ココ・シャネル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
ココ・シャネル
Coco Chanel
Chanel.JPG
ココ・シャネル(1920年)
生誕 Gabrielle Chasnel[1]
ガブリエル・シャネル

(1883-08-19) 1883年8月19日
フランスの旗 フランス共和国メーヌ=エ=ロワール県ソミュール
死没 (1971-01-10) 1971年1月10日(87歳没)
フランスの旗 フランスパリ
国籍 フランスの旗 フランス
著名な実績 ファッションデザイナー

ガブリエル・ボヌール・「ココ」・シャネルGabrielle Bonheur "Coco" Chanel1883年8月19日[2] - 1971年1月10日)はフランスのファッション・デザイナー、企業家であり、シャネルブランドの創設者。第一次世界大戦第二次世界大戦の戦間期における彼女のデザインを通じて、「コルセット・シルエット(corseted silhouette)」の束縛から女性が解放され、スポーティー、カジュアル・シックな服装が女性の標準的なスタイルとして確立されたとされている。多作なファッション・クリエイターであり、高級婦人服の枠組みを超えて影響力を広げ、ジュエリー、ハンドバッグ、そして香水において独自の美学を完成させた。代表的な香水、シャネルNo.5は彼女を象徴する製品となった。シャネルは『タイム』誌の20世紀の最も重要な100人英語版にファッション・デザイナーとして唯一リストされている[3]。また、彼女自身がデザインした有名な「C」を2文字組み合わせたモノグラムは1920年代から使用されている[4]:211

シャネルは政治的には保守的な信条を持ち、ナチス・ドイツによるフランス占領の最中にはドイツに協力的な行動を取っていたことでも知られている。ドイツ当局との密接な関係、そしてドイツの外交官ハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲ(Hans Günther von Dincklage)男爵英語版(Freiherr)との緊密な関係を通じて、有利な立ち位置を維持した[5][6] 。戦後、シャネルはフォン・ディンクラーゲとの関係を尋問されたが、イギリス首相ウィンストン・チャーチルの仲介によって枢軸国に対する協力者英語版として訴追されることを免れた。そして、戦後数年間をスイスで過ごした後、パリに戻り自分の店を再開した。戦後もファッション・デザイナーとして第一線で活動したが、1971年1月に死去した。

幼少期[編集]

ガブリエル・ボヌール・シャネルは、1883年、洗濯婦ウジェニー・ジャンヌ・ドゥヴォル(Eugénie Jeanne Devolle、以下、ジャンヌ)の子として、フランスメーヌ=エ=ロワール県ソーミュールの、修道女会(Sœurs de la Providence)が運営する慈善病院(救貧院)で生まれた[7]:14[8]。ガブリエルはジャンヌとアルベール・シャネル(Albert Chanel)の第二子であり、姉のジュリアが1年ほど前に生まれている[8]。アルベール・シャネルは各地を回って作業着や下着を売り歩く行商人で[9]:27、定住所を持たず市場のある町から町へ移動する生活を送っていた。一家は荒れ果てた宿泊施設で暮らしていた。アルベールがジャンヌ・ドゥヴォルと結婚したのは1884年のことである[7]:16。これはジャンヌの家族に説得されてのことであった。一家は「協力して、事実上」、すでにアルベールに結婚のための「費用を支払っていた」のである[7]:16

ガブリエル・シャネルの出生届には「Chasnel」と記録された。この時ジャンヌは体調不良で届出に立ち会うことができず、アルベールは「不在」であった[7]:16[10]:41。両親不在のもと、代理人の手で行われた出生届で姓の綴りが間違って登録されたのはおそらく事務的な手違いである。アルベールとジャンヌの間には二男三女があり、一家はブリーヴ=ラ=ガイヤルドの一部屋だけの住居にすし詰めで暮らしていた[8]

ガブリエルが12歳の時[4][11] 、母ジャンヌが死去した。ガブリエルことココ・シャネルは母が32歳で結核により死亡したと後に主張しているが[7]:18、これは必ずしも死因の正確な診断とは言えず、むしろ貧困、妊娠、そして肺炎が原因であった可能性が高い[12]。父アルベールは息子2人を農場労働者として送り出し、娘3人はオーバジーヌ英語版の聖母マリア聖心会(religieuses du Saint Cœur de Marie)が運営する孤児院に預けた。聖母マリア聖心会は「捨てられて孤児になった少女たちのために家庭を与えるなど、貧しく排除された人々を保護するために設立された」修道会であった[7]:27。孤児院での生活は、厳格な規律が課せられる厳しく質素なものであったが、ここで裁縫を学んだことは、彼女の後の仕事につながる経験であった可能性がある。しかし、シャネルは孤児院送りとなった時の惨めな気持ちを後年「何もかも奪われてしまった。自分は死んでしまったんだ」と回顧している[13]:21。そしてここでの暮らしについて決して語ることがなかった[13]:21。18歳になるとオーバジーヌの孤児院を出なければならなかったため、彼女は次にムーランの町のカトリック女子寄宿舎に預けられた[14]:5

シャネルが晩年に語った子ども時代の話には多少矛盾があり、しばしば魅力的な話を付け加えているが、このような話は概ね事実ではない[8]。たとえば、彼女は母親が死去した時、父が運命を切り開くべくアメリカに向かい、自分は二人のおばに預けられたと語っているし、実際の生年より10年も後に生まれたとか、母親が亡くなったのは彼女が12歳のときではなく、これよりずっと幼かったなどの主張をしている[15][信頼性要検証]。また、ミドルネームであるボヌール(「幸福」の意)は洗礼式の際に彼女を洗礼盤の上に運んだ修道女が将来の幸福を祈って名付けたものだとも語っているが、洗礼証書にはガブリエルの名前しかなく、これも創作であると見られる[10]:43

初期の経歴[編集]

舞台を目指して[編集]

オーバジーヌ英語版で6年間裁縫を学んだ後、シャネルはある仕立て屋で職を見つけた[16]。そして副業として騎兵将校の溜まり場となっていたキャバレーで歌を歌ってもいた。シャネルはムーランのパビリオンのカフェ・コンセール(当時人気の娯楽の場)「ラ・ロトンド(La Rotonde)」で舞台デビューとなる歌を歌った。彼女の仕事はposeuse(スターたちが舞台で入れ替わる幕間に観客を楽しませて場を繋ぐパフォーマー)であり、その収入源はプレートを渡された時のチップを貯めることであった。彼女が「ココ(Coco)」という名前を得たのはこの頃である。彼女は夜にこのキャバレーで歌う時、しばしば歌った歌が「ココを見たのは誰?(Qui qu'a vu Coco ?)」であった。彼女はココというニックネームを父親から与えられたものだと言うのを好んだが[17]、「ココ(Coco)」は彼女のレパートリーの曲「ココリコ(Ko Ko Ri Ko)」及び「Qui qu'a vu Coco ?」、または囲い者を暗喩するフランス語の単語「cocotte」から来ていると考えられている[18]。エンターテイナーとしてのシャネルはキャバレー通いの若い軍人たちを魅了し誘惑した[14]

