テュレンヌ子爵アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ
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テュレンヌ子爵アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ (Henri de la Tour d'Auvergne, Vicomte de Turenne, 1611年9月11日 - 1675年7月27日)は、フランスの軍人。単にテュレンヌ(Turenne)と呼ばれることが多い。ラ・トゥール・ドーヴェルニュ家出身。フランス元帥。フランス大元帥6人のうちの1人である。
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[編集] 軍歴と背景
ブイヨン公アンリ(スダンの領主)と、2度目の妻エリザベート・フランドリカ・ドランジュ=ナッソー(オラニエ公ヴィレム1世の娘)の次男としてスダン城で生まれた。テュレンヌはユグノーとして育てられ、貴族の子としての教育を受けたが、虚弱体質で、特に会話での吃音(生涯治らなかった)があった。彼は歴史と地理に特別の才能を見せ、アレクサンドロス大王とユリウス・カエサルの偉業に関心を寄せたが、上記の障害が妨げになった。父ブイヨン公アンリが1623年に亡くなると、テュレンヌは身体鍛錬に没頭し、生まれながらの弱点に打ち勝とうとした。14歳の時、彼は叔父でオランダ総督のマウリッツの野営地へ戦争を学びに行き、八十年戦争で軍歴をスタートさせた(マウリッツの警護を務める私兵としてであった)。
1625年にマウリッツのあとを継いだもう一人の叔父フレデリック・ヘンドリックは、オランダ総督及びオラニエ公即位後の1626年、テュレンヌに陸軍大尉職を与えた。若い士官は、この時期の包囲戦で職務を果たした。1629年、スヘルトーヘンボス(フランス語:ボワ=ル=デュック)包囲戦勝利で見せた、テュレンヌの手腕と勇気は、当代の一流司令官の一人であったフレデリック・ヘンドリックから特別な賞賛を勝ち取った。1630年、テュレンヌはオランダをあとにし、フランス軍に入った。軍内の昇進の見込みだけでなく、フランス王家に対してブイヨン公家の忠誠を見せて欲しいという母の願いが動機だった。
リシュリュー枢機卿はすぐにテュレンヌを歩兵連隊の大佐にした。彼はオラニエ公と短期間距離をおいていた(オランダとフランスは当時同盟関係にあった)。彼がフランス軍に属してから最初の実戦は、1634年にフォルス公が指揮したロレーヌのラ・モト=アン=バシニー包囲戦であった。テュレンヌは突撃で見せた戦果で、陸軍少将(maréchal de camp)の地位に即時に昇進した。1635年、テュレンヌはヴァレット枢機卿指揮下において、ロレーヌとライン川で戦った。フランス軍とその同盟軍は、8月8日にマインツが神聖ローマ帝国軍に包囲されると集結したが、フランス軍は食糧の欠乏からメスへ撤退しなければならなかった。退却時にテュレンヌは、有名な神聖ローマ帝国軍の将軍マティアス・ガラスと剣を交えており、その勇気と手腕から大いに名を上げた。再編成された軍は1636年に再度野戦をおこない、サヴェルヌを攻略した。この猛攻でテュレンヌは重傷を負った。1637年、彼はランドルシー占領(7月26日)を含むフランドル遠征に参加した。1638年後半、ベルンハルト・フォン・ザクセン=ヴァイマル(1608年-1639年)の元で戦い、テュレンヌはブライザハを急襲を指揮し12月17日に降伏させた(ブライザハはすぐにライン川上流の強固な要塞となった)。テュレンヌは今や、フランスの若い軍幹部の中で将来を有望視される一人という評判をとった。
