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[[Image:KoreanEmbassy1655KanoTounYasunobu.jpg|thumb|300px|「[[朝鮮通信使]]」 [[大英博物館]]蔵 [[承応]]4年([[1655年]])]]
[[Image:KoreanEmbassy1655KanoTounYasunobu.jpg|thumb|300px|「[[朝鮮通信使]]」[[大英博物館]]蔵[[承応]]4年([[1655年]])]]
'''狩野 安信'''(かのう やすのぶ、[[慶長]]18年[[12月1日 (旧暦)|12月1日]][[1614年]][[1月10日]] - [[貞享]]2年[[9月4日 (旧暦)|9月4日]][[1685年]][[10月1日]]〉)は、[[江戸時代]]の[[狩野派]]の[[絵師]]である。[[幼名]]は四郎二郎・源四郎、号は永真・牧心斎。[[狩野孝信]]の三男で[[狩野探幽]]、[[狩野尚信]]の弟。狩野宗家の中橋狩野家の祖。[[英一蝶]]は弟子に当たる。
'''狩野 安信'''(かのう やすのぶ、[[慶長]]18年[[12月1日 (旧暦)|12月1日]][[1614年]][[1月10日]] - [[貞享]]2年[[9月4日 (旧暦)|9月4日]][[1685年]][[10月1日]]))は、[[江戸時代]]の[[狩野派]]([[江戸狩野]])の[[絵師]]である。[[幼名]]は四郎二郎・源四郎、号は永真・牧心斎。[[狩野孝信]]の三男で[[狩野探幽|探幽]]、[[狩野尚信|尚信]]の弟。妻は[[狩野長信]]の娘、子に[[狩野益信]]室、[[狩野常信]]室、[[狩野時信|時信]]、[[狩野親信|親信]]。狩野宗家の中橋狩野家の祖。[[英一蝶]]は弟子に当たる。


== 略歴 ==
== 生涯 ==
父は狩野孝信、母は[[佐々成政]]の娘。探幽・尚信は兄で、姉妹は[[狩野信政]]、神足常庵に嫁いだ。また[[狩野寿石]]は甥(大甥とも)、[[久隅守景]]の妻国は姪、[[江戸幕府]]3代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家光]]の[[正室]]([[徳川将軍家御台所|御台所]])[[鷹司孝子]]は母方の従姉に当たる{{sfn|榊原悟|2014|p=17-21,515}}。
元和9年([[1623年]])危篤に陥った宗家当主の[[狩野貞信]]([[狩野光信]]の長男)には子供がいなかったため、一門の重鎮に当たる[[狩野長信]]と[[狩野吉信]]の話し合いの結果、当時10歳であった安信を貞信の養子として惣領家を嗣ぐことが決められた。伝存する作品を兄たちと比べると画才に恵まれていたとは言えず、探幽から様々な嫌がらせを受けたようである。『[[古画備考]]』所載で、安信の弟子・[[狩野昌運]]が記した「昌運筆記」では、探幽が安信をいじめた逸話が幾つも収録されている。例えば、ある時、三兄弟が[[老中]]から席画を描くよう言われた際、探幽に「兄たち妙手が描くのを見ておれ」と命じて筆を執らせず、また或る時安信が[[浅草観音堂]]天井画に「天人・蟠龍図」を描いた際も、「日本の絵でこのような絵を座敷などに飾るものではない」と叱ったと言う。果ては、「安信が宗家を継いだのは、安信が食いはぶれないようにするための探幽の配慮」といった、史実と異なる悪意が込められた話が記されている。しかし、安信と探幽は年を経ると、互いに画風や意見の対立があるのを認め合っていた。そもそも、安信は探幽より12歳年下というかなり年の離れた兄弟であり、上記の逸話も歳の離れた手のかかる弟に対する配慮とも取れる<ref>加藤弘子 「狩野探幽の素顔 もうひとつの探幽像」『聚美』vol.3、青月社、2012年4月、pp.92-95、ISBN 978-4-8109-1247-0</ref>。


幼少期は父に頼まれた[[狩野興以]]に2人の兄と共に絵の教育を受けたという{{sfn|細野正信|1988|p=74-75}}{{sfn|武田恒夫|1995|p=267-268}}。
そうした探幽の[[いじめ]]とも取れる指導を受ける中で、安信は画技の研鑽に努めた。明暦元年([[1655年]])[[普門寺 (高槻市)|普門寺]]にいる[[隠元隆琦]]を訪ね、隠元から法を受け、同寺の障壁画を描く。探幽ら当時の狩野派の絵に、隠元ら黄檗僧が着讃した作品は非常に多いが、その中でも安信には[[黄檗美術]]の影響を受けたと思われる作品がある。寛文2年([[1662年]])には[[法眼]]に叙された。また、探幽の養子であり、探幽に実子が生まれてからは疎んじられた[[狩野益信]]や甥の[[狩野常信]]に娘を嫁がせ、狩野家の結束を固める策をとっている。延宝2年([[1674年]])の内裏造営では、筆頭絵師にのみ描くのを許された[[賢聖障子]]を描き、62歳にしてようやく名実ともに狩野家筆頭の地位を得た。安信は晩年になっても、[[武者絵]]を描くためにわざわざ[[山鹿素行]]を訪れ、武者装束や武器などの[[有職故実]]の教えを受け<ref>『山鹿素行日記』延宝7年([[1679年]])11月14日条</ref>、朝鮮進物屏風の制作にあたっても素行を訪ねて様々な質問をしたという逸話が残っている<ref>同書、[[天和 (日本)|天和]]2年([[1682年]])4月11日・5月26日条</ref>。しかし、延宝6年([[1678年]])に息子の[[狩野時信|時信]]に先立たれてしまう。そのため、時信の子・[[狩野主信|永叔主信]]を跡取りとし、後事を有力な弟子・昌運に任せて亡くなった。菩提寺は[[本門寺]]。位牌は妻や子、舅の狩野長信らと合わせられている。


[[元和 (日本)|元和]]9年([[1623年]])、危篤に陥った従兄で宗家当主の[[狩野貞信]]には子供がいなかったため、一門の重鎮に当たる狩野長信(貞信と安信の大叔父)と[[狩野吉信]]の話し合いの結果、当時10歳であった安信を貞信の養子として彼の死後惣領家を嗣ぐこと、次兄尚信が父の家を継ぐことが決められた(長兄探幽は6年前の元和3年([[1617年]])に別家)。また、長信の娘は安信へ嫁いだ{{#tag:ref|狩野派宗家継承は貞信の従弟に当たる探幽3兄弟のうち末子の安信が継ぐというやや変則的な継承になっているが、これは孝信の意向で探幽が元和3年に2代将軍[[徳川秀忠]]の命で[[御用絵師]]に取り立てられ、別家を立てて孝信の家から独立、孝信の死後代わりに彼の家督を尚信が継承、残った安信が宗家の当主に選ばれたからである。また、長信と吉信が話し合った末に安信の宗家継承に合意、貞信を説得したことで継承が決まり、狩野一族の主だった絵師達は安信を守り立てることを書いた誓約書に署名した。署名者は長信・探幽・甚之丞・尚信・狩野新右衛門・[[狩野元俊]]・興以の7人で、探幽が長信に次ぐ序列2位として狩野派内部で急成長していることが誓約書からうかがえる{{sfn|松木寛|1994|p=130-141}}{{sfn|武田恒夫|1995|p=159-162}}。|group=*}}{{sfn|松木寛|1994|p=133-137,170}}。
弟子は、[[英一蝶]]や[[狩野昌運]]、[[狩野宗信]]、[[松江藩]]に仕えた狩野(太田)永雲(稠信(しげのぶ))、狩野清真など。また『古画備考』には「門人」とは別に、「門葉」という項目がある。これは、画を生業としてではなく趣味として楽しむために学んだ門跡や大名のことで、[[徳川光圀]]や[[黒田綱政]]、[[光子内親王]]、[[森川許六]]ら19名が記されている。

[[寛永]]3年([[1626年]])の[[二条城]]障壁画制作で行幸御殿の中の帳台の間を担当し帝鑑図障壁画を描き、序列は幼いことから5位になっている。寛永9年([[1632年]])の[[台徳院霊廟]]装飾の画工に選ばれた時の序列は1位だったが、寛永11年([[1634年]])の[[名古屋城]]上洛殿の障壁画制作に参加せず探幽が制作、寛永13年([[1636年]])に[[日光東照宮]]装飾を担当した狩野派の7人の絵師の中では最下位の7位に下落した{{sfn|松木寛|1994|p=144-148,153-155,160-161}}{{sfn|武田恒夫|1995|p=162,167,175-176}}。理由は不明だが、台徳院霊廟装飾の仕事が不調に終わったため代わって探幽が幕府建築装飾の責任者に選ばれたのではないかとされている{{sfn|松木寛|1994|p=166}}。寛永19年([[1642年]])・[[明暦]]元年([[1655年]])・[[寛文]]2年([[1662年]])の3度に渡る[[内裏]]障壁画制作と[[万治]]2年([[1659年]])の[[江戸城]]本丸御殿障壁画制作にも参加したが、いずれも探幽の下での活動であり、寛永19年の内裏障壁画制作では後盾になっていた舅長信が探幽に遠ざけられた。制作の画料でも差が付いていて、明暦元年の内裏障壁画制作の画料は探幽が3割増しなのに対し安信は2割増しだった{{sfn|松木寛|1994|p=169-176}}{{sfn|武田恒夫|1995|p=317-322}}{{sfn|榊原悟|2014|p=534-535}}。

