白山比め神社

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白山比咩神社
白山比咩神社 外拝殿.JPG
外拝殿
所在地 石川県白山市三宮町ニ105-1
位置 北緯36度26分5.60秒
東経136度38分10.32秒
座標: 北緯36度26分5.60秒 東経136度38分10.32秒
主祭神 白山比咩大神
伊邪那岐尊
伊弉冉尊
社格 式内社(小)
加賀国一宮
国幣中社
別表神社
創建 (伝)第10代崇神天皇年間
本殿の様式 三間社流造銅板葺
別名 白山権現
例祭 5月6日
地図
白山比咩神社の位置(石川県内)
白山比咩神社
白山比咩神社
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地理院地図 Googleマップ 白山比咩神社

神体とする白山

白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)は、石川県白山市三宮町にある神社式内社加賀国一宮旧社格国幣中社で、現在は神社本庁別表神社

全国に2,000社以上ある白山神社の総本社である。通称として「白山(しらやま)さん」「白山権現」「加賀一の宮」「白山本宮」とも。神紋は「三子持亀甲瓜花」。

概要[編集]

石川県岐阜県の県境に立つ白山(標高2,702m)の山麓に鎮座し、白山を神体山として祀る神社である。

元は、手取川の畔にある現在の古宮公園の場所に鎮座していたが、室町時代に火災で焼失し、現社地に遷座した。また白山山頂の御前峰には奥宮も鎮座し、山麓の社殿はこれに対して「下白山」または「白山本宮」と呼ばれていた。

境内には国宝刀剣(銘 吉光)のほか、重要文化財が多数伝えられている。

祭神[編集]

主祭神は以下の3柱。

歴史[編集]

概史[編集]

白山は日本三霊山にも数えられ、古代から崇敬の対象であった。社伝由緒によれば、崇神天皇の時代に白山を遥拝する「まつりのにわ」が創建された。元正天皇霊亀2年(716年)に安久濤の森に遷座して社殿堂塔が造立された、と伝わる。

養老元年(717年)に越前修験僧・泰澄大師によって白山に登って開山。主峰・御前峰に奥宮が創建され、白山妙理大権現が奉祀された、と伝わる。

史料文献初出は、白山比咩神(しらやまひめのかみ)は仁寿3年(853年)10月に従三位に初叙[注釈 1]された。

以後、一宮制度で加賀国一ノ宮と定められ、白山本宮・加賀一ノ宮の白山比咩神社は、平安時代中期から鎌倉時代を経て、室町時代前期に至る約500年間栄えた。

しかし室町時代中期の康正元年(1455年)以降加賀国に入った本願寺加賀一向一揆のため年貢米が得られなくなり困窮した状況で、文明12年(1480年)に大火により全焼して、三宮の地に遷座。続く加賀一向一揆の戦乱で白山衆徒は廃絶し、社殿は再興できずその後100年間あまり荒廃した。

白山本宮の社殿堂塔復興は、安土桃山時代に綸旨を受けた前田利家により行われた。社名を白山本宮である白山比咩神社、神宮寺の白山寺も復興・併設、江戸時代は加賀藩主が社の経営をみるところとなった。

江戸時代全期にわたり、白山嶺上の祭祀権(社家権利、札発行、梵字押捺の勧進)と室管理(賽銭収入)を巡って「白山争議」が何度も起きた。尾添村と高野山真言宗、牛首村・風嵐村と越前馬場の平泉寺比叡山天台宗美濃馬場の越前国大野郡石徹白、それに巻き込まれた白山本地中宮長滝寺(現 長滝白山神社)、の間で訴訟が起きた。幕府寺社奉行所の裁決が繰り返され、平泉寺の権利に移っていった。

明治時代神仏分離令により、白山寺は廃され、白山本宮・加賀一ノ宮の「白山比咩神社」と号した。そして歴史史料が調査され、加賀の白山比咩神社・越前の平泉寺白山神社・美濃の長滝白山神社の3社から「延喜式神名帳」に記載された加賀の白山比咩神社が最も古く、全国の白山神社の総本社とされ、白山天嶺の地は本社境内となり奥宮が置かれた。越前・美濃は分霊された白山神社とされた。越前・美濃の白山神社より勧請を受けた他の白山神社も、加賀の白山比咩神社の分霊社に由諸を書き換えた、とされる。

第二次世界大戦後、白山比咩神社は白山神社の総本社として神社本庁別表神社となり、白山頂上の奥宮を中心とする約3000ヘクタールの広大な地域を本社境内として無償譲与を受け、現在に至る。平泉寺白山神社長滝白山神社もそれぞれ「白山神社の総本社」を名乗る。

明治42年(1909年)7月23日に御鎮座二千年式年大祭が執行された。昭和33年(1958年)10月3日に御鎮座二千五十年式年大祭が執行された。昭和55年(1980年)10月3日に古宮から三宮の地への御本宮遷座五百年式年大祭が執行された。平成20年(2008年)10月7日に御鎮座二千百年式年大祭が執行された。

平成29年(2017年)、泰澄による白山開山1300年記念奉祝大祭(8月9日~11日)を開催した[1]

白山比咩神の始まり[編集]

広い平野から青く霞む山々の上に白く輝く白山(しらやま)は、古代から農作における水の恵みの神、神体山として遥拝され、沖の漁と航海には山だめ[注釈 2]の標であったと伝わる[注釈 3]

「白山(しらやま)さん」と大和言葉で親しまれ白山比咩大神様(しらやまひめのおおかみさま)を祀り白山本宮である加賀一ノ宮の白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)の創建は、社伝では神話の時代に近い崇神天皇7年(前91年) 舟岡山に「まつりのにわ」が祀られてからとされ[注釈 4]応神天皇28年(297年)に十八講河原[注釈 5]に下り、洪水で度々流失した、と伝わる。元正天皇霊亀2年(716年[注釈 6]に勅命で他所より高い安久濤の森[注釈 7]に遷り社殿造立があり[注釈 8]嘉祥元年(848年)45棟の社殿堂塔が整ったと伝わる[注釈 9]

平安時代延喜年間の「延喜式神名帳[注釈 10] [注釈 11] には白山比咩(しらやまひめ)神社は加賀国 石川郡 10座中の筆頭に掲載される。

文献史料の確実な初出は、仁寿3年(853年)10月に従三位に初叙された[注釈 12] [注釈 13]貞観元年(859年)正月27日には正三位に昇叙せられた[注釈 14] [注釈 15]平安時代は、天皇即位の一代一度大神宝使・大奉幣使[注釈 16]を京畿七道諸神の1神として受けていた神でもあった[注釈 17] [注釈 18] [注釈 19]

社伝「白山之記」(「白山縁起」以下同じ)[注釈 20]では、内の鳥居樫高(白山市鶴来地区)、二の鳥居は槻橋(白山市月橋町)、総門は北陸道神符小河[注釈 21]にあり、旅人は総門で白山を遥拝して通り、また神符を受けたと伝える。社伝はさらに長和5年(1016年)に加賀国7つの湊からを受け豊漁祈願の御贄講祭が始ったと伝わる[注釈 22]

平安時代末期(11世紀末)、加賀国禅定道筋の白山系社堂(加賀馬場)の中心的存在であった当社は加賀国一宮とされ、一国の神社を代表とする立場から勧農を目的とした国衙祭祀を行った[注釈 23]。白山を祭る社である白山本宮として、末社・関係社はこの時代に越後(新潟県)・能登・加賀(ともに石川県)まで広く存在[注釈 24]、と伝えた。

神仏習合[編集]

平安時代中期(9世紀頃)になると、延喜年間頃から神祇は権化で仏が本地の本地垂迹説の仏教理論が生まれた。修験道が日本各地の神地神山を道場に選び、天台宗真言宗に属した山霊の神秘による修行で病災を除く霊験祈祷力の体得を目指す行者達が増えるに従い、白山比咩神社の「加賀の白山」も自然崇拝の山から修験者の山岳修行の地になり、本地垂迹の神仏習合思潮に彩られた修験の霊場へと変質を遂げるようになった[注釈 25] [注釈 26]

現在本社境内のある白山山頂[注釈 27]へは、天長9年(832年)ごろに白山の加賀馬場・越前馬場・美濃馬場が開かれたとされ[注釈 28]、加賀・越前・美濃3国それぞれから山頂に至る登山道(禅定道)が開かれ、それぞれの道筋に宗教施設(社堂)が次第に調えられていった。白山本宮(白山比咩神社の別名)は歴史的に「加賀の白山」として修験道に深いかかわりを受け[注釈 29]、平安時代中期から鎌倉時代、室町時代前期まで約500年間栄えた。

久安3年(1147年)4月に、越前禅定道筋の社堂(白山越前馬場)の中心である平泉寺延暦寺末寺化の動きを示すと、白山比咩神社の神宮寺、白山寺も同月に延暦寺山門別院となり(白山之記)、比叡山の地主神・日吉七社に倣い、本宮・金剱宮・三宮・岩本宮・中宮・佐羅宮・別宮という白山七社を形成した。

加賀馬場において、古代はこの地方の豪族、上道氏が神主、長吏藤原氏の末裔、院主には功労で順次就任した[注釈 30]。江戸時代幕末まで白山本宮長吏の役は白山本宮と白山寺を統括し、かつ白山七社惣長吏を兼帯し、他の6社の長吏と馬場全体を統括した。惣長吏は僧名に「澄」の通字を用いて真弟(実子)相続の結縁的な世襲制であった。仏教施設も加賀国 白山信仰の仏教寺院として、白山五院(山代庄:石川県加賀市内)・中宮八院(軽海郷:石川県小松市を中心)・三ヶ寺 が整った、と「白山之記」に伝わる。

各書が伝える白山の神仏習合[編集]

各書が伝えるところでは[注釈 31]、山岳を跋渉して修行した越前の僧・泰澄養老2年(718年)修験修行により、白山の地で白山比咩神として崇敬されていた白山妙理権現に感応し白山(しらやま)に登山して本地仏 十一面観音の出現を観じてからとされ[注釈 32]、白山開山し、白山の主峰・御前峰に奥宮が創建され、神仏習合の白山妙理権現(はくさんみょうりごんげん)が奉祀された。

また中世の鎌倉時代中期 建長3年(1252年)編纂の仏教書「日本高僧伝要文抄」 東大寺尊勝院主 宗性 著には、元慶2年(878年)春に僧賢一が白山に入った、と伝わる[注釈 33]

中世鎌倉時代末期~南北朝時代 元亨2年1322年編纂の初の公式仏教史「元亨釈書[注釈 34]の釈泰澄の項、白山明神の項、では泰澄が白山に至って白山妙理大菩薩[注釈 35]を感じ、白山で幾年もの修行を重ねた、と伝えた[注釈 36]。「白山之記」では花山院も白山に参拝、と伝える。

平安末期の繁栄から室町時代の衰亡[編集]

