金剱宮

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金剱宮
金剱宮 拝殿.JPG
拝殿
所在地 石川県白山市鶴来日詰町巳118-5
位置 北緯36度26分59.11秒
東経136度37分48.66秒
主祭神 瓊々杵尊
社格県社
創建 (伝)崇神天皇3年
例祭 10月2日
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金剱宮(きんけんぐう)は、石川県白山市鶴来日詰町にある神社旧社格県社。金剱神社、金剱明神、剱明神とも。

概要[編集]

鳥居

鶴来(つるぎ)の町の中心部に鎮座する。近世に「金劔宮」と呼ばれるようになるまでは「劔宮」・「劔神社」と呼ばれ、「鶴来」の地名もこれに由来するとされる。

白山七社のうちの一つで、そのうち白山本宮(白山比咩神社)・三宮・岩本とともに本宮四社の一つにあたる。

秋の例大祭は、ほうらい祭りとして知られる。

祭神[編集]

主祭神
配神

歴史[編集]

社伝では、創建は崇神天皇3年とされる。

神仏習合時には、多くの伽藍を有していたと伝えられる。また、寿永2年(1183年)、源義仲倶利伽羅峠の戦いで平家に勝利した際に神宝が現れ、義仲は鞍付きの馬20頭を寄進したとされる[1]。 建武3年(1336年)北陸越前の金ヶ崎の戦い (南北朝時代)では、後醍醐天皇の御味方として足利尊氏方の軍と闘う氣比神宮に呼応し、加賀国の剣(つるぎ:金剱宮)は白山(しらやま:白山本宮)の衆徒等と共に後醍醐天皇方から御味方と頼まれる勢力であった[注釈 1] [注釈 2] [注釈 3]明治5年(1872年近代社格制度において「金劔神社」として郷社に列し、明治28年(1895年県社に昇格した。

明治39年(1906年)境外末社の大國社・恵比須社・日吉社・ 大鳥社の4社を合併。明治41年(1908年)境内末社の菅原社を、 大正3年(1914年)に村社の日吉神社を合祀した。

大正13年(1924年)に鎮座二千年祭、昭和37年(1962年)に二千五十年祭、平成7年(1995年)に二千八十年祭、平成17年(2005年)に二千百年祭が斎行された。

神階[編集]

境内[編集]