リシュリューは次に、テュレンヌをアルクール伯アンリ・ド・ロレーヌ(1601年-1666年)指揮下のイタリア遠征(1639年-1640年)の任務につかせた。1639年11月19日、彼はルート・ド・キエルの戦いと呼ばれる有名な後衛作戦で勝利した。これは冬期のトリノ城塞への再食糧供給の間に起こり、フランス軍とカリニャーノ公トンマーゾとの間で争われた。1640年、アルクール伯はカザーレ・モンフェッラートを救い、城塞内にフランス軍別働隊が立てこもる間に、トリノに立てこもるカリニャーノ公軍を包囲した。後者の包囲線は持ちこたえ、カリニャーノ公軍が9月17日に降伏させられる間、アルクール伯の連隊が退却を強いられ始めると同時に第4部隊が包囲した。今や陸軍中将となったテュレンヌは、これら複雑な作戦が好ましい結果を達成するのに主要な役回りをした。彼は、1641年の遠征で自身も戦い、クーネオ、チェヴァ、モンドヴィを占領した。
1642年、テュレンヌはルシヨンを征服したフランス軍の副司令官を務めた。この時にリシュリューは、テュレンヌの兄ブイヨン公フレデリックが連座していたサン=マール侯が企んだ陰謀を発見している。
[編集] フランス元帥
フランス王家とスダンの公爵家(principality)の関係は、テュレンヌの初期の経歴に顕著な影響を与えた。時にはブイヨン公家を懐柔するために彼を昇進させる必要があったことは明らかだが、その一方で、リシュリューやマザランに対抗する公爵家の企みのせいで、国王の側近たちは戦場におけるテュレンヌを全面的に信用することができなかったのである。その上、彼のプロテスタント信仰に対する強固な執着が、大臣とテュレンヌの関係において困難な要素を成していた。
リシュリューはそれにもかかわらず、1643年にカリニャーノ公(対立してフランス側についた)指揮下のイタリアでの戦闘をテュレンヌを預けた。彼は、その年の終わりにフランスへ呼び戻される前に、数週間でトリノを落とした。12月19日にフランス元帥に任命され、すぐにアルザスへヴァイマル軍(ベルンハルト・フォン・ザクセン=ヴァイマル軍の連隊)再編成のため出発した。ヴァイマル軍は、11月24日から25日にかけてトゥットリンゲンの戦いの手痛い敗北を喫したばかりだった。この時、32歳になっていたテュレンヌは、これまでに4人の著名な指揮官の下で戦ってきた。組織的なオラニエ公、激しい気性のベルンハルト、勇敢なラ・ヴァレット枢機卿、頑固で抜け目のないアルクール伯、その誰もがテュレンヌの形成に貢献した。
再編成の任務を終え、テュレンヌ元帥はブライザハにおいてライン川を横断する、1644年の作戦を開始した。ほぼ同時にアンギャン公(のちの大コンデ、コンデ公ルイ2世)指揮の軍がテュレンヌ軍と合流した。王家に連なるアンギャン公は、フランス=ヴァイマル連合軍の総司令官となった。三十年戦争を終結させた4つの有名な戦いがある。8月の、死にものぐるいのフライブルクの戦い(対フランツ・フォン・メルシー指揮バイエルン軍)は、フランスがフィリップスブルク包囲戦に勝利をおさめた後の最初の遠征の第一の戦いである。敵が降伏する前にアンギャン公は撤退し、指揮官としてテュレンヌを残した。彼は強固な前方移動をもって1645年の遠征を展開したが、メルシーは驚いて5月2日にマリエンタールでテュレンヌ軍を打ち負かした。アンギャン公が再度フランス軍を率いて前線へやってきた。テュレンヌ軍は、スウェーデン軍とヘッセン=カッセル方伯軍から分遣隊の到着を得て、相当な増援隊を獲得した。スウェーデン軍はすぐに立ち去ったが、フライブルクよりさらに手強い戦いにおいてバイエルン軍と相まみえた時、アンギャン公は2万の兵を指揮していた。フランス軍はメルシーを戦死させ、8月3日のネルトリンゲンの戦いで決定的にバイエルン軍を打ち負かした。病にかかったアンギャン公はその後すぐ、フランス軍の司令官にテュレンヌを任命して自身は戦線から離脱した。テュレンヌは再度大規模に結集した皇帝軍に対しとどめを刺さなかった。しかし、遠征はテュレンヌがトリーア攻略において戦勝の輝きを得たことで終結した。1646年、彼はさらに決定的な戦勝を獲得、そしてバイエルン軍からオーストリア軍が離れたことにより、バイエルン選帝侯マクシミリアン1世は和平を余儀なくされた(署名したのは1647年3月14日)。