平安時代中期から鎌倉時代をへて室町時代前期には繁栄期を迎え、白山比咩神社は社伝の神祇縁起書だけでなく記録に残る仏教界の高僧たちからの崇敬・公的著作でも知られた。安元3年(1177年)には白山衆徒による佐羅宮・白山本宮・金剱宮の神輿三基の京都への愁訴と日吉大社入り[注釈 37]白山事件を起こした。

鎌倉時代には南宋留学から帰国した禅宗 曹洞宗開祖の承陽大師 道元禅師は加賀国 白山比咩神社に来て社に伝わる神書を書写した[注釈 38]

鎌倉末期の編纂書、代表的な神仏習合神 八幡神の信仰書「八幡宇佐託宣集」[注釈 39][注釈 40]には宇佐八幡大菩薩の祖神は加賀国から宇佐八幡の奥宮 大元神社 の馬城峯(まきのみね)に飛来した白山権現とされ、書の図では馬城峯にある禁足の庭には白山を示す3つの石があったとされた[注釈 41][注釈 42] [注釈 43] [注釈 44]

鎌倉時代末期から南北朝時代初期に成立し朝廷に上程された虎関師錬 編纂による日本初の公式仏教史・信仰書「元亨釈書」には白山明神は伊勢神宮 天照大神の祖神(伊弉諾尊伊弉冉尊)、「元亨釈書和解」でさらに伊弉冉尊を改め菊理姫[注釈 45]、と調査され編纂史書に記述されるに至った。

しかし室町時代中期以降は急速に衰亡した。白山本宮が鎮座する味智郷(みちのごう)でも富樫氏など武士の勢力が強くなり、白山七社の結び付きが弱まった。さらに康正元年(1455年)以降越前国から加賀国に入った本願寺一向一揆門徒の勢力確立で神給田からの年貢を得られなくなり日々の祭祀にも困窮した。白山本宮は文明12年(1480年)10月16日の 今町[注釈 46] 公人 道徳家からの大火延焼で神社・神宮寺が全焼 破壊され、社家・寺家は共に御神体・御本尊を三宮の地に避難。翌17日には京都朝廷に注進したが[注釈 47]、京都の朝廷自体も応仁の乱終息直後の荒廃で窮乏を極めており朝廷による再興は叶わず、末社三宮の鎮座地(現社地)に遷座したまま100年間余り衰亡した。一向一揆の加賀国支配と内部抗争の戦乱により白山衆徒はほとんど廃絶し[注釈 48]、世俗的権力は衰微し、社頭も荒廃したと伝わる。

江戸時代、社殿堂塔復興以降[編集]

白山本宮の社殿堂塔復興は、安土桃山時代に正親町天皇から白山宮復興の綸旨を受けた前田利家により[注釈 49]、避難先の三宮の地で再建が始まり文禄5年(1596年)に竣工した[注釈 50]

再建後の江戸時代加賀藩主が神社の経営をみ、加賀一ノ宮・白山本宮である白山比咩神社[注釈 51]の神社社殿、そして社頭境内北側には神宮寺として白山寺 本地堂(現在の北参道境内・白光苑周辺)が建立された。この江戸時代、白山比咩神社は小松の天満宮と共に前田家にとって特別な存在であり白山寺は江戸時代中頃に社の経営をみる加賀藩前田家が珠姫の菩提寺 高野山 天徳院の大檀那である縁で真言宗に転じたと伝わる[注釈 52]

白山山麓 山内庄では江戸時代に白山争議(白山争論)(後述)が繰返された。享保年間の「白山争議(白山争論)」の際に越前に祭神を譲り渡し廃止された社もでた[注釈 53]

江戸時代後期に時代が下ると、遠く江戸の民衆にも加賀国石川郡白山権現への信心が知られた、とされた[注釈 54]

明治時代以降[編集]

明治時代王政復古 明治維新政府の神仏分離令により、白山比咩神社は白山比咩大神(しらやまひめおおかみ)(=菊理媛尊)・伊邪那岐尊伊弉冉尊の3祭神を祀り、社名を古代『延喜式神名帳』に記載された古来の白山本宮・加賀一ノ宮である「白山比咩神社」とし、神宮寺の白山寺を廃した[注釈 55]

歴史史料で経緯が調査され、3社のうちで朝廷公式の神祇史料として最も古くは『延喜式神名帳』に記載されたのが加賀国の白山比咩神社だけであったため、この白山比咩神社が全国の白山神社の総本社とされ、越前・美濃は分霊された白山神社とされた。越前・美濃の白山神社より勧請を受けた他の白山神社も、加賀の白山比咩神社の分霊社と由諸を書き換えた。

第二次大戦敗戦を経て日本独立後は、白山比咩神社以外の越前平泉寺白山神社・美濃長滝白山神社の両白山神社も「白山神社の総本社」を名乗る。白山比咩神社は伊勢の神宮神社本庁に入り、歴史の古い別表神社となり、国から白山頂上の奥宮を中心とする約3000ヘクタールの広大な地域を本社境内[注釈 56]として無償渡与を受け、境内管理し現在に至る。

社近くの古代禅定道[編集]

加賀禅定道は江戸時代までには現在知られる形に開かれ整備されたが、文明12年(1480年)の白山本宮全焼と享禄4年(1531年)の加賀一向一揆内紛の享禄の錯乱の戦乱で白山衆徒は滅亡し絶えた[注釈 57]江戸時代前期、白山本宮の長吏澄意が遺した「白山諸雑事記」[注釈 58]には、古代平安時代から南北朝時代、白山比咩神社から東を仰ぎ見る山の南北に連なる尾根には泰澄大師が修験修行した由緒の「獅子吼尾根の禅定道」があったと伝わる。

山林管理業務用の「巡視路」がそれで、一部は登山路整備され観光登山にも使われる。白山市八幡町(やはた)から登り、北端の白山市八幡町 獅子吼高原山頂の後高山(しりたかやま、標高649m、獅子吼白山比咩神社)から月惜峠(つきおしみとうげ 582m)の避難小屋を経て南端の奥獅子吼山 山頂(標高928m)に至る標高600m以上を縦走する尾根道で、尾根からは西の真下に里宮の白山比咩神社と手取川、北に扇状地と日本海を展望し、南端の標高1,000m近い奥獅子吼山頂上からは奥宮のある白山(標高2702m)の白山三峰の姿を遥拝する。この先歩行困難な険路の下に、不動滝(白山市河内町板尾)と板尾地区の八幡(やはた)神社がある。平安時代の遺跡を含み神仏習合の旧跡地名が数100m毎に密に列なる。[注釈 59] [注釈 60] [注釈 61][注釈 62]

室町時代 加賀一向一揆の影響[編集]

白山比咩神社に関しては、室町時代中頃までは、手取川上流の西谷(大日川沿い)・東谷(手取川:昔の牛首川沿い)・尾添川沿いは山内庄と総称され「白山権現の御庭所」とされ、武家領主の統治しない地であった[注釈 63]。文明3年、本願寺8世蓮如上人によって、吉崎に道場が開かれ北陸に浄土真宗を広められた。この加賀一向一揆本願寺支配で、手取川上流 白山麓山内庄の「白山権現の御庭所」は加賀国能美郡224村に組み入れられた。白山信仰は、弥陀の本願を信じあの世の往生を願えという真宗の教えに取って代わられ、本願寺教団一向一揆門徒衆の加賀国内での急進化(ものとり信心・他宗誹謗)[注釈 64]で、白山本宮は神給田からの年貢米収入を失い困窮した[注釈 65]文明12年(1480年)10月に大火で白山本宮は全焼し三宮の地に避難し100年以上再建されなかった。

加賀一向一揆は、先ず武士・農民の門徒集団が、長享2年(1488年)加賀の守護富樫政親を金沢の高尾城に攻め滅ぼした。剱村の金剱宮が残っていたが[注釈 66]、金剱宮の南隣の高台に加賀一向一揆の主要寺の一つ、清沢願得寺が新しく建立されていて、享禄4年(1531年)に発生した享禄の錯乱(大小一揆)は大一揆の門主本願寺と小一揆の門徒加州三ヵ寺の加賀国支配権争奪の内部抗争で、本願寺門主軍の三河勢が朝倉氏の越前国を迂回し、手取川上流に追詰められていた本願寺門主軍と合流して大軍となり手取川を攻め下り清沢願得寺を攻め落した。この折、下方の隣地に古代から鎮座していた金剱宮の社寺堂塔は延焼で焼け落ち、この戦乱で白山七社の白山衆徒は滅亡した、と云う[注釈 67]。以後織田信長配下の武将柴田勝家らが金沢御坊を攻め落とすまでのおよそ100年間、加賀は「百姓のもちたる国」といわれ、中心が金沢へ移った。

加賀一向一揆の本願寺支配が定まった頃、天文23年(1554年)は白山山頂に大きな火山活動があり剣峰が大きく崩れ消失、白山三峰だった昔の山容が一変、山麓の農作物が被災した[注釈 68]。領民の一向一揆を恐れる領主には、加賀の白山が噴火した災害原因は明かに加賀一向一揆のせいだと領民の本願寺一向宗(浄土真宗)禁止理由に使う者も出た[注釈 69]。白山の火山活動は以後、時折り小規模に江戸時代前期の万治2年(1659年)まで続いた。

100年後に織田軍が侵攻し、織田軍の佐久間盛政柴田勝家らにより一向一揆門徒が武力抵抗続けた地区は順次攻め滅ぼされ、加賀一向一揆衆が最後に立てこもった山内庄の鳥越城二曲城周辺は落城後も一帯の山狩りで人が殺し尽くされ長年住人が絶えた、と云う[注釈 70] [注釈 71]。加賀一向一揆を鎮圧後、能美郡山内庄の西谷・東谷は越前国を領国とした柴田勝家の一族が領国とした。

江戸時代 白山争議の影響[編集]

現在白山比咩神社の本社境内である白山の奥宮境内地一帯は、江戸時代に大きな争議行為[注釈 72] 「白山争議(白山争論)」が数度繰返された[注釈 73]

江戸時代初め頃、加賀・越前・美濃馬場それぞれは白山信仰の中心地となっていた。勧請元は、美濃が最も多く加賀は2番目であった。江戸時代幕藩体制では、手取川上流の白山麓18カ村のうち西谷(大日川)と東谷(手取川、昔の牛首川)の16カ村は柴田勝家一族の旧領の後を引き継いだ越前藩が、尾添側沿いは加賀藩が領有していた。


明治元年(1868年)に、神仏分離令が布告された。明治5年(1872年)、白山麓18カ村は一つにまとまって石川県の管轄に入り、能美郡に属した。

江戸時代、初回の明暦「白山争議」が明暦元年(1655年)から政治交渉長引く過程で、寛文6年(1666年)7月、白山比咩神社の長吏であり白山七社惣長吏の澄意が記録に一度登場する。白山比咩神社の代々の先例に則り京都朝廷から白山山頂神祠再興の綸旨(勅許)を受けてきて、加賀藩藩主 前田綱紀(当時は綱利)から白光院僧として褒美 永代100石を料として得た、と云う[注釈 76] [注釈 77] [注釈 78]

