Heart Of Klaxon
Heart Of Klaxon(ハート オブ クラクション)は、日本のミュージシャン・シンガーソングライターである尾崎豊のバックバンド。
概要
尾崎のバックバンドは、ツアーやライブごとに名称やメンバーが異なっている。特に20代はレーベルの移籍や尾崎自身による個人事務所設立[1]、尾崎の心境の変化[2]などにより、メンバーが大きく異なっている。それぞれ、10代の頃と1987年の「TREES LINING A STREET TOUR」のバンドは「Heart Of Klaxon」、1988年9月12日の「LIVE CORE」の際のバンドは「The Last Of Klaxon」、1991年の「1991 BIRTH TOUR」のバンドは「THE BIRTH TOUR BAND」と呼ばれている[3]。
Heart Of Klaxon
元々Heart Of Klaxonの初期メンバーはバンド「APRIL BAND」として活動しており、1983年12月31日に渋谷のライブハウス「エッグマン」で行われた年越しライブに参加していた。そのライブに参加していたマザーエンタープライズに所属する[4]バンド「ストリート・スライダース」のマネジャーとして観ていた「APRIL BAND」の鴇田靖の高校の同級生で友人である本木元[5]が、「APRIL BAND」に尾崎のバックバンドへの加入を打診、APRIL BANDのリーダーである、井上敦夫が交渉の末に了承し、Heart Of Klaxonが結成された。
初ライブから阿部加入まで
- 1984年
- 2月12日 - デビューライブに向け、尾崎とAPRIL BANDは、千葉のマザースでアマチュアバンドの前座として6曲を歌う。
- 3月15日 - 新宿ルイードで行われた尾崎のデビューライブでHeart Of Klaxonとしてライブデビュー。
- 5月8日 - 新宿ルイード。
- 5月9日 - 新宿ルイード。
- 5月10日 - 京都ビブレホールで開催されたKBSラジオのラジオ番組である「ハイヤングKYOTO」のリスナーが主催するライブに出演。
- 6月15日 - 札幌ペニーレインでのライブ。6大都市ツアー「LIVE HOUSE APPEARANCE」がスタート。
- 6月17日 - 仙台モーニングムーン。
- 6月23日 - 名古屋ハートランドスタジオ。
- 6月25日 - 梅田バナナホール。
- 6月26日 - 広島ウッディ・ストリート。
- 6月28日 - 福岡ビブレホール。6大都市ツアー終了。
- 7月16日 - 千葉文化会館。
- 7月20日 - 横浜教育会館。
- 7月21日 - 浦和市民会館。
- 7月1日 - 日比谷野外大音楽堂での白井貴子のライブの前座として出演。
- 7月15日 - 後楽園アイススケート場で開催された映画「フットルース」の試写会の前座としてライブを行う。
- 8月4日 - 日比谷野外大音楽堂で開かれた反核イベント「アトミック・カフェ」に出演。このライブ中に尾崎が左足を骨折し、この日以降のスケジュールはすべてキャンセルとなる[6]。
- 12月3日 - 秋田市文化会館で全国21都市を回る初の全国ツアー「FIRST LIVE CONCERT TOUR」がスタート。
- 1985年
- 2月7日 - 札幌教育文化会館。「FIRST LIVE CONCERT TOUR」が終了。
全国ツアー後、尾崎やHeart Of Klaxonのメンバーから「サクソフォンが欲しい」という声が挙がりオーディションを実施するもめぼしい奏者がおらず、APRIL BANDがアマチュアの頃に通っていたライブハウス「横浜放送局」に一緒に出入りしていた、阿部剛が加入することとなった。
TOGツアーからLTAツアーまで
- 1985年
- 5月2日 - 埼玉県戸田市の戸田文化会館でHeart Of Klaxon結成後初の「ゲネプロ」(通し稽古)が行われる
- 5月5日、三重県志摩市にあるヤマハの複合型音楽施設「合歓の郷」の野外ステージで行われた「NEMU SPRING FESTEVAL '85」に参加[7]。
- 5月6日 - 立川市民会館で「TROPIC OF GRADUATION TOUR」がスタート。
- 8月25日 - 大阪球場でのライブ。このツアー最大の26,000人の観客を動員する。「TROPIC OF GRADUATION TOUR」が終了。
