サロメ (ヘロディアの娘)
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サロメ(Salome または Salomé、ヘブライ語: שלומית Shlomit)は、1世紀頃の古代パレスチナに実在したとされる女性。義理の父は古代パレスチナの領主ヘロデ・アンティパス、実母はその妃ヘロディア。古代イスラエルの著述家フラウィウス・ヨセフスが著した『ユダヤ古代誌』や、『新約聖書』の「福音書」などに伝わる。イエスに洗礼を授けた洗礼者ヨハネの首を求めた人物として、キリスト教世界では古くから名が知られ、その異常性などから多くの芸術作品のモティーフとなってきた。新約聖書では、「サロメ」の名を伝えていないことから、学問上は単にヘロディアの娘と呼ぶことが多い。
目次 |
[編集] 伝承
サロメは、新約聖書に登場する女性。サロメの義理の父は、ユダヤのヘロデ大王の息子である古代パレスチナの領主ヘロデ・アンティパス。また、サロメの実父はヘロデ・アンティパスの弟であるため、ヘロデ・アンティパスの姪でもある。サロメの実母は、ヘロデ・アンティパスの弟の妻であり、後にヘロデ・アンティパスの妻となったヘロディア。サロメは、ヘロデ・アンティパスに、祝宴での舞踏の褒美として「好きなものを求めよ」と言われ、母ヘロディアの命により「洗礼者ヨハネの斬首」を求めた。
新約聖書には、サロメの名は記されていない。しかし、古代イスラエルの著述家であるフラウィウス・ヨセフスが著した『ユダヤ古代誌』には、「サロメ」という女性の名がある。この「サロメ」は、洗礼者ヨハネとの関係では大きく違うが、父母等の名が聖書の記事と一致する。そのため、同一人物であると考えられ、「サロメ」の名で呼ぶことが定着している。また、サロメは、新約聖書以外の文献の記述から、西暦14年頃に生まれ、その死は62年から71年の間と考えられるが、その生涯の詳細については定かでない。
以下では、双方の伝承について解説する。
[編集] 新約聖書における記述
「ヘロディアの娘」については共観福音書に記述がある[1]。これらの記述が歴史的事実に基づくか否かは確定されていない。
[編集] 『マルコによる福音書』
『マルコによる福音書』には、以下のような記述がある。[2] [3]
14するとヘロデ王が〔イエスのことを〕聞き及んだ。彼の名前があらわになったからである。そこである人々は言っていた、「洗礼する者ヨハネが死人たちの中から起こされたのだ、だからこそこれらの力が彼の中で働いているのだ」。15またほかの者たちは「彼はエリヤだ」と言い、またほかの者たちは「〔かつての〕預言者の一人のような預言者だ」と言っていた。16また、ヘロデは〔これを〕聞いて言うのであった、「わしが首を斬り落としたあのヨハネ、あいつが起こされたのだ」。
17というのも、ヘロデ自身が、彼の兄弟フィリッポスの妻ヘロディアのゆえに、人を遣わし、ヨハネを逮捕し、彼を獄に縛りつないだのであった。それは、ヘロデが彼女を娶ったからである。18なぜなら、ヨハネはヘロデに言ったためである、「お前が自分の兄弟の妻を得るのは、許されることではない」。19そこでヘロディアは彼を恨み、彼を殺したいと思ったが、できずにいた。20なぜならば、ヘロデの方が、ヨハネを正しい聖なる人であると見なして彼を恐れ、彼を保護したからである。〔ヘロデは、〕彼の言うことを聞いてどのようにしたらいいかまったくわからなくなりながらも、喜んでその言うことを聞いていた。