明治維新・行政の影響[編集]

白山比咩神社に関しては、王政復古の大号令の明治維新政府により神仏分離令が発布され、白山に関する王政時代に遡る歴史調査がされ、白山天嶺の祭祀および管理はこの白山比咩神社に任された。また廃藩置県の政治統治では、越前国の主要部嶺南は若狭国とともに滋賀県と一度合併し残った越前国嶺北が一度石川県に吸収され、その後再び福井県が誕生する際に、行政管理は手取川上流地域の室町時代に山内庄だった白山麓18カ村全体、大日川・手取川・尾添川流域はそろって石川県に、九頭竜川上流は福井県に入った。美濃 長瀧寺長滝白山神社のある長滝地区は岐阜県に入った。その後、昭和33年(1958年)に石徹白は村の希望理由があって福井県から離れ、岐阜県白鳥町に合併して入った。

御鎮座2100年式年大祭[編集]

2010年10月7日から、白山比咩神社での5日間の大祭は成功し、観光客の増加、全国の各白山神社・白山社から宮司達・氏子連が来社し、白山下山の泰澄大師を祝った地元 白峰の伝統芸能「かんこ踊り」や全国各地白山神社 氏子連の獅子踊りなど、伝統の祭が披露された。

また今後、全国の白山神社の協力を話し合い、美濃・越前・加賀の三馬場も、これからはより協力して発展してゆくことが話し合われた、と云う。[注釈 79]

さらにまた、今後は先行する日本の世界遺産(各宗教施設群や自然遺産)同様に、「白山に残る美しい自然と古代からの白山信仰の文化」として、世界遺産に向けた暫定登録を目指すことが話し合われた、と云う。

平成20年2100年大祭での問題と結果[編集]

関連して、地元の白山市市長が大祭奉賛の団体の発会式に招かれ祝辞を述べたことが、憲法上の政教分離原則に反し違憲であるなどとする住民訴訟が提起された。

しかし、最高裁は、平成22年(2010年)7月22日、発会式に「出席して祝辞を述べる行為が宗教とのかかわり合いを持つものであることは否定し難い」が、「地元にとって,本件神社は重要な観光資源としての側面を有していたものであり,本件大祭は観光上重要な行事」であり、当該団体は、「このような性質を有する行事としての本件大祭に係る諸事業の奉賛を目的とする団体であり,その事業自体が観光振興的な意義を相応に有する」こと、その発会式も,「本件神社内ではなく,市内の一般の施設で行われ,その式次第は一般的な団体設立の式典等におけるものと変わらず,宗教的儀式を伴うものではな」く、市長は、「来賓である地元の市長として招かれ出席して祝辞を述べたものであるところ,その祝辞の内容が,その祝辞の内容が,一般の儀礼的な祝辞の範囲を超えて宗教的な意味合いを有するものであったともうかがわれない」ことなどの事情を指摘し、市長の当該行為は、「宗教とのかかわり合いの程度が,我が国の社会的,文化的諸条件に照らし,信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えるものとは認められず,憲法上の政教分離原則及びそれに基づく政教分離規定に違反するものではない」とし、全員一致で、これを違憲とした高裁判決を破棄自判し、原告住民の敗訴(合憲)が確定した(最高裁平成22年(2010年)7月22日第一小法廷判決・集民第234号337頁)。この判決に対しては多数の判例評釈等がある[注釈 80]

当時の白山市市長は「全国の祭・式典を持つ自治体多数の人々から支援の声に後押しされた」、「最高裁でこういう判決が下ったから、今後は皆さん慎みながら参加されるだろう」と話した、と云う[注釈 81]

神階[編集]

六国史以降

略年表[編集]


境内[編集]

本宮(下白山)[編集]

白山御前峰山頂にある奥宮に対し、山麓にあることから下白山、白山本宮、里宮と呼ばれる。

境内
建造物

主要社殿は、本殿・幣拝殿・直会殿・外拝殿・遊神殿からなる。本殿は大規模な三間社流造で、正面に庇の間と向拝を付ける。屋根銅板葺。明和5年から7年(1768年-1770年)にかけて造替されたものと推定され、県の有形文化財に指定されている。

直会殿は、大正9年(1920年)の造営の旧幣殿。外拝殿は切妻造銅板葺で、大正9年(1920年)の造営の旧拝殿である。昭和57年(1982年)の増改築で内部に拝殿が造営され、外拝殿となった。

鶴来駅より約2.5km南に位置する一の鳥居は、昭和11年(1936年)の造営。古くは当社には鳥居がなく、「白山七不思議」の1つとも言われていた。

その他
  • 境内 拝殿 - 社号額、向拝から外拝殿・幣拝殿・本殿に向かう。
  • 境内 お手植え杉御神木(三本杉) - 白山比咩大神(菊理媛尊)・伊弉諾尊・伊弉諾尊の御神木。外拝殿に向い左側[注釈 86]
  • 境内 拝殿廻廊の吊灯籠の神紋・神門の幕 - 吊灯籠・神門幕の神紋は、三子持亀甲瓜花(みつこもちきっこううりのはな)[注釈 87]
  • 境内 社頭の白山まつり - 秋の早朝、境内社頭での氏子による加賀獅子舞が奉納される。
  • 境内 神門 神馬舎の像 - 白馬木像で白山比咩大神を乗せて白山に登拝する姿、大欅で作成。
  • 境内 玉垣門 - 社頭正面の神門から、北参道との間の門。[注釈 88]
  • 表参道 三の鳥居と大欅 - 樹高約25m 推定樹齢 約1000年。市指定天然記念物[注釈 89]
  • 表参道 二の鳥居と石段
  • 表参道 手水舎と龍 - 古い手水舎 [注釈 90]。龍の爪は左右とも2本。
  • 表参道 御神木の老杉 - 樹高約42m、樹齢約800年。市指定天然記念物。
  • 表参道の参詣道 - 一の鳥居から。この先は、琵琶滝、神木の老杉、手水舎、二の鳥居、石段、三の鳥居、千年大欅、神門。
  • 北参道 手水舎 - 柱の獅子が護る。
  • 白光苑 - 境内の北東にある庭園。昭和33年(1958年)造成。
  • 禊社・禊場 - 白山の伏流水を利用。平成18年(2006年)10月設置。
  • 琵琶滝


奥宮[編集]

奥宮は、白山の御前峰山頂付近に鎮座する。養老2年(718年)創建。現在の一間社流造の社殿は、昭和63年(1988年)の造営である。祈祷殿は、山頂への拠点である室堂にある。白山国立公園に含まれ、開山は春夏秋の6か月間のみ。

摂末社[編集]

摂社[編集]

荒御前神社
  • 荒御前神社 (あらみさきじんじゃ)
祭神:荒御前大神、日吉大神、高日大神、五味島大神
本殿への神門前に鎮座。荒御前大神は、神功皇后三韓征伐の際に守護したとされる。
  • 水戸明神
祭神は水戸(みなと)の神[注釈 91]。飛地境内安久濤の森の境外摂社。[注釈 92]

末社[編集]

  • 住吉社 - 祭神:住吉三神(底筒男尊、中筒男尊、表筒男尊)。南参道、禊場の横に鎮座。

その他[編集]

境内
  • 白山奥宮遥拝所 - 大汝峰・御前峰・別山の「白山三山」を模した岩が祀られている。
境外 飛地境内
  • 古宮跡 (白山市白山町[位置])
当社の旧鎮座地。北陸鉄道石川線の旧加賀一の宮駅近く、古宮公園内に所在。
霊亀2年(716年)から文明12年(1480年)まで当地に鎮座していた。現在は、七ヶ用水の水門を守る水戸明神が鎮座する。
  • 舟岡山 白山比咩神社創始の地
境内北方に立つ標高178mの山。当社が初めて鎮座した場所と伝えられ、創祀之地の石柱碑と寄進顕彰碑がある。[注釈 93][注釈 94]
  • かたがり地蔵
飛地境内 神祠 自然石磨崖仏の古い地蔵尊。泰澄作と伝わる。 白山比咩神社 本殿 拝殿 神門の正面。元は安久濤の森の古宮址、舟岡山の麓岩壁に刻まれ現在地に移設当時は傾いていた、と云う。傍らに「庀(ひ)白山御宮道(白山御宮の禅定道を庇護する)」の小石柱。[注釈 95] [注釈 96] [注釈 97]
  • 安久濤の淵
古宮址の高台岩壁 泰澄遺跡 川面から15m高い高台。[注釈 98]
  • 安久濤の森
古宮跡 祭祀に使い捨てたかわらけと穴 中世遺跡と、発掘出土場所の 手取川用水土地改良区 白山管理センター[注釈 99]

関係社[編集]

古くは境内・境外に多くの摂末社があった。

  • 小白山神社
祭神は白山御子神・八幡大神。鎮座地 白山市小川町。勧請創建は慶雲3年(706年)、と云う。白山本宮による奉幣が隔年に斎行される。[注釈 100][注釈 101]

境外社[編集]

  • 境外社
河濯尊大権現堂。祭神は河濯尊(カハスソンサマ)。伝 泰澄大師作。難病、病魔退散の御利益神と云う。特に下半身の諸病を救う、と云う。[注釈 102]

祭事[編集]

年間祭事[編集]

文化財[編集]

国宝[編集]

剣(銘 吉光、国宝)
白山三社神像
  • 吉光)(工芸品) - 昭和27年3月29日指定[2]

重要文化財(国指定)[編集]

  • 絹本著色白山三社神像(絵画) - 平成15年5月29日指定[3]
  • 木造狛犬 1対(彫刻) - 大正13年8月16日指定。
  • 木造獅子狛犬 1対(彫刻) - 平成元年6月12日指定。
  • 太刀(銘 長光)(工芸品) - 明治42年9月21日指定。
  • 黒漆螺鈿鞍(工芸品) - 明治33年4月7日指定。
  • 沈金彫手箱(工芸品) - 大正14年4月24日指定。
  • 白山縁起(書跡・典籍) - 明治33年4月7日指定。
  • 神皇正統記(書跡・典籍) - 大正5年5月24日指定。
  • 三宮古記(古文書) - 明治33年4月7日指定。
  • 白山宮荘厳講中記録(古文書) - 大正5年5月24日指定。

典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。

石川県指定文化財[編集]