そうした中で[[正保]]2年([[1645年]])に[[後水尾天皇|後水尾上皇]]の依頼で制作した『猿猴図』は、探幽の『白衣観音図』・尚信の『猿猴図』と共に作られた3幅対の合作で、[[相国寺]]に寄進され現存している。[[慶安]]3年([[1650年]])に尚信が急死すると探幽と協力することが増え、明暦元年の内裏障壁画制作に当たり、相国寺の別々の[[塔頭]]を工房に使用した(探幽は開山堂、安信は[[鹿苑院]])。また制作に際して画料の基準を明確に定めるよう探幽共々幕府の奉行に交渉、明暦3年([[1657年]])に探幽との連署で絵所奉行[[永井直清]]へ出した画料の報告書が現存している{{sfn|榊原悟|2014|p=523-526,533,544-554}}{{sfn|門脇むつみ|2014|p=30-31,34-35}}。[[朝鮮通信使]]へ贈る[[李氏朝鮮|朝鮮]]国王への献呈屏風(贈朝屏風)も明暦元年の制作では探幽ら一門と共に制作、万治2年に探幽と共に4代将軍[[徳川家綱]]に[[揮毫]](席画)を披露する御絵始を務め、以後例年行事として参加した。寛文2年に探幽と同時に[[僧位]]を叙され、探幽は法印、安信は法眼に叙された{{sfn|門脇むつみ|2014|p=36,38-39}}。

一方、探幽や安信と親交があった[[鳳林承章]]の日記『[[隔蓂記]]』の明暦2年([[1656年]])[[3月9日 (旧暦)|3月9日]]条では、息子の時信を連れて後水尾法皇の御前で揮毫をする名誉を得たことが書かれている{{sfn|榊原悟|2014|p=511-512}}。これ以後は時信との合作も作られ、寛文2年以降の作品と推測される[[チェスター・ビーティ図書館|チェスター・ビーティ・ライブラリー]]蔵『三十六歌仙画帖』は時信との合作であり4図を制作(安信の款記(署名)に寛文2年に叙された法眼の僧位が記されている)、寛文4年から5年([[1664年]] - [[1665年]])制作と推測される[[松井文庫]]蔵『百人一首画帖』も時信や一族との合作で、表裏1冊の画帖の表側と時信と一緒に担当、25図を描いた(裏は婿の狩野益信・狩野常信が担当)。この2作は細密・濃彩による江戸狩野の[[大和絵]]で表し、先に狩野派が制作した同名の作品の図様を採用しつつも、それに依拠しない安信・時信独自の新機軸も示されている。かたや探幽・益信・常信らとの合作で寛文5年頃制作とされる別の百人一首画帖も確認され、[[仙台藩]][[伊達氏]]による旧蔵本が現存している{{sfn|松島仁|2011|p=204-206,228-232,346-347,361-382}}。万治2年の江戸城障壁画制作と寛文2年の内裏障壁画制作でも時信と協力、寛文4年に[[出雲大社]]へ時信と共に複数の作品を寄進したことが確認されている{{sfn|榊原悟|2014|p=535}}{{sfn|門脇むつみ|2014|p=名10,37}}。

寛文13年([[延宝]]元年・[[1673年]])制作とされる『牛馬図』は一門が安信の還暦祝いで制作したと推測され、36人もの絵師が一幅にそれぞれ牛・馬を描いた双幅の大作となった。安信は探幽と共に上段で牛・馬を描き、上から安信・探幽の近親、表絵師、大名家御用絵師の絵が並び、作風は探幽か安信の様式、どちらとも言えない独自様式の絵が散りばめられた作品である。探幽様式は探幽の息子で安信の甥[[狩野探信 (守政)|探信]]・[[狩野探雪|探雪]]兄弟と益信・常信ら11人、安信様式は長男時信・次男親信ら13人、独自様式は表絵師や探幽の弟子久隅守景を含む12人に分類されている{{sfn|門脇むつみ|2014|p=101-118}}。

延宝3年([[1675年]])の内裏障壁画制作では、狩野派の棟梁同然の立場である[[触頭]](頭取)となり、筆頭絵師にのみ描くのを許された[[賢聖障子]]を描き、前年の延宝2年([[1674年]])に探幽が亡くなったこともあり、探幽亡き後の鍛冶橋家は弱体化し主導権は安信の中橋家に移り、62歳にしてようやく名実ともに狩野家筆頭の地位を得た。[[天和 (日本)|天和]]2年([[1682年]])の贈朝屏風も触頭として一門と共に制作を担当した{{sfn|武田恒夫|1995|p=254,322-324,336-337,443}}。しかしこの間延宝6年([[1678年]])に時信に先立たれてしまったため(親信も寛文13年に死去)、孫で時信の子[[狩野主信|主信]]を跡取りとし、後事を有力な弟子・[[狩野昌運]]に任せて貞享2年(1685年)に亡くなった。[[享年]]73{{sfn|武田恒夫|1995|p=270}}{{sfn|門脇むつみ|2014|p=108-110}}。

菩提寺は[[東京都]][[大田区]][[池上 (大田区)|池上]]の[[池上本門寺]]。位牌は妻や子、長信らと合わせられている。

== 探幽との関係 ==
伝存する作品を兄たちと比べると画才に恵まれていたとは言えず、探幽から様々な嫌がらせを受けたようである。『[[古画備考]]』所載で昌運が記した「昌運筆記」と、安信の甥に当たる探幽の息子探信の弟子[[木村探元]]が記した『三暁庵雑志』では、探幽が安信を[[いじめ|いじめた]]逸話が幾つも収録されている。例えばある時、三兄弟が[[老中]]から揮毫を描くよう言われた際、探幽が安信に向かって「兄たち妙手が描くのを見ておれ」と命じて筆を執らせなかった。またある時安信が[[浅草寺|浅草観音堂]]天井画に「天人・蟠龍図」を描いた際も、「日本の絵でこのような絵を座敷などに飾るものではない」と叱ったと言う。果ては、「安信が宗家を継いだのは、安信が食いはぶれないようにするための探幽の配慮」といった、史実と異なる悪意が込められた話が記されている(安信が宗家を継いだのは長信と吉信の配慮であり史実ではない){{sfn|細野正信|1988|p=27}}{{sfn|安村敏信|2008|p=153-154}}。この逸話を取り上げた[[松木寛]]は実力よりも血脈が優先する家族制度の矛盾に注目、技量が2人の兄に及ばない安信が宗家当主という立場にあり、実力と格式の対立が狩野派内部に残っていると考え、実質の無い宗家と周囲の人間への苛立ちと怒りが探幽を安信へのいじめに走らせたと推測している{{#tag:ref|松木は寛永年間に尚信・安信が探幽に続いて幕府から御用絵師に任命され、三兄弟がそれぞれ独立した家(探幽は鍛冶橋家、尚信は竹川町家(木挽町家)、安信は中橋家)を形成・分立して三極体制になった点に触れ、三兄弟の優劣は血脈ではなく絵師としての力量や政治権力との繋がりで左右され、名古屋城上洛殿障壁画制作など幕府の建築装飾に探幽が指名されたのは技量の差があったからと推定しつつ、周囲の人間が実質の無い宗家を頂点とするヒエラルキーの意識を引きずっていたことが探幽のいじめの原因と捉えている。[[榊原悟]]も三家が幕府との関係で横並びになったことで宗家が相対的に低下したことを指摘、宗家に代わる狩野派統率の役割が求められ触頭の設置に繋がったと推定、探幽がこの地位に就いた背景は長幼の順や実力の他に、最初に幕府から御用絵師に取り立てられたことも理由の1つに挙げている{{sfn|松木寛|1994|p=152-153,166-167,187-188}}{{sfn|榊原悟|2014|p=75-84}}。ちなみに、『三暁庵雑志』でのいじめの逸話については松木・榊原は共に信憑性を疑っている{{sfn|松木寛|1994|p=181}}{{sfn|榊原悟|2014|p=75}}。|group=*}}{{sfn|松木寛|1994|p=162-167}}。

しかし、探幽が安信を嫌っていたとも言い切れない逸話もある。安信と探幽は年を経ると合作が増えたり、強い結びつきが出来たり、互いに画風や意見の対立があるのを認め合っていた。これは慶安3年の尚信の急死で危機感を抱いた探幽が安信と力を合わせて一門を牽引、結束に心して当たっていた可能性があり、探幽は自身の後半生に安信を重要なパートナーとして見出していたと推測されている{{sfn|門脇むつみ|2014|p=31,95,98-99}}。安信も探幽も画家の傍ら絵の鑑定をしていたが、安信が一部を探幽に送り鑑定を持ち込んだことも探幽との繋がりを示している{{sfn|榊原悟|2014|p=449-456}}{{sfn|門脇むつみ|2014|p=127-131}}。そもそも、安信は探幽より12歳年下というかなり年の離れた兄弟であり、上記の逸話も歳の離れた手のかかる弟に対する配慮とも取れる{{sfn|加藤弘子|2012|p=92-95}}。