21すると都合の良い日がやって来た。ヘロデが自分の誕生日に宴会を催し、自分の高官たちや、千人隊長たちやガリラヤの名士たちを招いたのである。22そこで彼の〔妻〕ヘロディアの娘が入って来て、舞を舞ったが、それがヘロデとその同席の者たちの気に入った。王は少女に言った、「欲しい物は何でもわしに願い出よ。そうすればお前にやろう」。23そして彼女に誓った、「お前がわしに願い出ることは、たとえそれがわしの王国の半分であっても、お前にやろうぞ」。24そこで彼女は出て行って、その母に言った、「私は何を願い出たらいいの」。すると彼女は言った、「洗礼する者ヨハネの首を」。25そこで彼女はすぐに急いで中に入って王のもとに行き、願い出て言った、「私が欲しいのは、いますぐに、洗礼者ヨハネの首をお盆の上にのせて、私に下さることです」。26そこで王は悲しみにとらわれたが、誓〔ってしまった〕ため、また列席している者たちの手前、彼女〔の願い〕を退けようという気にはなれなかった。27そこで王はすぐに刑吏を遣わして、ヨハネの首を持って来るように言い付けた。そこで刑吏は去って行き、獄でヨハネの首を斬った。28そして、彼の首を盆にのせて運んで来て少女に与え、少女はそれをその母に与えた。29すると、ヨハネの弟子たちはこれを聞いてやって来て、彼の死体を〔引き〕取り、それを墓の中に横たえた。
– 『マルコによる福音書』第6章
引用部分に関する注記:[4]
- (14節)ここで言う「ヘロデ」とは、ヘロデ・アンティパスのことである。
- (15節)エリヤは、旧約聖書に現れる預言者。
- (17節)フィリッポスとしたのは、福音書記者の誤記。正しくはヘロデ・ボエートス。
- (18節)洗礼者ヨハネの非難は、兄弟の妻であった女性との結婚は律法が「近親相姦」に該当するとして禁じていたことによる。(「レビ記」(18:16)参照)
- (21節)ヘロデ・アンティパスの生年は、紀元前20年かそれ以前と推定されるのみで、誕生日は不明である。
第一と第二段落のつながりにやや不自然さがある。その他の点も考慮すると、
- 洗礼者ヨハネがヘロデとヘロディアの結婚の不道徳を厳しく批判した。
- 祝宴の場でヘロディアの娘の舞の褒美として、ヘロディアがヨハネの断首を求め、実行された。
という内容の伝承があり、それをマルコ[5]がこの形に編集したと考えられる。
[編集] 『マタイによる福音書』
『マタイによる福音書』では以下のような記述がある。
1その時、四分封領主ヘロデがイエスの噂を聞いて、彼の僕たちに言った、2「あいつは洗礼者ヨハネだ。まさにこいつが死人たち〔の群〕から起こされたのだ。だからこそこれらの力か彼の中で働いているのだ」。
3というのも、ヘロデは、彼の兄弟フィリッボスの妻ヘロディアのゆえに、ヨハネを逮捕して縛り、獄に閉じ込めたのである。4なぜなら、ヨハネは彼に〔くり返し〕言ったためである、「お前が彼女を娶るのは、許されたことではない」。5そこでヘロデは彼を殺したいと思ったが、群集を恐れた。なぜなら、彼らはヨハネを預言者と見なしていたからである。
6さて、ヘロデの誕生日がやって来たので、ヘロディアの娘が〔人々の〕ただ中で舞を舞った。すると彼女はヘロデの気に入った。7そのために彼は、彼女が願い出るものは何でも彼女に与えると、誓いつつ公言した。8すると彼女はその母に唆されて言う、「洗礼者ヨハネの首をこのお盆の上に載せて、わたしにちょうだい」。9そこで王は悲しみながらも、自分と同席している者たちの前で誓った手前、〔彼女に望みのものが〕与えられるように命じ、10人を送って、獄でヨハネの首を斬った。11そして、彼の首が盆に載せて運ばれて来ると、少女に与えられた。そこで彼女は、それをその母のところに運んだ。
12すると、ヨハネの弟子たちが来て、死体を〔引き〕取り、彼を埋葬した。そしてやって来て、イエスに報告した。
– 『マタイによる福音書』第14章冒頭部分