1647年、テュレンヌは神聖ローマ皇帝の弱体化した軍へ攻撃することを申し出たが、マザランは彼を代わりに対フランドル戦へ派遣した。この事でフランスは神聖ローマ帝国軍を叩く機会を失っただけでなく、何ヶ月も給料をもらっていなかったヴァイマル軍の間に深刻な反抗が起こった。テュレンヌは見事な機転で不満を抱く連隊の処置し、少々の流血事件があったもののヴァイマル軍を元通りにし、事件を終結させたのだった。テュレンヌはそしてルクセンブルクへ進軍した。しかしすぐにライン戦線へ転戦するよう命令を受けた。1648年、バイエルンは再びオーストリアと同盟を結び連合軍を組織したのである。テュレンヌと配下のスウェーデン軍との連合軍は、目を見張るような戦績を収め、5月17日のツスマルシャウゼンの戦いの決定的な行動で最後を飾った。軍はその結果として、さらにしっかりとした休戦条約が締結されるまで、火戦と白兵戦でバイエルンを疲弊させた。この破壊は多くの現代の歴史家が非難するものだが、当時の戦時の精神と戦闘行為で許された状況よりも過酷な手法がとられたわけではない。
1648年のヴェストファーレン条約は、フランスに束の間の平和をもたらした。しかし、すぐにフロンドの乱(1648年-1653年)が勃発した。テュレンヌの戦争中に犯した行為の一部が、反乱派に対する彼の賛同よりさらに鋭い批判を巻き起こした。ヴァイマル軍は司令官であるテュレンヌに従うことを拒み、彼は南部ネーデルラントへ逃れざるをえなかった。彼はそこに、フロンドの乱第1期を終わらせたルイユの和議(1649年年3月)が締結されるまでとどまった。2期の戦いはコンデ公らが1650年1月に捕らえられたことで始まった。コンデ公とともに捕らえられる計画のあったテュレンヌは再び逃亡し、ロングヴィル公爵夫人アンヌと組み、コンデ公、その弟コンティ公アルマン、ロングヴィル公の目的のためにスタネイを獲得した。フロンドの乱第1期も2期もアンヌへの愛情がテュレンヌの行動を支配していたとみられ、コンデ公らのためスペインの援助を得ようとした。この戦いでテュレンヌは、ルトルにおいて2、3の逆転の一つを被った(1650年12月15日)。しかし、2度目の対立は同じ年の早い時期に、王党派の瓦解とコンデ公らの釈放で終結した。
[編集] フロンドの乱とルイ14世時代
テュレンヌは和解して1651年5月にパリへ戻った。しかしすぐに騒動が持ち上がった。コンデ公が再びフランス南部で反乱を起こしたのである。このフロンドの乱第3期で、テュレンヌとコンデ公は互いに対立した立場にあった。テュレンヌは王軍を指揮し、コンデ公は反乱派とスペイン連合軍を率いていた。テュレンヌは1652年3月28日、ジャルジョーで若い兵士の勇猛さ見せつけ、4月7日にジアンでベテラン将軍の手腕と猛々しさを見せつけた。彼は実質的にサントノレ・フォーブールの戦い(7月21日)で内戦を打ち砕き、10月21日に再びパリを王軍が確保した。彼はなおもコンデ公とスペイン軍との取引を必要としていたが、スペイン系フロンド反徒の戦局が長引いたことが、双方の側に、系統立った指導力を見せるための広い視野を与えた。1653年、テュレンヌは有利になった。コンデ公がロクロワだけを獲得する間に、彼はルトル、サント=ムヌウ(Sainte-Menehould)、ムーゾンを攻略した。1654年の短期遠征で再びフランス軍に有利となった。7月25日、王軍はアラスでスペイン軍を打ち負かしたのである。1655年、フランス軍はさらなる領地を得たが、1656年にテュレンヌはヴァランシエンヌで、彼がアラスでコンデ公を打ち負かしたのと同じやり方で、敗北を喫した。戦争は、テュレンヌがダンケルク近郊のデュヌの戦いで勝利をおさめたことから1657年に終結した(この戦いには、当時同盟関係にあったイングランド護国卿オリヴァー・クロムウェルから部隊が送り込まれていた)。1658年にその他の戦勝した遠征により、1659年のピレネー条約へとつながっていく。
1661年にマザランが死に、ルイ14世は自身の手で親政を開始した。彼は最初にテュレンヌをフランス王軍の大元帥とした。もしカトリックに改宗するならテュレンヌのため、王は1627年に廃止されていた『フランス宮内長官』(Constable of France、フランス語:connétable of France)職の復活を打診していたが、テュレンヌはこれを辞退した。両親ともにカルヴァン派で自身もプロテスタントの教育を受けていることから、1639年にリシュリューが申し出た彼の姪の1人との結婚も断っていたし、マザランから持ち出された彼の縁者との結婚依頼も拒んでいたのである。