また、探幽の養子であり、探幽に実子が生まれてからは疎んじられ万治2年に別家・駿河台狩野家を立てた狩野益信や甥の狩野常信に娘を嫁がせ、狩野家の結束を固める策をとっている。この婚姻政策も捉え方が分かれ、松木は探幽への対抗として包囲網形成を図ったと推測、[[榊原悟]]は姻戚関係強化(血の団結)で狩野家の存続を図ったと見ている{{#tag:ref|結婚・養子縁組で探幽・安信兄弟と繋がりが出来た益信・常信はしばしば狩野派内部での序列が入れ替わっている。承応3年([[1654年]])から明暦元年の内裏障壁画制作における画家の地位は探幽の養子だった益信が常信より上だったが、寛文2年の再度の内裏障壁画制作で両者の地位が逆転し、別家を立てて探幽の養子でなくなった益信は常信より下になっている。探幽亡き後の延宝3年([[1675年]])の内裏障壁画制作では再び益信が常信より上の地位に戻ったが、これは安信の長女・次女がそれぞれ益信・常信に嫁いでいた関係からであり、狩野派では主導者との関係によって画家の序列が決まることが慣例だった{{sfn|安村敏信|2008|p=161-162}}。|group=*}}{{sfn|松木寛|1994|p=185-187}}{{sfn|榊原悟|2014|p=517}}。

そうした探幽のいじめとも取れる指導を受ける中で、安信は画技の研鑽に努めた。明暦元年に[[普門寺 (高槻市)|普門寺]]にいる[[隠元隆琦]]を訪ね、記室(書記)の[[独立性易]]と親しくなり、隠元から法を受け同寺の方丈に襖絵を描く。探幽ら当時の狩野派の絵に隠元ら黄檗僧が着讃した作品は非常に多いが、その中でも安信には[[黄檗美術]]の影響を受けたと思われる作品がある{{sfn|榊原悟|2014|p=496-498}}{{sfn|門脇むつみ|2014|p=173}}。安信は晩年になっても、[[武者絵]]を描くためにわざわざ[[山鹿素行]]を訪れ、武者装束や武器などの[[有職故実]]の教えを受け<ref>『山鹿素行日記』延宝7年([[1679年]])11月14日条</ref>、朝鮮進物屏風の制作にあたっても素行を訪ねて様々な質問をしたという逸話が残っている<ref>同書、[[天和 (日本)|天和]]2年([[1682年]])4月11日・5月26日条</ref>。

== 弟子と交友関係 ==
弟子は昌運や[[英一蝶]]、[[狩野宗信]]、[[松江藩]]に仕えた狩野(太田)永雲(稠信(しげのぶ))、狩野清真など。[[福井藩]]の御用絵師[[狩野元昭]]も弟子に含まれる{{sfn|舟澤茂樹|2010|p=83}}。また『古画備考』には「門人」とは別に、「門葉」という項目がある。これは、画を生業としてではなく趣味として楽しむために学んだ[[門跡]]や大名のことで、[[徳川光圀]]や[[黒田綱政]]、[[光子内親王]]、[[森川許六]]ら19名が記されている{{sfn|門脇むつみ|2014|p=219,235}}。

大名とは[[稲葉正則]]・[[松平直矩]]と交際があり、彼等の日記『永代日記』・『松平大和守日記』に探幽ら一門と共に名前が載っている。[[加賀藩]][[前田氏]]との繋がりも深く、藩祖[[前田利家]]夫人[[芳春院|まつ]]建立の[[芳春院 (京都市)|芳春院]]で小書院を担当、2代藩主[[前田利常]]が建立した[[瑞龍寺 (高岡市)|瑞龍寺]]の法堂に天井画『草花図』を描いた{{sfn|門脇むつみ|2014|p=137,142-143,206}}。高僧との交際も盛んで、隠元と独立の他に[[江月宗玩]]の複数の肖像画を描いたことが確認されている{{sfn|門脇むつみ|2014|p=172-173}}。

[[儒学者]]で幕府の御用学者[[林羅山]]・[[林鵞峰|鵞峰]]父子とも関わりがあり、『武州州学十二景図巻』は慶安元年([[1648年]])の羅山の跋文と探幽・尚信・益信との絵で構成された合作で、寛文8年([[1668年]])には羅山の次男で鵞峰の弟[[林読耕斎]]の肖像画を描いた。[[林家 (儒学者)|林家]]が発案した新画題に絵を描くこともあり、[[榊原忠次]]の依頼で三十六歌仙図になぞらえた『詩客歌仙図屏風』・『中華三十六将図』(詩仙図・武仙図)の制作が決まると絵を担当し詩は羅山父子や公家・禅僧が分担、武仙図は正保2年、詩仙図は慶安元年に完成した。出来上がった両作品は武家・公家の間で流行しただけでなく、寛文5年に家綱の命令で新しい武仙図を描き鵞峰の賛を加えた『本朝三十六将図』を制作、絵入り版本を通じて改題・刊行され一般にも広まり、[[浮世絵]]の武者絵にも影響を与えた{{sfn|松島仁|2011|p=36,257,292}}{{sfn|門脇むつみ|2014|p=180-186}}。鵞峰が賛を書いた絵も見られ、[[楠木正成]]の肖像画『楠公図』、正成と弟の[[楠木正季]]・息子の[[楠木正行]]を描いた3幅対の『楠正成・正季・正行図』がある{{sfn|松島仁|2011|p=253-254,}}。


== 画論『画道要訣』 ==
== 画論『画道要訣』 ==
絵画における安信の考え、ひいては狩野派を代表する画論としてしばしば引用されるのが、晩年の[[延宝]]8年([[1680年]])に弟子の狩野昌運に筆記させた『画道要訣』である<ref>監修 [[小林忠]]・[[河野元昭]] 編集・校訂 安村敏信 『[定本] 日本絵画論大成 第4巻』所収 [[ぺりかん社]]、1997年 ISBN 4-8315-0767-9</ref>。この中で安信は、優れた絵画には天才が才能にまかせて描く「質画」と、古典の学習を重ねた末に得る「学画」の二種類があり、どんなに素晴らしい絵でも一代限りの成果で終わってしまう「質画」よりも、古典を通じて後の絵師たちに伝達可能な「学画」の方が勝るとしている。ただし安信は質画の良さまで否定したわけではなく、さらに「心性の眼を筆の先に徹する」「心画」とも言うべき姿勢をもっとも重視している。ただし、『画道要訣』は出版されておらず、写本で広まった形跡もなく、江戸時代の画論書でも引用されることは殆ど無い事から、中橋狩野家に秘蔵されたと見られ、他の狩野家にすら影響を与えたとは考えづらいことは注意を要する。
絵画における安信の考え、ひいては狩野派を代表する画論としてしばしば引用されるのが、晩年の延宝8年([[1680年]])に昌運に筆記させた『画道要訣』である<ref>監修 [[小林忠]]・[[河野元昭]] 編集・校訂 安村敏信 『[定本] 日本絵画論大成 第4巻』所収 [[ぺりかん社]]、1997年 ISBN 4-8315-0767-9</ref>。この中で安信は、優れた絵画には天才が才能にまかせて描く「質画」と、古典の学習を重ねた末に得る「学画」の二種類があり、どんなに素晴らしい絵でも一代限りの成果で終わってしまう「質画」よりも、古典を通じて後の絵師たちに伝達可能な「学画」の方が勝るとしている一方、質画の良さまで否定したわけではなく、「心性の眼を筆の先に徹する」「心画」とも言うべき姿勢をもっとも重視している。ただし、『画道要訣』は出版されておらず、写本で広まった形跡もなく、江戸時代の画論書でも引用されることは殆ど無い事から、中橋狩野家に秘蔵されたと見られ、他の狩野家にすら影響を与えたとは考えづらいことは注意を要する{{sfn|細野正信|1988|p=27-32}}{{sfn|武田恒夫|1995|p=229-230}}{{sfn|山下裕二|2004|p=79}}{{sfn|安村敏信|2006|p=49}}。なお、『画道要訣』の原本は現在不明だが、[[昭和]]4年([[1929年]])に[[狩野忠信]]が筆写した写本が現存する{{sfn|山下裕二|2004|p=79}}


