カッシング (DD-797)

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艦歴
発注
起工 1943年5月3日
進水 1943年9月30日
就役 1944年1月17日
退役 1960年11月8日
その後 ブラジル海軍に貸与
除籍 1973年8月1日
性能諸元
排水量 2,050トン
全長 376 ft 6 in (114.7 m)
全幅 39 ft 8 in (12.1 m)
吃水 17 ft 9 in (5.4 m)
機関 ギアード・タービン、2軸推進、60,000 shp (45 MW)
最大速 35ノット (65 km/h)
航続距離 15ノットで6,500カイリ (30km/hで12,000km)
乗員 士官、兵員329名
兵装 5インチ砲5門
40mm対空砲10門
20mm対空砲7門
21インチ魚雷発射管10門
爆雷軌条2軌、爆雷投射機6器

カッシング (USS Cushing, DD-797) は、アメリカ海軍駆逐艦フレッチャー級駆逐艦の1隻。艦名はウィリアム・B・カッシングに因んで命名された。その名を持つ艦としては4隻目。

艦歴

カッシングは1943年5月3日にニューヨーク州スタテンアイランドベスレヘム・スチール社で起工した。1943年9月30日にキャサリン・A・カッシング(カッシング中佐の娘)によって命名、進水し、1944年1月17日に艦長L・F・ヴォーク中佐の指揮下就役する。

第二次世界大戦

カッシングは1944年5月5日にバージニア州ノーフォークを出航、カリフォルニア州サンディエゴおよびハワイ真珠湾で訓練を行い、エニウェトク環礁への船団護衛に従事した後、ワシントン州ブレマートンに戻り対潜装備の近代化を受けた。8月24日にエニウェトク環礁で第5艦隊に合流し、パラオ諸島侵攻作戦に参加する。カッシングは空母部隊がフィリピンミンダナオ島サマル州セブ島ネグロス島を攻撃する間、部隊の護衛を担当し、続いて9月17日に上陸部隊がアンガウル島を攻撃した際にはその支援を行った。その後予定されたフィリピン侵攻に備えて台湾マニラルソン島北部を攻撃する空母部隊の護衛に戻り、数多くの撃墜された飛行士を救助した。10月24日のレイテ沖海戦でカッシングは対空砲火で少なくとも日本軍機1機を撃墜した。その後11月22日に補給のためウルシー環礁に帰還した。

1944年12月10日、ルソン島攻撃に向かう高速空母任務部隊と共に出撃したカッシングは、12月18日に台風を乗り切り、沈没した船の乗員を救助し、12月24日に嵐で受けた損傷の修理のためウルシー環礁に帰還した。1945年1月1日に任務部隊と共に出航、1月28日まで台湾、インドシナ半島中国沿岸およびフィリピンの攻撃に従事した。その後第58任務部隊に合流、日本本土の攻撃に向かったカッシングは空母搭載機部隊の発艦地点でレーダーピケット艦としての任務に従事し、部隊を攻撃しようとする日本軍機部隊を探知、撃退に貢献した。カッシングは硫黄島沖縄本島侵攻に備えた空母部隊による空襲の護衛を担当し、沖縄では艦砲射撃も行った。沖縄戦においてはレーダーピケット艦を担当し、戦闘機部隊に指示を与え多くの日本軍機を撃墜するのに貢献した。6月にレイテ島で補給を行い、その後東京を攻撃する空母部隊に合流、戦争の終わりまで同部隊と行動した。1945年8月27日に相模湾で投錨し、カッシングは入港管制艦として占領任務に従事、その後帰国の途に就いた。1945年11月20日にブレマートンに到着、1947年2月3日にカリフォルニア州ロングビーチで予備役に置かれた。

朝鮮戦争

1951年8月17日に再就役したカッシングは11月15日にロングビーチを出航、大西洋艦隊に加わるため11月30日にノーフォークに到着した。カッシングは北大西洋とカリブ海で訓練を行い、1953年1月7日にノーフォークを出航、韓国沖で第77任務部隊に加わり航空機の護衛任務に就く。6月2日および3日、Hodo Pando に対して艦砲射撃を行う。その後マニラ、シンガポールコロンボアデンピレウスジェノヴァカンヌアルジェを訪問し、8月22日にノーフォークに帰還した。その後東海岸を巡航、対潜演習および予備役兵の訓練を行い、1954年に地中海に展開する。任務の後太平洋艦隊に転属となり、1955年1月26日にロングビーチに到着した。

1955年、56年、57年から58年、59年から60年にかけての極東での配備期間、カッシングは第77任務部隊で航空機護衛および対潜演習に従事し、台湾海峡の哨戒、アイゼンハワー大統領の「People to People」プログラムに従って様々な港への訪問に従事した。本国においては西海岸沿いに対潜および対航空機戦演習訓練に従事し、士官候補生および予備役兵の訓練を行った。カッシングの母港は1960年10月にサウスカロライナ州チャールストンへ変更され、東海岸で活動した。カッシングは1960年11月8日、ノーフォークで予備役に置かれた。

ブラジル海軍で

カッシングは1961年7月20日にブラジル海軍に貸与された。ブラジル海軍ではパラナ (Parana, D29) の艦名で就役、活動した。パラナは1982年2月に除籍され、スクラップとして廃棄された。

カッシングは第二次世界大戦の戦功で6個の、朝鮮戦争の戦功で2個の従軍星章を受章した。

外部リンク