1652年、テュレンヌは、深く慕っていたプロテスタントの元帥フォルス公の娘、シャルロット・ド・コーモンと結婚した。しかし彼は2つの敵対する陣営の中で、キリスト教教会の不和を心から深く嘆いていた。彼は常に、多くの意見の異なったり押さえきれない一派の影響を信用しなかった。イングランド軍と国民の独立の過程が彼の考えに深い印象を与え、そしてイングランドの長老派教会がやがては王政復古に転じた無秩序ぶりの同じ恐怖が、テュレンヌをさらにカトリック教会の方へ向かわせた。彼と妻シャルロットの間で交わされた手紙には、どのように2人とも密接にこの事件での有効な証言を学んだかがみてとれる。2年後にシャルロットが死んで文通は終わり、ジャック=ベニーニュ・ボシュエ司教の熱弁と、テュレンヌの甥ブイヨン僧の説得で、彼はカトリック信仰に賛同したのである(1668年10月)。1667年、テュレンヌはさらに性分に合った空気の王軍へ戻り、フランス軍の南ネーデルラント侵攻を指揮した(普通はルイ14世指揮)。すぐにその後、今や王と和解したコンデ公は、フランシュ・コンテ地方を素早く征服してテュレンヌの戦功と競い合い、1668年2月にはネーデルラント継承戦争を終結に導いた。
[編集] 対オランダ戦争
ルイ14世の1672年のオランダ戦争において、テュレンヌは、オランダ諸州を荒らしアムステルダム市の城門を開けさせた王の軍に同行した。ルイ14世がとったこの手段は、オラニエ公ヴィレム3世にさらに苦い抵抗運動を起こさせただけだった。ヴィレム3世は堤防を決壊させ、アムステルダム周囲の国土を水浸しにした。この英雄的な手段が完全にテュレンヌを牽制することになり、ルイ14世は指揮を放棄して現場を離れた。この事件の知らせはヨーロッパ中を駆けめぐり、戦闘がドイツに対して広がっていった。テュレンヌは、コンデ公がアルザスを押さえた間に、ライン川中流域で策略をもって勝利をおさめた。
1673年1月、テュレンヌは攻勢に出るふりをして、ドイツ内へ深く入り込み、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムに和平を結ばせた。同じ年の後半、有名な神聖ローマ帝国軍将軍ライモンド・モンテクッコリが完全にテュレンヌの裏をかいた。モンテクッコリは敵を避け、オランダ軍と連合してボンを戦略上の要地にしたのである。しかし1674年6月、テュレンヌはジンツハイムの戦いで勝利し、彼はライン宮中伯の宮内官となった。パリからの命令のもと、フランス軍は国土の遙か遠くまでを荒らし回り、トゥルクハイムの略奪を伴ったこの行為は常に、テュレンヌの名声の上で重大な汚点として数えられる。
秋、反フランス同盟が再び進軍し、彼らは再びテュレンヌの裏をかいた。中立都市ストラスブールの行動が、この町にあった橋から敵がライン川をわたることを許し、彼の失敗の原因となったのである。エンツハイムの戦いが続いて起こった。この戦いは、戦術上の勝利を証明したものだが、完全に勝利したとは言えなかった。12月初旬、連合軍はアルザスにとどまっていた。老齢の元帥は今や、自身の軍歴の最も思い切った遠征のまっただ中にいた。真冬に速やかで隠密の行軍が、ヴォージュの端から行われた。彼の初期の戦勝に鋭く従い、テュレンヌはトゥルクハイムの戦いで敵を追い払い、1675年1月5日に敵をひどく打ち負かして損害を与えた。都市住民が起こした抵抗運動の報復として、彼は軍を指揮して都市を略奪し、2週間もの間残された住民たちを虐殺した。わずか数週間で彼はアルザスを完全に取り戻した。
彼は夏の遠征で、彼はモンテクッコリと再び対峙した。両司令官による『チェス戦略』の一流の展開の後、ついにテュレンヌは、コンツェル・ブルッケの戦いでフランス軍が損失を被る結果となる、最後の戦いを挑むよう敵に強いた。1675年7月27日、最初の一斉射撃が、テュレンヌを戦死させた。彼の死の知らせは、フランス全土を悲嘆に陥れた。
[編集] 遺産
テュレンヌの最も雄弁な同郷人らは、彼についての賛辞(éloges)を書いた。モンテクッコリはこう叫んだ。『尊敬してきたあの男が、今日死んだ!』("II est mort aujourd'hui un homme qui faisait honneur à l'homme !")