1906年、シャネルは温泉リゾート地ヴィシーで働くようになった。ヴィシーは林立するコンサートホール、劇場、カフェを誇っており、彼女はそこで芸能人として成功することを夢見た。シャネルは若さと肉体的な魅力によってオーディションの審査員たちに強い印象を与えたものの、その歌声に対する評価は低く、舞台の仕事を得ることはできなかった[9]:49。何としても職を見つけなければならなかったシャネルはグランド・グリーユ(Grande Grille)でdonneuse d'eauとして勤務した。この仕事は、治癒効能があるとして有名なヴィシーのミネラルウォーターをグラスに注いで分けるというものであった[9]:45。ヴィシーの公楽シーズンが終わると、シャネルはムーランに帰り古巣の「ラ・ロトンド」に戻った。この時には彼女は自分の将来において舞台での成功が見込めないことを認識していた[9]:52

バルサンとカペル[編集]

セムが描いた、シャネルとアーサー・カペル「ボーイ」を描いた風刺画。(1913年)

ムーランで、シャネルは若きフランス軍の元騎兵将校かつ繊維業者の息子であるエティエンヌ・バルサン英語版と出会った。23歳の時、シャネルは娼婦エミリエンヌ・ダランソンに取って代わる形でバルサンの新しいお気に入りの愛人となった[9]:10。その後3年間、バルサンと共にコンピエーニュ近郊ロワイヤリュー(Royallieu)の彼のシャトーで暮らした。この地域は樹木が並ぶ乗馬道と狩猟場で知られていた[14]:5–6。そこでの生活は自堕落なものであった。バルサンの富によってシャネルは言外にあらゆる退廃を伴うパーティーでの歓楽、美食に溺れることが可能となった。バルサンはシャネルに卑小な「豊かな生活」―ダイヤモンド、ドレス、そして真珠―を浴びせかけた。伝記作家ジャスティン・ピカルディ英語版は2010年の彼女の著作『ココ・シャネル その伝説と人生(Coco Chanel: The Legend and the Life)』において、シャネルの自殺した姉ジュリア・ベルテのただ1人の子供でファッションデザイナーの甥、アンドレ・パラス(André Palasse)は、恐らく実際にはシャネルとバルサンの間の子供だったと主張している[19]

1908年、シャネルはバルサンの友人の一人、ボーイ・カペルと関係を持ち始めた[20]。シャネルは晩年に当時を「二人の紳士が私の熱く小さな体を巡って競り合っていた」と回想している[21]:19。カペルは富裕なイギリスの上流階級で、シャネルをパリのアパルトマンに住まわせた[14]:7。また、彼女の最初の店舗の出店費用も提供した。カペルの服装のスタイルがシャネルのデザインセンスに影響を与えたと言われている。シャネルNo.5の容器デザインの原型となったデザインには2つの説があるが、その両方がシャネルとカペルの関係に関わるものである。一つはシャネルはカペルが革製の旅行鞄に忍ばせていたシャルベ英語版のトイレタリー・ボトルの斜めの線を長方形に入れたものを採用したというものであり[22]、もう一つはカペルが使用していたウイスキー・デカンタのデザインを採用したというものである。彼女はこのデカンタのデザインをひどく気に入ったので、「雅やかで、高価で、繊細なガラス」でこれを再現しようと考えた[23]:103。シャネルとカペルは共にドーヴィルのようなファッショナブルなリゾート地で時を過ごした。しかし、シャネルは彼と身を落ち着けることを望んでいたものの、カペルが彼女に対して誠実であったことはなかった[20]。彼女たちの情事は9年間続いた。カペルがイギリスの貴族であるダイアナ・ウィンダム夫人(Lady Diana Wyndham)と1918年に結婚した後でさえ、カペルはシャネルとの関係を完全に絶つことはなかった。カペルは1919年12月21日、交通事故で死亡した[24][25]。事故現場の道路脇に設置されたカペルの事故の記念碑はシャネルが依頼したものであると言われている[26]。事故の25年後、当時スイスに在住していたシャネルは友人のポール・モランに「彼の死は私にとって大きな打撃でした。カペルを失って、私は全てを失いました。その後の人生に幸せはなかったと、私はそう言わなければなりません。」と語っている[14]:9

シャネルの帽子を被ったガブリエル・ドルジア(Gabrielle Dorziat)、『レ・モード』誌、1912年5月。

バルサンと暮らし始めると共にシャネルは帽子のデザインを始めていた。当初これは暇つぶしであったが、企業規模へと発展していく。彼女は1910年に婦人用帽子職人英語版のライセンスを取得し、カンボン通り21番地にChanel Modesと名付けたブティックを開業した[27]。この場所は既に被服業界の拠点が確立されていたため、シャネルはこの店では彼女が作った帽子のみを販売した。シャネルの製帽業者としてのキャリアは舞台女優ガブリエル・ドルジア英語版が1912年に演出家フェルナン・ノジエールフランス語版の作品『ベラミ(Bel Ami)』(ギ・ド・モーパッサンの小説『ベラミ』の戯曲化)でシャネルの帽子をかぶったことを通じて花開いた。その後、ドルジアは『レ・モード(Les Modes)』誌に掲載された写真において再びシャネルの帽子のモデルとなった[27]

ドーヴィルとビアリッツ[編集]

1913年、シャネルはアーサー・カペルの資金提供でドーヴィルにブティックを開業し、レジャーやスポーツに適した豪華でカジュアルな服装を打ち出した。シャネルの製品は当時主に男性用下着に使用されていたジャージー英語版トリコットのような安手の生地で作られていた[27]。ブティックの立地は最高であり、ドーヴィルの中心にあるファッショナブルな通りにあった。ここでシャネルは帽子、ジャケット、セーター、そしてセーラーブラウスのマリニエール(marinière)を販売した。シャネルは姉妹のアントワネット(Antoinette)と同い年の父方の叔母アドリエンヌ(Adrienne)という2人の家族から献身的な支援を受けた[9]:42。アドリエンヌとアントワネットはシャネルの作品のモデルをするために採用された。2人は毎日のように街と遊歩道を練り歩きシャネル製品を宣伝した[9]:107–08

