孟春 (砲艦)
孟春 | |
---|---|
基本情報 | |
建造所 | イギリス、ロンドン[2] |
運用者 |
佐賀藩[2] 大日本帝国海軍[3](兵部省[4]、海軍省) |
艦種 | 砲艦[2] |
建造費 | 購入金額:88,500 両[2] |
母港 | 横須賀(1886年12月28日時点)[5] |
艦歴 | |
竣工 | 1867年1月(慶応2年12月頃)製造[6] |
就役 |
慶応4年1月(1868年2月頃)、佐賀藩が購入[2] 明治4年5月22日(1871年7月9日)、兵部省受領[7] |
除籍 | 1887年(明治20年)10月8日[8] |
その後 |
逓信省へ移管[8] 1896年(明治29年)7月、廃船[9] |
要目 | |
排水量 | 357 英トン[8][10] |
トン数 | 305 トン[6] |
長さ | 22 間 3 尺 6 寸[11] (41.09 m) |
全長 | 142 尺 5 寸[12] (43.18 m) |
幅 |
3 間 4 尺 8 寸[11](6.91m) 甲板幅:21尺2寸[12] (6.42 m) |
深さ | 10 尺 3 寸[6] (3.12 m) |
吃水 |
8 尺[6] (2.42m) または7フィート7インチ (2.31 m)[10] |
主缶 | 角缶×2基[13] |
主機 | 2気筒直動機械[6]×2基[14] |
出力 | または120馬力 (89 kW)[2]、100名馬力[6] |
推進器 | 2翼普通型青銅製スクリュー[15]×2軸[注釈 1] |
帆装 | 3檣トップスル・スクーナー[2] |
速力 |
14.2ノット (26.3 km/h)[10] か14.1ノット (26.1 km/h)[4] または 12ノット (22 km/h)[2] あるいは 8.0ノット (14.8 km/h)[13] |
燃料 | 炭団:98,000 斤[6][13] |
航続距離 | 燃料消費:15,000斤/日[6] |
乗員 | |
兵装 |
|
その他 |
船材:鉄骨木皮[8] 信号符字:GQBR(1886年-)[22] |
孟春(もうしゅん / 旧仮名:まうしゆん[9])は日本海軍(兵部省[4]、海軍省)の軍艦[3]。元佐賀藩の軍艦「孟春丸」[9]。
「孟」は訓読みで「はじめ」となり、孟春は春の初め、つまり旧暦の正月(1月)を意味する[8]。
概要
[編集]元佐賀藩の軍艦で佐賀藩時に戊辰戦争に参加[2]、日本海軍では台湾出兵、西南戦争などに参加し、京城事変では朝鮮警備に就くなど[9]、明治初期に日本海軍の軍艦として非常に活躍した[23]。日本海軍での正式名称は「孟春艦」[3]。
艦型
[編集]3檣トップスル・スクーナー型で鉄骨木皮の砲艦[2]。右表の船体の主要寸法は主に明治4年『記録材料・海軍省報告書第一』[6]、明治元年[11] と明治7年の『公文類纂』[12] によった。他の文献での主要寸法は以下の通り。
- 『佐賀藩海軍史』:長さ22間半余り(40.91m強)、幅3間半余り(6.36m強)[2]
- 『帝国海軍機関史』:長さ132 ft (40.23 m)、幅22 ft (6.71 m)[15]
- 『日本近世造船史 明治時代』:長さ131 ft (39.93 m)、幅22 ft (6.71 m)、吃水7 ft 7 in (2.31 m)[10]
- 『日本海軍艦船名考』:長さ131尺 (39.70m)、幅22尺 (6.67m)[8]
- 『日本海軍史』第7巻:長さ44.5m、幅6.6m、吃水2.5m[24]
- 『日本軍艦史』(1995年):長さ39.9m、幅6.6m、吃水2.2m[25]
機関
