リッチテンソル
微分幾何学におけるリッチ曲率テンソル(リッチきょくりつテンソル、英語: Ricci curvature tensor)は、与えられたリーマン計量が決定する幾何学が通常のn-次元ユークリッド空間とどれほど違っているかの度合いを測る方法の一つを与えるもので、グレゴリオ・リッチ=クルバストロ(Gregorio Ricci-Curbastro)に因んで名付けられた。
リーマン計量と同じく、リッチテンソルは、そのリーマン多様体の接空間上で定義される対称双線型形式である(Besse 1987, p. 43)。リッチ曲率テンソルは「体積の歪み」を測るもの、つまり曲がった n-次元リーマン多様体の中の n-次元球体の体積が、n-次元ユークリッド空間における球体の体積からどれほど異なるかの度合いを表すものである。これは後述の「直接的な幾何学的意味」の節でさらに詳しく述べる。
相対論では、(レイチャウダハリ方程式(Raychaudhuri equation)により)リッチテンソルは時間で発散したり、収束したりする度合いを決定する時空の曲率の一部分である。これは、アインシュタイン場の方程式のおかげで、宇宙に存在する物資に関連している。微分幾何学では、リーマン多様体のリッチテンソルの下界により、定曲率空間の幾何学との比較(参照:比較定理)により、大域幾何学的、トポロジカルな情報を導出することが可能となる。リッチテンソルが真空のアインシュタイン方程式を満たすと、多様体はアインシュタイン多様体(Einstein manifold)[1]となり、現在研究が進んでいる(参照:Besse 1987)。これとの関係で、リッチフロー(Ricci flow)方程式は、与えられた計量のアインシュタイン計量への発展を統制する。この詳細な研究がポアンカレ予想の解決へ道を拓いた。
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定義 [編集]
をレビ・チビタ接続(Levi-Civita connection)
を持つ n-次元リーマン多様体とする。
のリーマン曲率テンソル は、ベクトル場
上の
で定義された
テンソルである。
で M の点 p における接空間を表す。p における接ベクトルの任意の組
に対し、
でのリッチテンソル
の値は、線型写像
のトレースで与えられる(R はリーマン曲率テンソル)。
と書くことができる。ここに
, すなわち
である。
性質 [編集]
ビアンキ恒等式(Bianchi identity)の帰結として、リーマン多様体のリッチテンソルは、
が成り立つという意味で対称的である。従って、単位の長さの任意のベクトル
に対するリッチテンソル
の値がわかると、リッチテンソルを完全に決定できることが従う。この単位の接ベクトル全体の集合上で定義される函数を、単にリッチ曲率と呼ぶこともある。というのは、函数を知ることとリッチ曲率テンソルを知ることとが同値だからである。
リッチ曲率は、リーマン多様体の断面曲率(sectional curvature)によって決定されるが、含む情報はより少ない。実際、
を n-次元リーマン多様体上の単位長のベクトルとするとき、
は、ちょうど断面曲率の
を含む 2-次元平面全てを渡る平均値の (n−1)-倍である。断面曲率は、
を含む 2-平面全てを渡って考える。そのような 2-平面は (n−2)-次元の族をなし、従って、次元が 2 もしくは 3 のときだけは、リッチテンソルは全曲率テンソルを決定する。注意すべき例外は、多様体がユークリッド空間の超曲面として与えられるときで、ガウス・コダッチ方程式(Gauss–Codazzi equation)により全曲率(total curvature)を決定する第二基本形式(the second fundamental form)自身が、リッチテンソルにより決定され、超曲面の主方向(principal direction)もリッチテンソルにより決定される。このことにより、リッチによって、テンソルが導入されたのであった。
リッチ曲率函数
が単位長の接ベクトル
全体の成す集合上で定数ならば、そのリーマン多様体はリッチ定曲率を持つという。またこのときこの多様体は、アインシュタイン多様体であると言う。リーマン多様体がアインシュタイン多様体となるのは、リッチテンソル
がその多様体の計量テンソル
の定数倍となることが必要十分である。
リッチ曲率は、計量テンソルのラプラス作用素の積として考えることが有益である(Chow & Knopf 2004, Lemma 3.32)。特に、
を調和的な局所座標とすると、
である。ここに Δ は、ラプラス・ベルトラミ作用素(Laplace–Beltrami operator)を函数
の上に作用すると見なす。例えば、この事実は計量の熱方程式(heat equation)の自然な拡張としてのリッチフロー(Ricci flow)を導入することへ動機を与える。代わりに、
を原点とする正規座標系(normal coordinate system)では、
がリッチ曲率を与える。
直接的な幾何学的意味 [編集]
リーマン多様体
の任意の点
