出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

(き)(: apatrāpya[1]、अपत्राप्य)は、仏教が教えるのひとつ。「自己の罪に対する畏怖」、もしくは「他を観察することによっておのれの過失を恥じること」[2]。他人に対して恥じること[3]。しばしば「慚愧」として扱われる。

涅槃経には、「慚はみづから罪を作らず、愧は他を教へてなさしめず。慚は内にみづから羞恥す、愧は発露して人に向かふ。慚は人に羞づ、愧は天に羞づ。これを慚愧と名づく。無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。」と説かれている。

脚注[編集]

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 中村元他『岩波仏教辞典』岩波書店、1989年。ISBN 4-00-080072-8 
  • 櫻部建上山春平『存在の分析<アビダルマ>―仏教の思想〈2〉』角川書店角川ソフィア文庫〉、2006年。ISBN 4-04-198502-1 (初出:『仏教の思想』第2巻 角川書店、1969年)
  • 櫻部建『倶舎論』大蔵出版、1981年。ISBN 978-4-8043-5441-5 

関連項目[編集]