マタイはマルコのいささか冗長な文章を簡潔にしており、ギリシア語としても良質な記述である。ヘロデを四分封領主と訂正しているが、「フィリッボス」の誤りには気づいていない。なお、末尾でヨハネの弟子たちが「イエスに報告した」としているのは、マタイの編集句とされている。
以上を総合すると、マタイはこの記事では全面的に『マルコによる福音書』に依存しており、追加の伝承・資料を持っていなかったことは明白である。
[編集] 『ルカによる福音書』
『ルカによる福音書』では以下のような記述がある。
7すると四分封領主のヘロデは生じたあらゆることを聞き及び、ある人々が言っていることのゆえに〔なすすべが〕まったくわからなくなってしまった。つまり「ヨハネが死人たちの中から起こされた」というのである。8またある人々は〔言った〕、「エリヤが現れた」。またほかの者たちは〔言った〕、「いにしえの預言者が起きあがった」。9しかしヘロデは言った、「ヨハネなら、このわしが首を斬り落とした。だが、こいつは何者だ。こんな〔いろいろな〕ことがわしの耳に入って来るとは」。そこで彼はイエスを見てみたいと願った。
– 『ルカによる福音書』第9章
ルカも『マルコによる福音書』に全面的に依拠している。
マタイと同様に『マルコ』の文章を大幅に改善しているが、重要なのはヘロディアの娘への言及を含めてヨハネの死に関する具体的記述を完全に削除している点である。これはルカの
- 洗礼者ヨハネの活動への言及を極力避ける傾向[6]
- この記述が、彼の福音書には不可欠とは考えなかった
- 温厚で調和を好む性格から血なまぐさい記述を嫌った
等の結果である。
[編集] ヨセフスによる記述
フラウィウス・ヨセフスがその著書『ユダヤ古代誌』(93年 - 94年頃完成)において、以下のような記述を行っている。[7]ここでも、〔 〕は原文にない訳者による補足。
[編集] 第18巻5章2節
ここでは、洗礼者ヨハネの処刑が記述されている。途中を一部省略したが、節の始めと末尾部分を引用する。
さて、ユダヤ人の中にはヘロデ〔・アンティパス〕の軍隊の壊滅は、洗礼者と呼ばれたヨハネに対して彼が行ったことへの神による罰であり、全く義にかなった事だと考える者たちがいた。というのも、ヘロデは彼を殺害したのである。が、ヨハネは、正しい人であり、ユダヤ人たちに互いに義なるを行い、また神への敬虔を尽くせと命じ、その証に洗礼を受けに来るように言っていたのである。〔中略〕さて、人々が群れをなしてヨハネの許に押し寄せ、彼の言葉に大きな感銘を受けていた。ヘロデは、ヨハネの民衆への大きな影響力が、彼の権力に及び、叛乱へと繋がることを恐れた。彼は、ヨハネがもたらすかもしれない一切の悪影響を防止し、一人の人間の命を惜しんだが故に、ことが起きてから手遅れだったと後悔する様な困難に自らを陥らせぬためには、殺してしまうのが最善だと考えた。そこでヘロデは、その猜疑心を払拭すべく、囚人を、既に私が言及した城である、マカイロスに送り、そこでヨハネを殺害した。で、ユダヤ人の間に、彼の軍隊の壊滅はヘロデへの罰であり、神が彼を不快に感じている証だとの説が生じたのである。
– 『ユダヤ古代誌』第18巻5章2節
すなわち、ヨセフスによればヨハネの処刑はあくまでヘロデ・アンティパスの政治的決断である。従って、ヘロディアや、その娘は処刑にかかわっていないことになる。また、ヨハネの処刑はマカイロス要塞で行われており、この点もマルコが利用した伝承とは異なっている。
[編集] 第18巻5章4節
ここではヘロデ大王家関連の人物関係が記述されている。その途中部分のみを引用する。[8]
