明治丸

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明治丸
満船飾を綴る明治丸
基本情報
船種 鉄製汽船
船級 ロイド船級協会
経歴
発注 1873年
進水 1874年9月26日
竣工 1874年11月24日
就航 1875年
除籍 1954年3月
その後 作業場として使用、後に修復され東京都江東区越中島2丁目1-6、東京海洋大学越中島キャンパスにて公開
要目
排水量 1027.57トン
全長 68.6m
全幅 9.1m
機関方式 レシプロ機関
出力 1530馬力
速力 11.5ノット
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明治丸(めいじまる)は、日本船舶灯台巡視船として日本政府イギリスに発注し、天皇の乗る御召し船練習船としても使用された。国の重要文化財に指定されている。

歴史[編集]

明治初頭、洋式灯台の建設に伴って、その測量やメンテナンスのために灯台巡視船が日本にも登場した。灯台の増加により新鋭船が必要となったため、日本政府はイギリスグラスゴーにあるネピア造船所に本船を発注した[1]。本船は1874年9月26日進水し、同年11月24日に竣工している[2]。「明治丸」と命名された本船は、翌1875年2月20日横浜港に到着し、灯台巡視船の任に就いた[要出典]

「明治丸」は、当時の日本国内における最優秀船であった[3]ため、通常の灯台見回り業務の他にも様々な活動を行い、日本の近現代史に業績を残している。

明治8年、「明治丸」は小笠原諸島へ派遣された。 小笠原諸島は江戸時代に回収が行われ、八丈島からの入植も行われたが、その後日本人は撤収していた[4]。様々な問題を抱えていた明治政府もしばらく小笠原問題には手を出せなかったが、明治8年10月になって小笠原へ外務省の田辺太一ら委員10名を派遣することとなり、「明治丸」が派遣船に選ばれた[5]。委員を乗せた「明治丸」は明治8年11月21日に父島へ向かい、11月24日に父島二見湾に到着[6]。再回収は問題なくなされ、「明治丸」は12月12日に父島を離れて12月16日に横浜に帰還した[7]

また、御召し船としても用いられており、特に、1876年には明治天皇北海道東北地方への巡幸に供され、7月20日に横浜に無事帰港した事を記念して1941年にこの日が『海の記念日』(現在の海の日)に制定された[8]1875年3月5日の、軍艦清輝」の進水式の際にも明治天皇は乗船している[要出典]。また1879年琉球処分の際には尚泰を乗せて東京まで航海し、1887年には横尾東作東京府知事高崎五六らによる硫黄列島への探検航海に用いられるなどした[要出典]

1910年代、台風で岸に打ち寄せられた明治丸

その後、海軍省から譲渡された「新発電丸」が後任に就くと、「明治丸」は1897年9月に商船学校(現・東京海洋大学)に貸与された[要出典]。さらに同年11月には同校に移管され、係留練習船として操帆訓練などに用いられた[要出典]1901年12月25日に現在の東京海洋大学・越中島キャンパスに移動し、1911年1917年には台風高潮バウスプリットが折れるなどの被害を受けつつ、1923年関東大震災1945年東京大空襲の際には数千人の罹災者を収容している[8]

1945年9月には学校とともに進駐アメリカ軍接収され、酒保になっていた[要出典]。その後1951年に係船地で座礁したのを契機に接収が解除され、1952年には浮揚させて上甲板などの修理が行われたが、1954年に老朽化のため練習船の任務を解除された[要出典]。その後も1975年頃までは結索実習などに船内が使われ、1978年5月31日には船として初めて国の重要文化財に指定されている[要出典]1988年1月29日に保存修理工事を終え、1989年5月16日から2009年1月まで一般に公開されていた[要出典]

1988年の修理後、経年劣化により再度大規模修復が必要となり、大学と文化庁との間で協議が行われ、明治丸修復計画が策定されている。この修復計画を基に、周辺の環境整備や海事技術資料の収集、次世代の海事産業を担う青少年への海事意識啓発活動を行う「明治丸海事ミュージアム事業」が進行中である。