シャネルはドーヴィルでの成功を再現することを決意し、1915年にビアリッツに本格的な店舗を出した。スペインの富裕層の顧客に近いコスタ・バスカのビアリッツは金持ちグループや第一次世界大戦で自国から亡命してきた人々の遊び場であった[28]。ビアリッツの店舗はフロントがなくカジノの正面の別荘内にあった。1年間の営業のあと、この地でのビジネスが極めて有利なものであることが証明され、1916年にはシャネルはカペルが提供した原資を返済することができるようになった[9]:124–25。ビアリッツでシャネルは追放されたロシア貴族のドミトリー・パヴロヴィチ大公と出会った。シャネルと大公はロマンティックなひと時を過ごし、その後何年もの間密接な関係を維持した[9]:166。1919年、シャネルは「クチュリエール」として登録し、パリのカンボン通り31番地に自身のメゾン・ド・クチュール(maison de couture)を開業した[27]

クチュリエールとして[編集]

自身の帽子店にいるシャネル(右、1919年)。セムによる風刺画。

1918年、シャネルはパリで最もファッショナブルな地区の1つにあるカンボン通り31番地の建物を購入した。1921年、彼女は初期のファッションブティックと言える店舗をオープンさせた。この店は衣類、帽子、アクセサリーを主に取り扱い、後にジュエリーや香水にも分野を拡大した。1927年までに、シャネルはカンボン通りに5つの不動産(properties)を保有し、建物には23から31までの番号が付けられていた[29]

1920年の春(恐らくは5月)、シャネルはバレエ・リュスの団長セルゲイ・ディアギレフによってロシアの作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキーに引き合わされた[30]。夏の間に、シャネルは戦後、ストラヴィンスキーの一家がソヴィエト連邦から逃れ住処を探していることを知った。彼女はストラヴィンスキー一家をパリの郊外のギャルシュにある自分の新居ベルレスピロ(Bel Respiro)に招待し、彼らが適当な住居を見つけることができるまでの間住まわせた[30]:318。彼らは1920年9月の第2週にベルレスピロに到着し[30]:318、1921年の5月まで滞在した[30]:329。シャネルはまた、バレエ・リュスの新たなストラヴィンスキーの新作(1920年)、『春の祭典Le Sacre du Printemps)』の金銭的損失をディアギレフへの匿名の贈与で補填した。その金額は300,000フランと言われている[30]:319。クチュール・コレクションの発表に加えて、シャネルはバレエ・リュスのためのダンス衣装のデザインに没頭した。1923年から1937年にかけて、彼女はディアギレフとダンサーのヴァーツラフ・ニジンスキーが振付た作品群、特に『青列車Le Train bleu)』、ダンス・オペラの『オルフェ(Orphée)』と『オイディプス王(Œdipe roi)』に協力した[14]:31–32

1922年、ギャラリー・ラファイエットの創業者テオフィル・バデ英語版パリロンシャン競馬場でのレースで、シャネルを実業家のピエール・ヴェルテメール英語版に紹介した。ヴェルテメールは自身の経営する百貨店でシャネルNo.5の販売を行うことに興味を持った[31]。1924年、シャネルはピエール・ヴェルテメールとポール・ヴェルテメールの兄弟と契約を結んだ。この兄弟は1917年以来、高名な香水・化粧品ブランドのブルジョワ英語版の経営陣であった。彼らは企業法人パルファム・シャネル(Parfums Chanel)を創設し、ヴェルテメール兄弟がシャネルNo.5の生産、マーケティング、流通の費用全額を出資することに合意した。利益の70パーセントをヴェルテメール兄弟が受け取り、20パーセントがテオフィル・バデの取り分であった。株式の10パーセントを保有するシャネルは名前を「パルファム・シャネル」にライセンス供与し、事業経営からは退いた[23]:95。後に、この契約に不満だったシャネルは20年以上の歳月をかけてパルファム・シャネルの完全な経営権を取得するための努力を続けた[31][23]。彼女は、ピエール・ヴェルテメールは「私をハメた盗賊だ(the bandit who screwed me)」と発言している[23]:153

シャネルが長く交友をつづけた人物の1人にミシア・セールがいた。彼女はパリのボヘミアンブルジョワで、スペインの画家ホセ・マリア・セール英語版の妻であった。シャネルとセールは似た者同士で惹かれ合ったと言われる。当時のミシアの目にシャネルがどのように映っていたのかについて、伝記作家らは「シャネルの天才、気前の良さ、破壊的なウィットを伴う激情、痛烈な毒舌、熱狂的な破壊性は誰をも惹きつけると同時に愕然とさせた」と評している[14]:13。シャネルとミシアは2人とも修道院で学んでいた経験があり、共通の興味と信頼を保ち続けた。彼女たちはまた、薬物の使用も共有していた。1935年までにシャネルは薬物を利用する習慣を持つようになっており、人生の終わりに至るまで日常的にモルヒネを注射していた[14]:80–81チャンドラー・バール英語版の『匂いの帝王(The Emperor of Scent)』によれば、ルカ・トゥリン英語版は著作の中で、シャネルは「パリで最も素晴らしいコカインパーティーを催したのでココと呼ばれた」という根拠のない噂を広めた[32]

作家のコレットはシャネルと同じ社会的なサークルに加っており、随筆集『牢獄と天国(Prisons et Paradis)』(1932年)の中でアトリエで働いているシャネルについて次のような奇態な説明を残している。「全ての人間の顔がある動物に似るとするならば、マドモアゼル・シャネルの顔は小さな黒い雄牛である。彼女のカーリーな黒髪は仔牛のそれであり、彼女の額から眉の上を通って落ち、彼女の頭の上をあらゆる動きで踊っている[9]:248。」

英国貴族との関係[編集]

シャネルとウィンストン・チャーチル(1921年)

1923年、ケンブリッジ侯爵の隠し子と言われているヴェラ・ベイト・ロンバーディ英語版(サラ・ガートルード・アールライトとして生まれた[33] )は、シャネルに最上級の英国貴族社交界に加わることを認めた。これは政治家ウィンストン・チャーチルやウェストミンスター公のような貴族、エドワード8世のような王族ら重要人物を中心に運営されているエリートのグループである。1923年にモンテ・カルロにおいて、当時40歳のシャネルはロンバーディによって大富豪であるウェストミンスター公ヒュー・リチャード・アーサー・グローヴナー英語版に紹介された。彼は親しい人々から「ベンドア(Bendor)」と呼ばれていた。ウェストミンスター公はシャネルに豪華な宝石、高価な美術品、ロンドンの有名なメイフェア地区にある邸宅を気前よく与えた。彼とシャネルの関係は10年続いた[14]:36–37