の近傍で、測地的正規座標系と呼ばれる好ましい局所座標系を定義することができる。これらは
を通る測地線が原点を通る直線に対応し、同時に
からの距離が原点からのユークリッド距離に対応するようなものとして構成される。この座標系では、計量テンソルは
が成り立つという意味で、ユークリッド計量によってよく近似される。実際、正規座標系での放射測地線にそったヤコビ場(Jacobi field)へ適用された計量のテーラー展開をとることにより、
を得る。従って、この座標系で、体積要素(volume element)は点
において次の展開を持つ。
したがって、リッチ曲率
がベクトル
の方向で正値であるならば、
において
から大体
の方向へ出る短い測地線分の強収束する族によって掃かれる円錐領域の体積は、ユークリッド空間の対応する円錐領域のそれより小さい。 同様に、与えられたベクトル
方向でリッチ曲率が負ならば、多様体の同様の円錐領域の体積はこんどはユークリッド空間のものよりも大きくなる。
リッチ曲率は、本質的に
を含む平面の中の曲率の平均である。このようにして、最初は円形であった(もしくは球形であった)放射状の円錐が楕円の形へゆがめられたとして、主軸に沿った歪みが互いに反対に作用すると、体積的な歪みがゼロに消去されることは可能である。従って、リッチ曲率は
に沿ってゼロとなるはずである。物理的応用として、ゼロとはならない切断曲率の存在は、局所的に何らかの質量の存在を必然的に示しているわけではない。世界線の円錐の最初の円形の横断断面が、後で体積を変化させることなく楕円的になるとすると、この効果は他の位置での質量からの潮汐効果のためである。
応用 [編集]
リッチ曲率は、アインシュタインの場の方程式が鍵となる一般相対論において重要な役割を演じる。
リッチ曲率は、リッチフロー(Ricci flow)方程式にも現れる。そこでは、時間依存リーマン計量がリッチ曲率の負の方向へ変形される。この偏微分方程式系は、熱方程式の非線型類似であり、1980年代初頭にリチャード・ハミルトン(Richard Hamilton)によって始めて導入された。熱は一定温度の平衡状態に到達するまで固体を伝って拡散する傾向があるので、リッチフローがリッチ曲率一定な多様体上での平衡幾何学を導くことが期待される。この問題に対して、グリゴリー・ペレルマン(Grigori Perelman)による最近の寄与は、1970年代にウィリアム・サーストン(William Thurston)によって予想された線に沿って、3-次元閉多様体の完全な分類を導いたことであり、サーストンのプログラムが 3-次元で十分働くことが示したことである。
ケーラー多様体上でリッチ曲率は、その多様体の第一チャーン類をトーション(torsion)の違いを除き決定する。しかし、一般のリーマン多様体上で、チャーン類のようなトポロジカルな解釈をリッチ曲率は持っていない。
大域的幾何、大域的トポロジー [編集]
これは正のリッチ曲率をもつ多様体に関する大域的な結果の短いリストである。リーマン幾何学の古典定理(classical theorems of Riemannian geometry)を参照のこと。
手短に述べれば、正のリッチ曲率は強いトポロジカルな結果を持っているが、一方(少なくとも 3-次元では)負のリッチ曲率はトポロジカルには何ももたらさない。(リッチ曲率は、リッチ曲率函数
が非ゼロの接ベクトル
で正であれば、正 であると言う。)いくつかの結果が、擬リーマン多様体に対しても知られている。
- マイヤーの定理(Myers' theorem)は、完備リーマン多様体上でリッチ曲率が
で下から抑えられるとき、その多様体の径が
以下であり、等号成立はその多様体が定曲率
の球と等長(isometric)である場合に限ることを述べている。ここから正のリッチ曲率をもつ任意の閉多様体は有限な基本群を持たなければならないことが分かる。 - ビショップ-グロモフの不等式(Bishop–Gromov inequality)は、完備 m-次元リーマン多様体が非負のリッチ曲率を持つとき、球体の体積は同じ半径を持つ m-次元ユークリッド球体の体積と同じかそれより小さいことを述べる。さらに
でその多様体の
を中心とする半径
の球体の体積を表し、
で m-次元ユークリッド空間内の半径
の球体の体積を表すとき、函数
は非増加である(最後の不等式は、任意の曲率の極値の一般化であり、グロモフのコンパクト化定理の証明で重要な役割をなす)。 - チーガー・グロモル(Cheeger-Gromoll)の分解定理は、リッチ曲率が正
である完備なリーマン多様体が、全ての
に対して
となるような測地線
を意味する直線 を持っているとすると、測地線は積空間
に等長となる。結局、正のリッチ曲率を持つ完備多様体は多くとも一つのトポロジカルな端点を持つことができる。この定理は、ある仮定を加えると、非負なリッチテンソルを持つ(計量の符号が(+−−...)である)完備なローレンツ多様体に対しても正しい(Galloway 2000)。