(前略)しかし、彼らの姉妹のヘロディアは、ヘロデ大王の息子で、高位の祭司シモンの娘のマリアムネが生んだヘロデ〔・ボエートス〕と結婚し、サロメという娘ひとりをもうけた。娘が生まれた後、これはわが国の律法の相容れぬことであるが、娘を連れて、夫が存命であるにもかかわらず離婚して、ヘロデ〔・アンティパス〕と結婚した。彼は前夫の異母兄弟であり、ガリラヤの四分封領主であった。さて、その娘サロメはヘロデ〔大王〕の子でトラコニティスの分封領主であるフィリッポと結婚したが、子が出来ないうちに彼は死んだ。ヘロデ〔大王〕の子で、アンティパスの兄弟であるアリストブラスが彼女と結婚した。二人には、ヘロデ、アグリッパ、アリストブラスの三人の息子がうまれた。これらは、ファサエラスとサランピシオの子孫である(後略)
– 『ユダヤ古代誌』第18巻5章4節
ここに記述されているサロメが
- ヘロディアの娘である
- 母の再婚で、叔父に当たるヘロデ・アンティパスの子となった
ことが福音書の記事と一致することから、洗礼者ヨハネの首を求めた娘であるとされた。
[編集] 芸術作品の素材としてのサロメ
その特異性もあって、古くから多くの芸術作品の素材となってきた。ただし、特に取り上げられることの多かった時期が鮮明である。以下、その点を考慮して時代順に列挙する。[9]
[編集] 近代以前
洗礼者ヨハネの刑死はイエスの生涯の物語で重要な場面であるため、西洋絵画では古くからそれに関する絵画が描かれてきた。特にルネサンス期からバロック期にかけて、イタリアやオランダなどの画家たちによって、きわめて多くの作品のモティーフとされた。
なお男性の首をもつ女性のモティーフにはユディトがあるが、ユディトがしばしば剣をさげかつ首はそのまま持たれるのに対して、サロメは剣を持たずヨハネの首は皿に載せられて描かれるので注意が必要である。
以下、主なものを年代順に列挙する。
[編集] 13世紀まで
- 『ヘロデ王の饗宴』、作者不詳〔ダウラーデ修道院〕、1100年頃
- 『洗礼者ヨハネの死』、ギラベルトゥス(Gilabertus)、〔聖エティエンヌ大聖堂〕、1120-1140年
[編集] 14世紀
- 『ヘロデ王の饗宴』、ジョット・ディ・ボンドーネ、1320年
- 『洗礼者の埋葬』、アンドレア・ピサーノ、1330年
- 『福音書記者聖ヨハネとその生涯の物語』、 ジョヴァンニ・デル・ビオンド、1360-70年
- 『ヘロデ王の饗宴』、アレティーノ・スピネロ、1385年
- 『ヘロデ王の宴会』、ロレンツォ・モナコ、1400年頃
[編集] 15世紀
- 『洗礼者ヨハネの斬首』、マサッチオ、1426年
- 『ヘロデ王の宴会』、ドナテッロ、1427年
- 『ヘロデ王の宴会』、マソリーノ・ダ・パニカーレ、1435年
- 『ヘロデ王の宴会』、フラ・フィリッポ・リッピ、1452-65年
- 『ヘロデ王に渡される洗礼者ヨハネの首』、ジョヴァンニ・ディ・パオロ、 1454年
- 『ヘロデ王の饗宴と洗礼者ヨハネの斬首』、ベノッツォ・ゴッツォリ、1461-62年
- 『洗礼者の首』、ジョヴァンニ・ベリーニ、1464-68年
- 『洗礼者聖ヨハネの斬首』、リーヴェン・ヴァン・ラーテム、1469年
- 『ヘロデ王の饗宴』、ノーフォークのハイドン、1470年頃
- 『聖ヨハネ』(祭壇用の作品)、ハンス・メムリンク、1474-79年
- 『洗礼者ヨハネの斬首』、アンドレア・デル・ヴェロッキオ、1477-80年
- 『洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ』、サンドロ・ボッティチェッリ、1488年
- 『洗礼者ヨハネの首を持つサロメ』、コーネリス・エンゲルブレヒツェン、1490年頃
[編集] 16世紀
- 『洗礼者聖ヨハネの首と、悲しむ天使・プット達』、ヤン・モスタエルト、16世紀初頭
- 『聖ヨハネ』(祭壇用の作品、祭壇左側)、クウィンテン・マティス、1507-08年