公爵に紹介されたのと同じように、再びロンバーディを通じて、ロンバーディの従兄弟であった王太子(プリンス・オブ・ウェールズ)のエドワード8世に紹介された。エドワード8世はシャネルに惚れ込み、シャネルとウェストミンスター公の関係を知りつつ彼女を追いかけた。エドワード8世がシャネルのアパルトマンを訪れ、自分を彼に親しい人々と同じように「デーヴィッド(David)」と呼ぶように求めたというゴシップがあった。数年後、『ヴォーグ』誌の編集者ダイアナ・ヴリーランドは「情熱的でひたむきで、猛烈に独立心旺盛な、その存在そのものが偉業であるシャネル」はエドワード8世と「すばらしいロマンティックなひとときをともにしたことがあった」と書いた[14]:38[13]:71

1927年、ウェストミンスター公はアルプ=マリティーム県プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏)にあるロクブリュヌ=カップ=マルタンに購入した土地をシャネルに贈り、シャネルはそこに別荘(villa)を建設した。これは建築家のロベール・ストレイツ(Robert Streitz)によって建てられ、彼女はこれをラ・パウザ英語版La Pausa、休息所)と呼んだ[34]。ストレイツは階段とパティオのコンセプトにシャネルが若き日を過ごしたオーバジーヌ英語版修道院から影響を受けたデザイン要素が取り入れた[14]:48–49[35]。ウェストミンスター公とシャネルの関係はゴシップ誌に結婚を噂されるほどのものになり、ウェストミンスター公自身もシャネルに仕事を辞めてパートナーになることを求めていた[13]:85。しかし、シャネルが結婚することはなかった。なぜウェストミンスター公と結婚しなかったのか、と問われた時、シャネルは「ウェストミンスター公は何人もいました。シャネルは1人しかいません。」と答えたと言われる[36]

映画用のデザイン[編集]

亡命中のドミトリー・パヴロヴィチ大公。1920年代。

1931年、モンテ・カルロにいる間にシャネルは共通の友人であったドミトリー・パヴロヴィチ大公を通じてサミュエル・ゴールドウィンと知り合った。ドミトリー・パヴロヴィチ大公は最後のロシア皇帝(ツァーリ)ニコライ2世の従兄弟である。ゴールドウィンはシャネルに興味深い提案を行った。それは総計100万ドル(今日のおよそ7500万ドルに相当)の報酬でMGMのスターたちのための衣装デザインを依頼し、そのためにシャネルをハリウッドに2年間招聘するというものであった。シャネルはこの依頼に同意した。この彼女のハリウッドへの初渡航には友人であるミシア・セールが同行した。

1932年に、ニューヨークからカリフォルニアへ向かう途上、彼女のために豪華に飾り付けられた列車の車両内で、シャネルは『Colliers』紙にインタビューを受けた。彼女は「映画が私に何を提供しなければならないのか、そして私が映画に何を提供しなければならないのかを見定める」ためにハリウッド行きに同意したと語った[23]:127

シャネルはマーヴィン・ルロイ監督の映画『今宵ひととき英語版』(1931年)でグロリア・スワンソンが身に着けた衣装と、ローウェル・シャーマン監督の映画『黄金に踊る英語版』(1932年)でアイナ・クレアが身に着けた衣装をデザインした。グレタ・ガルボマレーネ・ディートリヒの二人が個人的な顧客となった[37]

彼女はアメリカ映画での経験を通じてハリウッド映画産業を嫌悪し、ハリウッドの映画世界の文化を嫌うようになった。彼女はハリウッドの映画文化を「幼稚(infantile)」だと評した[14]:68 シャネルの評決は「ハリウッドは悪趣味の首都...要するに下品。」であった。[14]:62。最終的に彼女のデザインにおける美意識(aesthetic)は映画にうまく翻訳されなかった。『ザ・ニューヨーカーThe New Yorker)』によれば、シャネルは不機嫌な様子でハリウッドを去ったという。同誌は「シャネルは一人のレディを一人のレディのように見せた」が、「ハリウッドは一人のレディを二人のレディのように見せたがっているのだから」と述べ、シャネルのデザインは映画界の大物たちにとっては派手さが足りなかったとしている[13]:117[38]。シャネルはいくつかのフランス映画の衣装デザインは続けた。その中にはジャン・ルノワール監督の1939年の映画『ゲームの規則フランス語版』があり、彼女は「ラ・メゾン・シャネル(La Maison Chanel)」としてクレジットされている。彼女は左翼のルノワールをルキノ・ヴィスコンティに紹介した。彼女はヴィスコンティというシャイなイタリア人が映画業界で働きたがっていることに気付いていた。ルノワールはヴィスコンティに好感を持ち、次の映画プロジェクトに彼を連れて行った[7]:306

重要な情事:ルヴェルディとイリーブ[編集]

シャネルは当時最も影響力のある複数の男性の愛人であったが、結婚することはなかった。彼女は詩人ピエール・ルヴェルディ、およびイラストレーター・デザイナーのポール・イリーブ英語版と重要な関係を持っていた。彼女とルヴェルディの恋愛関係は1926年にルヴェルディがカトリックに帰依し、北西部サルト県ソレムに隠棲したときに終わったが、定期刊行物に掲載された、シャネルのものとされる伝説的な名言はルヴェルディの助言の下で、共同で作られたものとされている。

シャネルの書簡を検討すると、彼女が書いた手紙の不器用さと、シャネルのものとされる名言の作者の才能の間に完全な矛盾があることが明らかになる...ルヴェルディは彼女が自分の「職業(メティエ[39])」について書いたわずか数篇のアフォリズムを修正し、さらにこの「シャネリズム(Chanelisms)」(シャネル名言集)に、人生や美的感覚、または魅力や愛などについて、より一般的な考察を加えたのである[9]:328

彼女とイリーブとの関係は深く、1935年にイリーブが急死するまで続いた。イリーブとシャネルは同じ反動的政治思想を共有しており、シャネルはイリーブが出していた国粋主義・反共和主義の風刺週刊新聞の『ル・テモワンフランス語版(証人)』[40][41]に資金提供を行っていた。『ル・テモワン』紙は、ゼノフォビアを煽り、反ユダヤ主義を唱える新聞であった。[14]:78-79[7]:300。同紙終刊の1年後の1936年には、シャネルは急進左翼誌の『Futur英語版』への資金提供を行い、極右から極左に急旋回した[7]:313

