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「定」の版間の差分

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初静慮の前段階は未至定(みしじょう)といい、あとは各段階に近づきつつある場合に、近分定(ごんぶんじょう)、それぞれの定に入り終わったものを根本定という<ref name="岩波仏教辞典513"/>。第四静慮には下下品から上上品までの九品がある<ref name="岩波仏教辞典513"/>。色界の最上となる上上品は辺際定(へんざいじょう)という<ref name="岩波仏教辞典513"/>。
初静慮の前段階は未至定(みしじょう)といい、あとは各段階に近づきつつある場合に、近分定(ごんぶんじょう)、それぞれの定に入り終わったものを根本定という<ref name="岩波仏教辞典513"/>。第四静慮には下下品から上上品までの九品がある<ref name="岩波仏教辞典513"/>。色界の最上となる上上品は辺際定(へんざいじょう)という<ref name="岩波仏教辞典513"/>。


これら定の名称については、同じサンスクリットが異なる複数以上の漢訳を持つ場合がある一方、滅受想定(saṃjñā-vedita-nirodha-samāpatti)と滅尽定(ubhaya(to)-bhāga-vimųka)のように、異なる概念の定が、漢訳が似ているために同列で扱われてしまうことがあるので注意を要する。
無心定には、無想定と滅尽定とがある<ref name="岩波仏教辞典513"/>。無想定は、[[凡夫]]や[[外道]]が真の[[悟り]]と誤認して修めているが、滅尽定は聖者が修めているものである<ref name="岩波仏教辞典513"/>。無想定では、第四の禅定にもとづき知覚の粗いはたらきがなくなり、滅尽定では、[[有頂天]]にもとづき心と[[心所]]法は決められた間において止滅する<ref name="智慧の眼をひらく">{{Cite book|和書|author=ダライ・ラマ14世テンジン・ギャツォ |authorlink=ダライ・ラマ |translator=[[菅沼晃]]|title=ダライ・ラマ 智慧の眼をひらく|publisher=春秋社|date=2001|isbn=978-4-393-13335-4|pages=132}} 全面的な再改訳版。(初版『大乗仏教入門』1980年、改訳『智慧の眼』1988年)''The Opening of the Wisdom-Eye: And the History of the Advancement of Buddhadharma in Tibet'', 1966, rep, 1977。[[上座部仏教]]における注釈も備える。</ref>。[[阿羅漢]]においては、順次ではなく一地を飛ばして高い段階の定を修める<ref name="岩波仏教辞典513"/>。

無心定には、無想定と滅尽定とがある<ref name="岩波仏教辞典513"/>。無想定は、[[凡夫]]や[[外道]]が真の[[悟り]]と誤認して修めているが、滅尽定は聖者が修めているものである<ref name="岩波仏教辞典513"/>。<!-->無想定では、第四の禅定にもとづき知覚の粗いはたらきがなくなり、滅尽定では、[[有頂天]]にもとづき心と[[心所]]法は決められた間において止滅する<ref name="智慧の眼をひらく">{{Cite book|和書|author=ダライ・ラマ14世テンジン・ギャツォ |authorlink=ダライ・ラマ |translator=[[菅沼晃]]|title=ダライ・ラマ 智慧の眼をひらく|publisher=春秋社|date=2001|isbn=978-4-393-13335-4|pages=132}} 全面的な再改訳版。(初版『大乗仏教入門』1980年、改訳『智慧の眼』1988年)''The Opening of the Wisdom-Eye: And the History of the Advancement of Buddhadharma in Tibet'', 1966, rep, 1977。[[上座部仏教]]における注釈も備える。</ref>。<-->[[阿羅漢]]においては、順次ではなく一地を飛ばして高い段階の定を修める<ref name="岩波仏教辞典513"/>。


[[禅定#禅定の段階]]も参照。
[[禅定#禅定の段階]]も参照。

2017年1月30日 (月) 18:38時点における版

(じょう、サンスクリット: samaadhi)は、仏教用語で、心をひとつの対象に集中し心の散乱がないという精神の作用や、そのようにすることや、定まっているその状態を指す[1][2]。このサマーディの音写が三昧(さんまい)であり、三摩地とも書かれた[1]。samaadhi は、良くという意味の Sam と、置くという意味の Adhi であり、心を一定の対象に集中させることである[3]。定の強さによって、初心者の定、禅定の直前のもの、禅定を伴っているものに分けられる[3]

また、一般に心を散乱させないようにする修行も指す[1]。すなわち、仏教の三学である・定・の一つであって仏教の実践において重要なひとつである[1]。また八正道には正定(しょうじょう)が含まれる[2]。後に、定は特に禅宗にて重んじられる[1]

定に対して、心が散り乱れて動く状態を散といい、定散(じょうさん)と呼ばれる[1]

定には2つある。修得定は、散地である欲界において、定を得るための修行を実践して得られる[1]。もうひとつの生得定は、定地である色界無色界に生まれることで自然に得られる[1]。色界定では生静慮と定静慮、無色界定では生無色、定無色である[1]倶舎宗では、有心定と無心定に大別する[1]

境地の深まりにおいて様々な定がある[2]

色界においては、が均等であり静慮と名付けられる[2]。四静慮は、初静慮、第二静慮、第三静慮、第四静慮である[2]。無色界では止が強く、四無色定は空無辺処定、識無辺処定、無所有処定、非想非非想処定である[2]

初静慮の前段階は未至定(みしじょう)といい、あとは各段階に近づきつつある場合に、近分定(ごんぶんじょう)、それぞれの定に入り終わったものを根本定という[2]。第四静慮には下下品から上上品までの九品がある[2]。色界の最上となる上上品は辺際定(へんざいじょう)という[2]

これら定の名称については、同じサンスクリットが異なる複数以上の漢訳を持つ場合がある一方、滅受想定(saṃjñā-vedita-nirodha-samāpatti)と滅尽定(ubhaya(to)-bhāga-vimųka)のように、異なる概念の定が、漢訳が似ているために同列で扱われてしまうことがあるので注意を要する。

無心定には、無想定と滅尽定とがある[2]。無想定は、凡夫外道が真の悟りと誤認して修めているが、滅尽定は聖者が修めているものである[2]阿羅漢においては、順次ではなく一地を飛ばして高い段階の定を修める[2]

禅定#禅定の段階も参照。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j 総合仏教大辞典編集委員会『総合佛教大辞典』法蔵館、2005年、687-688頁。ISBN 4-8318-7070-6 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l (編集)中村元、田村芳朗、末木文美士、福永光司、今野達『岩波仏教辞典』(第2版)岩波書店、2002年、513-514頁。ISBN 4-00-080205-4 
  3. ^ a b マハーシ長老 著、ウ・ウィジャナンダー 訳『ミャンマーの瞑想―ウィパッサナー観法』国際語学社、1996年、162頁。ISBN 4-87731-024-X