- 『洗礼者の斬首』、アルブレヒト・デューラー、1510年
- 『ヘロディアの娘』、セバスティアーノ・デル・ピオンボ、1510年
- 『サロメ』、ティルマン・リーメンシュナイダー、1500-1510年
- 『サロメ』、カサーレ・ダ・セスタ、1510-20年
- 『サロメ』、ジアンペトリーノ、1510-30年頃
- 『ヘロデ王に渡される洗礼者聖ヨハネの首』、アルブレヒト・デューラー、1511年
- 『サロメ』、アロンソ・ベルゲーテ(スペイン)、1512年-1516年
- 『洗礼者ヨハネの首を持つサロメ』、ティツィアーノ、1515年頃
- 『洗礼者ヨハネの首』、ハンス・バルドゥング・グリーン(ドイツ)、1516年
- 『洗礼者ヨハネの首を持つサロメ』、ヤーコブ・コーネリス・ヴァン・オーストサネン(オランダ)
- 『ヘロディア』、ベルナルディーノ・ルイーニ(イタリア)、1527-31年
- 『洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ』、ティツィアーノ 、 1530年頃
- 『サロメ』、ルーカス・クラナッハ(父)、1530年
- 『洗礼者ヨハネの斬首』、ヴィンチェンツォ・ダンティ(イタリア)、1569-70年
[編集] 17世紀
- 『洗礼者の首を持つサロメ』、カラヴァッジオ、1605年
- 『洗礼者の斬首』、カラヴァッジオ、1605年
- 『サロメ』、ジョヴァンニ・バティスタ・カラッチオーロ、1615-20年
- 『ヘロデ王の饗宴』、フランツ・フランケン二世、1620年頃
- 『洗礼者聖ヨハネの首を持つヘロディア』、フランチェスコ・デル・カイロ、1625-30年頃
- 『洗礼者ヨハネの斬首』、マテウス・メリアン(父)、1625-30年
- 『聖ヨハネの斬首刑』、作者未詳(英国)、17世紀
- 『ヘロデ王の前で踊るサロメ』、ヤーコブ・ホーゲルス、1630-55年頃
- 『洗礼者聖ヨハネの首を受け取るサロメ』、レオナエルト・ブラーメル(オランダ)、1630年代
- 『洗礼者聖ヨハネの斬首』、マッシモ・スタンツィオーネ(イタリア)、1634年頃
- 『洗礼者ヨハネの首を持つサロメ』、グイド・レーニ、1639-40年
- 『洗礼者ヨハネの斬首』、レンブラント、1640年
- 『洗礼者ヨハネの斬首』、ロンボウト・ヴァン・トロイェン、1650年代
- 『ヘロデ王を非難する聖ヨハネ』、マッティア・プレーティ(イタリア)、1662-66年
- 『ヘロデ王の前の洗礼者聖ヨハネ』、マッティア・プレーティ(イタリア)、1665年
- 『ヨハネの首を持つサロメ』、カルロ・ドルチ、17世紀
- 『聖ヨハネの斬首刑』、作者不詳(英国画派)、17世紀
しかし、17世紀後半からの「科学革命の時代」あるいは「啓蒙の時代」には、画家たちの関心はこのモティーフから急速に離れてゆき、この傾向は、その後およそ200年にわたって続くことになる。
[編集] 19世紀後半以降
19世紀後半から20世紀初頭のいわゆる「世紀末芸術」の中で、サロメは各分野の素材として、再び大きな関心を呼ぶことになる。
[編集] 絵画
絵画作品としては、以下のようなものがある。19世紀に入ると聖書や神話に題材をとる作品は再び増加するが、とりわけギュスターヴ・モロー(後述)の一連の作品は著名である。
- 『洗礼者ヨハネの首』、ユリウス・シュノル・フォン・カロスフェルト(ドイツ)、1851-60年
- 『洗礼者ヨハネの首を受け取るヘロディアの娘』、ギュスターヴ・ドレ、1865年
- 『洗礼者ヨハネの首』、ジャン=バティスト・シャティグニ、1869年
- 『洗礼者ヨハネの斬首』、ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ、1869年頃