東京海洋大学では2009年度から修復事業等の費用に充てるため、「明治丸海事ミュージアム事業募金」を設置し募金を呼びかけていた。

2013年12月より、本学と文化庁により大規模修復工事が行われていたが2015年3月に竣工した。7月19日に明治丸修復完工記念式典を挙行し、翌20日には船内を含む特別公開を実施した。

構造[編集]

明治丸(3本マスト)

外観[編集]

当初は外輪船とする計画だったが、スクリュープロペラ船として建造された。帆装は2本マストトップスルスクーナーであった[8]が、1898年品川にある緒明造船所で3本マストのシップに改造された。さらに1937年にはミズンマストの腐敗からバークになったが、1983年からの修復工事で再びシップ型に戻された。また、船首船尾にはアカンサスの文様が描かれている。

船内[編集]

甲板は2層構造で、主甲板は当初細かく区切られて客室が配置されていた。後に、明治天皇のための御座所として、公室・寝室浴室の3部屋が右舷後方に設けられた。御座所内の板絵は戦後の接収の際にペンキを塗られたが、後に復元されている。また、主甲板の最後部にはサロンがあり、マホガニーのテーブルが展示されている。なお、1892年の修理で従来の操舵室が海図室となり、上甲板に操舵室が設けられた。

下甲板には石炭庫とレシプロ機関2機が設置されていたが、1927年に取り外され、技業練習場が設けられた。

性能[編集]

1878年11月18日グラスゴーで試運転が行われ、排水トン数1235トンで、速力12.66ノット、指示馬力(ihp)1450馬力を記録している。なお、速力や船のサイズなどについては、複数の記録で数値の食い違いが見られる[2]

船長[編集]

  • (心得)中尾昌清:1893年11月14日 - 1894年11月26日
  • 中尾昌清:1894年11月26日 -

Captain Mr.Albert Richard Brown(An Eiglish man born in Scotland)printed in the book "The life and times of the illustrious Captain Brown" written by Mr.Lewis Bush. This was written by Seigo Nishida who worked in AR Brown Co.Ltd.[疑問点]

脚注[編集]

  1. ^ 山尾庸三の生涯
  2. ^ a b 庄司(2007), p. 1.
  3. ^ 庄司(1996), p. 52.
  4. ^ 『幕末の小笠原』136-187、205-206ページ
  5. ^ 『幕末の小笠原』237-242ページ
  6. ^ 『幕末の小笠原』245ページ
  7. ^ 『幕末の小笠原』245、248ページ
  8. ^ a b c 庄司(1996), p. 53.

参考文献[編集]

  • 庄司邦昭「重要文化財『明治丸』 (<シリーズ>日本の保存船(7))」『らん:纜』第32巻、関西造船協会、1996年7月、52-56頁、doi:10.14856/ran.32.0_52ISSN 09160981NAID 1100038664442020年4月1日閲覧 
  • 庄司和民「明治丸要目考」『東京海洋大学研究報告』第3巻、東京海洋大学、2007年3月、1-1頁、ISSN 2189-0951NAID 1200056802112020年4月1日閲覧 
  • 今津隼馬「重要文化財明治丸と海事ミュージアム構想」『日本航海学会誌 NAVIGATION』第177巻、日本航海学会、2011年7月、84-90頁、doi:10.18949/jinnavi.177.0_84ISSN 0919-9985NAID 1100087233762020年4月1日閲覧 
  • 田中弘之『幕末の小笠原 欧米の捕鯨船で栄えた緑の島』中央公論社、1997年、ISBN 4-12-101388-3
  • 官報[要文献特定詳細情報]

外部リンク[編集]

座標: 北緯35度40分2.5秒 東経139度47分25.0秒 / 北緯35.667361度 東経139.790278度 / 35.667361; 139.790278