これらの結果は、正のリッチ曲率が強いトポロジカルな結果を持つことを示している。対照的に、負のリッチ曲率は(曲面の場合を除いて)トポロジカルな意味をまったく持たないことが、現在は知られている。ヨアヒム・ローカンプ(Joachim Lohkamp)の Lohkamp (1994) では 2 より大きな次元の任意の多様体は負のリッチ曲率をもつ計量を許すことを示された(2-次元の曲面に対しては、負のリッチ曲率は断面曲率が負であることを意味するが、より高い次元では全く成立しない)。
共形再スケーリング下の振舞い [編集]
計量テンソル
を、それに共形因子
を掛けたものに取り替えると、新しい計量
に関する新しいリッチテンソルは
で与えられる (Besse 1987, p. 59)。 ここで
は(正のスペクトルの)ホッジのラプラス作用素で、ヘッシアン(Hessian)の普通のトレースの反対の作用素である。
特に、リーマン多様体上の点 p が与えられたとき、与えられた計量 g に共形で p で消えているようなものは常に存在する。ただし、それが点ごとに言える主張でしかなく、共形再スケーリングによって多様体全体で恒等的にリッチ曲率が消えているようにすることは一般には不可能であることには注意しなければならない。
二次元の多様体に対して、上式は f が調和函数であることを意味しているから、共形スケーリング
はリッチ曲率を変えない。
トレースのないリッチテンソル [編集]
リーマン幾何学および一般相対論において、擬リーマン多様体 (M, g) のトレースのないリッチテンソルとは
で定義されるテンソルである。ここで "Ric" は通常のリッチテンソル、S はスカラー曲率で、g はその多様体の計量テンソル、n は M の次元である。この対象の名称には、そのトレースが Zabgab = 0 なる意味で自然に消えることが反映されている。n ≥ 3 ならば、リッチテンソルのトレースが恒等的にゼロとなることと、適当な定数 λ をとって
とすることができることとは同値である。数学的にはこの条件は (M,g) がアインシュタイン多様体となることであり、物理学的には (M,g) が宇宙定数を持つアインシュタインの真空重力場方程式の解となることを述べている。
ケーラー多様体 [編集]
ケーラー多様体 X 上のリッチ曲率は、標準ラインバンドルの曲率形式(curvature form)を決定する(Moroianu 2007, Chapter 12)。標準ラインバンドルとは、次の式で定義される正則ケーラー形式(Kähler differential)の最っとも高い次数( n-次元の多様体であれば、n のこと)の外積のことを言う。
X の計量に対応するレビ・チビタ接続は、標準ラインバンドル κ の接続を与える。この接続の曲率は、次の式で定義される 2-形式である。
ここに J は、ケーラー多様体の構造によって決まる接バンドルの上の複素構造である。リッチ形式は、閉じた完全 2-形式である。リッチ形式のコホモロジー類(cohomology class)は、定数ファクタを除き、標準バンドルの第一チャーン類であり、従って複素構造のホモトピー類(homotopy class)と X のトポロジーに依存していると意味で、X のトポロジカルな不変量である。
逆に、リッチ形式はリッチテンソル
を決定する。局所正則座標 zα では、リッチ形式は、
で与えられる。ここに
はドルボー作用素(Dolbeault operator)[2]
である。
リッチテンソルがゼロであると、標準バンドルは平坦となるので、構造群(structure groupは、局所的に特殊線型群 SL(n,C) の部分群へ還元される。しかし、ケーラー多様体は既に U(n) にホロノミーを持っているので、リッチ平坦なケーラー多様体の(制限された)ホロノミーは SU(n) に含まれる。逆に、2n-次元リーマン多様体の(制限された)ホロノミーが SU(n) に含まれると、多様体はリッチ平坦なケーラー多様体となる(Kobayashi & Nomizu 1996, IX, §4)。
アフィン接続の場合への一般化 [編集]
リッチテンソルは、任意のアフィン接続(affine connection)への一般化することもできる。そこでは、不変量が射影微分幾何学(projective differential geometry)(パラメータ化されていない測地線の幾何学)の研究にとって本質的に重要な役割を果たす(Nomizu & Sasaki 1994)。アフィン接続を
で表すと、曲率テンソル
は次のような定義では
テンソルである。任意のベクトル場
に対して、
と定義する。リッチテンソルはトレース
で定義される。これのさらに一般的な場合は、リッチテンソルが対称的であることと、接続の局所的に並行な体積形式(volume form)が存在することと同値である。
関連項目 [編集]
脚注(日本語版) [編集]
- ^ 本記事の”トレースのないリッチテンソル”の中に数学的な定義や物理的な意味が明確に記載されているので、英語版へのリンクを削除した。
- ^ すぐ下に定義が記載されているので、英語版へのリンク削除した。
参考文献 [編集]
- Besse, A.L. (1987), Einstein manifolds, Springer.