スキャパレッリとの競争[編集]

シャネルのクチュールは1935年までに4,000人を雇用する営利企業になっており大きな利益をあげていた[37]。しかし1930年代の間に、オートクチュールの王座におけるシャネルの地位は脅かされるようになった。1920年代のフラッパーのボーイッシュな装いと短いスカートは瞬く間に姿を消した。ハリウッドの映画スター用のシャネルのデザインは成功せず、期待されたようには彼女の名声を高めなかった。より重要だったのは、シャネルという星がエルザ・スキャパレッリという最大のライバルによって覆い隠されてしまったことであった。シュールレアリスムへの遊び心ある援用で満ちていたスキャパレッリの革新的デザインはファッション界において圧倒的称賛を集め、熱狂を生み出した。シャネルはアバンギャルド(前衛的)な立ち位置を失っていると感じとり、ジャン・コクトー台本のオペラ『エディプス王』で彼とコラボレーションした。そこで彼女がデザインした衣装は嘲られ、「包帯でぐるぐる巻きにされた俳優たちは救急搬送されるミイラか、何かの事故の犠牲者のようであった。」と、酷くこき下ろされた[14]:96 。彼女はまたバレエ・リュス・ド・モンテカルロの作品、『バッカス祭(Bacchanale)』の衣装にも関与した。衣装デザインはサルバドール・ダリによって行われた。しかしながら、1939年9月3日にイギリスが対独宣戦布告を行ったことで、バレエ・リュスはロンドンへ去ることを余儀なくされた。彼らがヨーロッパに残した衣装は、ダリの最初のデザインに従ってカリンスカ(Karinska)によって作り直された[42]

第二次世界大戦[編集]

1939年に第二次世界大戦が始まった後、シャネルはカンボン通り31番地の店を閉め、アパルトマンは店舗の上に残しておいた。彼女は今はファッションの時代ではないと語った[28]。この結果、4,000人の女性が雇用を失った[14]:101。彼女の伝記を書いたヴォーンは、1936年のフランスの大規模なゼネストの中で、賃上げと労働時間の短縮を求めてストライキを行った労働者たちへの報復の機会としてシャネルが戦争の勃発を利用したと示唆している。店舗閉鎖の最中、シャネルは自身の政治的見解について決定的な声明を出した。シャネルはレオン・ブルム等、ユダヤ人の政治家たちはヨーロッパを脅かすボルシェヴィキであると信じていた[14]:101。こうしたシャネルの見解は彼女が修道院にいた頃に受けた教育(当時はイエス・キリストを十字架にかけたユダヤ人をイエスの殺害者として教えることが珍しいことではなかった)に端を発し[13]:21、長年の間の愛人たち(それは同時に彼女の立身出世を助けた支援者たちでもあった)との関係の中で研ぎ澄まされたものであった[13]:165

ドイツによるフランス占領中、シャネルはホテル・リッツに住んだ。このホテルはドイツ軍の上級軍人たちから好ましい居住地として注目されていた。パリ駐在のドイツ外交官でかつてのプロイセン軍将校かつ法務長官(Attorney General)であったハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲドイツ語版男爵(フライヘア英語版)とシャネルのロマンティックな情事によってリッツでの彼女の立ち位置は有利なものとなった[14]:Chapter 11。彼は1920年代から軍の情報機関の諜報員であった[14]:57

シャネルがウェストミンスター公と関係を持っていた1930年代、彼女のスタイルは彼女の個人的な感情を反映し始めた。彼女が小さな黒いドレスを再作成することができなかったのはそのような現実の兆候であった。彼女は「少ないほど豊かである(less is more)」という美学を追求し始めた.[43]

パルファム・シャネル経営権を巡る戦い[編集]

シャネル・ブランドの香水シャネルNo.5

ハル・ヴォーンが書いた『Sleeping with the Enemy, Coco Chanel and the Secret War』はココ・シャネルを「悪意ある反ユダヤ主義者」でありヒトラーを称賛したと記述しており、公開されたフランスの諜報文書の整合性をさらに強固なものとしている[43]

第二次世界大戦、とりわけナチスによるユダヤ人が所有する不動産と企業の没収によって、シャネルにパルファム・シャネルと、その最も収益性の高い製品、シャネルNo.5が生み出す金銭的利益全てを手に入れる機会が訪れた。その経営者ヴェルテメール兄弟はユダヤ人であった。シャネルは自身の「アーリア人」としての立場を使ってパルファム・シャネルの単独所有権を合法化するべくドイツ当局に申請を出した。

1941年5月5日、彼女はユダヤ人の金融資産の処分に関する採決を担当している政府行政官に手紙を書いた。彼女のパルファム・シャネルに対する所有権の根拠は、パルファム・シャネルは「今だユダヤ人の財産」になっているが、所有者であった彼らはすでにこれを法的に「放棄している」というものであった[23]:150[44]

彼女はさらに、「私には争う余地のない優先権があります...この事業を創設して以来、私が創り出したものから受け取った利益は...適正なものではありません。...(そして)貴方様には、過去17年にわたって私が被ってきた損害を多少なりとも回復するために、お力をお貸し頂けるものと思います[23]:152–53」と書いている。

シャネルは、ナチスがいずれユダヤ人に対して下す命令をヴェルテメール兄弟が予期し、1940年5月にパルファム・シャネルの経営権をフランス人カトリック教徒の実業家・事業家フェリクス・アミオ英語版に法的に譲渡していたことを知らなかった。戦後、アミオはパルファム・シャネルをヴェルテメール兄弟の手に返した[23]:150[44]

第二次世界大戦終結直後、業界はパルファム・シャネルの経営権を巡る法的闘争を興味と若干の懸念を持って見守っていた。本係争における利害関係者たちは戦時中のシャネルとナチスの関係がもしも公に知れ渡れば、シャネルブランドの名声と地位に深刻な影響を及ぼすと認識していた。『フォーブス』誌はヴェルテメール兄弟が抱えていたジレンマを「(ピエール・ヴェルテメールは)法的闘争がシャネルの戦時中の活動を照らし出し、(どれほどまでに)彼女のイメージを破壊してしまうだろうか―それによって彼のビジネスも破壊されてしまうだろうか(を心配していた)」と要約している[23]:175