- 9月 - TOGツアー終了後、ギターの江口とキーボードの井上が脱退を表明。井上が正式に脱退すると新規メンバーのオーディションが行われ、新たにピアノに樫原伸彦、キーボードに松原博が加入。江口は脱退を撤回し残留する。
- 11月1日 - 四日市市文化会館で「LAST TEENAGE APPEARANCE TOUR」がスタート。
- 11月14、15日 - 代々木オリンピックプールでのライブ。2日間でこのツアー最大の30,000人を動員する。
- 1986年
- 1月1日 - 福岡国際センターでのライブをもって「LAST TEENAGE APPEARANCE TOUR」が終了する。尾崎はこのライブ終了後に無期限活動休止を発表。
TREES LINING A STREET TOUR
- 1986年
- 12月23日 - 尾崎が1986年6月9日に渡っていたニューヨークから帰国。
- 1987年
- 2月10日 - 尾崎がレーベル会社をCBSソニーから尾崎豊の所属事務所、マザー・エンタープライズの福田信が社長をつとめるMOTHER&CHILDRENに移籍。
- 7月1日 - 「TREES LINING A STREET TOUR」開始。バックバンドの名称は「Heart Of Klaxon」のままとなるが[8]、オリジナルメンバーはギターの江口とサクソフォンの阿部のみとなる[9]。
- 8月5日、6日 - 広島平和コンサート「ALIVE HIROSHIMA '87」に参加。6日には尾崎の友人でもある岡村靖幸のステージに飛び入り参加し「Young Oh! Oh!」を岡村と熱唱する[10]。
- 8月22日 - 熊本県の「アスペクタ」で開催されたロックイベント「 BEAT CHILD」に出演。大雨が降る悪天候の中で歌う。
- 8月29日、30日 - 有明コロシアム。2日間でこのツアー最大となる20,000人を動員。
- 9月24日 - 豊橋勤労会館。この会場でのライブがこのツアー最後のライブとなる[11]。
- 9月28日 - 新潟県民会館でのライブのために会場入りしたが開演直前に倒れ、この日でツアーが中断。その後、尾崎は東京都内の病院に入院。
- 12月22日 - 尾崎が覚醒剤取締法違反で逮捕される。以後、一時活動休止。
The Last Of Klaxon
THE BIRTH TOUR BAND
- 1990年
- 1991年
- 5月20日 - 横浜アリーナで「1991 BIRTH TOUR」が開始。バックバンドは「The Last Of Klaxon」からコーラス以外のメンバーが一新されたTHE BIRTH TOUR BANDが担当[13]。
- 10月30日 - 代々木オリンピックプールで尾崎の生前最後のライブ。「1991 BIRTH TOUR」が終了。
- 1992年
- 4月25日 - 尾崎が午後12時06分、肺水腫のため死亡。
- 6月10日 - この日に開始予定だった「TOUR 1992 “放熱への証” Confession for Exist」が中止。このツアーも引き続いて「THE BIRTH TOUR BAND」がバックバンドを務める予定だった。
NO ONE IS TO BLAME
尾崎が亡くなった1992年の秋に、キーボードの西本明を発起人に「THE BIRTH TOUR BAND」のメンバーによって、アルバム「NO ONE IS TO BLAME」というインストルメンタルの作品が製作され、1992年10月1日にソニー・ミュージックレコーズから発売された。内容は幻に終わった「TOUR 1992 “放熱への証” Confession for Exist」用のアレンジによるバンドメンバーの演奏が収録されており、「卒業」や「I LOVE YOU」は、新しいアレンジでの演奏となっている。タイトルの「NO ONE IS TO BLAME」は尾崎がニューヨークにいた際から好んで聞いていた[14]ハワード・ジョーンズの名曲から取られている[15]。 収録曲のうち「虹」は『約束の日 LAST APPEARANCE(完全版)』のメニュー画面においてBGMに使用されている。
収録曲
- 作詞・作曲 尾崎豊(10曲目のみ作詞・作曲 ハワード・ジョーンズ)
- I LOVE YOU