[編集]主機は直動機関2基[14]。なお斜動機関とする文献もあるが[13]、『幕末の蒸気船物語』32頁によると斜動機関(ダイアゴナル型またはイングランド型)は外輪用の機関形式になる[26](孟春はスクリュープロペラ[13])。2気筒でシリンダーの直径25 in (640 mm)、ピストンの行程は18 in (460 mm)[15]。注射復水器を装備した[15]。
ボイラーは角缶2基[13]。鉄製で大きさは径6 ft 8 in (2.03 m)、長さ15 ft 7 in (4.75 m)。1基につき炉筒はそれぞれ2基、缶管は直径3 in (76.2 mm)で長さ6 ft 12 in (2.13 m)の鉄管が100本、総受熱面積1,205.6ft2、総火床面積57.26 ft2[15]。1878年(明治11年)にボイラーが交換された[27]。
出力は右表の通りに色々な値が出ており191実馬力[15]、120馬力[2]、100名馬力[6] などの値がある。速力も同様に、14.2ノット[10] から7ノット[25] までの値がある。
兵装
[編集]兵装については『公文類纂』によると1874年(明治7年)時にはアームストロング砲を4門搭載していた(右要目表参照)[21]。その他の文献では以下の記載がある。
- 『佐賀藩海軍史』:英式70ポンド・アームストロング前装旋回砲2門、同6ポンド砲2門の計4門[2]
- 『帝国海軍機関史』:70ポンド・アームストロング砲1門(艦首)、同40ポンド砲1門(艦尾)、同20ポンド砲1門(舷側)の計3門[14]
- 『近世帝国海軍史要』:12cm砲2門[3]
- 『日本軍艦史』(1995):2 cmクルップ砲2門[25]
艦歴
[編集]※日付は明治5年まで旧暦
佐賀藩
[編集]元は1867年1月(慶応2年12月頃)にロンドンで建造された原名「ヨーゼニー[14]」(Eugenie)[9]。慶応4年1月(1868年2月頃)、長崎で佐賀藩が購入し[2]「孟春丸」と命名された[9]。
戊辰戦争では、慶応4年2月18日に関東御征伐海軍先鋒として三重津を出港、2月22日に神戸に到着した[28]。2月30日に大原重徳が海軍先鋒総督に任命され、「孟春丸」と「豊瑞丸」(薩摩藩籍)、「雄飛丸」(久留米藩籍)が日本で初めて艦隊行動を行い、大坂から横浜まで兵員の輸送を行っている[23]。「孟春丸」は3月19日に兵庫を発し、3月23日に横浜港へ到着した[28]。閏4月19日品海へ回航した[28]。函館へ移動した榎本艦隊を追い[23]、閏4月25日に横浜港を出港し奥州へ進出した[28]。
明治2年(1869年)、陸奥国鍬ヶ崎(現岩手県宮古市鍬ヶ崎)付近で海嘯のため座礁[29]。または明治元年6月に鮫浦で荒天のため座礁[30]。
船体は明治3年(1870年)に引き下ろされ[注釈 2]、同年11月に品海に到着した[31]。
日本海軍
[編集]明治4年(1871年)4月17日に佐賀藩から新政府へ「孟春丸」献納の申し出があり[32]、5月15日に許可となり[33]、5月22日に受領された[7]。兵部省所管となり艦名は「孟春(艦)」となった[9]。11月15日(12月26日)六等艦に定められた[9]。
明治5年(1872年)5月18日の時点で中艦隊に所属[34]、5月23日、「鳳翔」「雲揚」「孟春」は品川を出港し[35]、7月11日に帰着した[35]。8月17日、中艦隊から除かれた[34][36]。9月5日、石川島で修理するために造船局の管轄となり[37]、入渠した[27]。
1873年(明治6年)1月16日、陸揚げの届が出された[27]。2月2日、「孟春」は主船寮所轄から提督府所轄になったが[38]、3月13日に主船寮所轄に戻された[39]。12月に修理が完了し[27]、12月13日、中艦隊に編入された[34][40]。
1874年(明治7年)2月23日に試運転が行われた[27]。台湾出兵に「日進」「雲揚」とともに参加、4月7日(または4月6日[41])に出兵命令が出て[42]、4月10日(または4月9日[43])品川を出港した[44]。その後、清国の諸港を巡り、揚子江に入った[41]。11月10日に長崎港に帰着し[44]、11月29日に品川へ帰港した[43]。