== 安信の作品と評価 ==
== 安信の作品と評価 ==
安信は比較的長命で狩野宗家の当主ということもあり、多くの作品が残っている。しかし、粉本をただ丸写ししたかのような、画家自身の[[個性]]や表現を重んじる現代では鑑賞に耐えない作品も少なからずある。しかし、その中でも上質な作品を掬い出して見ると、粉本に依拠しつつも丁寧で真面目な描線で、モチーフを的確に構成した「学画」という自身の言葉通りの作品を残している。筆墨による繊細な表現が重要な[[水墨画]]を苦手としていたらしく、優品と呼べる作品は少ない。一方、時にその単調な筆墨が明快さ、力強さに転化する場合もあり、これらが利点として出やすい人物画に優れた作品が多い。ただし、優品の中でも人物の衣文線がはみ出したり、一つの絵巻や屏風内でも明らかな様式の不統一があるなど、細部がいい加減な点がしばしば見られ、細かい点に拘らない安信の資質が見て取れる。
安信は比較的長命で狩野宗家の当主ということもあり、多くの作品が残っている、粉本をただ丸写ししたかのような、画家自身の[[個性]]や表現を重んじる現代では鑑賞に耐えない作品も少なからずある。しかし、その中でも上質な作品を掬い出して見ると、粉本に依拠しつつも丁寧で真面目な描線で、モチーフを的確に構成した「学画」という自身の言葉通りの作品を残している{{sfn|安村敏信|2008|p=48}}{{sfn|門脇むつみ|2014|p=99-101}}。筆墨による繊細な表現が重要な[[水墨画]]を苦手としていたらしく、優品と呼べる作品は少ない{{sfn|門脇むつみ|2014|p=91-92,95}}。一方、法眼になった寛文2年前後から単調な線質による力強い表現(安信様式)を用いるようになり、時にその単調な筆墨が明快さ、力強さに転化する場合もあり、これらが利点として出やすい人物画に優れた作品が多い{{sfn|門脇むつみ|2014|p=95-97,99}}。ただし、優品の中でも人物の衣文線がはみ出したり、一つの絵巻や屏風内でも明らかな様式の不統一があるなど、細部がいい加減な点がしばしば見られ、細かい点に拘らない安信の資質が見て取れる{{#tag:ref|探幽と安信がそれぞれの工房で制作した絵巻を取り上げた[[門脇むつみ]]はその出来栄えを比較、探幽工房が寛永13年から寛永16年(1636年 - [[1639年]])まで3年かけて制作、寛永17年([[1640年]])に日光東照宮へ奉納した『東照宮縁起絵巻』は探幽の優れた統率と弟子達の探幽様式の忠実な描写で、絵の表現に細かい違いがあっても全体的にちぐはぐにならず、図様・様式・モチーフなど基本的な要素の統一された作品になっていると評している。対して、安信工房が寛文5年に制作した『村松山内善禅寺募縁起絵巻』は寛文2年に[[出雲国|出雲]][[松江藩]]家老・[[村松直賢]](内膳)が建てた内善寺の創建を主題とする絵巻だが、図様・様式・モチーフの違いが目立ち、安信様式が基底になっているとはいえ、統一感が無い作品になっている。門脇はこうした出来栄えになった背景・理由として、松江と関係が深い弟子や素人などが絵巻制作に参加した分担制作の可能性、江戸・松江と距離が遠く直接絵の進行を見てやり取りが出来ない状況、安信の統率力不足と細部に拘らない資質を推測している{{sfn|門脇むつみ|2014|p=224-236}}。|group=*}}{{sfn|門脇むつみ|2014|p=230-236}}

安信は既に江戸時代から兄達に劣るとする評価が広く見られたが、一方でそれを下手と切り捨てるのではなく、兄2人と別の方向を目指した、努力で補ったとする好意的な解釈も見られる。例えば公家の[[近衛家熙]]は尚信を高く評価していたが、安信にもその力量を認めている。『[[槐記]]』[[享保]]13年([[1728年]])[[5月4日 (旧暦)|5月4日]]条で「安信は下手と言われるが、出来の良い作品は素晴らしい。これは安信が探幽や尚信に及ばないと考え、「己が一家一分の風を書出して」個性を出したからで、これが安信の優れた所である」と記し、享保16年([[1731年]])[[6月25日 (旧暦)|6月25日]]条に「安信は兄には及ばないことを自覚し自分の様式を貫いているが、決して兄二人に劣っていない」と記している{{sfn|松木寛|1994|p=180-181}}{{sfn|門脇むつみ|2014|p=93}}。


昌運も師を擁護する文章を残し、「昌運筆記」で探幽に非難された上記の逸話に続いて、中年期の安信の作品が世間でもてはやされたことを記し、実際に京都で[[狩野元信]]・[[狩野永徳]]・探幽・尚信の絵を見た感想を見事なものだと書いた上で「安信が描いた物もあるが、噂ほどには劣っていないそうだ」と評価、安信が先祖や兄2人に匹敵することを強調している{{sfn|細野正信|1988|p=27}}{{sfn|松木寛|1994|p=164-165}}。
安信は既に江戸時代から兄達に劣るとする評価が広く見られたが、一方でそれを下手と切り捨てるのではなく、兄二人と別の方向を目指した、努力で補ったとする好意的な解釈も見られる。例えば公家の[[近衛家熈]]は、尚信を高く評価していたが、安信にもその力量を認めている。曰く、「安信は兄には及ばないことを自覚し自分の様式を貫いているが、決して兄二人に劣っていない」<ref>『[[槐記]]』享保12年閏正月二十八日条。</ref>、「安信は下手と言われるが、出来の良い作品は素晴らしい。これは安信が探幽や尚信に及ばないと考え、「己が一家一分の風を書出して」個性を出したからで、これが安信の優れた所である」<ref>『[[槐記]]』享保13年五月四日条</ref>。


[[蘭方医学|蘭方医]]の[[杉田玄白]]も、三兄弟を評した文章を残している。「探幽の縮図を見たことがあるが、その膨大な量、留書の筆まめさ、出来栄えなどから、探幽には才能に加え篤い志のある三、四百年の名人だと感じ入った。尚信・安信は共に上手だが、尚信は才能があるため絵が風流で、例えるなら紗綾縮緬、安信は才能で劣るため雅さがなく絹紬のようだという。前者は良い織物だが、染色が悪くて仕立てが悪いと人前で着れたものではない。対して後者は劣った織物だが、染めや仕立てが上手ければ人前でも着ることができる。安信は絹紬のように下地、即ち先天的な才能では劣っていたが、努力したため兄二人に並ぶ上手となった。安信の絵が雅でなくともそれは恥ではなく、学んだことが結果として表れているのが素晴らしい。今でも識者は安信を目標に絵を学ぶといい、[[医学]]を志す者もこうした安信の姿勢こそ見習うべきである」(『形影夜話』)<ref>門脇むつみ 『巨匠 狩野探幽の誕生 江戸初期、将軍も天皇も愛した画家の才能と境遇』 朝日新聞出版〈朝日選書925〉、2014年10月、pp.93-101、230-236。</ref>
[[蘭方医学|蘭方医]]の[[杉田玄白]]も、三兄弟を評した文章を残している。「探幽の縮図を見たことがあるが、その膨大な量、留書の筆まめさ、出来栄えなどから、探幽には才能に加え篤い志のある三、四百年の名人だと感じ入った。尚信・安信は共に上手だが、尚信は才能があるため絵が風流で、例えるなら紗綾縮緬、安信は才能で劣るため雅さがなく絹紬のようだという。前者は良い織物だが、染色が悪くて仕立てが悪いと人前で着れたものではない。対して後者は劣った織物だが、染めや仕立てが上手ければ人前でも着ることができる。安信は絹紬のように下地、即ち先天的な才能では劣っていたが、努力したため兄二人に並ぶ上手となった。安信の絵が雅でなくともそれは恥ではなく、学んだことが結果として表れているのが素晴らしい。今でも識者は安信を目標に絵を学ぶといい、[[医学]]を志す者もこうした安信の姿勢こそ見習うべきである」(『形影夜話』){{sfn|門脇むつみ|2014|p=93-94}}