  • 本殿
    • 祭神は地神第三の尊である天津彦火瓊瓊杵尊、大国主命、事代主神、大山咋命、日本武尊、菅原道真を奉安する。金剱宮の中心社殿。前口二間半、奥行二間。明治42年造営。もとは流造の檜皮葺(ひわぶき)のところ、平成5年大屋根修理で銅板葺となる。
  • 拝殿
    • 拝殿は、前口五間、奥行五間。明治16年造営、23年完成。権現造銅板葺で、入母屋造大唐破風の向拝を張り出す。拝殿・幣殿・本殿と奥へ一直線に配置される。朝に大人・子供たちの境内清掃奉仕がされる。
  • 天忍石(牛石)
    • 影向石(ようごうせき)、神の依り代。言い伝えでは金剱宮境内社頭のこの石は、古くよりこの石に神霊が降臨した影向石で、天忍石(あまのしのぶのいし)と呼ばれてきた(鶴来町誌 明治16年刊)。丒石(うし石、字は一に刃)という別名は形が小牛に似ているところからとも。[注釈 4]
  • 天乃真名井
    • 金剱宮の境内に湧く泉。天の真名井(あめのまない)は天平年間(729年-749年)から伝わる古池とされる。戸の池、殿池とも言われた時代があり、「三州名蹟誌」等にも記録がある。大干ばつの時も長雨の時も変わらぬ水量で知られる[注釈 5]。「明星水」「天忍石水」として住民からの尊敬も篤い。近年石板建立で装いを新たにされた。
  • 社務所と山のウラジロカシの杜
    • 金剱宮の境内社務所。社殿後背には常緑広葉樹、石川県指定天然記念物の『金剱宮社叢ウラジロガシ林』が広がる。
  • 拝殿幕神紋
    • 金剱宮拝殿幕で神紋は五七桐紋、古代は天皇家の紋で功績のあった武門に賜ったとされる紋章。
  • 釣灯籠
    • 金剱宮拝殿の回廊に懸かる釣灯籠は金銅製、紋章は十六八重表菊紋(皇室の菊紋)
  • 拝殿屋根
    • 金剱宮拝殿屋根は権現造銅板葺、紋章は十六表菊紋(十六弁一重表菊)
  • 手水舎
    • 金剱宮の手水舎。拝殿前、影向石の側の近くにある。
  • 舞殿
    • 金剱宮の境内舞台殿。能猿楽の舞台。舞殿の正面向かって左後に渡廊下と楽屋が備わる。
  • 神馬の像
    • 金剱宮の境内拝殿の向かって右に建つ。腹帯に神紋の青銅像。寿永2年(1183年)春、木曽の源義仲が倶利伽羅谷合戦の大勝を奉謝して鞍置馬20頭を寄進した故事を紀念して。
  • 義経腰掛石
    • 金剱宮の境内石【義経由緒】文治2年(1186年)には、京都から奥州へ落ちる源義経主従が金剱宮に参拝し、夜通し神楽を奉納したと「義経記」に記されていて、義経奉納の太刀一口が有ったという口伝がある。その折に境内のこの石に腰掛け、眼下に広がる平野や手取川を眺めたと伝えられる。「義経記巻七」[注釈 6]
  • 金劔宮の由緒掲揚板
    • 板書文 御創立以来二千有余年を経た古社であって、古来 尚武健康の神として崇敬が篤い。【一、祭神】【二、由緒】【創立】【隆盛】【神事】【旧社格】【境内】を記載。
    • 社は東の山を背景に西方の手取川に向かって見下ろし、北の日本海へ向かって広がる扇状地を一望する源・扇頂の要地、手取川から30m高く洪水氾濫水害を受けない河岸段丘高台北端に鎮座。
  • 【社号標・正面階段、及び案内板】
    • 社頭門前は山腹を切通しこの河岸段丘の高台へ通された自動車バイパス道。[注釈 7]
  • 【男坂の鳥居と石段】
    • 金剱宮下の境内にあり、正面真下から急勾配を直登する石段(傾斜30度-40度で高度差約10m)。
  • 【女坂の鳥居と石段】
    • 金剱宮下の境内にあり、正面南側下方から石段となだらかに上る坂道で女坂と呼ばれる。途中不動滝と石清水社がある。
  • 【金剱宮不動滝】
    • 金剱宮下の境内、女坂を上る途中にある。金剱宮から鶴来日詰町へと河岸段丘を流れ落ちる滝。高さ約15メートル、幅約7メートル。冬に氷柱を生ずることがある。ここは神仏習合の修験道時代には禊の道場だった場所で日詰(ひづめ:鶴来日詰町)の名もその禊場から、と伝わる。
  • 【石清水社】
    • 湧水の水質は清んで飲み水・洗眼に心地よい、とする。水は冬温かく夏冷たく枯れたことはないと伝わる。
  • 【小川幸三生家記念碑】
    • 金剱宮下の境内にある小川幸三忠篤 生家址の記念碑。幕末加賀藩勤王志士の首魁。禁門の変(元治の変)に関し29歳で斬首。明治維新後叙正5位。金剱宮下の境内にある[注釈 8]

摂末社[編集]