江華島事件が起き釜山へ進出するため[23]、1875年(明治8年)10月18日、「孟春」と「第二丁卯」は中牟田倉之助少将を指揮官として、居留民保護のために釜山回航を命じられ[45]、「孟春」は10月19日(または10月20日[45])に横浜港を出港した[44]。10月28日、中艦隊は解隊、日本周辺を東部と西部に分け、東部指揮官には中牟田倉之助少将、西部指揮官には伊東祐麿少将が任命され[45]、「日進」「春日」「浅間」「第二丁卯」「孟春」「千代田形」「肇敏丸」「快風丸」は西部指揮官所轄となった[45]。また「孟春」は11月9日に艦隊から除かれた[注釈 3]。12月11日、「孟春」は釜山派遣から長崎港に帰着した[46]。12月15日、黒田清隆が「玄武丸」に乗組み朝鮮へ出張するため、「日進」「孟春」「高雄丸」が釜山までの護衛を命令された[46]。「孟春」は翌1876年(明治9年)1月8日に長崎を出港し[46]、3月15日に横浜港に帰港した[44][47]。
1876年(明治9年)3月15日、ボイラーと機械の修理の申し出があった[27]。10月には缶管65本が損傷のため返納との届出が出ている[27]。10月28日、萩の乱を鎮圧するために(横浜港を[48])出港[44]、12月11日、「孟春」は「春日」と共に横浜港に帰港した[44][49]。
1877年(明治10年)1月24日、行幸出発に際し、「東」「鳳翔」「孟春」「千代田形」の4隻で小艦隊を編成して金田湾まで見送り、帰途は蒸気機関運転での艦隊運動訓練を行った[50]。
西南戦争では日奈久攻略に参加した[9]。2月8日、西南方面が不穏のため、「鳳翔」と「孟春」の2隻に回航命令が出され、翌日に2隻は横浜港を出港、神戸港に向かった[44][51]、2月18日午後8時、「孟春」は神戸港を出港し下関へ向かった[51]。 4月7日、西郷軍の扇動者5名を逮捕する[52]。6月29日、大分県浦大島で座礁[52]。9月には城山の戦いに参加した[53]。 10月29日、横浜港に帰港した[44]。
1878年(明治11年)4月15日(または4月14日[27])、横須賀に回航。翌日から6カ月余り横須賀造船所で修理(ボイラー交換[27])を行った[54]。9月頃に試運転を行った[27]。11月2日、横浜に回航。11月5日、更に品川に回航した[54]。11月29日、横須賀に回航。12月1日、兵庫へ向け出港したが、暴風のために当日は金田湾に避泊した[54]。12月5日、兵庫港着[54]。伊藤司令長官が三原へ巡見のために12月10日兵庫出港、瀬戸内海の多度津、三原糸崎、竹原湾、御手洗を巡り、12月16日兵庫に戻った[54]。12月21日兵庫を出港、暴風のために由良湾、的矢、御前埼灯台、清水港に避泊し、12月29日横浜に帰港した[54]。
測量艦
[編集]1879年(明治12年)から1882年(明治15年)の間、「孟春」は測量任務に従事した[9]。1879年3月27日、山陰、北陸沿海の測量中は水路局所轄とされた[55]。
1880年(明治13年)2月3日、品川から横浜に回航[56]。4月26日、品川に戻った[56]。6月26日に品川発、横須賀港で富士山から的を借用し、同日館山湾に到着した[56]。館山湾で射撃訓練を行う[57]。7月3日、館山湾から網代へ回航した[57]。網代から真鶴岬まで戦闘訓練、7月9日に金田湾へ回航、翌日横浜港に帰港した[57]。10月27日、横須賀港に回航し海軍卿・榎本武揚が乗艦、横浜で下艦した[57]。
1881年(明治14年)2月1日、横須賀に回航[57]。2月15日から横須賀造船所で修理を行った[58]。4月9日、品川に回航[57]。4月13日、横須賀に回航された[57]。1882年9月5日に修理が完了した[59]。