- 『サロメ』、アンリ・レグノー(フランス)、1870年
- ギュスターヴ・モロー
モネ、ドガ、ルノワール、セザンヌなど印象派の画家たちと同時代に活躍し、象徴主義絵画の先駆者といわれるG.モローの幻想的な作品は同時代の芸術家たちに多大な影響を与えた。- 『ヘロデの前で踊るサロメ』、1874-76年
- 『出現』、1874-76年
- 『牢獄のサロメ』、1873-76年頃
- 『サロメ』、1876年
- ジェイムス・ティソ:
- 『踊るヘロディアの娘』
- 『ヘロデ王』
- 『皿の上の洗礼者ヨヘネの首』
- 『サロメ』、リュシアン・レヴィ=デュルメル、1896年
- 『サロメ』、フランツ・フォン・シュトゥック、1906年
[編集] 小説
- 『エロディア』
- ギュスターヴ・フロベール作の短編小説。1877年出版の『三つの物語』に収載されている。新約聖書の物語とは全く異なり、洗礼者ヨハネの死は彼の影響力を恐れたヘロディアによるもので、サロメはヨハネの「愛する弟子」であり、母の命でヨハネが処刑されると彼を追って自ら命を絶つという話になっている。ヨセフスの記述をもとに自由な改変をしたと解すべきものである。
[編集] オペラ
[編集] ジュール・マスネ作品
詳細は「エロディア (オペラ)」を参照
ジュール・マスネが上記のフロベール作の小説を元に、1881年に作曲したオペラ。台本は、ポール・ミレー、グレモン、ザマディーニの共作である。
[編集] ワイルドによる戯曲化
詳細は「サロメ (戯曲)」を参照
こうした傾向を一段と顕著にさせたのが、オスカー・ワイルドによる戯曲『サロメ』(1893年)である。これはフランス語で執筆され、1896年にパリで初演された。
1894年出版の英語版は、アルフレッド・ブルース・ダグラスの翻訳とされ、オーブリー・ビアズリーの挿絵が添えられている。
「サロメ」を全体の主人公として前面に出し、洗礼者ヨハネに強く魅せられたサロメがその誘惑を拒絶するヨハネに対して、ヘロデの要望で「7枚のヴェールの踊り」を舞った代償としてヨハネの首を求める。最終場面では、その首にサロメが口づけする衝撃的場面があり、その上演はスキャンダルとなった。
一晩の演目としてはいささか短すぎる作品ではあるが、現在でも日本を含む各国で上演されている。
[編集] ワイルド以後
ワイルドの戯曲化と20世紀における映画などの新しい分野の開拓で、サロメはいろいろな芸術作品で素材として扱われるようになった。主なものを以下に挙げる。詳細についてはそれぞれの項目を参照のこと。
[編集] 文学
[編集] 小説
- Skinny Legs and All
- 現代的な少女「サロメ」が実質的な主人公である、いささか奇人とも言われるアメリカの作家トム・ロビンスの第五作となる小説(1990年)。その主な筋は、マンハッタンにある国連の建物の向かいに、ユダヤ人とアラブ人の二人がレストランを開くというもの。セクシャルな魅力を持つサロメがレストラン内のクラブで踊ることになる。[10]
- 『サロメの乳母の話』
- 塩野七生の短編小説。サロメを幼児期から見てきた乳母が「事件」の後にサロメについて語る。同様な趣向の作品をまとめて、短編集『サロメの乳母の話』(中央公論社、1983年)として出版した。[11]
[編集] 詩
- 『サロメ』、イギリスの現代詩人キャロル・アン・デュフィの詩集『世界の妻』(1999年)に収載。聖書の物語の現代化作品。
- 『イムラム』、イギリスの現代詩人ポール・マルドゥーンの叙事詩(1980年)で、サロメを語っている。
[編集] オペラ
[編集] リヒャルト・シュトラウス作品
詳細は「サロメ (オペラ)」を参照