シャネルはヴェルテメールに対する訴訟のためにヴィシー・フランス政権の首相ピエール・ラヴェル英語版の義理の息子、ルネ・ド・シャンボン英語版を弁護士として雇った[45]。結局、ヴェルテメールとシャネルは1924年の元々の契約について再交渉し、互いに和解した。1947年5月17日、シャネルは戦時中のシャネルNo.5の販売利益(21世紀の通貨換算でおよそ9億ドルに相当する)を受け取った。また、将来の全世界におけるシャネルNo.5の売り上げの2パーセントについて権利を得た。彼女が得た経済的利益は莫大なものであった。彼女は1年あたり2500万ドルの収入を得ていたと予想されており、当時世界で最も富裕な女性となっていた。付け加えて、ピエール・ヴェルテメールはシャネル自身が提案した特殊な条項に同意した。即ちヴェルテメールは、シャネルのその後の一生涯にわたり、彼女の生活費を―些末なものから大型出費に至るまで―全て負担することに合意した[23]:175–77[46]

ナチスの諜報活動との関わり[編集]

ワルター・シェレンベルグ(Walter Schellenberg)将軍。親衛隊情報機関「Sicherheitsdienst」の長。

伝記作家ハル・ヴォーン英語版が発見した機密解除文書によってパリ警視庁がシャネルに関する文書を保有していることが明らかになった。シャネルはこの文書に(ウェストミンスターを表わす)偽名「WESMINSTER」(原文ママ)、「諜報員番号(Indicatif d'agent)F-7124」と記されていた。[47][14]:140。ヴォーンにとってこれはシャネルとドイツ情報機関の関係を示す情報であった。ナチ・ハンターとして知られる歴史学者のセルジュ・クラルスフェルトは「彼女に諜報員番号が付けられたからといって、必ずしも個人的に関与していたということにはならない。密告者のなかには、知らないうちに番号を付けられた者もいた」と述べている[48]

ヴォーンは、シャネルが早くも1941年にはドイツに協力しベルリン国家保安本部Reichssicherheitshauptamt)で親衛隊の情報部SDSicherheitsdienst)とドイツ軍諜報機関アプヴェーアAbwehr)の長であるワルター・シェレンベルグ英語版将軍のために動いていたことを確認した[14]:xix。第二次世界大戦が終わった時、シェレンベルクはニュルンベルク軍事裁判にかけられ、戦争犯罪のために禁固6年の判決を受けた。彼は不治の肝臓疾患のために1951年に釈放されイタリアで療養した。シャネルはシェレンベルクの医療費と生活費を負担し、その妻と家族を資金的に支えた。そして彼が1952年に死去した時、その葬儀費用もシャネルが支払った[14]:205–07

シャネルのスパイ行為の疑いはドイツ軍の戦車がパリに入りナチスの占領が始まった時に始まった。シャネルは直ちにドイツ占領軍の本部として使用された豪華なホテル・リッツ(Hotel Ritz)に安全を求め、そこでドイツ大使館で働いていたゲシュタポに近いハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲ男爵と恋に落ちた。ナチスによるフランス占領が始まった時、シャネルは彼女の店を閉めることを決定し、その決意は愛国的な動機からきたものであると主張した。しかしながら、彼女がドイツ軍が拠点としていたホテル・リッツに移動した時、その動機がどのようなものであるか多くの人々がはっきりと悟った。多くのフランス女性がドイツ軍人たちとの「水平的協力(horizontal collaboration)」のために罰せられる一方、シャネルがそのような事態に直面することはなかった。1944年にフランスが解放された時、シャネルは自身の店のウィンドウに全てのGIにシャネルNo.5を無料で提供すると書いたメモを残した。この最中、彼女はナチスのスパイとして協力したことで犯罪者として告訴されるのを避けるためスイスに亡命した[43]

モデルフート作戦[編集]

2014年末、フランス諜報機関が機密文書の機密を解除し公開したことで、ココ・シャネルが第二次世界大戦においてドイツに対して果たした役割が確認された。シャネルはスパイとして働き、第3帝国がマドリードを支配する計画に直接関与していた。これらの機密文書はシャネルがドイツの軍事情報機関であるアプヴェーアのエージェントであったことを示している。

1943年にマドリードを訪れ、もはや連合国の勝利へと傾いた中でのドイツ降伏の可能性についてスペイン駐在のイギリス大使を説得した。当時の大使はウィンストン・チャーチルの友人であった。シャネルが関与した中で最も有名な任務の1つはモデルフート作戦(Modellhut、'Operation Model Hat')である。彼女の任務は、ヒトラーの外交情報機関からウィンストン・チャーチルに対するメッセンジャーとして行動し、第三帝国の幾人かが連合国との和平を試みたことを証明することであった[43]

1943年、シャネルはベルリンの「獅子の巣」にある国家保安本部Reichssicherheitshauptamt)へ、彼女の連絡係と「旧友」であるパリ駐在ドイツ大使館の報道官(press attaché)ハンス・ギュンター・フォンディンクラーゲとともに向かった。元プロイセン軍将校であり、法務長官(Attorney General)でもあった彼は、友人や同僚の間では「Sparrow(スズメ)」というニックネームでも呼ばれていた[5][6]。ディンクラーゲはまた、ドイツのSicherheitsdienst(Security Service)の共同設立者でもあった。彼の上司がワルター・シェレンベルグとベルリンのアレクサンデル・ワーグ(Alexander Waag)であった[5][6]。シャネルとディンクラーゲは国家保安本部でワルター・シェレンベルグに報告を行い、その場でシャネルがディンクラーゲに提案した馬鹿げた計画も報告されることになっていた。その計画は、彼女、ココ・シャネルがイギリス首相ウィンストン・チャーチルと面会し、ドイツと交渉を行うように説得したいというものであった[14]:xix[5][6]。1943年末、または1944年初頭、シャネルとシェレンベルクは親衛隊による交渉を行い、イギリスに分離講和を考慮させる計画を立てた。シェレンベルクは型破りな手法を用いるという欠点があった[5]。戦争終結時にイギリスの諜報機関によって尋問された時でも、シェレンベルクはシャネルが「政治的交渉をチャーチルと行うのに十分なほど彼の知己を得ている」という見解を維持していた.[14]:169。この作戦は「Operation Modellhut」というコード名を付けられていた。彼らはまたベラ・ベイト・ロンバーディ英語版も採用した。ナチスのエージェントで1944年にイギリスの諜報機関へと走ったヨセフ・フォン・レーデブーア=ヴィヒェルン伯爵(Count Joseph von Ledebur-Wicheln)は1943年初頭にディンクラーゲと会談を持ったこと供述している。それによれば、ディンクラーゲは特使の中にロンバーディを参加させることを彼に伝えた。ディンクラーゲは彼女を参加させる口実として、「アプヴェーアAbwehr)」は「(シャネルに協力させる)その前に、ある若いイタリア人女性(引用注:ロンバーディ)をフランスに連れてくる必要がある。レズビアン的な傾向のあるシャネルは、その女を愛している。」という虚偽の話をしたと言う[14]:163–64[13]:262