有形文化財
  • 本殿(建造物) - 平成19年12月25日指定。
  • 刀剣 11口(工芸品) - 昭和35年5月27日指定。
  • 太刀(銘 行光、附 後藤才次郎吉定総銀金具太刀拵及び前田利常奉納由来記載黒漆箱)(工芸品) - 昭和53年3月7日指定。
  • 太刀(銘 加賀国金沢住兼巻作)(工芸品) - 昭和53年3月7日指定。
  • 白山比咩神社文書 766点(古文書) - 昭和57年1月12日指定。

白山市指定文化財[編集]

名勝
  • 境内参道 - 昭和52年12月28日指定。
  • 安久涛の渕 - 昭和52年12月28日指定。
天然記念物
  • 白山比咩神社の老スギ - 昭和52年12月28日指定。
  • 白山比咩神社の大ケヤキ - 昭和52年12月28日指定。

現地情報[編集]

所在地
交通アクセス
  • 最寄駅:北陸鉄道石川線 鶴来駅から
    • 徒歩:約25分
    • バス:加賀白山バス(白山麓方面行き)で「一の宮」バス停下車 (下車後徒歩すぐ)
  • JR西日本北陸本線 金沢駅から
    • バス:加賀白山バス(白峰、上野行き)で「一の宮」バス停下車 (下車後徒歩すぐ)

脚注[編集]

  1. ^ “紡がれた悠久の時を寿ぐ 白山開山1300年記念奉祝大祭のお知らせ”. 白山比咩神社ホームページ. http://www.shirayama.or.jp/topics/h29/t2913.html#t 2017年8月10日閲覧。 
  2. ^ 指定年月日は文化庁監修『国宝・重要文化財大全』別巻(所有者別総合目録)(毎日新聞社、2000)による。(以下の重要文化財各件についても同様)
  3. ^ 平成15年5月29日文部科学省告示第103号

注釈[編集]