== 代表作 ==
== 代表作 ==
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|[[普門寺 (高槻市)]]
|[[普門寺 (高槻市)|普門寺]]
|1645年(正保2年)頃
|1645年(正保2年)頃
|款記「狩野安信筆」
|款記「狩野安信筆」
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|欠損部は[[直原玉青]]筆
|欠損部は[[直原玉青]]筆
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|猿猴図
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|3幅対のうち1幅
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|[[相国寺]]
|1645年(正保2年)
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|探幽・尚信との合作。
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|探幽・尚信との合作。左七・[[藤原兼輔|中納言兼輔]]から左十八・[[平兼盛]]まで担当。同じく松平頼重が奉納
|探幽・尚信との合作。左七・[[藤原兼輔|中納言兼輔]]から左十八・[[平兼盛]]まで担当。同じく松平頼重が奉納
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|武州州学十二景図巻
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|[[東京都江戸東京博物館|江戸東京博物館]]
|1648年(慶安元年)
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|探幽・尚信・益信との合作で[[林羅山]]の跋文付。各々が4図を担当
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|提宗慧全賛。鳥取藩[[家老]]・荒尾就([[荒尾成利]]弟)奉納
|提宗慧全賛。[[鳥取藩]][[家老]]・[[荒尾]]([[荒尾成利]]弟)奉納
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|三十六歌仙画帖
|絹本着色
|1帖36図のうち4図
|各25.1x21.5
|[[チェスター・ビーティ図書館|チェスター・ビーティ・ライブラリー]]
|1662年(寛文2年)以降
|款記「法眼永真筆」
|「安」朱文方印
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|時信との合作。4図を担当
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|竹虎図屏風
|竹虎図屏風
|紙本著色
|紙本著色
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|松雲院([[刈谷市]])には本図の模写がある<ref>愛知県史編さん委員会編集 『愛知県史 別編 文化財2 絵画』 愛知県、2011年3月31日、pp.484-485。</ref>。
|松雲院([[刈谷市]])には本図の模写がある<ref>愛知県史編さん委員会編集 『愛知県史 別編 文化財2 絵画』 愛知県、2011年3月31日、pp.484-485。</ref>。
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|[[百人一首]]画帖
|紙本着色
|1帖100図のうち25図
|各25.0x21.0
|[[松井文庫]]
|17世紀後半
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|時信・益信・常信との合作。25図を担当
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|百人一首画帖
|絹本着色
|1帖100図のうち20図
|各31.2x27.3
|個人蔵(仙台[[伊達氏|伊達家]]旧蔵)
|17世紀後半
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|探幽・益信・常信との合作。20図を担当
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|絵14段、詞書13段。詞書の作者・筆者は不明。松江藩[[家老]]・村松内膳直賢が建てた内善寺(現存せず)の創建を主題とする絵巻。各段の様式・図様の違いが大きい。
|絵14段、詞書13段。詞書の作者・筆者は不明。[[松江藩]]家老[[村松直賢|村松内膳直賢]]が建てた内善寺(現存せず)の創建を主題とする絵巻。各段の様式・図様の違いが大きい。
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|聖福寺仏殿(大雄宝殿)天井画<ref>[[福岡市博物館]]編集 『栄西禅師八百年大遠諱記念特別展 日本最初の禅寺 博多聖福寺』 日本最初の禅寺 博多・聖福寺展実行委員会、2013年4月20日、pp.83,207。</ref>
|聖福寺仏殿(大雄宝殿)天井画<ref>[[福岡市博物館]]編集 『栄西禅師八百年大遠諱記念特別展 日本最初の禅寺 博多聖福寺』 日本最初の禅寺 博多・聖福寺展実行委員会、2013年4月20日、pp.83,207。</ref>
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|牛馬図
|絹本墨画著色
|双幅
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|個人
|1673年(寛文13年)頃
|款記「法眼永真筆」
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|}
|}
== 子女 ==
[[狩野長信]]の娘との間に1男2女を儲けた{{sfn|榊原悟|2014|p=514-516}}。
* 長女(生没年不詳) - [[狩野益信]]室
* [[狩野時信]](1642年 - 1678年) - 長男、父に先立って死去。[[狩野主信]]の父
* 次女(生没年不詳) - [[狩野常信]]室
他に次男[[狩野親信]](? - 1673年)がいる{{sfn|門脇むつみ|2014|p=104}}。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=*}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
=== 書籍 ===
* [[細野正信]]著編 『 江戸の狩野派』 [[至文堂]]〈日本の美術262〉、1988年
* [[細野正信]]編『江戸の狩野派』[[至文堂]](日本の美術262)、1988年。
* 松木寛 『御用絵師狩野家の血と力』 [[講談社]]<[[講談社選書メチエ]]>、1994年 ISBN 978-4-0625-8030-4
* [[松木寛]]『御用絵師狩野家の血と力』[[講談社]]([[講談社#ノンフィクション・学芸|講談社選書メチエ]])、1994年。ISBN 978-4-0625-8030-4
* [[山下裕二]]監修 [[安村敏信]] [[山本英男]] [[山下善也]]執筆 『別冊太陽 狩野派決定版』 [[平凡社]]、2004年 ISBN 978-4-5829-2131-1
* [[武田恒夫]]『狩野派絵画史』[[吉川弘文館]]、1995年。
* 安村敏信 『もっと知りたい狩野派 探幽と江戸狩野派』 [[東京美術]]、2006年 ISBN 978-4-8087-0815-3
* [[山下裕二]]監修、[[安村敏信]]・[[山本英男]]・[[山下善也]]執筆『別冊太陽 狩野派決定版』[[平凡社]]、2004年。ISBN 978-4-5829-2131-1
* 佐々木英理子 野田麻美企画・編集 『「探幽3兄弟─狩野探幽・尚信・安信─」展図録』 [[板橋区立美術館]]・[[群馬県立近代美術館]]ほか発行、2014年2月
* 安村敏信『もっと知りたい狩野派 <small>探幽と江戸狩野派</small>』[[東京美術]]、2006年12月。ISBN 978-4-8087-0815-3
* 松島仁 「狩野安信筆 源氏物語 明石・絵合図屏風」『[[国華]]』第1454号、国華社、2016年12月20日、pp.31-34、ISBN 978-4-02-291454-5
* 安村敏信『江戸の絵師 <small>「暮らしと稼ぎ」</small>』[[小学館]]、2008年。
* [[舟澤茂樹]]『<small>シリーズ藩物語</small> 福井藩』[[現代書館]]、2010年。
* [[松島仁 (歴史学者)|松島仁]]『徳川将軍権力と狩野派絵画 <small>徳川王権の樹立と王朝絵画の創生</small>』[[星雲社]]、2011年。
* [[榊原悟]]『狩野探幽 <small>御用絵師の肖像</small>』[[臨川書店]]、2014年。
* [[門脇むつみ]]『巨匠 狩野探幽の誕生 <small>江戸初期、将軍も天皇も愛した画家の才能と境遇</small>』[[朝日新聞出版]]([[朝日選書]])、2014年。

=== 展覧会図録・論文 ===
* [[加藤弘子]]「狩野探幽の素顔 もうひとつの探幽像」『聚美』vol.3に掲載。[[青月社]]、2012年4月。ISBN 978-4-8109-1247-0
* [[佐々木英理子]]・[[野田麻美]]企画・編集『「探幽3兄弟─狩野探幽・尚信・安信─」展図録』[[板橋区立美術館]]・[[群馬県立近代美術館]]ほか発行、2014年2月。
* 松島仁「狩野安信筆 源氏物語 明石・絵合図屏風」『[[国華]]』第1454号に掲載。国華社、2016年12月20日。pp.31-34。ISBN 978-4-02-291454-5


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[英一蝶]] - 弟子。従来、安信は弟子の一蝶にあまり影響を与えなかったとされていたが、近年、安信の画帖と一蝶の絵に幾つかの共通する図様が指摘されている。
* [[英一蝶]] - 弟子。従来、安信は弟子の一蝶にあまり影響を与えなかったとされていたが、近年、安信の画帖と一蝶の絵に幾つかの共通する図様が指摘されている。
* [[桂離宮]]
* [[狩野昌運]] - 弟子。安信亡き後の中橋狩野家を盛り立てた[[番頭]]的存在。
* [[狩野派]]
* [[象頭山 (香川県)]]
* [[吉備大臣入唐絵巻]]


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[[Category:狩野派]]
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2023年12月30日 (土) 09:16時点における版

朝鮮通信使大英博物館蔵、承応4年(1655年

狩野 安信(かのう やすのぶ、慶長18年12月1日1614年1月10日) - 貞享2年9月4日1685年10月1日))は、江戸時代狩野派江戸狩野)の絵師である。幼名は四郎二郎・源四郎、号は永真・牧心斎。狩野孝信の三男で探幽尚信の弟。妻は狩野長信の娘、子に狩野益信室、狩野常信室、時信親信。狩野宗家の中橋狩野家の祖。英一蝶は弟子に当たる。

生涯

父は狩野孝信、母は佐々成政の娘。探幽・尚信は兄で、姉妹は狩野信政、神足常庵に嫁いだ。また狩野寿石は甥(大甥とも)、久隅守景の妻国は姪、江戸幕府3代将軍徳川家光正室御台所鷹司孝子は母方の従姉に当たる[1]

幼少期は父に頼まれた狩野興以に2人の兄と共に絵の教育を受けたという[2][3]

元和9年(1623年)、危篤に陥った従兄で宗家当主の狩野貞信には子供がいなかったため、一門の重鎮に当たる狩野長信(貞信と安信の大叔父)と狩野吉信の話し合いの結果、当時10歳であった安信を貞信の養子として彼の死後惣領家を嗣ぐこと、次兄尚信が父の家を継ぐことが決められた(長兄探幽は6年前の元和3年(1617年)に別家)。また、長信の娘は安信へ嫁いだ[* 1][6]

寛永3年(1626年)の二条城障壁画制作で行幸御殿の中の帳台の間を担当し帝鑑図障壁画を描き、序列は幼いことから5位になっている。寛永9年(1632年)の台徳院霊廟装飾の画工に選ばれた時の序列は1位だったが、寛永11年(1634年)の名古屋城上洛殿の障壁画制作に参加せず探幽が制作、寛永13年(1636年)に日光東照宮装飾を担当した狩野派の7人の絵師の中では最下位の7位に下落した[7][8]。理由は不明だが、台徳院霊廟装飾の仕事が不調に終わったため代わって探幽が幕府建築装飾の責任者に選ばれたのではないかとされている[9]。寛永19年(1642年)・明暦元年(1655年)・寛文2年(1662年)の3度に渡る内裏障壁画制作と万治2年(1659年)の江戸城本丸御殿障壁画制作にも参加したが、いずれも探幽の下での活動であり、寛永19年の内裏障壁画制作では後盾になっていた舅長信が探幽に遠ざけられた。制作の画料でも差が付いていて、明暦元年の内裏障壁画制作の画料は探幽が3割増しなのに対し安信は2割増しだった[10][11][12]

そうした中で正保2年(1645年)に後水尾上皇の依頼で制作した『猿猴図』は、探幽の『白衣観音図』・尚信の『猿猴図』と共に作られた3幅対の合作で、相国寺に寄進され現存している。慶安3年(1650年)に尚信が急死すると探幽と協力することが増え、明暦元年の内裏障壁画制作に当たり、相国寺の別々の塔頭を工房に使用した(探幽は開山堂、安信は鹿苑院)。また制作に際して画料の基準を明確に定めるよう探幽共々幕府の奉行に交渉、明暦3年(1657年)に探幽との連署で絵所奉行永井直清へ出した画料の報告書が現存している[13][14]朝鮮通信使へ贈る朝鮮国王への献呈屏風(贈朝屏風)も明暦元年の制作では探幽ら一門と共に制作、万治2年に探幽と共に4代将軍徳川家綱揮毫(席画)を披露する御絵始を務め、以後例年行事として参加した。寛文2年に探幽と同時に僧位を叙され、探幽は法印、安信は法眼に叙された[15]