- 街の風景
- シェリー
- 虹
- 卒業
- OH MY LITTLE GIRL
- ドーナツショップ
- ダンスホール
- Mama,Say Good-bye
- NO ONE IS TO BLAME
メンバー
- 「Yutaka Ozaki & Heart Of Klaxon」
- 「Yutaka Ozaki & Heart Of Klaxon」
- 「Yutaka Ozaki & Heart Of Klaxon」
- 「Yutaka Ozaki & Heart Of Klaxon」
- 「Yutaka Ozaki & The Last Of Klaxon」
- 「Yutaka Ozaki & THE BIRTH TOUR BAND」
- 「TOUR 1991 BIRTH & TOUR 1991 BIRTH ARENA TOUR 約束の日 THE DAY」(1991年5月20日 横浜アリーナ - 10月30日 代々木オリンピックプール第一体育館)
参考文献
- 武田徹 -「尾崎が微笑んだ夜」(1994年)
- 長緒隆也 -「尾崎豊物語」(2002年)
- 落合昇平 -「未成年のまんまで」(1985年)
- ライブ・ビデオ「625 DAYS」 (2005年8月24日)
- 「LIVE CORE BOOKLET」(1988年)
関連項目
- 尾崎豊
- CBSソニー(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)- 尾崎がデビューの際に所属したレーベル会社[16]。
- 須藤晃 - CBSソニー時代の尾崎のプロデューサー。
- マザーエンタープライズ - 尾崎がデビューの際に所属した事務所。現在も福田信が社長を務める。
脚注
- ^ 「アイソトープ」を参照。
- ^ Heart Of Klaxonの鴇田靖は「歳を重ねるにつれて、スタジオ系のアーティストを伝いたがっていた」と尾崎の死後に語っている。
- ^ 各ライブ、ツアー公式パンフレットより。表記はカタカナになったり、大文字になったりと資料ごとに異なることがある。
- ^ 尾崎もマザーエンタープライズに所属していた。
- ^ 本木は後にマザーエンタープライズの空田満が尾崎の専任マネージャーになるまで尾崎のマネージャーを務めた。当時本木は「HOUND DOG」、「ストリート・スライダーズ」のマネージャーも務めていた。
- ^ 翌日の1984年8月5日には尾崎の親友である吉川晃司らと日比谷野外音楽堂での「TOKYO FEELING FESTIVAL」で共演予定だったが実現できなかった。
- ^ ヤマハ音楽振興会による公式サイト
- ^ アルバム「MISSING BOY」のクレジットより。また尾崎が1987年8月28日に有明コロシアムで行われたライブで「Freeze Moon」のMCの際に、TOGツアーやLTAツアーと同じように、「俺の仲間、クラクションて呼んでいいかい?」とファンに聞いていることからも、名称が変わっていないことがわかる。この様子はライブビデオ「OZAKI FILM ALIVE AT ARIAKE COLOSSEUM IN 1987 THE TWENTY-FIRST SUMMER」で確認できる。
- ^ 尾崎の死後、 鴇田は「尾崎の渡米後に『Heart Of Klaxon』のメンバーがそれぞれ別々の仕事についており、メンバーが揃わなかったためだ。」と語っている。
- ^ 6日の出演は当初は予定になかった。また、前日の5日にも渡辺美里のステージに飛び入り参加している。
- ^ この日も尾崎は体調が悪く、急病のためにライブを途中で中断している。
- ^ マザーエンタープライズの社長であった福田信の「一回きりの復活ライブなので、豪華なメンバーを揃えたい。」という意向によるもの。ほとんどのメンバーがアルバム「街路樹」のスタジオミュージシャンである。
- ^ メンバーのうち、西本明、滝本季延は過去に尾崎のレコーディングに参加経験があった。
- ^ 尾崎がニューヨークにいた際、毎晩12時になるとラジオからこの曲が流れたといわれている。
- ^ BIRTHツアーでライブの開演前にライブ会場で流されていた曲だった。
- ^ 1982年の10月に尾崎はCBSソニーのオーディションを受け、合格しプロデビューした。