  1. ^ 日本文徳天皇実録 巻五 仁寿3年(853年)10月条、類聚国史 巻14 神祇14 神位2 参照
  2. ^ 山だめの参照:海で場所の位置を確認する目印のこと、国土交通省 都市・地域整備局 離島振興課 解説ページ:「山だめの島」参照
  3. ^ 社伝、御贄講協賛漁協の由緒談話 より
  4. ^ 「石川新情報書府」サイト 参照。石川のすがた - 暮らし - 白山之記(白山の暮らし)白山の語り部:「白山信仰と白山比咩神社を語る」
  5. ^ 現地 白山市白山町古宮公園内 用水取水口案内図 参照:図中の江戸時代末期頃に枝権兵衛が掘った第一取水口から第五取水口のうち、下流 第五取水口の下流側にあたる、白山市鶴来地区の舟岡山麓近い手取川右岸地域
  6. ^ 元正天皇 参照:諱は氷高、神祇と仏教に篤く、国家未登録の沙弥・修験僧には厳しく722年に取締まる。
  7. ^ 現在の古宮公園の森の名。
  8. ^ 「白山之記」参照:場所はそれまでの鎮座地 手取川扇状地の扇頂右岸の地 白山市鶴来地区からは九重塔坂上の岩壁高台がある白山市白山(しらやま)町の森(標高110m)
  9. ^ 「白山之記」(1163年)参照:以下( )部は原文の小字・カナ・補注記。空白部は原文の闕字および空白、改行。「一、白山本宮(本地十一面観音) 霊亀元年(ニ) 陮他現給殊(ニ)有勅命被造立四十五宇(ノ)神殿佛閣 被奉免若丁神講田等  鎮護国家壇場(ニ)被定貴者 嘉祥元年(戊辰)也 凡公家造替屋々宝殿拝殿彼岸所  本宮社 政所 大倉 本所倉 傍官倉(本地ヒ沙門 遮那佛) 糟神 瀧宮(本地不動)各寶殿三宇 拝殿 同祓殿  禅師宮(本地地蔵) 宝殿 拝殿(アリ) 講堂 剱講堂 西堂 東堂 十一面堂(法花常行堂) 新十一面(五堂) 馬頭堂 新三昧堂等 御内八堂 鐘楼 武徳殿 五重塔 四足門 廻廊等四十余宇(ノ) 舎屋内也(委ハ造営注文在之)」
  10. ^ 延長5年(927年):巻9と巻10の「延喜式」に全国神社の官社一覧。
  11. ^ ただし、承和7年(840年)に成立したと思われる研究:『延喜式神名帳の研究』西牟田崇生(国書刊行会、平成8年)第1章「「延喜式神名帳」郡名表記考」。
  12. ^ 日本文徳天皇実録 巻五 仁寿3年10月条、および 類聚国史 巻14 神祇14 神位2 参照
  13. ^ 同書 参照:この年、富士山の駿河国浅間神も従三位に初叙。
  14. ^ 日本三代実録天安3年(859年)正月27日甲申条 参照:加賀国白山比女神 正三位(貞観元年。貞観への改元は4月16日付)。
  15. ^ 同書 参照:この年、富士山の駿河国浅間神も正三位に昇叙。
  16. ^ 左経記」参照。 寛仁元年(1017年)9月20日条、10月2日条 内閣文庫本等:後一条天皇即位の折の発遣。穢れを祓い斎行期間に僧・尼を避ける。清和天皇即位859年を初見とし宇多天皇即位888年以降に神祇制度化、とされる。
  17. ^ 同じく「左経記」 参照。後一条天皇即位の際の、一代一度大神宝の各意匠:平文(ひょうもん)は当時世界先端の塗装工芸デザイン、金銀金属片模様を塗りこめた赤漆からの研出蒔絵で、鮮明な緋色のラッカー光沢塗装面に金銀模様が浮かぶ意匠。「紫綾蓋(四隅に金銅鈴付き)」は元来は御神体が遷宮の折に使い、祭りで氏地を渡御巡行し移動し歩く際に使い、形は御神体の周囲空間を綾・錦の円筒形垂れ布で覆う円筒形天蓋で四隅に鈴。現在の時代祭、神田祭、天神祭等では神が乗る神輿の前後に随従。「麻桶(あさおけ)」は古代に撚った糸を入れてためる容器で平文塗り。「線柱」は四角板に棒1本で古代糸撚りに使った簡素な道具で平文塗り。「折立」は容器内側を覆う美術工芸の布。「薦(こも)」は元来は神事用で穢れを祓う新鮮なマコモの敷物。
  18. ^ 左経記」参照。 寛仁元年(1017年)10月2日条、に記載される後一条天皇即位の折 一代一度大神宝使差配の日記(部分抜粋):十月二日丁卯 終日雨降、早旦(=早朝)畿内七道並給太宰宇佐使禄綿官符等仁加署、令渡外記、次参内、可覧神宝等之由云々、頃之参八省、御装束等如常、巳剋許(=朝10時頃)、右大辨被参八省東廊、被行大祓、(是依京畿七道諸神一代一度幣帛神宝等、被奉也)、・・・。を参照
  19. ^ 左経記」参照。 寛仁元年(1017年)10月2日条 に記載される、後一条天皇即位の折 一代一度大神宝使差配の詳細(部分抜粋、後一条天皇即位時は京畿七道66カ国から59神、55社):神宝支配事、 伊勢、度會、宇佐二所(=宇佐並びに太多羅志女の料)、石清水二所(=八幡並びに太多羅志女の料)、賀茂上下(=賀茂別雷大神、賀茂建角身命並びに玉依媛命)、紀伊国日前、国懸、以上十一所(=11神、7社)には、各被奉金銀幣各二枚(納平文筥、有錦折立也)、錦蓋 一蓋(付四角金銅鈴)、玉佩 一流(納平文筥(=平文の入れ物)、有錦折立(=錦の内張り布))、一尺の鏡 一面(納平文筥、有錦折立)、金銅鈴 一口(付錦緒)、以上八物等 納赤漆韓櫃 一合、以盤繪(=板彩色絵)絹覆、以赤綱結之、平文の麻桶(糸入れ) 一口、平文の線柱 一本、平文の桙(=鉾) 一本(有鐵身尻)、錺(=飾りの)剣 一腰(付唐組縫物緒、納赤漆細櫃、在紫色折立、以盤繪(=版彩色絵による)絹覆之)、赤漆弓 一張、 四筋(納赤漆細櫃)、・・・。園並びに韓神、稲荷、松尾、平野、大原野、大和国(春日、大和、大神、石上、率川)、河内国(恩知、平岡)、摂津国(住吉、大依羅、生田、長田、以上不宛驛鈴)  東海道(伊勢国多度社、尾張国熱田、駿河国浅間、これで30、伊豆国三島、下総国香取、常陸国鹿島)、東山道・・・、 北陸道(若狭若狭彦、越前気比、能登気多、加賀白山)山陽道・・・、山陰道・・・、南海道・・・、西海道・・・、 以上四十八所(=48神、48社)には、被奉 紫綾の蓋 一蓋(四角在金銅鈴)、平文の野剱 一腰(入赤漆細櫃)、赤漆の御弓 一張、箭(=矢) 四筋、平文の桙(=鉾) 一本(有鐵身尻)、五寸の鏡 一面(在 平文 錦折立)、平文の麻桶(あさおけ) 一口、平文の線柱 一本、 奉除伊勢両所並宇佐香椎等之外者、皆被奉御幣一棒(各絹五疋、綿一疋、糸一両、以薦(こも)裹(=包)之)
  20. ^ 「白山之記」(白山縁起)長寛元年(1163年)参照。
  21. ^ 小白山神社(小川町)の現地由緒石板 参照、以下要約:勧請創建は慶雲3年(706年)と伝わる白山市小川町 小白山神社がそれで、祭神は白山御子神・八幡大神。加越沿岸線浸食後退の地学歴史と遷座の歴史がある。古代当時鎮座の地、手取川扇状地扇央稜線上の海岸近くの北陸道にあったこの総門は、1200年間の加越沿岸浸食で遠く沖の海中に没し、社は元亀元年1570年に当時内陸の現在地に遷座、しかし沿岸線浸食を受けて現在再び海岸・北陸自動車道近くになっている。白山本宮による奉幣が隔年に斎行される。
  22. ^ 現地 白山比咩神社の社務所授与所 参照:現在、御贄講大祭が斎行される。社務所 授受所内に外から拝観できる大漁旗が掲げられる
  23. ^ 公式ホームページ 参照。現在、豊年講の春季大祭・秋季大祭、白山水系水利感謝祭が斎行される
  24. ^ 「白山之記」参照:白山本宮の項。
  25. ^ 「神道の基礎知識と基礎問題」神社新報社 参照:神道史の概観 2 平安の盛時 神仏習合と修験道・陰陽道
  26. ^ 同書参照:修験道の道場に使われたのは各地の名山で、大峯・熊野・加賀の白山・越中の立山・伯耆の大山・富士山・湯走山・羽黒山・榛名山など
  27. ^ 「神道の基礎知識と基礎問題」神社新報社、参照:神社と施設 2 神社の境内 境内の概念)
  28. ^ 「白山之記」参照:長寛元年(1163年
  29. ^ 「神道の基礎知識と基礎問題」神社新報社 参照。神道史の概観 8 修験道と神道:修験行はこの当時、比叡山三業の一つとして入った、とする(当時の天台宗は止観業(法華一乗)と遮那業(真言一乗)に修験業を加え三業とした、とする)。霊験や神札頒布など昔の修験道の遺風が深かった社は全国に極めて多い、とする。
  30. ^ 「白山之記」参照:延喜式神名帳に掲載、云々の項
  31. ^ 泰澄大師に関し古代同時期に確認される朝廷の公式記録はまだ未発見
  32. ^ 泰澄の事績に関し参照可能な神祇史学術本・昔の公式伝記書・地元口伝は、・『神祇史綱要』 宮地直一著(国立国会図書館デジタルコレクションの28-29コマ参照、明治書院、大正8年)、・「白山之記」長寛元年(1163年)、・朝廷上程の公式仏教史「元亨釈書虎関師錬元亨2年(1322年):釈泰澄の項及び同書の白山明神の項、・地元 白山市白峰地区市ノ瀬の永井喜市郎伝は「白山開山の泰澄一行を、風嵐村の山人 佐切源五郎が一之瀬を渡り白山山頂へ登頂を案内した」と伝える。
  33. ^ 「日本高僧傳要文抄」第二 尊意贈僧正 僧賢一、越の白山に入る 参照:「尊意僧正伝に云う、贈僧正 法印大和尚位 諱尊意、・・・尊意が少年の頃、度賀尾寺(京都 高山寺の前身)に賢一という正式に得度受戒した苦行僧がいた。親はこの僧を尊意少年の師とした。元慶2年(878年)春、僧 賢一は長く住んだこの寺を出て越の白山に入った。賢一は13歳の尊意少年に、愚僧は遠い国に行くので再会できるかわからないから、と持っていた薬師仏像を渡した。と云う」
  34. ^ 元亨釈書 参照:朝廷に上程された我が国初の公式仏教史
  35. ^ 「元亨釈書」白山明神の項 参照:{和解:神書曰 白山姫神社在加賀国石川郡 一宮記曰伊弉冉尊也 社菊理姫改暦曰妙理験者泰澄人山託感 妙理権出現曰 伊弉諾神是也 達立為大社}
  36. ^ 「元亨釈書」釈泰澄 参照:僧 泰澄は三神氏の生まれで、幼少から苦行し雑密を自ら体得し数々の抜群の霊験を示し、大宝2年(702年)に文武帝(文武天皇)から鎮護国家法師とされ神融の号を授与され、臥行者・浄定行者を弟子にし、養老元年(717年)白山を開山し白山で白山妙理大菩薩を感じ修業を続け年を重ねて次第に弟子が増え、養老6年(722年)秋に都に呼ばれて祈り天皇(元正天皇)の病気を忽ち治癒し、天平8年(736年)ごろには疱瘡の大流行に勅命を受けて祈り数日で流行を終息させた験で天皇(聖武天皇)から大和尚位(大師)と泰澄の号を授与され神護景雲元年(767年)3月に遷化した(亡くなった)、と伝えた。
  37. ^ 「平家物語」 参照。巻7:神輿は日吉大社に祀られた。神輿は路上に放置され京都市内神社に祀られた。金剱宮社伝では金剱宮の神輿は持ち帰った。
  38. ^ 「石川新情報書府:石川のすがた - 暮らし - 白山之記」 現代訳の項目における前書き 参照。他、道元に関する伝記文献参照、等
  39. ^ 「八幡宇佐託宣集」参照。正和2年(1313年)成立:僧 神吽(しんうん)の手による古伝宣託の編纂書で、「我・名・護・国・霊・験・威・力・神・通・大・自・在・王・菩・薩」の各名を持つ16巻で構成。(護巻3 に書かれた序によれば、20年余り古伝を収集し、正応3年(1290年)から正和2年(1313年)の24年間かけて編纂完成、と序に記載する)「護巻 3 八幡宇佐宮託宣集並序:神吽生比義二十一代之家。入釈氏二十八代之門。奉事廟庭。歎此陵遅。纔残留塵之記。自伝得之録年紀不次。始終不属。孔堂猶在金文。寄壁卞和何去玉石交塵。迷于直曲。雖泥異端。粗付多本。不誤一隅。疲諮詢以廿有年。湿翰墨以幾許載。欲傾耳於昔以入旨皈(旨皈=旨帰)。亜見於後以進覚照者也。唯握微管(微管=貧弱筆)窺豹文。猥馳禿筆集神教。官符已下。私令引戴。以証之以法之。又有伝曰。有私云。共夫非賢。何足為直。憖拾集為一部。以字烈定軸数。推故以今。目之八幡宇佐宮御託宣集。・・・。于時正応庚寅二月十日 神吽謹序」