一方、探幽や安信と親交があった鳳林承章の日記『隔蓂記』の明暦2年(1656年3月9日条では、息子の時信を連れて後水尾法皇の御前で揮毫をする名誉を得たことが書かれている[16]。これ以後は時信との合作も作られ、寛文2年以降の作品と推測されるチェスター・ビーティ・ライブラリー蔵『三十六歌仙画帖』は時信との合作であり4図を制作(安信の款記(署名)に寛文2年に叙された法眼の僧位が記されている)、寛文4年から5年(1664年 - 1665年)制作と推測される松井文庫蔵『百人一首画帖』も時信や一族との合作で、表裏1冊の画帖の表側と時信と一緒に担当、25図を描いた(裏は婿の狩野益信・狩野常信が担当)。この2作は細密・濃彩による江戸狩野の大和絵で表し、先に狩野派が制作した同名の作品の図様を採用しつつも、それに依拠しない安信・時信独自の新機軸も示されている。かたや探幽・益信・常信らとの合作で寛文5年頃制作とされる別の百人一首画帖も確認され、仙台藩伊達氏による旧蔵本が現存している[17]。万治2年の江戸城障壁画制作と寛文2年の内裏障壁画制作でも時信と協力、寛文4年に出雲大社へ時信と共に複数の作品を寄進したことが確認されている[18][19]

寛文13年(延宝元年・1673年)制作とされる『牛馬図』は一門が安信の還暦祝いで制作したと推測され、36人もの絵師が一幅にそれぞれ牛・馬を描いた双幅の大作となった。安信は探幽と共に上段で牛・馬を描き、上から安信・探幽の近親、表絵師、大名家御用絵師の絵が並び、作風は探幽か安信の様式、どちらとも言えない独自様式の絵が散りばめられた作品である。探幽様式は探幽の息子で安信の甥探信探雪兄弟と益信・常信ら11人、安信様式は長男時信・次男親信ら13人、独自様式は表絵師や探幽の弟子久隅守景を含む12人に分類されている[20]

延宝3年(1675年)の内裏障壁画制作では、狩野派の棟梁同然の立場である触頭(頭取)となり、筆頭絵師にのみ描くのを許された賢聖障子を描き、前年の延宝2年(1674年)に探幽が亡くなったこともあり、探幽亡き後の鍛冶橋家は弱体化し主導権は安信の中橋家に移り、62歳にしてようやく名実ともに狩野家筆頭の地位を得た。天和2年(1682年)の贈朝屏風も触頭として一門と共に制作を担当した[21]。しかしこの間延宝6年(1678年)に時信に先立たれてしまったため(親信も寛文13年に死去)、孫で時信の子主信を跡取りとし、後事を有力な弟子・狩野昌運に任せて貞享2年(1685年)に亡くなった。享年73[22][23]

菩提寺は東京都大田区池上池上本門寺。位牌は妻や子、長信らと合わせられている。

探幽との関係

伝存する作品を兄たちと比べると画才に恵まれていたとは言えず、探幽から様々な嫌がらせを受けたようである。『古画備考』所載で昌運が記した「昌運筆記」と、安信の甥に当たる探幽の息子探信の弟子木村探元が記した『三暁庵雑志』では、探幽が安信をいじめた逸話が幾つも収録されている。例えばある時、三兄弟が老中から揮毫を描くよう言われた際、探幽が安信に向かって「兄たち妙手が描くのを見ておれ」と命じて筆を執らせなかった。またある時安信が浅草観音堂天井画に「天人・蟠龍図」を描いた際も、「日本の絵でこのような絵を座敷などに飾るものではない」と叱ったと言う。果ては、「安信が宗家を継いだのは、安信が食いはぶれないようにするための探幽の配慮」といった、史実と異なる悪意が込められた話が記されている(安信が宗家を継いだのは長信と吉信の配慮であり史実ではない)[24][25]。この逸話を取り上げた松木寛は実力よりも血脈が優先する家族制度の矛盾に注目、技量が2人の兄に及ばない安信が宗家当主という立場にあり、実力と格式の対立が狩野派内部に残っていると考え、実質の無い宗家と周囲の人間への苛立ちと怒りが探幽を安信へのいじめに走らせたと推測している[* 2][30]

しかし、探幽が安信を嫌っていたとも言い切れない逸話もある。安信と探幽は年を経ると合作が増えたり、強い結びつきが出来たり、互いに画風や意見の対立があるのを認め合っていた。これは慶安3年の尚信の急死で危機感を抱いた探幽が安信と力を合わせて一門を牽引、結束に心して当たっていた可能性があり、探幽は自身の後半生に安信を重要なパートナーとして見出していたと推測されている[31]。安信も探幽も画家の傍ら絵の鑑定をしていたが、安信が一部を探幽に送り鑑定を持ち込んだことも探幽との繋がりを示している[32][33]。そもそも、安信は探幽より12歳年下というかなり年の離れた兄弟であり、上記の逸話も歳の離れた手のかかる弟に対する配慮とも取れる[34]

また、探幽の養子であり、探幽に実子が生まれてからは疎んじられ万治2年に別家・駿河台狩野家を立てた狩野益信や甥の狩野常信に娘を嫁がせ、狩野家の結束を固める策をとっている。この婚姻政策も捉え方が分かれ、松木は探幽への対抗として包囲網形成を図ったと推測、榊原悟は姻戚関係強化(血の団結)で狩野家の存続を図ったと見ている[* 3][36][37]

そうした探幽のいじめとも取れる指導を受ける中で、安信は画技の研鑽に努めた。明暦元年に普門寺にいる隠元隆琦を訪ね、記室(書記)の独立性易と親しくなり、隠元から法を受け同寺の方丈に襖絵を描く。探幽ら当時の狩野派の絵に隠元ら黄檗僧が着讃した作品は非常に多いが、その中でも安信には黄檗美術の影響を受けたと思われる作品がある[38][39]。安信は晩年になっても、武者絵を描くためにわざわざ山鹿素行を訪れ、武者装束や武器などの有職故実の教えを受け[40]、朝鮮進物屏風の制作にあたっても素行を訪ねて様々な質問をしたという逸話が残っている[41]

弟子と交友関係

弟子は昌運や英一蝶狩野宗信松江藩に仕えた狩野(太田)永雲(稠信(しげのぶ))、狩野清真など。福井藩の御用絵師狩野元昭も弟子に含まれる[42]。また『古画備考』には「門人」とは別に、「門葉」という項目がある。これは、画を生業としてではなく趣味として楽しむために学んだ門跡や大名のことで、徳川光圀黒田綱政光子内親王森川許六ら19名が記されている[43]

大名とは稲葉正則松平直矩と交際があり、彼等の日記『永代日記』・『松平大和守日記』に探幽ら一門と共に名前が載っている。加賀藩前田氏との繋がりも深く、藩祖前田利家夫人まつ建立の芳春院で小書院を担当、2代藩主前田利常が建立した瑞龍寺の法堂に天井画『草花図』を描いた[44]。高僧との交際も盛んで、隠元と独立の他に江月宗玩の複数の肖像画を描いたことが確認されている[45]

儒学者で幕府の御用学者林羅山鵞峰父子とも関わりがあり、『武州州学十二景図巻』は慶安元年(1648年)の羅山の跋文と探幽・尚信・益信との絵で構成された合作で、寛文8年(1668年)には羅山の次男で鵞峰の弟林読耕斎の肖像画を描いた。林家が発案した新画題に絵を描くこともあり、榊原忠次の依頼で三十六歌仙図になぞらえた『詩客歌仙図屏風』・『中華三十六将図』(詩仙図・武仙図)の制作が決まると絵を担当し詩は羅山父子や公家・禅僧が分担、武仙図は正保2年、詩仙図は慶安元年に完成した。出来上がった両作品は武家・公家の間で流行しただけでなく、寛文5年に家綱の命令で新しい武仙図を描き鵞峰の賛を加えた『本朝三十六将図』を制作、絵入り版本を通じて改題・刊行され一般にも広まり、浮世絵の武者絵にも影響を与えた[46][47]。鵞峰が賛を書いた絵も見られ、楠木正成の肖像画『楠公図』、正成と弟の楠木正季・息子の楠木正行を描いた3幅対の『楠正成・正季・正行図』がある[48]

画論『画道要訣』

絵画における安信の考え、ひいては狩野派を代表する画論としてしばしば引用されるのが、晩年の延宝8年(1680年)に昌運に筆記させた『画道要訣』である[49]。この中で安信は、優れた絵画には天才が才能にまかせて描く「質画」と、古典の学習を重ねた末に得る「学画」の二種類があり、どんなに素晴らしい絵でも一代限りの成果で終わってしまう「質画」よりも、古典を通じて後の絵師たちに伝達可能な「学画」の方が勝るとしている一方、質画の良さまで否定したわけではなく、「心性の眼を筆の先に徹する」「心画」とも言うべき姿勢をもっとも重視している。ただし、『画道要訣』は出版されておらず、写本で広まった形跡もなく、江戸時代の画論書でも引用されることは殆ど無い事から、中橋狩野家に秘蔵されたと見られ、他の狩野家にすら影響を与えたとは考えづらいことは注意を要する[50][51][52][53]。なお、『画道要訣』の原本は現在不明だが、昭和4年(1929年)に狩野忠信が筆写した写本が現存する[52]