  • 招魂社
    • 金剱宮の境内社。護国の英霊を祀る。
  • 乙劔宮
    • 金剱宮の境内社。彦火火出見命(ひこほほでみのみこと:ホオリ、山幸彦で知られ、祭神の瓊々杵尊の御子)を祀る。
  • 恵比須社
    • 金剱宮の境内社。大阪今宮戒(いまみやえびす)社の分霊を祀る。
  • 金刀比羅社
    • 金剱宮の境内社。崇神天皇を祀る。
  • 丈六社
    • 金剱宮の境内社。大山咋命、猿田彦命、日本武尊、菅原道真公を祀る。大山咋命は巨大な天の杭を山に打ち込んで農地の場所を確保し、農業を守る神。
  • 粟島社
    • 金剱宮の境内社。少彦明神を祀る。少彦神は粒のように小さな神で、穀物の種とともに飛んできて日本を国造りし、国造りを終えたら粟の茎にのぼり茎が跳ねて常世に飛んでいった神。

現地情報[編集]

所在地
交通アクセス

脚注[編集]

  1. ^ 平家物語』。
  2. ^ 『石川県の地名』金剣宮項。

注釈[編集]

  1. ^ 太平記 巻十七 金崎城攻事付野中八郎事(金ヶ崎の戦い(南北朝時代)で越前の氣比神宮は自ら後醍醐天皇の御味方として参戦、足利軍と戦闘)
  2. ^ 太平記 巻第十八 先帝潜幸芳野事(足利尊氏軍の京都支配下、越前金ヶ崎の戦いの長引く中、京都に残った後醍醐天皇は吉野に南朝を建てる建白を聞く)物語:・・・花山の近き例をも追ばや(花山院のように出家も)と思召立せ給ける処に、刑部大輔景繁、武家の許を得て只一人伺候したりけるが、勾当内侍を以て潜に奏聞申けるは、「越前の金崎の合戦に、寄手毎度打負候なる間、加賀国・剣(つるぎ)・白山(しらやま)の衆徒等御方に参り、富樫介が篭て候那多の城(加賀 那谷寺の城)を責落して金崎(越前 金ヶ崎城)の後攻を仕らんと企(くわだて)候なる。・・・。」と、委細にぞ申入たりける。主上事の様を具に被聞召、さては天下の武士猶帝徳を慕ふ者多かりけり。是天照太神の、景繁が心に入替せ給て、被示者也と被思召ければ、・・・(・・・後醍醐天皇が花山院のように出家もと考え始めておられた時、刑部大輔景繁は足利軍の許可を得て一人で後醍醐上皇にお伺いし密かに申し上げるには「越前国の金ケ崎の合戦では、寄せ手の足利軍は毎回打ち負かされています。このあいだに加賀国の剣(金剱宮)・白山(白山本宮)の衆徒等は御味方に参上し、那多の城(足利尊氏配下が占拠する那谷寺の城)を落として後攻をと計画中です。・・・」と、詳細に提案申し上げました。後醍醐天皇は事態の有様を具体的につぶさに聞かれ、・・・天照大神様がこの景繁の心に入れ替わって御自分のお考えを話させているのだろうと思われ・・・)
  3. ^ 太平記 巻第十八 瓜生挙旗事 物語:越後守師泰は此由を聞て「若(もし)遅く退治せば、剣(つるぎ)・白山(しらやま)の衆徒等成合て、由々敷(ゆゆしき)大事なるべし、時を不替、杣山(そまやま)を打落して、金崎の城を心安く可責。」とて、・・・(足利尊氏軍の越後守 高師泰(こうのもろやす)はこれを聞いて「もし攻め落とすのに手間取れば、剣(金剱宮)や白山(白山本宮)の衆徒等が合流して、容易ならない事態になるはず。すぐ杣山城(そまやまじょう)を攻め落とし、金ヶ崎城を安心して攻めよう」と考えて、・・・)