  40. ^ 編纂者の神吽(寛喜3年(1231年)-正和3年(1314年)は、権僧都で法印大和尚位宇佐神宮の神職 大神氏の家に生まれ、宇佐神宮初代神官で宇佐八幡神が馬城峯に現れた際に応対した大神比義の21代。鎌倉時代の仏法求道の僧であり学僧。徳治元年(1306年)に76歳で宇佐神宮の4つの神宮寺院を統括する学頭職を勤め寺社を統括した。仏教三昧体験者で、文永11年(1274年)3月13日に摩訶止観の常坐三昧で念誦し夢うつつになった際、内陣に弥勒寺(宇佐神宮に昔存在した神宮寺)の開基であり八幡大菩薩が出家する際に得度師を務めた法蓮和尚が金色に輝き白雲に乗り現れ言葉をかけて頂く霊夢の宗教体験をした、とする。建治2年(1276年)閏3月17日夜に仏前で止観・秘密真言を誦していると眼を閉じるたびに神殿の高欄の所に高僧が出現し、言葉をかけて頂く覚醒時の宗教体験を得た、とする。
  41. ^ 「八幡宇佐宮御託宣集」参照。王巻14 馬城峯部・庭図、および、通巻10 大尾社部下 醍醐天皇御宇 延喜19年(919年)行秀聖人の古事、護巻3 日本国御遊化部 馬城峯又厩峯事、の各託宣:八幡宇佐託宣集は、有名な神仏習合神八幡神宇佐八幡古伝を神吽が40数年間集め編纂した信仰書。
  42. ^ 八幡宇佐宮御託宣集 王巻14 馬城峯部 および 庭図を参照:「一。白山権現事。八幡大菩薩之太祖権現也。第四十二代文武天皇大宝元年辛丑。泰澄和尚神融生人間飛空中。第四十四代元正天皇。養老年中。越前国加賀国之境。有高巖。号白山。有宝池。湛緑水。不常処已奇異也。和尚於此池澄心水。誦念経咒。奉備法味。祈言。定為仏神之居歟。拝色身之体。爰自洪波之心。現大蛇之身。和尚云。此是垂迹歟。仰願可現本地。其時阿弥陀如来色相耀波上。次十一面観世音菩薩光明徹水底。然而言。 ・我昔為利日本国。現天神第七代伊弉諾・伊弉冉。今住此峯。欲利一切衆生。弥陀者陽神之本地也。観音者陰神之本地也。今白山妙理権現是也。観音現身説法之山也。此尊神者応神天皇廿一代大祖也。為奉助大神之化道。早被示天童之妙体。和本山之光。倶当山之月。昔現本山之時天童。今現当山之時天童也。明王之化。延喜元年。有行秀聖人云者。行葉年積効験厳重。以神力之令然。依神慮而拝見。昔天童影現。今白山霊体是也。」(1.白山権現の事。八幡大菩薩の太祖権現である。文武天皇大宝元年、泰澄和尚泰澄の神融は人に生まれて空中を飛ぶ。・・・。願わくは本地を現してください。其の時阿弥陀如来の色が輝き、次に十一面観世音菩薩の光が水に透き徹る。私は伊弉諾・伊弉冉尊として現れこの峯(白山)に住む。一切の衆生を利したい。弥陀は陽神の本地、観音は陰神の本地、白山妙理権現である。観音が身を現し説法する山である。この神は応神天皇21代の大祖である。大神の化道を助けるために天童の体を現した。・・・。延喜元年(901年)に行秀聖人という人がいた。・・・昔は天童の影現。今の白山の霊体がこれである。)
  43. ^ 八幡宇佐宮御託宣集 通巻10 大尾社部下 醍醐天皇御宇 延喜19年(919年)行秀聖人の古事を参照:「・醍醐天皇御宇。延寿十九年己卯。「行秀聖人神慮経奏聞之時。豊前国司惟房為勅使。被建立伽藍。今正覚寺是也。彼聖人非直人也。加賀国白山権現之御霊神示天童飛来御許山之時。此聖人眼前奉写留其影像畢。行徳之所致実神妙而巳。」(醍醐天皇の御代延喜19年(919年)。行秀聖人が神慮で奏聞を経る時豊前国司惟房が勅使として伽藍を建立し正覚寺となった。この行秀聖人は尊い家柄で、加賀国白山権現の御霊神が天童の姿で御許山(馬城峯)に飛んで来た時、行秀聖人はその姿を写し留めた、実に神妙神業の出来事。)
  44. ^ 八幡宇佐宮御託宣集 護巻3 日本国御遊化部 馬城峯又厩峯事を参照:「・自其利至馬木峯流。云々。 馬城峯又 厩峯也。大御神人王之昔。乗竜馬飛翔当山之坐。人皆不知之。其馬栖于茲之。故云也。・・・。三神現石躰。三鉢出霊水。在後矣。」(神はそれから馬城峯(御許山ともいう)に遊び至り云う、馬城峯は厩峯である。大御神が人王の昔に竜馬に乗ってこの山に飛翔してきて座った。人は皆このことを知らない。・・・。三神は石体で現れ、三鉢は霊水を出す。)
  45. ^ 「元亨釈書」参照。巻17 神仙 法蔵館蔵版、及びその和解(済北沙門 師練 撰 和解 洛東比丘 恵空 和解)参照。:「白山明神者。伊弉諾尊也。{「元亨釈書和解」:神書曰白山姫神社在加賀国石川郡一宮 記曰伊弉冉尊也社菊理姫改暦曰 妙理験者泰澄人山託感妙理権出現曰 伊弉諾神是也 達立為大社}(以下略)。贊曰或人言。妙理菩薩已言。天照太神者我子也。子今後白山何。予曰。伊勢神宮。朝廷立為宗廟。白山雖伊弉諾尊。顕應在後。我又且依朝禮也。然以下不視神次。只因吾法之先後為排差耳。」
  46. ^ 「白山宮荘厳講中記録」参照。文明12年(1480年)10月16日 當社炎上:古宮の参詣道であった九重塔の坂下 白山市鶴来今町付近
  47. ^ 「白山宮荘厳講中記録 参照。文明12年(1480年)10月:京都注進に出立
  48. ^ 表参道駐車場の「祭典掲示板」毎年8月 参照:現在、白山衆徒並諸霊鎮魂慰霊祭が続く
  49. ^ 豊臣政権の天正14年(1586年)前後、前田利家が朝廷任官の頃「・・・。然處に翌日、大納言利家卿(=前田利家)御在洛之比(=京都滞在中の頃)、東の御方より白山(しらやま)の堂社ども破壞しける事かなしびにたへ給はず、いそぎ再興せよと御使(=綸旨:勅命)ありしにこそ、・・・」石川県史 宗教 慶長10年(1605年)9月27日 北村三郎右衞門入道宗甫 記 白山比咩神社文書 参照
  50. ^ 社伝 参照:社の柱に良材を得るまでに年月がかかり遅れ、良材の流木を得て竣工した、と云う
  51. ^ 「白山史図解譜」 金子有斐 1821年以前 図 参照:鳥瞰図内に白山比咩神社と本地堂記入、「為白山邨、有比咩神祠、神霊著一国、其祠庿者□□、邦君所経営也」(白山(しらやま)村に比咩神の祠が有り、その神霊は国に名高くその祠の御魂やは( 闕字アリ)邦君(藩主)が経営する所)。
  52. ^ 「石川県史」参照。第三編 第三章 學事宗教 第十節 佛教 天台宗:518 ~ 519ページ
  53. ^ 石川県神社庁ホームページ 参照
  54. ^ 江戸時代人気戯作の長編伝奇物語 曲亭馬琴(滝沢馬琴)作 南総里見八犬伝 第6輯 卷之5 第61回 敲柴門雛衣訴寃枉 辨故事禮儀吿薄命:当時の民衆生活民俗資料として参照(犬村角太郎は・・・嘆息して「・・・。私の実母は生前は名前を正香といい、性格は利発で他の婦人の方々より神仏を深く信じる人でした。私を生んだ頃、ある人が『加賀の国 白山権現(加賀一ノ宮 白山本宮)の社頭の小石を御願いして頂き幼な児の守り袋に入れておくと、その子の天然痘麻疹もとても軽い』と言うのを聞いたので、北国にゆく旅商人に、このようにお願いします、と頼みこみ、社頭の小石を取り寄せたところ、その人の持ってきた白い石を見てみたら石ではなく玉でした。その玉は・・・」と言いながら首に懸けている数珠(修験不動の最多角珠数:いらたかじゅず、の108個の珠のうち大珠数粒の一つ、八犬伝では伏姫に縁りの大珠は8個に増加)を捻(ねじ)って見せ「大きさは大体この大きさで禮(礼)の文字さえも顕れたので、持ってきた人も知らず初めて見てただ驚いていたので、母は格別に尊とび信じてそのまま私の守り袋に入れたそうです・・・」)
  55. ^ 東京国立博物館 収蔵品情報データベース 参照:金銅十一面観音坐像も境内に埋めた。
  56. ^ 「神道の基礎知識と基礎問題」神社新報社 参照。神社と施設 2 神社の境内 境内の概念:神体山の頂上境内は本社境内と定義され、飛地境内とは呼ばない、とされる。(山頂境内を飛地境内ではなく本社の境内と見る例として富士山本宮浅間神社本社と奥宮のある富士山頂上境内があり、同じく国有境内地無償譲渡の措置がなされた。)
  57. ^ 「白山宮荘厳講中記録」 参照。
  58. ^ 「白山諸雑事記」 参照:江戸時代前期、白山本宮での古伝雑事文書。白山本宮と白山寺を統括する長吏の役にあった澄意が白山に関する当時の古い言い伝えを集めた。
  59. ^ 「加賀一ノ宮郷土誌」一ノ宮公民館 参照:「獅子吼尾根の禅定道」の旧跡は、古宮公園の安久濤の森にあった昔の白山本宮から上がる「八幡(やはた)」(八幡は「白山之記」に三の宮・八幡宮・金剱の宮・岩本の宮とある八幡宮)。昔の欠損・焼損し遺棄された五輪塔石塔片が多数出土する八幡の麓から尾根道の鞍部 月惜峠へ途中の山腹に「金剛童子の祠」。登り着いた尾根道の月惜峠 避難小屋に「地蔵の護摩堂」。尾根の北端の後高山 仏舎利塔のずっと先に平安時代推定の土器出土した「せんの宿」で真下は金剱宮。後高山頂上には大蛇が住み龍となり昇天すると麓が災害になる「小池」。また月惜峠からの尾根道を南に白山を望む奥獅子吼への道筋には、泰澄大師修行の聖地で木を切ることを禁じられた「桂林林」(きらんばい)。尾根道の登り坂で杉林の中に昔は水場「延命水」の「寺屋敷(標高650m)」。女人禁制の古代には女性はここに来て白山三山の姿を遥拝した「奥獅子吼山 山頂(標高928m)」。南に下る尾根筋には白山を見て夏場修行した「宿岩(しゅくのいわ、標高800m)」。南尾根道分岐から入道山との間を南東へ下る麓の板尾に禊修行の50m落差「不動滝」(白山市河内町板尾の谷)。板尾地区の八幡社(やはた)・粟嶋社。宿岩は南北朝時代の僧、寂善坊が修行した場所、などと云う。
  60. ^ 国土地理院 地理空間情報ライブラリー 地理院地図電子国土Webのレーザ標高データ 参照、以下同じ:奥獅子吼頂上から遥拝する白山は南南東方向の県境にあり、七倉山(標高2,557m)を左下に従えた御前峰(標高2,702m)と大汝峰、剣峰、西方向右手に離れた別山(標高2,399m)。南西方向県境に大日山(1,368m)。
  61. ^ 現地徒歩確認 参照:この巡視路は、麓の八幡町(やわた:標高200m)から尾根道鞍部の月惜峠小屋(標高580m)に登る山道、麓の三宮町(さんのみや)林業試験場に併設の樹林公園(標高220m)から尾根道(林業試験場への分岐点:標高747m)に登る山道、鶴来地区 金剱宮裏手から登り風吹峠を経由して北端の獅子吼高原頂上へ辿る道、獅子吼高原頂上駅から奥獅子吼山 山頂までの尾根道、の巡視路がある。
  62. ^ 石川県鳥獣保護区 Google 参照:奥獅子吼山頂から南尾根を板尾へ降る道は藪の険路。尾根道の西側斜面から麓の樹林公園・白山比咩神社周辺までは熊やニホンカモシカたちが暮らす自然の野生動物保護区域。冬は動物も月惜峠避難小屋を使用。
  63. ^ 「石川県史」 参照:第二編 第三章 加賀藩治恢弘期 第三節 白山爭議 白山嶺上神祠の修營 384ページ