安信の作品と評価

安信は比較的長命で狩野宗家の当主ということもあり、多くの作品が残っているが、粉本をただ丸写ししたかのような、画家自身の個性や表現を重んじる現代では鑑賞に耐えない作品も少なからずある。しかし、その中でも上質な作品を掬い出して見ると、粉本に依拠しつつも丁寧で真面目な描線で、モチーフを的確に構成した「学画」という自身の言葉通りの作品を残している[54][55]。筆墨による繊細な表現が重要な水墨画を苦手としていたらしく、優品と呼べる作品は少ない[56]。一方、法眼になった寛文2年前後から単調な線質による力強い表現(安信様式)を用いるようになり、時にその単調な筆墨が明快さ、力強さに転化する場合もあり、これらが利点として出やすい人物画に優れた作品が多い[57]。ただし、優品の中でも人物の衣文線がはみ出したり、一つの絵巻や屏風内でも明らかな様式の不統一があるなど、細部がいい加減な点がしばしば見られ、細かい点に拘らない安信の資質が見て取れる[* 4][59]

安信は既に江戸時代から兄達に劣るとする評価が広く見られたが、一方でそれを下手と切り捨てるのではなく、兄2人と別の方向を目指した、努力で補ったとする好意的な解釈も見られる。例えば公家の近衛家熙は尚信を高く評価していたが、安信にもその力量を認めている。『槐記享保13年(1728年5月4日条で「安信は下手と言われるが、出来の良い作品は素晴らしい。これは安信が探幽や尚信に及ばないと考え、「己が一家一分の風を書出して」個性を出したからで、これが安信の優れた所である」と記し、享保16年(1731年6月25日条に「安信は兄には及ばないことを自覚し自分の様式を貫いているが、決して兄二人に劣っていない」と記している[60][61]

昌運も師を擁護する文章を残し、「昌運筆記」で探幽に非難された上記の逸話に続いて、中年期の安信の作品が世間でもてはやされたことを記し、実際に京都で狩野元信狩野永徳・探幽・尚信の絵を見た感想を見事なものだと書いた上で「安信が描いた物もあるが、噂ほどには劣っていないそうだ」と評価、安信が先祖や兄2人に匹敵することを強調している[24][62]

蘭方医杉田玄白も、三兄弟を評した文章を残している。「探幽の縮図を見たことがあるが、その膨大な量、留書の筆まめさ、出来栄えなどから、探幽には才能に加え篤い志のある三、四百年の名人だと感じ入った。尚信・安信は共に上手だが、尚信は才能があるため絵が風流で、例えるなら紗綾縮緬、安信は才能で劣るため雅さがなく絹紬のようだという。前者は良い織物だが、染色が悪くて仕立てが悪いと人前で着れたものではない。対して後者は劣った織物だが、染めや仕立てが上手ければ人前でも着ることができる。安信は絹紬のように下地、即ち先天的な才能では劣っていたが、努力したため兄二人に並ぶ上手となった。安信の絵が雅でなくともそれは恥ではなく、学んだことが結果として表れているのが素晴らしい。今でも識者は安信を目標に絵を学ぶといい、医学を志す者もこうした安信の姿勢こそ見習うべきである」(『形影夜話』)[63]

代表作

作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 年代 落款 印章 文化財指定 備考
竹林七賢・商山四皓図屏風 紙本墨画 六曲一双 聖衆来迎寺 款記「狩野源四郎十一歳筆」 安信11歳作。安信の現存最古の作品。
正宗院・松東院・清浄院像 絹本著色 3幅対 90.1x37.5 松浦史料博物館 1635年9月14日(寛永12年8月3日)賛 「右京安信」朱文方印・印文不明円印 江月宗玩賛。正宗院こと松浦隆信を中幅、隆信の母・松東院を右幅、隆信の妹(二女)コト(?-1631)を左幅にした3幅対[64]
大野忠廣夫妻像 絹本著色 双幅 79.8x34.6 個人 1636年7月5日(寛永13年6月3日)賛 「右京安信」朱文方印 江月宗玩賛。平戸松浦氏の親族大野(松浦)忠廣を右幅、忠廣の妻で上述の清浄院を左幅にした対幅。6月3日は清浄院の5年目の命日にあたり、追善供養のための制作か[64]
金山図・育王山図 紙本墨画淡彩 対幅 85.0x104.6・84.3x104.3 佛通寺 1640年(寛永17年) 共に「狩野右京進安信筆」 安信は広島藩の御用も勤め、藩主の命令で藩内の寺社所蔵の名品を模写している。本作はその一つで、原図は共に雪舟とされ、近世初期まで寺に伝わっていたとみられる[65]
江月宗玩画像 1幅 龍光院 1641年(寛永18年) 江月自賛。円相図
三十六歌仙図額 板地著色 36面のうち12面 各51.7x35.5 世良田東照宮 1643-44年(寛永末年)頃 款記「狩野源四郎筆」 狩野長信が10面(2面は後補)、狩野元俊が12面担当した合作。左一・柿本人麻呂から左十二・源宗于まで担当。世良田東照宮は寛永21年(1644年)に遷宮式を行っているのでその頃の制作か。
山水・竹雀図襖 普門寺 1645年(正保2年)頃 款記「狩野安信筆」 「狩野」朱文方印 欠損部は直原玉青
猿猴図 3幅対のうち1幅 相国寺 1645年(正保2年) 探幽・尚信との合作。
三十六歌仙図額 36面のうち12面 金刀比羅宮 1648年(慶安元年) 探幽・尚信との合作。右七・中納言朝忠から右十八・中務まで担当。東照大権現三十三回神忌に松平頼重より奉納
三十六歌仙図額 36面のうち12面 白峯寺 1648年(慶安元年) 探幽・尚信との合作。左七・中納言兼輔から左十八・平兼盛まで担当。同じく松平頼重が奉納
武州州学十二景図巻 江戸東京博物館 1648年(慶安元年) 探幽・尚信・益信との合作で林羅山の跋文付。各々が4図を担当
釈迦四面像 逗子扉絵 安養院 1649年(慶安2年) 款記「安信筆」
四季耕作図屏風 紙本墨画淡彩 六曲一双 各164.5x360.4 個人 款記「安信筆」 早期の作
富士図屏風 紙本墨画 六曲一双 各150.6x357.0 聖衆来迎寺 款記「安信筆」 「狩野」朱文方印 安信30代の作と推定
柳に野鳥図屏風 紙本墨画 六曲一双 各148.3x345.0 大倉集古館 款記「安信筆」 「狩野」朱文方印 安信30代の作と推定
猿曳き・酔舞図屏風 紙本墨画淡彩 六曲一双 各153.0x358.4 静岡県立美術館 款記「安信筆」 「狩野」朱文方印 外部リンク
Monkey Trainers and Scenes of Chinese Life 紙本墨画淡彩 六曲一双 156.0x358.0(各) シカゴ美術館 外部リンク
若衆舞踊図 絹本著色 1幅 31.0x54.9 愛知県美術館(木村定三コレクション) 款記「安信筆」 花園即休賛。安信の風俗画的な作品として現在唯一知られている作品。
源平合戦絵巻 紙本金地著色 六曲一双 晴明会館 1654年(承応3年)頃 外部リンク
妙心寺玉鳳院障壁画 紙本墨画 玉鳳院 1656年(明暦2年) 益信との合作。安信は秋草の間・山水の間・龍の間、益信は花鳥の間を担当
江雪宗立画像 1幅 龍光院 1659年(万治2年) 江雪自賛
酒井忠勝肖像画 絹本着色 1幅 127.0x57.0 個人蔵(小浜市図書館寄託 1660年(万治3年) 小浜市指定文化財 隠元隆琦賛。外部リンク
太田備牧駒籠別荘八景十境詩画巻 絹本墨画 詩巻1巻 画巻1巻 32.7x1066.9 文京ふるさと歴史館 1661年寛文元年)9月 款記「狩野牧心斎安信圖之」 「牧心斎主人」白文方印、「安信」朱文方印 太田家伝来。浜松藩主・太田資宗駒込にあった別荘の茶亭から眺めた景色を八景、別荘内の勝景を十境として賞翫した巻物。詩は林鵞峰の作、詩の筆者は林梅洞(鵞峰長男)の筆。
平敦盛 絵馬1面 須磨寺 1661年寛文元年)12月 款記「牧心斎筆」 提宗慧全賛。鳥取藩家老荒尾嵩就荒尾成利弟)奉納
十六羅漢図 絹本著色 16幅 各128.5x45.4 萬福寺 1662年寛文2年) 款記「牧心斎筆」 隠元隆琦賛。二本松藩丹羽光重が寄進。
三十六歌仙画帖 絹本着色 1帖36図のうち4図 各25.1x21.5 チェスター・ビーティ・ライブラリー 1662年(寛文2年)以降 款記「法眼永真筆」 「安」朱文方印 時信との合作。4図を担当
竹虎図屏風 紙本著色 額装2面 各146.8x270.0 福岡市美術館 款記「牧心斎筆」 福岡藩黒田家伝来。元は襖絵。安信と黒田家の関係は深く、3代藩主黒田光之は安信と会食し、4代藩主黒田綱政は安信から絵の指南を受けた。
徳川家康 絹本著色 1幅 106.1x54.3 日光東照宮宝物館 款記「牧心斎筆」[66]
板倉重宗画像 絹本著色 1幅 123.1x49.6 長円寺 1663年(寛文3年)頃 款記「法眼永真筆」 「牧心斎主人」白文円印 松雲院(刈谷市)には本図の模写がある[67]
百人一首画帖 紙本着色 1帖100図のうち25図 各25.0x21.0 松井文庫 17世紀後半 時信・益信・常信との合作。25図を担当
百人一首画帖 絹本着色 1帖100図のうち20図 各31.2x27.3 個人蔵(仙台伊達家旧蔵) 17世紀後半 探幽・益信・常信との合作。20図を担当
村松山内善禅寺募縁起絵巻 紙本着色 巻子2巻 島根県立古代出雲歴史博物館 1666年(寛文6年) 絵14段、詞書13段。詞書の作者・筆者は不明。松江藩家老・村松内膳直賢が建てた内善寺(現存せず)の創建を主題とする絵巻。各段の様式・図様の違いが大きい。
黒田長興画像 絹本着色 1幅 財団法人秋月郷土館 1667年(寛文7年)8月 款記「法眼永真筆」 無隠賛
羅生門図絵馬 板絵著色 絵馬1面 47x72 蒲郡市・大宮神社 1668年(寛文8年) 款記「法眼永真筆」 蒲郡市指定文化財 奉納者は三河吉田藩主・松平家清の弟・清定の孫の松平清行。
伯牙子期図絵馬 板絵著色 絵馬1面 47x79 蒲郡市・八百富神社[68] 1668年(寛文8年) 蒲郡市指定文化財 奉納者は上記と同様に松平清行。
牡丹獅子図 蒲郡市・天桂院
竹林七賢図・四愛図 紙本墨画 襖4面・8面 玉林院 1669年(寛文9年) 本堂檀那の間所在。
三十六歌仙図額 36面 白鳥神社 1670年(寛文10年)頃 款記「法眼永真筆」 「安信」朱文方印 上記と同じく松平頼重が奉納。
隠元隆琦画像 1幅 弘福寺 1673年(寛文13年)以前 隠元自賛
隠元隆琦画像 絹本著色 1幅 131.1x48.7 浄住寺 1673年(寛文13年)以前 款記「法眼永真筆」 「牧心斎」白文円廓内方印 隠元自賛[69]
雲龍図 紙本墨画 1幅 聖福寺 1673年(寛文13年)頃 款記「法眼永真筆」 聖福寺仏殿(大雄宝殿)天井画[70]
牛馬図 絹本墨画著色 双幅 個人 1673年(寛文13年)頃 款記「法眼永真筆」
鉄牛道機 絹本著色 1幅 216.3x110.9 大年寺 1673年-1681年(延宝年間) 款記「法眼永真熏沐百拝画」 「藤原安信」朱文重郭方印 覚天元朗による後賛。216.3x110.9cmの大幅。主は鉄牛道機とされるが、讃などから代の禅僧徳山宣鑑だと考えられる[71]
伊達政宗画像 絹本着色 1幅 145.5x116.5 仙台市博物館 1676年(延宝4年)頃 仙台市指定文化財 酒井伯元賛「馬上少年過 世平白髪多 残躯天所赦 不楽是如何」
伊達忠宗画像 1幅 146.6x116.7 仙台市博物館
三十六歌仙図扁額 36面 宗像大社 1680年(延宝8年) 持明院基時書。黒田光之が辺津宮内陣奉納。
蘭亭曲水図屏風 紙本墨画淡彩 六曲一双 各163.3x383.2 栃木県立博物館 款記「法眼永真筆」 「牧心斎」白文方印
松竹に群鶴図屏風 紙本金地着彩 六曲一双 各151.8x346.8 出光美術館 款記「法眼永真筆」
秋草に鹿図屏風 紙本金地着色 六曲一隻 仙台市博物館 款記「法眼永真筆」
英中玄賢像 紙本墨画 1幅 145.3x77.4 光雲寺 款記「法眼永真筆」[72]
金澤名所図巻 絹本淡彩 1巻 23.9x533.5 高徳院 款記「法眼永真筆」 「安信」朱文方印
竹虎図屏風 紙本金地著色 六曲一双 各222.2x515.6 浄福寺奈良県福井県立美術館寄託) 款記「法眼永真筆」 「藤原安信」朱文重郭方印 福井藩松平家伝来。一隻あたり、縦222.2cm横515.6cmという近世の屏風絵としては最大級の大きさの上に、総金地という豪華な屏風。
竹林七賢・李白観爆図屏風 六曲一双 三時知恩寺
松竹梅図屏風 紙本著色 六曲一双 個人(八幡市立松花堂昭乗美術館寄託)
源氏物語 明石絵合図屏風 紙本著色 六曲一双 各161.0x376.0 個人 款記「法眼永真筆」
瀟湘八景図巻 絹本墨画 巻子1巻 聖衆来迎寺
松鷹図 絵馬1面 櫛引八幡宮[73]
富士三保松原 紙本墨画 1幅 39.9x102.3 茨城県立歴史館一橋徳川家コレクション) 伝雪舟筆「富士清見寺図」(永青文庫蔵)の模写。