シェレンベルグとシャネルの策動を知らなかったロンバーディはスペインへの旅行はマドリードにシャネルのクチュールを設立する可能性を探るためのビジネスとしての旅行であると信じ込まされていた。ロンバーディの役目はシャネルが書いた手紙をマドリードのイギリス大使館経由でウィンストン・チャーチルへと届けることであった[14]:169–71[13]:270。また、シェレンベルグは親衛隊連絡将校(liaison officer)であるワルター・クッチュマン英語版大尉(Captain)に「マドリードでマドモアゼル・シャネルに大金を手渡すよう」指示を出した[13]:174。結局このミッションは失敗した。イギリス情報機関(M16)の尋問調書によれば、マドリードに到着した後、ロンバーディがイギリス大使館にシャネルを含む自分の同行者全員がナチスのスパイだと伝えたことで計画が破綻したことが明らかになっている[13]:275[14]:174–75

告発に対する備え[編集]

1944年9月、シャネルはフランスの粛清委員会に尋問された[49]。この委員会はシャネルのドイツ諜報活動への協力について文書化された証拠を保持しておらず、彼女を釈放せざるを得なかった。シャネルのgrand-niece(兄弟の孫)であるガブリエラ・パレス・ラブリュニー(Gabrielle Palasse Labrunie)によれば、シャネルは自宅に戻った時、「チャーチルが私を解放した」と言ったという[14]:186–87

シャネルに対するチャーチルの介入の度合いは、戦後にゴシップと疑惑の種となった。もしシャネルが自身の活動について裁判で証言することを強制された場合、イギリスのトップクラスの官僚や社会的エリート、そして王室の親ナチ的態度と活動が暴露されるだろうと人々が心配したのだと、幾人かの歴史家が主張している。ヴォーンはチャーチルがフランス共和国臨時政府のイギリス大使ダフ・カッパー英語版にシャネルを保護するように命じたと主張する人も存在すると書いている[14]:187

1949年、パリに来て捜査官たちの前に立つように要求されたシャネルは、ゲシュタポの諜報員ルイ・ド・ヴォーフルラン男爵(Baron Louis de Vaufreland)の戦争犯罪裁判で彼女の活動について示された証言に立ち向かうため、亡命先のスイスを離れた。シャネルは全ての告発を否定した。彼女は裁判長(presiding judge)ルクレール(Leclercq)に証明書として「ダフ・カッパー氏からの声明を手配することが可能です」と申し出た[14]:199

シャネルの友人かつ伝記作家であるマルセル・ヘンドリック(Marcel Haedrich)は戦時中におけるシャネルとナチスの交流について「マドモアゼル・シャネルが占領中の黒い年月の彼女自身について明らかにした僅かな情報は歯の浮くようなものだ。真剣に受け止めようもない」と述べている[23]:175

チャーチルとシャネルの友人関係は1920年代にシャネルとウェストミンスター公の恋が燃え上がりスキャンダルが始まった頃に構築された。終戦時のチャーチルの介入によってスパイ活動への協力というシャネルの罪に懲罰が与えられることはなくなり、彼女の資産は救われた[43]

論争[編集]

2011年8月にヴォーンの本が出版された時、彼が機密指定解除された軍事情報文書の内容を暴露したことで、シャネルの活動についてかなりの論争が引き起こされた。シャネル社は声明を発表し、その一部は複数のメディアで公表された。法人としてのシャネルは会社役員がこの本についてメディアによる抜粋しか読んでいないことを認めつつ「この(スパイ活動についての)主張に反駁した」[50]

シャネルグループは「確かに言えることは、彼女が戦時中にドイツの貴族と関係を持っていたことです。もちろん、例えディンクラーゲ男爵がその母方の血統故にイギリス人であったとしても、また彼女(シャネル)が戦前から彼を知っていたとしても、ドイツ人との間に恋の物語を作り上げるのに相応しい時代ではありませんでした。そして彼女は戦争前から彼を知っていました。」という声明を出した[51]

AP通信のあるインタビューにおいて、著者ヴォーンは彼の調査の意外な方向転換についての議論を次のように述べた。「私は別のものを探していたのですが、『シャネルはナチスのエージェントだ』という別の文書に出くわしたのです...その後、私は本当の意味で合衆国、ロンドン、ベルリン、そしてローマにある全ての文書を漁りはじめました。そうて1つだけではなく、20、30、40もの、シャネルとその恋人で本職のAbwehrのスパイであるハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲについての絶対確実な文書を見出したのです[50]。」

ヴォーンはまたこの書籍における暴露によって多くの人が感じた不快感にもコメントした。「世界の多くの人々が、ガブリエル・ココ・シャネルという象徴的人物、即ちフランスの最も偉大な文化的偶像が破壊されることを望んでいません。間違いなく、多数の人々がこれを脇に追いやり、忘れ去って、ただシャネルのスカーフとジュエリーが販売され続けることを優先することでしょう[50]。」


戦後の生活とキャリア[編集]

ココ・シャネル(1970年)

1945年、シャネルはスイスへ移り、そこでディンクラーゲとともに数年を過ごした。1953年、彼女はコート・ダジュールの邸宅ラ・パウザ(La Pausa)を出版業者かつ翻訳家のエメリー・レヴェ英語版に売却した。ラ・パウザの中の5部屋がダラス美術館で複製され、レヴェの美術コレクション及びシャネルの家具が収められている[35]

女性が第一のクチュリエとして君臨した戦前とは異なり、戦後はクリスチャン・ディオールは1947年に彼のThe New Look英語版で成功を収めた。そしてディオール、クリストバル・バレンシアガロバート・ピゲ英語版ジャック・ファットら優れた男性デザイナーが認められた。シャネルは、ウエストニッパー(waist cinchers)、パッド入りブラジャー(padded bras)、厚手のスカート(heavy skirts)、stiffened jacketsといった男性のクチュリエが好む美学に対して、最終的には女性たちが反抗するであろうと確信していた。その美学を彼女は「非論理的(illogical)」デザインと呼んだ[9]