  64. ^ 蓮如上人はこれら行為を戒める御文を度々送っていた(神明三箇条 文明6年(1474年)正月11日、神明六箇条 文明7年(1475年)7月15日 など)
  65. ^ 白山宮荘厳講中記録 参照:同時期の編年体史料
  66. ^ 白山禅頂私記(しらやまぜんちょうしき)参照:白山本宮が全焼衰亡した1500年頃、当時加賀一向一揆支配の下、勧進を願い読み聞かせのため神仏縁起由緒・白山参詣現世利益を一冊にまとめた書。白山本宮が焼失した1500年頃の白山四宮は、金剱宮、白山本宮(=三宮の地にあり復興前)、佐羅宮、岩本宮の四社。越前・美濃・加賀の禅定道を神仏習合・星になぞらえる修験の仕立てで記載。
  67. ^ 「白山宮荘厳講中記録」参照:による説明
  68. ^ 「白山宮荘厳講中記録」および「白山諸雑記」 参照:春に白山本宮から山伏を派遣して様子を見させると剣峰の南方が火柱をあげ、10月には大爆発して里宮の白山本宮まで煙が流れ、南の美濃側が大被災した事。白山の御前峰の後ろにあった高山、剣峰は吹き飛び崩れ白山三峰だった泰澄大師時代の姿がなくなり白山の山容も変化した、と伝える。
  69. ^ 肥後国(熊本県)人吉藩の相良氏法度 36条 参照:「一向宗之事、いよいよ法度たるべく候、すでに加賀の白山もえ候事、説々顕然候事」
  70. ^ 「本願寺百年戦争」参照:(6章 一向一揆の終結 加賀山内衆の末路)(法蔵館)、および「白山市立鳥越一向一揆歴史館」参照:現地展示遺物
  71. ^ 石川県史 宗教 参照:前田利家も加賀一向一揆を滅ぼした。藩政時代の加賀藩にはこの時期の残虐な見せしめ刑罰の影響が残った、とする。
  72. ^ 法律用語の記述。一般には利害衝突による実力阻止妨害抗争。
  73. ^ 以下、「石川県史 第二編 第三章 加賀藩治恢弘期 第三節 白山爭議」を参照:関係文書は、加賀藩では「御直封白山爭論一件」と名づけ関係地図数枚と共に箱に収納、代々機密書類扱いで管理され、明治5年に白山の過去経緯調査の際に世に出た、と云う。
  74. ^ 石川県史 第二編 第三章 加賀藩治恢弘期 第三節 白山爭議 参照
  75. ^ 石川県史 第二編 第三章 加賀藩治恢弘期 第三節 白山爭議 大工 太郎兵衞書付(当時の横江、今の金沢市郊外 石川県白山市横江町に在住、と記す)報告書 参照:「島(桑島)・牛首・風嵐村(白峰)の3村が尾添村に使いをし、『白山頂上室の建立で杣取(そまとり:ここでは森林を伐採・製材し、さらに神祠建設材木として供給するため資材を白山頂上へ運搬する中心的な役割)をこちらに案内もなく尾添が杣取するのはおかしいです。「加賀国白山」とは昔から紛れないけれど、室町幕府の先例規定では尾添が神祠を修理するけれど、同じく先例では杣取は当方から、が規定なので神祠造立の日程を知らせてくださるべきです』という申し入れがあり、それに尾添村から『私どもは日程は知らないので金沢奉行所に行って伺ってくださいますように』と返事。そのまま杣取・神祠の造立支度を進めて白山山頂で争議行為に及んだ、と記す。
  76. ^ 石川県史 第二編 第三章 加賀藩治恢弘期 第三節 白山爭議:嶺上神祠造營の勅許 参照
  77. ^ 「綸旨」参照。寛文6年(1666年)3月1日:「賀州白山禅頂(加賀国 白山山頂)・その権現七社惣長吏職の事、専ら神事祭礼勤行等を存知る可し。造営の事、都と鄙(=田舎)は奉加に勤め、再興の功に励み神妙なるべしの旨、天気候う(=天皇の思し召しなさる)所なり。仍って執達 件(くだん)の如し。 寛文6年(1666年)3月朔日 右中辨(光雄)(捺印)  (宛先)白山七社惣長吏法印御坊」
  78. ^ 同「綸旨」 参照。文書の宛先:長吏は神祇の白山本宮と神宮寺の白山寺を統括する役で白光院僧を兼任。惣長吏は白山七社を統括。
  79. ^ 北国新聞 2008年10月11日 記事 参照:「白山信仰を世界に発信 白山比咩神社の御鎮座2100年式年大祭」等。
  80. ^ 百地章「白山比め神社奉賛会発会式」市長参列訴訟の問題点 」(日本法学 第78巻 第4号 2013年3月)、[1]田近肇宗教法判例のうごき[平成22年・公法]」(宗教法学会 2010年)、安藤高行政教分離原則に関する最高裁の2つの判決 -砂川政教分離訴訟判決と白山比咩神社大祭奉賛会事件判決-」(九州国際大学法学論集第17巻第3号 2011年3月)、飯野賢一白山比時神社大祭の奉賛会発会式への市長の参加・祝辞と政教分離」(愛知学院大学 宗教法制研究所紀要第51号 2011年1月10日)
  81. ^ 読売新聞 2010年7月23日:「白山市長の神社式典祝辞、最高裁「合憲」判決」。以下同じ。
  82. ^ 安土桃山時代。この年、豊臣政権の加賀藩祖 前田利家は朝廷官位を初叙。
  83. ^ 公式ホームページ参照:「前田利家奉加帳」
  84. ^ 「白山史図解譜」金子有斐(1821年頃)参照:加賀藩前田家が社の経営をみた、と云う。
  85. ^ 本殿を後方に数m移築、幣殿・拝殿増改築竣工
  86. ^ 公式ホームページ参照:昭和天皇が境内の杉から採取した杉の種を植えて育った「お手植えの杉」を3本移植して神木としている、と云う。以前あった古い三又杉の神木が台風暴風で倒され、当時の拝殿屋根を切り落としたため。
  87. ^ 公式ホームページ参照:六角亀甲は長寿。亀甲の太さの七五三は三つ子持ちで親子孫の家運長久。瓜は古代の珍果・高級果実で捧げることで崇敬を表す、と云う。
  88. ^ 公式ホームページ参照:表参道は老齢者には困難のため。
  89. ^ 現地の樹木 参照:近年シロアリの食害を受け、樹木医の治療必要な状態。
  90. ^ 「白山史図解譜」金子有斐(1821年頃)参照:江戸時代の白山比咩神社 鳥瞰図。
  91. ^ 現地 古宮公園にある「水戸明神社の由緒板」 参照:水戸の神は速秋津比子・速秋津比売、二柱一対の神の二神の総称。白山(しらやま)町の安久濤の森に鎮座。手取川扇状地全体を潤す、手取川水系の七ヶ用水・宮竹用水の守護神神社、と云う。
  92. ^ 公式ホームページ 参照:春と秋に白山水系水利関係者参列し式典を斎行、と云う。
  93. ^ 公式ホームページ 参照:古代にはこの丘の南の山頂に「まつりのにわ」があったとされる。
  94. ^ 現地案内板参照:舟岡山南の山頂への道。笹枯葉と土の崩れる険しい九十九折の踏み分け道の急斜面を直登する。現在、頂上の植生は大きい密集杉林で陰が濃くて見晴らしはなく土は硬い。昔、丘のこの南頂にあったとされる丘の南側を等高線沿いに巻いて子供にも上れる緩やかな坂の細道や小道から見晴らし良く手取川上流・表参道の森・古宮公園を見下ろせた場所はなく、古宮の安久濤の森に緩やかに下った長い細道もない。ブナや落葉広葉樹林、まばらで明るい林の中を周遊し木苺を探し脛まで深く弾力ある乾燥した落ち葉土で氏子の子供たちが遊んだ秘密の遊び場もない。
  95. ^ 公式ホームページ参照:神社の境内案内を受ける。明治36年 手取川用水路掘削工事のため現在地に移設。半跏地蔵尊で平安期ごろには多かった様式。環境庁 石川県による現地の由緒説明板 参照では、中世16世紀初めの「白山禅頂私記」にも登場する、とする。
  96. ^ 現地 神祠内の「社号額」と「白山比咩神社縁起の由緒板」を赤外線カメラ撮影参照:古くなり字の消えた由緒板文章には、白山比咩神社縁起、箸を捧げて歯痛に効く話、この地蔵尊は白山御宮の禅定道を守り、流れる水に死骸が流れると氷雨天災があるので白山比咩神社の神饌を調理した水だけ流れるこの場所に遷座した、と云う。
  97. ^ 白山市鶴来今町の自然石磨崖仏「波切不動尊」現地由緒板を参照(以前この地蔵尊の隣に並び鎮座):明治の手取川水系水利事業用水路の西洋式工事で粉砕決定し、数度の爆破を受けても壊れなかった奇瑞があり、人々が畏れて切り出し祀った、と云う。
  98. ^ 国土地理院 地理空間情報ライブラリー 地理院地図電子国土Webのレーザ標高データ 参照:坂下の九重塔の鶴来地区はこの川面から5mの高さ。
  99. ^ 現地 白山市白山町 古宮公園 石川県・白山市教育委員会説明板 参照:14世紀後半 南北朝時代。白山比咩神社が昔あった森で、1996年に白山管理センターの地を発掘して1700枚余りが出土。祭や儀式に使い捨てたかわらけ(素焼きの小皿の杯)で、約600年前の人たちも手取川を臨むこの場所を清浄な場所としていたと推定し、例のない遺構として移転復元
  100. ^ 「白山之記」参照:旧北陸道に白山比め神社の総門があった社「神符小河」、と云う。
  101. ^ 現地案内石板 参照:祭神の八幡大神は現在地に遷座の際に合祀された、と云う。旧社地は遠く沖合の海中にあり、中世に内陸だったこの地に遷座したが、現在再び海岸近くになった、と云う。地理上、小川町は手取川扇状地 扇央稜線上の海岸・加越沿岸近くにある。
  102. ^ 表参道の祭典掲示板の8月参照、現地 堂内由緒文参照:毎年8月17日に常例祭。江戸時代中頃まで門前の宿場商業地にあった、と云う。河濯尊像は水火の難に度々あい天文3年(1738年 戌午)に大きく修復した、と云う。明治時代は表参道脇の旅館料理屋脇の小祠に鎮座していたが、そこでも二度の不審火災に逢い、この地に遷座、と云う。
  103. ^ 午前0時 若水を神前に供える
  104. ^ 年明け 新年を告げる太鼓と共に向拝にて神職が新年の祓い
  105. ^ 午前0時に拝殿で祈祷し新年の祓い後、宮司から新年の挨拶
  106. ^ 白山市鶴来地区(旧鶴来町)小堀酒造店の南部杜氏たちが行う。午前0時過ぎに、下帯姿を整えた蔵人たちが酒蔵を出発。極寒の最中に酒樽を担いで約2キロ離れた神社へ参り、拝殿前で手を合わせ、酒造り唄を奉納した後、参拝客に清酒を振舞う。
  107. ^ 歳旦祭は午前。年始に皇室安泰と国の隆盛、世界平和を祈る
  108. ^ 古代 国司・国守(行政の長)の日本伝統に倣い、皇室繁栄と国家隆昌、人々の安寧を祈願
  109. ^ 元始祭は午前。天孫降臨に始まる国の大元を寿ぎ、皇室繁栄と国家隆昌を祈る
  110. ^ 仕事始め参拝は生業繁栄・商売繁盛・社運隆昌を祈る。官公衙・会社・事業所・各団体関係者の参拝
  111. ^ はしご登り奉納は白山市南消防団林分団による
  112. ^ 無事故安全祈願駅伝はJR西日本金沢支社社員による
  113. ^ 左義長祭は午前。小正月伝統行事、古式に則り火鑽り轆轤で熾された忌火(いみび)を松明に移し神職先導で「どんど」に点火。どんどに手を合わせ一年の無病息災を祈る
  114. ^ 紀元祭は建国記念日 午前。祝詞奏上、舞女(まいひめ)は悠久の舞を奉奏、神武天皇建国大業を仰ぎ皇室の隆昌と国家の安泰を祈る
  115. ^ 祈年祭は午前。春、農作物の生々化育を祈り一年の五穀豊穣・生業繁栄を祈る。祝詞奏上、氏子から献幣使の祭文奏上、舞女(まいひめ)による「浦安の舞」奉奏、秋の豊作を祈る
  116. ^ 下種祭は幣殿で神饌田奉耕の田長に委嘱状並びにイセヒカリの忌種(ゆだね)を授ける