子女

狩野長信の娘との間に1男2女を儲けた[74]

他に次男狩野親信(? - 1673年)がいる[75]

脚注

注釈

  1. ^ 狩野派宗家継承は貞信の従弟に当たる探幽3兄弟のうち末子の安信が継ぐというやや変則的な継承になっているが、これは孝信の意向で探幽が元和3年に2代将軍徳川秀忠の命で御用絵師に取り立てられ、別家を立てて孝信の家から独立、孝信の死後代わりに彼の家督を尚信が継承、残った安信が宗家の当主に選ばれたからである。また、長信と吉信が話し合った末に安信の宗家継承に合意、貞信を説得したことで継承が決まり、狩野一族の主だった絵師達は安信を守り立てることを書いた誓約書に署名した。署名者は長信・探幽・甚之丞・尚信・狩野新右衛門・狩野元俊・興以の7人で、探幽が長信に次ぐ序列2位として狩野派内部で急成長していることが誓約書からうかがえる[4][5]
  2. ^ 松木は寛永年間に尚信・安信が探幽に続いて幕府から御用絵師に任命され、三兄弟がそれぞれ独立した家(探幽は鍛冶橋家、尚信は竹川町家(木挽町家)、安信は中橋家)を形成・分立して三極体制になった点に触れ、三兄弟の優劣は血脈ではなく絵師としての力量や政治権力との繋がりで左右され、名古屋城上洛殿障壁画制作など幕府の建築装飾に探幽が指名されたのは技量の差があったからと推定しつつ、周囲の人間が実質の無い宗家を頂点とするヒエラルキーの意識を引きずっていたことが探幽のいじめの原因と捉えている。榊原悟も三家が幕府との関係で横並びになったことで宗家が相対的に低下したことを指摘、宗家に代わる狩野派統率の役割が求められ触頭の設置に繋がったと推定、探幽がこの地位に就いた背景は長幼の順や実力の他に、最初に幕府から御用絵師に取り立てられたことも理由の1つに挙げている[26][27]。ちなみに、『三暁庵雑志』でのいじめの逸話については松木・榊原は共に信憑性を疑っている[28][29]
  3. ^ 結婚・養子縁組で探幽・安信兄弟と繋がりが出来た益信・常信はしばしば狩野派内部での序列が入れ替わっている。承応3年(1654年)から明暦元年の内裏障壁画制作における画家の地位は探幽の養子だった益信が常信より上だったが、寛文2年の再度の内裏障壁画制作で両者の地位が逆転し、別家を立てて探幽の養子でなくなった益信は常信より下になっている。探幽亡き後の延宝3年(1675年)の内裏障壁画制作では再び益信が常信より上の地位に戻ったが、これは安信の長女・次女がそれぞれ益信・常信に嫁いでいた関係からであり、狩野派では主導者との関係によって画家の序列が決まることが慣例だった[35]
  4. ^ 探幽と安信がそれぞれの工房で制作した絵巻を取り上げた門脇むつみはその出来栄えを比較、探幽工房が寛永13年から寛永16年(1636年 - 1639年)まで3年かけて制作、寛永17年(1640年)に日光東照宮へ奉納した『東照宮縁起絵巻』は探幽の優れた統率と弟子達の探幽様式の忠実な描写で、絵の表現に細かい違いがあっても全体的にちぐはぐにならず、図様・様式・モチーフなど基本的な要素の統一された作品になっていると評している。対して、安信工房が寛文5年に制作した『村松山内善禅寺募縁起絵巻』は寛文2年に出雲松江藩家老・村松直賢(内膳)が建てた内善寺の創建を主題とする絵巻だが、図様・様式・モチーフの違いが目立ち、安信様式が基底になっているとはいえ、統一感が無い作品になっている。門脇はこうした出来栄えになった背景・理由として、松江と関係が深い弟子や素人などが絵巻制作に参加した分担制作の可能性、江戸・松江と距離が遠く直接絵の進行を見てやり取りが出来ない状況、安信の統率力不足と細部に拘らない資質を推測している[58]

出典

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参考文献

書籍

展覧会図録・論文

関連項目