久隅守景

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久隅 守景(くすみ もりかげ、生没年不詳)は江戸時代前期の狩野派絵師。通称は半兵衛、号は無下斎、無礙斎、一陳斎。狩野探幽の弟子で、最も優秀な後継者。娘に閨秀画家として謳われた清原雪信がいる。その画力や寛永から元禄のおよそ60年にも及ぶ活動期間、現存する作品数(約200点)に比べて、人生の足跡をたどれる資料や手がかりが少なく謎が多い画家である。

生涯[編集]

通称を半兵衛といい、無下斎、無礙斎、一陳翁、棒印などと号した。若くして狩野探幽守信の門に入り、神足常庵守周桃田柳栄守光尾形幽元守義と共に四天王と謳われた。後の『画乗要略』(天保8年(1831年))では、「山水・人物を得意とし、その妙は雪舟と伯仲、探幽門下で右に出る者なし」と評されている。前半生は狩野派一門内の逸材として重きをなした。その現れに、探幽の妹・鍋と結婚していた神足常庵の娘で、探幽の姪にあたる国と結婚し、師の一字を拝領して「守信」と名乗っている。この時期の作品で最も早いのは、寛永11年(1634年)の大徳寺江月宗玩の賛をもつ『劉伯倫図』(富山市佐藤記念美術館蔵)である。他に寛永18年(1641年)、狩野尚信、信政と共に参加した知恩院小方丈下段之間の『四季山水図』や、瑞龍寺の「四季山水図襖」8面(高岡市指定文化財)が挙げられる。この時期は探幽画風を忠実に習い、習作期間に位置づけられる。

守景には一男一女がおり、二人とも父を継いで絵師になったが、寛文12年前後に息子の彦十郎が、悪所通いの不行跡などが原因で狩野家から破門され、さらに罪を得て佐渡へ流される。また、娘の雪信も同じ狩野門下の塾生と駆け落ちをするといった不祥事が続く。これが切っ掛けとなって狩野派から距離を置き、後に金沢に向かい、そこで充実した制作活動を送った。彼の代表作である『夕顔棚納涼図屏風』(東京国立博物館蔵)や『四季耕作図屏風』(石川県立美術館重要文化財)はこの時期の作品と推定され、農民の何げない日常の一コマや生業のさまなどを朴訥な作風で描き、守景独自の世界を切り開いた。晩年は京都に住み、古筆了仲の『扶桑画人伝』(明治21年(1888年)刊)では、藤村庸軒らの茶人と交わり茶三昧の生活を送ったと記されている。しかし、制作活動は最晩年に至るまで衰えず、『加茂競馬・宇治茶摘図屏風』(大倉集古館蔵 重文)など老いを感じさせない瑞々しい作品を残している。元禄11年(1698年)に庸軒の肖像画を描いたとされ、この後に亡くなったと推定される。

師・探幽とは異なり、味わいある訥々な墨線が特徴で、耕作図などの農民の生活を描いた風俗画を数多く描いた。探幽以後の狩野派がその画風を絶対視し、次第に形式化・形骸化が進むなかで、守景は彼独自の画風を確立したことは高く評価される。彼の少し後の同じ狩野派の絵師で、やはり個性的な画風を発揮した英一蝶と並び評されることが多い。

代表作[編集]

夕顔棚納涼図屏風(部分)
木下長嘯子の和歌「夕顔の さける軒端の 下涼み 男はててれ(襦袢) 女はふたの物(腰巻)」に取材した作といわれる。一見地味な印象をうけ、「最も国宝らしく無い国宝」と云われることもあるが[1]、親子3人の農民の姿を深い愛情をもって詩趣豊かに表現した名作である。父親の襦袢が不自然な所があり、後に描き直されたかどうかで学者たちの意見が分かれている。

参考文献[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 美の巨人たち平成16年(2004年7月17日放送「久隅守景「夕顔棚納涼図屏風」」