  4. ^ 社伝由緒によれば、この地に崇神天皇3年(紀元前95年に比定)の創建と伝えられ、平安以前は「剱宮(つるぎのみや)」と称し、剱(つるぎ)集落の発生と時を同じくして鎮斎せられたと伝わる。その後、集落は地理的、通商産業事情により現在の白山市鶴来町の中心街(海抜92m、手取川氾濫時には洪水被害をうけていた)へ降りたが、神社は鎮座地(標高120m)を動くことなく現在に至っている。さらに社伝では、古代出雲文化が海岸線沿いに能登地方へと及んだのに対し、この地方は大和文化の拠点、として石川県内では最も古い文化の発祥地、とする。町内史跡にも古墳時代継体天皇前後の西暦約500年前後と云われ人骨が納まる家形石棺等がある。
  5. ^ 「神の池が有り、その水は大干ばつや久しい長雨でも未だ曽て増減したことがなく、雨を祈れば必ず応えがある、と伝わる。有神池、其水大旱久霖、曾無増減、祷雨必有応(白山史図解譜 金子有斐 1821年以前)
  6. ^ 義経記巻七に、「安宅の渡りを越えて根上の松に着き給ふ。・・・明くれば白山に参りて女体后の宮(白山比咩神社)を拝み参らせて、その日は剣の権現(金劔宮)の御前に参り給ひて、御通夜あり、夜もすがら御神楽参らせて、・・・」。かつてはここに義経笈掛の松もあったとされる。(※笈(おい)=回国の修験山伏や勧進僧が勧進の経典や衣類を入れて背負った葛篭(つづら))
  7. ^ 「白山之記」(写本 正応4年(1291年))によれば、平安時代~鎌倉時代の本地垂迹時代の神仏習合では、主神 瓊々杵尊の本地は倶利伽羅明王で、男神の白山第一御子彦神(白山妙理権現の第一王子)とされていた。金剱宮は当時から白山七社の一つに数えられ、白山本宮、三宮、岩本宮とともに本宮四社と称号された。
  8. ^ 江戸時代幕末、大藩の加賀藩は公武合体・佐幕・討幕に迷走し維新政府を樹立した長州志士達と交友連携する藩内同志・有為な勤王人材を弑し一掃した。小川幸三は京で医学を学び江戸で時勢を知り建白書二度目の文久2年(1862年)に藩主前田斉泰に屏風越しに「中央政治への藩公参加」を直接建白。文久3年(1863年)将軍上洛に供奉する斉泰のため定番徒士に登用されたが、元治元年(1864年)京都禁門の変で勤王の友藩長州との戦いを避けた世嗣前田慶寧の元へ参上し藩に戻り逮捕され、徳川幕府への恭順を急ぐ藩により「元来過激之説を唱え候 根元之者にて不届き至極」10月26日、斬首。維新後明治24年(1891年)9月靖国神社合祀及び同年12月贈正5位、「慷慨義に赴き実に加賀藩勤王論の魁首たり」。妻の昌子は夫の刑死後地元で地道な教育に尽力し、引き立てがあり国内各地の師範学校を勤め、晩年明治26年(1893年)に名を直子と改めて明治天皇皇女常宮・周宮両内親王の教育係を10年間奉仕したという(「加越能維新勤王史略 p.31」 小川幸三忠篤、「京都大学付属図書館 維新史料画像データベース 維新資料人名解説データ 人名索引 63名」 小川幸三、「石川県史 第二編 第五章 加賀藩治終末期 第四節 元治の變」小川幸三、時代小説「女人天華」、他)

参考文献[編集]

  • 境内の掲示板『金劒宮』著者は金剱宮社務所、設置年月記載無し
  • 『石川県神社誌』編集 石川県神社庁(発行 石川県神社庁 昭和51年10月26日)
  • 『加能郷土辞彙』著作 日置謙(発行 北国新聞社 昭和31年8月1日)
  • 『神道史大辞典』編集 薗田稔・橋本政宣(発行 吉川弘文館 平成16年)
  • 『日本歴史地名大系 石川県の地名』(平凡社)石川郡鶴来町 金剣宮項

関連項目[編集]

外部リンク[編集]