  117. ^ 豊年講春季大祭は、白山の水の恵みに感謝し五穀豊穣と農作業の安全を祈る。手取川の七ヶ用水、宮竹用水、白山麓から各水利・農業関係者や豊年講世話人のまめ人たちが参列。祝詞奏上、豊年使の祭文奏上に続いて舞女(まいひめ)による浦安の舞の奉奏。手取川の扇状地は現在、石川県内最大の穀倉地帯となっている。かつてこの手取川扇状地の扇央地域は、伏流水が湧き上がる海岸近くの扇端地域と渓川の水が流れ入る両端里山の麓周辺以外では米が作れないほど水はけが良すぎたが、現在は七ヶ用水と宮竹用水のおかげで豊かな穀倉地帯に発展した。
  118. ^ 1年に1度、参集殿神殿に鎮座する大神様に結婚式を始めとする参集殿・遊神殿に集う人々の安全を祈る常例祭
  119. ^ 鎮火祭は午前。古式に則った鎮火の神事で一年の防火防災を祈る。神職による大祓詞奏上のなか神前で護摩木が焚かれ、水・砂・川菜(芹)による「鎮火の儀」を行う。消防関係・氏子自警団関係者参列。続いて三宮自警団の出初式が行われ放水訓練と消火設備点検実施。鎮火祭は奈良時代から始まったと伝わる。
  120. ^ 境内社の荒御前神社の常例祭
  121. ^ 鎮花祭は午前。花を鎮めることで疫病を防ぐ祭り。神饌と桜の花が供えられ、舞女(まいひめ)は桜の枝を手に「白山舞」を奉奏し、疫病の神を鎮めて無病息災を祈念。古来より春の花が咲く春先の時期には疫病が流行すると信じられていた由来から。
  122. ^ 昭和の日は、花の冠に花束で舞女(まいひめ)が「悠久の舞」を奉奏、波乱と激動の時代を経て終戦後復興を遂げた昭和の時代を顧み、我が国の繁栄を築き上げることが出来たのは昭和天皇の大御心と昭和時代の先祖たちの努力の賜物と顧み、皇室の隆昌と国運の発展を祈り国の将来に思いをいたす。
  123. ^ 白山比咩神社創祀之地顕彰祭は、舟岡山の丘の上での寄進顕彰祭。舟岡山は崇神天皇7年(前91)に「まつりの庭」が設けられた創祀の地。
  124. ^ 献幣使を石川県神社庁から迎え、祝詞奏上、献幣使の祭文奏上、舞女(まいひめ)4名により「浦安の舞」を奉奏。神徳に感謝を捧げ、皇室弥栄、国の隆昌と世界の共存共栄、崇敬者の安寧を祈る。古くは国司(当時の県知事)も参列していた由緒ある祭事。古例を受け継ぐ特殊神饌の「梅枝糕(うめがえもち)・口型餅(くちがたもち)・舌型餅(したがたもち)・寄餅(よせもち)」が御饌・神酒・海の幸・山の幸とともに供えられる。
  125. ^ 御田植祭 水口奉幣と御田植の儀。奉耕田の斎田で地元子どもたち奉仕の早乙女が紅白の装束に身をつつみ神宮より拝受した「イセヒカリ」早苗を太鼓の音と田長のかけ声に合わせて植え、五穀豊穣を祈願。平成13年に伊勢神宮からイセヒカリの籾種(もみだね)を拝戴して以来始められた祭り。
  126. ^ この稲は秋の抜穂祭で収穫されたあと、当社の祭典に神饌としてお供えされ、新嘗祭に供えられ、さらには「懸税(かけちから)」として伊勢の神宮に奉納される。
  127. ^ 御田植祭で植えられる苗は「イセヒカリ」という品種。平成元年に三重県を2度の台風が襲い、伊勢の神宮の御田で育てられていたコシヒカリの稲穂は全て倒れた中、2株だけ台風に耐え直立を保った稲があり、それはコシヒカリとは異なる新しい品種であり、神宮に因んで「イセヒカリ」と名付けられ、以後神宮における神饌米として用いられている。平成13年に神宮よりイセヒカリの籾種を拝受し、育苗後、御田植祭の苗として使用される。
  128. ^ 水戸明神 春祭は安久濤の森で斎行。手取川の河畔 旧鎮座地、安久涛の森(古宮公園)にある水戸明神社で水利祈願し、水の神様への感謝と秋の豊作を祈る。鈴扇の舞を奉奏。手取川水利事業の土地改良区関係者参列。この地「安久濤の森」の岩場高台の地下には取水口からの水を七ヶ用水・宮竹用水へ給水するトンネルが通り、加賀平野全体を潤す用水路の扇頂起点で用水路とサイフォン施設を使い手取川の右岸・左岸を灌漑し、分岐用水は伏見川犀川へも注ぐ。
  129. ^ 御贄講大祭(みにえこう)は毎年6月第1土曜日 午前に、漁業関係者が白山比咩神に大漁満足と海上安全を祈る祭。平安時代 長和5年(1016) に加賀の7つの湊からの御贄(みにえ)(魚などの貢ぎ物)があったのが起源と社伝に伝わる。神前に県内各地の漁協や水産加工会社など漁業関係者が参列し奉献された多数の大きな鯛やワカメ等の海の幸が供えられ、献幣使を漁業協同組合から迎え、祝詞を奏上、舞女(まいひめ)2人による「大漁神楽」が奉奏され、漁協組合員により伝統の祝い歌「御酒(ごんしゅう)」を奉納。この神楽「大漁神楽」は2人の舞女(まいひめ)が向かい合って座り、釣り竿で鯛を釣り上げる様子を神楽にしたもので、この祭典だけに奉奏されるもの。白山は古来より日本海上における「山だめ」の指標とされ、航海・漁業の守護神として崇められてきた。
  130. ^ 古遷座祭は、古い時代に当社が元正天皇の詔によって十八講河原から安久涛の森に遷座した記念日の祭り。敬老祭は、同じく古きを偲ぶ趣旨から一ノ宮地区の氏子の長寿者を招く祭りで、直会で大正琴の演奏や舞踊を披露。
  131. ^ 夏越大祓は当日午後の式典。茅の輪くぐりは7月2日まで。日頃、無意識に犯している過ちや罪穢れを祓い清め、明るく楽しく、大晦日まで健康に過ごせるように祈り参拝。境内社頭に「茅の輪」が設けられ、参拝者らは神職とともに常日頃知らず知らずの内に犯している過ちや、身に付いた罪・穢れ・災いを人の形をした紙の人形(ひとがた)で身を撫で息を吹きかけて移し、古歌「白山(しらやま)の 夏越の祓する人は 千歳(ちとせ)のよわい 延ぶというなり」を唱えつつ、茅の輪を左・右・左と三度くぐる。
  132. ^ 白山御安泰登拝安全祈願祭は白山登拝口の別当出合で斎行。白山比咩大神に地震、水害、火山活動等の自然災害がないよう霊峰白山の安泰を祈願し、併せて今シーズン登拝安全と白山の恵みに感謝の祈りを捧げる。
  133. ^ 奥宮祈祷殿(白山天嶺の室堂平)で斎行。登拝者の道中安全また身体健全を祈る。
  134. ^ 斉田の害虫駆除と秋の豊作を祈る
  135. ^ 開花祭は午前。県内外の花卉生産・流通・販売の関係者が出席し、花関係者を献幣使に迎え、花への「つくる喜び」・「売る喜び」・「飾る喜び」を白山比咩大神様に感謝する祭り。色鮮やかに美しい花々が奉納される。拝殿や向拝には色鮮やかなフラワーアレンジメントが供えられる。
  136. ^ 白山奥宮大祭は朝。奥宮祈祷殿(白山天嶺の室堂平)で斎行。泰澄大師が白山を開山した白山開山の記念日(旧暦の6月18日)の大祭で、白山比咩大神の御神徳に感謝を捧げ、皇室の弥栄と国の隆昌、白山登拝者の道中安全と身体健全を祈る。大祭では、宮司の祝詞奏上の後、舞女(まいひめ)による神楽「浦安の舞」が奉奏される。登山し、宮司の玉串拝礼、参列者が玉串拝礼する。
  137. ^ 夏休みラジオ体操会は 夏休みには毎年恒例の早起き体操会が行われていて、境内には毎朝早朝に子供達が集まり、朝の清々しい空気を吸い込んで体操に励む。この体操会は社頭で戦後まもなく始められ続いている。
  138. ^ 虫送り行事は、氏子の三宮・白山両町内の子供達が参加。子供達は神社を参拝後、忌火(いみび)のついた松明(たいまつ)やでんでん太鼓を持ち町内の田んぼを練り歩き、害虫の駆除と秋の豊作を祈念。
  139. ^ 夏まつり白山水系水利感謝祭は午前 白山から流れる水の恵みに感謝の誠を捧げ、あらゆる命の親神を称え、白山水系の益々の発展を祈る。
    • 神賑行事として8月14日に奉納弓道大会、8月16日に奉納剣道大会が行われ神社の多目的施設で日ごろ鍛えた技を競う。手取川扇状地では良質な伏流水が豊富で数多くの先端産業が進出している。緻密な電子部品の洗浄にこの伏流水が利用されている。飲料・醸造食品にも利用されている。
  140. ^ 写生大会は白山比咩神社の行事の中で、終戦後昭和24年(1949年)からの歴史がある行事。写生大会は4月中旬~9月初旬まで開催され、9月中旬に奉告祭、並びに表彰式が執り行われる。
  141. ^ 旧鎮座地古宮公園の安久濤の森に鎮座する水戸明神の秋祭りを斎行。旧鎮座地安久濤の森(古宮公園)に鎮座する水戸明神の秋祭で、水利事業・用水関係者が今年の水の恵みに感謝の誠を捧げる。昭和29年に用水の守護神として社殿が建立され、毎年春と秋に祭典が執り行われる。
  142. ^ 白山まつりは、当社氏子の白山町の秋まつり。早朝に社頭で白山町青年会による加賀獅子舞奉納。
  143. ^ 抜穂祭は午前から。早乙女の装束に身を包んだ小中学生が田長の掛け声に合わせ忌鎌でイセヒカリの稲穂を収穫。刈り取られた稲穂は田男(さおとこ)たちにより調製されて神前に供えられ、11月の新嘗祭をはじめとする祭典で神前に供えられるほか、伊勢の神宮へも「懸税(かけちから)」として奉納する。
  144. ^ 豊年講秋季大祭は前後2日間の、午前。実りの季節に手取川流域の七ケ用水・宮竹用水・白山麓の人々が集い、水源地である白山の水の恵みに感謝を捧げる祭り。神前には各地で育て収穫された初穂米が山の様に供えられ、舞女(まいひめ)により稲穂を手にして舞う「悠久の舞」が奉納される。白山から流れる手取川の水を引いた「七ヶ用水」「宮竹用水」の恩恵に預かる加賀平野一円の農家が講員として参加。前の日には、手取川七ヶ用水土地改良区からの参列で 豊年使から祭文を奏上し、後の日には、手取川宮竹用水土地改良区と白山麓からの参列で 豊年使から祭文を奏上し、右岸の七ヵ用水・左岸の宮竹用水と上流の白山麓から白山比咩大神への感謝と更なる加護を祈念。
  145. ^ 「七五三詣で」は子供たちの無事な成長を祈る祭り。11月中。
  146. ^ 明治祭は明治天皇を紀念する祭り。明治天皇の聖徳を仰ぎ、皇室弥栄と国運隆昌、文化・産業のさらなる発展、平和繁栄を祈る。氏子および一般祈祷者が参列し、神前に菊の花を供え、宮司祝詞奏上、舞女(まいひめ)により「悠久の舞」が奉奏される。
  147. ^ 新嘗祭は重要な祭典で、神様に加護と恵みで今年も無事に新穀実りを収穫できたことへの感謝の誠を捧げる祭り。10月の抜穂祭で奉耕田で収穫されたイセヒカリを和稲(白米)・荒稲(玄米)に調整し、粟・黍・麦・小豆とともに五穀として供える。祝詞奏上、氏子代表による献幣使の祭文奏上、舞女(まいひめ)により「浦安の舞」が奉奏される。
  148. ^ 大注連縄は太さ約80センチ・長さ8メートル・重さ約300キロ
  149. ^ 煤払祭の後、氏子青年会により向拝に大注連縄の張り替え、取り付け奉仕。
  150. ^ 新年を迎える準備。生業繁栄・醸造満足を祈り、菓子・酒・清涼飲料水・醤油・味噌・漬物・海産物の奉納。提灯の奉納により初詣の社頭を飾る
  151. ^ 茶道関係者を迎え、祝詞奏上、「献茶の儀」奉仕。神前に濃茶・薄茶が供えられ、神徳への感謝と茶道の一層の発展を祈る。神社各施設、協賛展観席でお茶席が設けられる。

参考文献[編集]

  • 白山本宮神社史編纂委員会編『図説白山信仰』(白山比咩神社、平成15年)
  • 『日本歴史地名大系 石川県の地名』(平凡社)総論 白山項、石川郡鶴来町 白山比咩神社項

関連項目[編集]

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