リヒャルト・シュトラウスが、ワイルドの戯曲のヘドヴィッヒ・ラハマンによるドイツ語訳をほぼそのまま台本にして、一幕のオペラを作曲した。1905年にドレスデンで行われた初演は大成功し、シュトラウスはこの作品でオペラにおいても高く評価されることになった。 現在でも、『ばらの騎士』と並ぶ人気作で各地で上演されており、ドイツ語圏の主要な歌劇場では多くがレパートリーにしている。
[編集] バレエ音楽
ワイルドが導入した「7枚のヴェールの踊り」と、上記のシュトラウスによるオペラの成功を受けてバレエ作品化が行われている。主なものを以下に示す。
[編集] フローラン・シュミット作品
詳細は「サロメの悲劇 (バレエ音楽)」を参照
マスネの弟子であったフローラン・シュミットが『サロメの悲劇』というバレエ音楽を1907年に作曲している。この作品は1時間ほどの作品で20人ほどの小規模なオーケストラ向けのものである。
シュミットは後にこの作品を素に、30分ほどの同題の交響詩を作曲した。この交響詩は現在も頻繁に演奏され、多数のレコード・CD録音がある。
[編集] 伊福部昭作品
詳細は「サロメ (バレエ音楽)」を参照
舞踊音楽『サロメ』は1948年に伊福部昭が貝谷バレエ団創立10周年記念として作曲したバレエ作品であり1987年に演奏会用の曲として手が加えられた。
[編集] ペーター・ディヴィーズ作品
詳細は「サロメ (1978年のバレエ音楽)」を参照
『サロメ』はオランダの振付師フレミング・フリント(Flemming Flindt)が企画したバレエ作品。作曲はペーター・ディヴィーズ(Peter Maxwell Davies)で、1978年にコペンハーゲンで初演された。この公演はオランダ国営放送が収録して、テレビ放映されている。
[編集] ポピュラー音楽等
- No Matter How You Slice It, It's Still Salome は、ミュージカル『DuBarry was a Lady』の映画版(1943年)で追加された曲。ロジャー・エデンスが作り、ヴァージニア・オブライエンが歌っている。
- サロメ は、チェコのシンガー・ソングライターカーレル・クリール(Karel Kryl)の作品。
- サロメ は、イギリスのロックバンドハウス・オブ・ラヴの作品で、彼らのデビュー・アルバム『The House of Love』(1988年)に収録されている。
- サロメ (Zooromancer edit) は、U2の作品。作詞:ボノ、作曲:U2。CDシングル 『Who's gonna ride your wild horses』(1992年)に収録されている。8分を超える大作。
- サロメ は、アメリカのカントリー・ソンググループOld 97'sの作品で、アルバム 『Too Far to Care 』(1997年)に収録され、映画『The Break Up』(2006年)でライヴ演奏が行われている。
- サロメ は、アメリカの音楽家・作曲家・女優であるリリー・ハイドンの作品。彼女のデビューアルバム『リリー』(1997年)に収録。
- サロメ は、映画『The Governess』(1998年)のオリジナル・サウンドトラック盤に収められている曲。エドワード・シェアムール(Edward Shearmur)作曲作品。
- サロメ-7枚目のヴェール は、ドイツのグループキサンドリア(Xandria)のアルバム(2007年)。サロメと題する曲を収録。
また、歌詞に「サロメ」が登場する曲には次のようなものがある。
- Vigilantes of Love:1990年代に活動したアメリカのロック・グループ
- ゲイリー・ジュールス:アメリカのシンガー・ソングライター