朝鮮派遣
[編集]1882年(明治15年)、朝鮮事変により朝鮮半島方面で警備に就いた[9]。8月28日、品川を出港して朝鮮へ向かい[44][60]、8月31日に兵庫港へ入港し、翌日出港[60]。下関を経て9月6日に朝鮮溝竹島に到着した[60]。9月7日、溝竹島を発ち[60]、ヘルソールス列島をへて9月9日に仁川港に到着した[60]。9月11日、南陽湾から豊浦に回航、翌日に仁川に戻った[60]。9月20日、駐朝鮮公使・花房義質を乗せて出港、南陽湾に到着した[60]。9月21日、南陽湾発、花房公使は「明治丸」に移乗し、「孟春」は仁川港に戻った[60]。9月28日、豊浦に回航した[60]。10月2日に豊浦発、10月4日に釜山浦に到着した[60]。11月27日に釜山を発ち[60]、各地に寄港して[60]12月11日に横浜港に帰港した[44][60]。
朝鮮派遣中の10月12日「扶桑」「金剛」「比叡」「龍驤」「日進」「清輝」「天城」「磐城」「孟春」「第二丁卯」「筑波」の11隻で中艦隊が再度編成された[61]。
1883年(明治16年)2月16日から3月26日まで横須賀造船所で修理を行った[62]。 3月21日、再度の朝鮮警備のため横浜港を出港[44]、的矢を経由し3月25日兵庫港に入港した[63]。4月4日に兵庫発、伊予興居島、豊後姫島、門司を経由し、4月17日釜山浦に到着した[63]。4月21日釜山浦から竹敷に回航、翌日に竹敷発、4月25日豊島に一時碇泊し、同日仁川に到着した[63]。6月10日仁川発、三島を経て、6月14日長崎に帰国した[63]。
7月3日、長崎を出港し門司に寄港、7月8日釜山浦に到着した[63]。7月12日釜山浦発、7月14日仁川に到着した[63]。8月1日仁川発、八尾島、南陽を経て仁川湾に戻った[63]。8月14日仁川発、豊島を経て、8月17日三島に到着した[63]。8月26日三島発、翌27日に長崎に帰国した[63][注釈 4]。9月15日長崎発、大村、呼子、門司、上ノ関、三原、兵庫、紀伊大島、清水を経由し10月15日品川に帰着した[63]。
1884年(明治17年)、朝鮮警備のため5月5日横浜港を出港[44]、10月14日長崎港に帰港した[44]。
1885年(明治18年)、朝鮮方面の航海のために8月13日厳原を出港[44]、10月5日仁位(現長崎県対馬市豊玉町仁位)に帰港した[44]。
同年(1885年)12月28日中艦隊は解隊[64]、同日「春日」を除く中艦隊に所属していた8隻(「扶桑」「金剛」「比叡」「海門」「筑紫」「清輝」「磐城」「孟春」)で改めて常備小艦隊が編成された[64]。
1886年(明治19年)、朝鮮警備のため9月2日竹敷を出港[44]、12月20日長崎港に帰港した[44]。 12月28日「孟春」は常備小艦隊から除かれて、横須賀鎮守府所轄予備艦に指定された[5]。
除籍
[編集]1887年(明治20年)10月8日に除籍され[注釈 5]、逓信省へ交付[8]、商船学校係留練習船「孟春号」となった[9]。1896年(明治29年)7月に廃船とされ、神奈川県港務部へ移管、検疫番船「孟春号」とされた[9]。
艦長
[編集]- 佐賀藩
- 日本海軍
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
- (代理)瀧野直俊二等士官:明治4年(1871年)5月 - 明治5年(1872年)3月9日
- 瀧野直俊少佐:明治5年(1872年)4月16日 - 同7月24日[35]
- 増田広豊大尉:明治5年(1872年)7月24日[35] - 同8月18日[36]
- 磯辺包義大尉:1873年10月28日[40] - 1875年4月14日
- 笠間広盾大尉:1875年5月15日[65] - 1878年5月11日[66]
