中牟田倉之助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
中牟田 倉之助
Kuranosuke Nakamuta.jpg
生誕 1837年3月30日
死没 (1916-03-30) 1916年3月30日(満79歳没)
所属組織 大日本帝国海軍の旗 大日本帝国海軍
最終階級 海軍軍令部長
テンプレートを表示

中牟田 倉之助(なかむた くらのすけ、天保8年2月24日1837年3月30日) - 大正5年(1916年3月30日)は、日本の海軍軍人。海軍大学校長、枢密顧問官子爵。幼名は武臣金丸孫七郎の次男だったが、中牟田家の養子となる。

経歴[編集]

佐賀藩主・鍋島直正の推薦で安政3年(1856年)、20歳で長崎海軍伝習所へ入所し、卒業後には三重津海軍所で佐賀藩海軍方助役を務めて海軍力の発展を促す。

慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発すると奥州方面へ出陣し、北越戦争に参戦して旧幕府軍を追討。明治2年(1869年)3月に新政府軍艦「朝陽丸」の艦長に任命されると、4月には品川沖を出航して蝦夷地での箱館戦争に参戦した。しかし箱館総攻撃の5月11日、旧幕府軍艦「蟠龍丸」の砲弾が「朝陽丸」の火薬庫を直撃し大爆発を起こす。中牟田は奇跡的にも英国船「パール号」に救助されて一命を取り留めたが重傷で、副艦長夏秋又之助以下50人余りの乗組員を失った。同年秋(明治2年10月)、慶應義塾に入り英学を学ぶ[1]

戊辰戦争時の勲功により明治3年(1870年)に海軍中佐、明治5年(1872年)には海軍大佐に昇進。海軍兵学寮校長を合計5年間務め、草創時の海軍兵学校教育にあたる。この時期の生徒が山本権兵衛上村彦之丞らである。明治10年(1877年)の西南戦争でも勲功があったため海軍中将に昇進。後、海軍大学校長や枢密顧問官も務める。1905年(明治38年)10月19日に退役した[2]

日清戦争直前、海軍軍令部長を務めていたが、北洋艦隊の戦力を高く評価し、徹底した非戦派であった。そのため、開戦派であった山本権兵衛軍令部長を解任され、樺山資紀と交代させられた。この出来事は、草創期の海軍にあって二大勢力であった佐賀藩出身者の薩摩藩出身者への敗北であったといわれる[3]。なお中牟田の開戦に対する慎重な態度を評価し、対米開戦に反対したのが佐賀海軍の後輩、百武源吾である[4]

大正5年(1916年)死去。享年80。

栄典[編集]

親族[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 明治2年10月14日付。『慶應義塾入社帳 第1巻』福澤諭吉研究センター(編)、慶應義塾、1986年、283頁
  2. ^ 『官報』第6694号、明治38年10月20日。
  3. ^ 『海軍兵学校物語』p.23
  4. ^ 『異色の提督 百武源吾』pp.125-126
  5. ^ 甲1番大日記 式部寮達 中牟田少将外1名叙位の件』 アジア歴史資料センター Ref.C09111306400 
  6. ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
  7. ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
  8. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  9. ^ 『官報』第1651号、大正7年2月5日。

参考文献[編集]

  • 丸山信編『人物書誌大系 30 福沢諭吉門下』日外アソシエーツ、1995年3月、ISBN 4816912843
  • 慶應義塾出身名流列伝』 三田商業研究会編、実業之世界社、1909年(明治42年)6月。近代デジタルライブラリー
  • 石井稔編著 『異色の提督 百武源吾』 異色の提督百武源吾刊行会、1979年
  • 鎌田芳朗 『海軍兵学校物語』 原書房、1979年
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』東京大学出版会
先代:
井上良馨
海軍軍令部長
第5代:1892 - 1894
次代:
樺山資紀