テュレンヌの遺体は、サン=ドニ大聖堂へ運ばれ、歴代のフランス王とともに埋葬された。1793年に過激な革命支持者らでさえ彼の亡骸に敬意を払い、彼らが王家の人々の亡骸をひとまとめにして墓へ再埋葬するという恥ずべき行いをする間、1800年9月22日まで、テュレンヌの亡骸をパリ植物園で保管していた。ナポレオン・ボナパルトが大元帥の亡骸を、パリ市内のオテル・デ・ザンヴァリッドへ移し、現在もそこにある。
ナポレオンは、全軍兵士に対し、偉大な司令官の一人としてテュレンヌの遠征を繰り返し学ぶよう勧めた。将軍としての彼の名誉は、当時のヨーロッパの他の将軍らに劣らず、その軍事的特徴が当時の戦術の芸術を集約するために、「かつてないほど大衆は戦争を精密に学んだ」(リーニュ公の談話より)。戦略上の慎重さと兵站術の精度が、小さな戦闘において輝かしい突進と組み合わされ、そして全ての状況のもと、成功であっても失敗であっても不変であった。テュレンヌの戦争に関する天才ぶりの顕著な点としておそらく明らかになったのだろう。彼は大規模な戦闘を避けた。『2、3の包囲戦と多くの戦闘』、テュレンヌは自身の格言としてこう述べた。そして、彼の偉大なるライヴァル大コンデが、最初の戦いにも最後の戦いにも、燦然たる輝きをもって登場したのとは違い、テュレンヌは日々向上していった。ナポレオンは『テュレンヌの天才ぶりは、年をとるごとに大胆になっていったことだ』と述べた そして後世の作家オーマール公は著作『コンデ公家の公爵史』(Histoire des princes de la maison de Condé)の中で、同じ見解を書いている。
一人の人間としてのテュレンヌは、飾り気のない性格をわずかにみせる、高潔な兵士で、機知に恵まれていた。しかし政治と知識の世界においては、彼は巧妙な陰謀家や詭弁家の手中にはまってほとんど無力であった。もし彼の道徳観が非難より勝らなければ、彼が生きていた頃は道徳が優勢であるというより、少なくともさらに禁欲的であった。彼は常設軍の司令官として本質的に行動をとった。彼は生涯を軍隊とともに過ごした。彼は兵士たちの信愛を勝ち取る術を知っていた。彼は希に見る寛大さで厳しい訓練を適度に柔和にし、彼の部下たちは司令官としてテュレンヌを崇拝するのと劣らず、同志として彼を愛していた。大コンデの天性がはるかに多才であったけれども、テュレンヌの天性は17世紀の戦術の芸術を最高傑作に仕立てたのである。小さく、犠牲の多い、そして非常に訓練を積んだ常設軍のため、そしてルイ14世時代の王朝戦争のため、テュレンヌは理想的な軍指導者として職務を果たした。
[編集] 外部リンク
- この記述には、パブリックドメインの百科事典『ブリタニカ百科事典第11版』本文を含む。