- (艦務代理)原田元信大尉(副長):1876年12月16日 - (艦長笠間広盾少佐謹慎中)[49]
- 大村松次郎少佐:1878年5月11日[66] -
- 伊地知弘一少佐:1880年1月 - 1884年1月21日
- 野村貞少佐:1884年1月21日 - 1884年2月21日
- 原田元信少佐:1884年2月21日 - 1885年7月2日
- 高木安行少佐:1885年7月2日 - 1886年4月12日
- (心得)飯田信臣大尉:1886年4月12日 - 1886年6月23日[67]
- 吉田重親少佐:1886年6月23日[67] -
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 回転毎分:110rpm[15]
直径:7 ft 2 in (2.18 m)
ピッチ:11 ft 10 in (3.61 m)[15]
または回転毎分:117rpm[13]
直径:5 ft 6 in (1.68 m)
ピッチ:9 ft 2 in (2.79 m)[13] - ^ 佐賀藩海軍史 1972, p. 256によると「明治5年頃」に引き下ろし。
- ^ 海軍制度沿革4-1 1971, p. 7、明治8年10月28日、11月9日による。除かれたのが解隊の後と矛盾があるがそのまま。
- ^ #S9.12.31恩給叙勲年加算調査(下)/軍艦(4)画像1-2(孟春)によると、8月17日長崎港に帰港
- ^ 造船史明治 1973, p. 444によるとこの時に廃船。
出典
[編集]- ^ 福井 1994, p. 490.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 佐賀藩海軍史 1972, p. 256.
- ^ a b c d 近世帝国海軍史要 1974, p. 884.
- ^ a b c 造船史明治 1973, p. 189.
- ^ a b #M19公文類聚15/大和艦外四艦々隊編入及所轄ヲ定ム。#M19公文類聚15/大和葛城は常備小艦隊、天城孟春は横須賀鎮守府
- ^ a b c d e f g h i j k #M1-M9海軍省報告書画像23-24、明治四年辛未艦船総数表
- ^ a b #M4公文類纂26/孟春丸献納の件画像15
- ^ a b c d e f g h 浅井 1928, pp. 28–29.
- ^ a b c d e f g h i j k l m 中川努「主要艦艇艦歴表」#日本海軍全艦艇史資料篇p.10、孟春『もうしゅん・まうしゅん』
- ^ a b c d e 造船史明治 1973, p. 128.
- ^ a b c #M1公文類纂/蒸気軍艦届(2)画像32
- ^ a b c #M7公文類纂13/管轄(2)画像22
- ^ a b c d e f g h 機関史 1975別冊表1
- ^ a b c d 機関史 1975上巻p.466
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- ^ 機関史 1975上巻p.466
- ^ 海軍制度沿革10-1 1972, pp. 153–155.
- ^ #M7公文類纂13/管轄(1)画像46
- ^ #M7公文類纂13/管轄(2)画像35
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- ^ a b c d 片桐 2014, pp. 207–208、孟春(もうしゅん)
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- ^ a b c 日本軍艦史 1995, p. 12.
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- ^ a b c d e 佐賀藩海軍史 1972, pp. 256–257.