- "Pills" この曲は彼のアルバム『Trading snakeoil for wolftickets』(2002年)に収められ、映画『Catch and Release』のサウンドトラック盤(2007年)にも収められている。
[編集] 映画
映画が発明されると、サロメは格好の題材とされた。多くはワイルドの戯曲を元にしているが、関連作品は現在までに50作品以上になる。[12]
主なものを以下に列挙する。
- 『サロメ (1910年の映画)』
- 『サロメ (1918年の映画)』
テーダ・バーラ主演。この作品は「原作:フラウィウス・ヨセフス」としている。 - 『サロメ (1923年の映画)』
アラ・ナジモヴァ主演 - 『サンセット大通り』
ビリー・ワイルダー監督作品(1950年)。筋とは無関係だが、主人公ノーマ・エズモンドが女優復帰用に自ら執筆した脚本が「サロメ」の改作ものである。 - 『サロメ (1953年の映画)』
邦題は『情炎の女サロメ』、リタ・ヘイワース主演 - 『サロメの季節』 は、クリストファー・フランク監督による映画(1984年)。ワイルド作品をもとに、南フランスのコート・ダジュールで18歳の少女が男を翻弄するひと夏を描いたもの。
- 『サロメ (ケン・ラッセル作品)』
ケン・ラッセル監督(1988年)、原題は"Salome's Last Dance"。ワイルドやアルフレッド・ダグラス等が登場し、映画内で「サロメ劇」を上演する。 - 『サロメ (2002年の映画)』
カルロス・サウラ監督作品。フラメンコダンスを使っている
[編集] アニメーション作品
- 『低地のサロメ』
クリスティアン・ツァグラー作の短編。シュトラウスによるオペラの音楽を使用している。
[編集] 脚注
- ^ この部分の記述は新約聖書学でほぼ定説となっている二資料仮説を前提としている
- ^ 「マルコによる福音書」(15:40)で、イエスの十字架刑の目撃者の一人として記される「サロメ」は全くの別人。(彼女については、サロメ (イエスの弟子)を参照のこと)。
- ^ 聖書からの引用は、岩波版(佐藤研訳)により、〔 〕内は原文にない訳者の補足である。但し、部分引用であることなどから一部に引用者による改変がある。また最新版では「バプティスマ」に「浸礼」の訳語をあてているが煩雑さを避けるため、ここでは初期の「洗礼」を使用した
- ^ ここでも多くを訳者による原注によっている
- ^ 現代では著者不明とされる福音書記者を便宜的に伝統の名前で呼ぶ。マタイ、ルカも同様
- ^ 洗礼者ヨハネを師と仰ぐ「ヨハネ教団」は1世紀末まで存続しており、福音書が書かれた時期(1世紀の後半)には原始キリスト教会と対立関係にあったことに由来する。なお、マタイにもそれは顕著である
- ^ 訳文は執筆者による試訳。さしあたって、W. Whiston translation at Project Gutenberg に依ったが、不適切な加筆には変更がある。
- ^ ヘロデ大王には解っているだけで10人の妻がいて、少なくとも息子が10人、娘が5人いる。その中には同名の者も多く、文献により多少の違いが見られる。
- ^ 列挙に当たっては英語版Wikipediaの対応項目を参考にした。
- ^ 初版本:ハードカヴァー ISBN 0553057758 、ペーパーバック ISBN 0553289691 いずれも Bantam Books
- ^ 現在入手できるのは、新潮文庫版。2003年 ISBN 410118111X
- ^ IMDBのリストによる。但し、これらの中にはシュトラウスのオペラの映像作品など狭義の「映画」とはいえないものも含まれている。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 『新約聖書』

