行も参加したが、後の報道であまりに巨額かつ不透明な損失が見込まれるため、買収を見送ったと言われている。

最終的に残ったのはバンク・オブ・アメリカメリルリンチバークレイズであったが、アメリカ合衆国連邦政府が公的資金の注入を拒否[注釈 2]していたことから交渉は不調に終わった。

しかし交渉以前に、損失拡大に苦しんでいたメリルリンチはバンク・オブ・アメリカへの買収打診を内々に決定しており、バークレイズも巨額の損失を抱え、すでにリーマン・ブラザーズを買収する余力などどこにも存在していなかった。リーマン・ショックの経緯については、アンドリュー・ロス・ソーキン著の『リーマン・ショック・コンフィデンシャル』(原題: Too Big to Fail)に詳細に説明されている。

日本は長引く不景気から、サブプライムローン関連債権などにはあまり手を出していなかったため、金融会社では大和生命保険が倒産したり農林中央金庫が大幅な評価損を被ったものの、直接的な影響は当初は軽微であった。しかし、リーマン・ショックを境に世界的な経済の冷え込みから消費の落ち込み、金融不安で各種通貨から急速なアメリカ合衆国ドルの下落により相対的に円高が進み、アメリカ合衆国の経済への依存が強い輸出産業から大きなダメージが広がり、結果的に日本経済の大幅な景気後退へも繋がっていった。

リーマン・ショックを題材とした作品

脚注

注釈

  1. ^ 内閣府景気基準日付第14循環)の景気後退期の名称として「リーマン不況」とも呼ばれている
  2. ^ 2008年3月にベアー・スターンズ公的資金を注入しており、これ以上の救済措置は近々行われる大統領選挙を控えた状況も踏まえると国民の理解が得られないこと、財政にかかる負担が大きいこと、ベアー・スターンズと違い突然の破綻ではなく以前から兆候があったこと、経済の先行きを考えた場合に前例を作りたくないなどの理由から。

出典

関連項目

外部リンク