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- ^ a b 『官報』第895号、明治19年6月26日。
参考文献
[編集]- アジア歴史資料センター(公式)
- 国立公文書館
- 「記録材料・海軍省報告書第一」、JACAR:A07062089000。 明治元年から明治9年6月。
- 「記録材料・海軍省報告書/第一 沿革」、JACAR:A07062089300。 明治9年7月から明治10年6月。
- 「記録材料・海軍省報告書」、JACAR:A07062091300。 明治10年7月から明治11年6月。
- 「記録材料・海軍省報告書」、JACAR:A07062091500。 明治11年7月から明治12年6月。
- 「記録材料・海軍省報告書」、JACAR:A07062091700。 明治12年7月から明治13年6月。
- 「記録材料・海軍省報告書」、JACAR:A07062091900。 明治13年7月から明治14年6月。
- 「記録材料・海軍省報告書」、JACAR:A07062092300。 明治15年7月から12月。
- 「記録材料・海軍省報告書」、JACAR:A07062092500。 明治16年1月から12月。
- 「大和艦外四艦々隊編入及所轄ヲ定ム」『公文類聚・第十編・明治十九年・第十五巻・兵制四・庁衙及兵営・兵器馬匹及艦船』、JACAR:A15111159500。
- 「横須賀鎮守府所轄大和艦葛城艦ハ常備小艦隊ニ常備小艦隊所轄天城艦孟春艦ハ横須賀鎮守府所轄ニ定ム」『公文類聚・第十編・明治十九年・第十五巻・兵制四・庁衙及兵営・兵器馬匹及艦船』、JACAR:A15111159700。
- 「公文類聚・第十編・明治十九年・第三十三巻・運輸三・船舶車輌・津港・河渠・橋道:逓信省海軍艦船及西洋形商船ニ信号符字ヲ点付ス・其二」、JACAR:A15111235500。
- 外務省外交史料館
- 「台湾征討関係一件/外交史料 台湾征討事件 第一巻:台湾征討事件/20 二〇 出兵命令」、JACAR:B03030114600。
- 防衛省防衛研究所
- 「明治元年 公文類纂 完 本省公文/蒸気軍艦届 自5月 至12月 諸藩より所有艦船を届け出るもの(2)」、JACAR:C09090001100。
- 「公文類纂 明治3年 巻9 本省公文 艦船部/諸届 12月 孟春艦品海へ回着の義佐賀藩より届」、JACAR:C09090118900。
- 「公文類纂 明治4年 巻26 本省公文 艦船部/民部工部大藏省往復 孟春丸献納の件佐賀藩願」、JACAR:C09090401700。
- 「公文類纂 明治5年 巻24 本省公文 艦船部1/5号送達大日記 軍務局達 孟春艦修復中管轄相成度件」、JACAR:C09110629300。
- 「公文類纂 明治7年 巻13 本省公文 艦船部1/管轄(1)」、JACAR:C09112101900。
- 「公文類纂 明治7年 巻13 本省公文 艦船部1/管轄(2)」、JACAR:C09112102000。
- 「恩給叙勲年加算調査 下巻 除籍艦艇 船舶及特務艇 昭和9年12月31日/除籍艦艇/軍艦(4)」、JACAR:C14010005800。
- 浅井将秀/編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻四の1』 明治百年史叢書 第175巻、原書房、1971年11月(原著1939年)。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。
- 海軍有終会/編『近世帝国海軍史要(増補)』 明治百年史叢書 第227巻、原書房、1974年4月(原著1938年)。
- 海軍歴史保存会(編)『日本海軍史 第1巻 通史第一・二編』海軍歴史保存会、1995年
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』(光人社、1993年) ISBN 4-7698-0386-9
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝<普及版> 全八六〇余隻の栄光と悲劇』潮書房光人社、2014年4月(原著1993年)。ISBN 978-4-7698-1565-5。
- 『日本軍艦史』 世界の艦船 1995年8月号増刊 第500集(増刊第44集)、海人社、1995年8月。ISBN 4-905551-55-2。
- 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。
- 造船協会/編『日本近世造船史 明治時代』 明治百年史叢書 第205巻、原書房、1973年(原著1911年)。
- 秀島成忠/編『佐賀藩海軍史』 明治百年史叢書 第157巻、原書房、1972年12月(原著1917年)。
- 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1。
- 宮田幸太郎『佐賀藩戊辰戦史』佐賀藩戊辰戦史刊行会、1976年
- 元綱数道『幕末の蒸気船物語』成山堂書店、2004年4月。ISBN 4-425-30251-6。
- 『官報』