- Chow, Bennet and Knopf, Dan (2004), The Ricci Flow: an introduction, American Mathematical Society, ISBN 0-8218-3515-7.
- Eisenhart, L.P. (1949), Riemannian geometry, Princeton Univ. Press.
- Galloway, Gregory (2000), “Maximum Principles for Null Hypersurfaces and Null Splitting Theorems”, Annales Poincare Phys.Theor. 1: 543–567, arXiv:math/9909158, Bibcode 1999math......9158G.
- Kobayashi, S.; Nomizu, K. (1963), Foundations of Differential Geometry, Volume 1, Interscience.
- Kobayashi, Shoshichi; Nomizu, Katsumi (1996), Foundations of Differential Geometry, Vol. 2, Wiley-Interscience, ISBN 978-0-471-15732-8.
- Lohkamp, Joachim (1994), “Metrics of negative Ricci curvature”, Annals of Mathematics. Second Series (Annals of Mathematics) 140 (3): 655–683, doi:10.2307/2118620, ISSN 0003-486X, JSTOR 2118620, MR:1307899.
- Moroianu, Andrei (2007), Lectures on Kähler geometry, London Mathematical Society Student Texts, 69, Cambridge University Press, ISBN 978-0-521-68897-0, MR:2325093
- Nomizu, Katsumi; Sasaki, Takeshi (1994), Affine differential geometry, Cambridge University Press, ISBN 978-0-521-44177-3.
- Ricci, G. (1903–1904), “Direzioni e invarianti principali in una varietà qualunque”, Atti R. Inst. Veneto 63 (2): 1233–1239.
- L.A. Sidorov (2001), “Ricci tensor”, in Hazewinkel, Michiel, Encyclopaedia of Mathematics, Springer, ISBN 978-1556080104
- L.A. Sidorov (2001), “Ricci curvature”, in Hazewinkel, Michiel, Encyclopaedia of Mathematics, Springer, ISBN 978-1556080104
![R(X,Y)Z = \nabla_X\nabla_Y Z - \nabla_Y\nabla_XZ - \nabla_{[X,Y]}Z](http://upload.wikimedia.org/math/b/4/1/b411a678692ca92ed1f688ceca39b880.png)








![d\mu_g = \Big[ 1 - \frac{1}{6}R_{jk}x^jx^k+ O(|x|^3) \Big] d\mu_{{\rm Euclidean}}](http://upload.wikimedia.org/math/a/f/6/af6705dfb077cca38ac7d74a6215f88e.png)
で下から抑えられるとき、その多様体の径が
以下であり、等号成立はその多様体が定曲率
の球と
でその多様体の
で m-次元ユークリッド空間内の半径
は非増加である(最後の不等式は、任意の曲率の極値の一般化であり、
である完備な
に対して
となるような測地線
を意味する直線 を持っているとすると、測地線は積空間
に等長となる。結局、正のリッチ曲率を持つ完備多様体は多くとも一つのトポロジカルな端点を持つことができる。この定理は、ある仮定を加えると、非負なリッチテンソルを持つ(計量の符号が(+−−...)である)完備なローレンツ多様体に対しても正しい(
![\widetilde{\operatorname{Ric}}=\operatorname{Ric}+(2-n)[ \nabla df-df\otimes df]+[\Delta f -(n-2)\|df\|^2]g ,](http://upload.wikimedia.org/math/2/d/4/2d4a5341a4a622638798693f7a949705.png)