70歳を過ぎ、クチュールハウスを閉鎖してから15年間の後、彼女はファッション界に復帰する時が来たと感じた[9]:320。1954年、彼女のクチュールハウスのリバイバルはパルファム・シャネルの経営権争いにおける敵であったピエール・ヴェルテメールによる全面的な資金提供の下で行われた[23]:176–77。シャネルが1954年にカムバック・コレクションを発表した時、フランスのメディアは戦時中の彼女のドイツ軍への協力活動及び愛人生活、並びにコレクションについての論争の故に取り扱いに慎重であった。しかし、アメリカとイギリスのメディアはをそれをファッションと若者を新しい方法で結びつける「ブレークスルー」だとみなした[52]

アメリカの『ヴォーグ』誌の影響力ある編集者ベッティーナ・バラード(Bettina Ballard)はシャネルに忠実であり続け、1954年3月に「1950年代のシャネルの顔(the "face of Chanel" in the 1950s)」であるモデル、マリー・エレーヌ・アルノー英語版の特集を組んだ、撮影者はヘンリー・クラーク英語版[19]:270で、アルノーは真珠のネックレスを組み合わせた赤いVネックのドレス、層状のシアサッカーのイブニング・ガウン、ネイビージャージのミッドカーフ・スーツという3点の衣装を身に着けていた[53]。アルノーはこの衣装を「控え目に正方形の肩パッドをいれたカーディガン、二つのポケットと袖はボタンをはずすと鮮明な白が露わになる[訳語疑問点]」「ゆったりしたAラインのスカートに小さな留め金でボタンで止められ完璧な位置合わせがされていた力強い弓襟を備えた白いモスリンのブラウス[訳語疑問点]」と共に身に着けた[21]:151。バラードはこの「若々しい優雅さと無邪気さを強く印象付ける」スーツを自費で購入した[53]。そしてアルノーがモデルを担当した衣装にはすぐに全米から注文が殺到した[19]:273

晩年[編集]

エドモンド・シャルル=ルーフランス語版によれば[9]:222、晩年のシャネルは横暴になり非常に孤独であった。彼女の最後の年月にはしばしばジャック・シャゾ英語版及び親友のリルー・マーカンドがそばにいた。誠実な友人としてはブラジル人Aimée de Heerenもおり、彼女はパリのホテル・ムーリス英語版に1年4ヶ月住んでいた。かつてライバルであった二人はウェストミンスター公英語版との幸福な思い出を共有していた。彼女たちは頻繁にパリの中心部で散歩をした[54]

[編集]

1971年に入った時には87歳のシャネルは衰え病を患っていた。彼女は普段通りに春のカタログを準備し、1月9日(土曜日)の午後に長めのドライブに出た。そのすぐ後に気分が悪くなりベッドに早めに入った[23]:196。彼女はメイドのジャンヌに最後の言葉として「人はこんなふうに死ぬのよ(C'est comme cela que l'on meurt)」と語った[55][49]

1971年1月10日、30年以上居住していたホテル・リッツで彼女は死亡した[56]。葬儀はパリのマドレーヌ寺院で執り行われた。彼女のファッションモデルたちが最前列の席に陣取り、棺桶は白い花(ツバキ、クチナシ、ラン、ツツジ)そして少量の赤いバラで飾られた。

墓はスイスローザンヌのボワ=ド=ヴォー(Bois-de-Vaux)墓地にある[57][58]。遺産の大部分はスイス在住の甥アンドレ・パラス(André Palasse)と、パリに住むパラスの2人の娘たちに相続された[45]

シャネルは生涯にわたって高級ファッションにおける重要人物とみなされていたが、シャネルが残した影響はその死後にさらに調査された。死亡時には当時のフランスのファーストレディであるポンピドゥー大統領夫人が英雄的賛辞を贈ることを企図した。しかし、すぐにフランスの諜報機関が戦時中のドイツ軍へのシャネルの行動について概説する文書が公開され、記念性の強い葬儀計画はすぐに破棄された[43]

デザイナーとして遺したもの[編集]

セーラージャージとズボンを着たシャネル(1928年)

早くも1915年には『ハーパーズ バザー』が「たった1つもシャネルを持っていない女性は絶望的に時代遅れです...今シーズン、シャネルは全てバイヤーの口からその名前が紡ぎだされています」とシャネルのデザインを絶賛していた[14]:14。シャネルが手に入れた優位は、即ちコルセットで締め付ける女性のシルエットに対する公式の死の宣告であった。フリル、fuss、前世代の女性たちが耐え忍んできた拘束は今や時代遅れであった。彼女の影響の下で「羽根飾り(aigrettes)、ロングヘア、ホブルスカート」の時代は過ぎ去った[9]:11。シャネルのデザインに対する美学によって第一次世界大戦後には女性のお洒落のあり方が大きく変わった。シャネルのトレードマークのファッションは若々しい安らぎ、身体的解放、運動の邪魔にならないという信頼を得ていた[訳語疑問点]

エリート階級、特にイギリスのエリートたちが熱心に追及していた乗馬文化と狩猟趣味はシャネルの想像力を掻き立てた。シャネルが熱心にスポーツに打ち込んで得た知識が彼女の服飾デザインを生み出していった。ヨットの世界で体験した水上の旅の経験から、彼女は航海のためのデザインをファッションに適用した。水平なストライプのシャツ、ベルボトムのパンツ、クルーネックセーター、そして「エスパドリーユ(espadrille)」の靴。これらは全て伝統的に船乗りや漁師が着ていたものである[14]:47, 79

ジャージー生地[編集]

シャネルのジャージーの服3点(1917年)

シャネルの最初の成功は機械編みの素材であるジャージー生地を婦人服の素材とするという革新的な利用によってもたらされた。それまでジャージーは主として靴下やスポーツウェア(テニス、ゴルフ、ビーチ用の服)に使用される傾向があった。クチュールで使用するにはあまりにも「日常的(ordinary)」な生地だと考えられていた上、ニット構造は織物に比べて取り扱いが難しかったためデザイナーにも敬遠されていた[9]:128, 133。シャネルが大量のジャージー生地を発注したのはロディエ社(Rodier)であった[9]:128, 133。ロディエは、男性用としてさえ美的とは考えられていなかったジャージー生地を婦人服に使用するというシャネルのアイデアに躊躇し当初この注文を断ったが、シャネルはジャージー生地の可能性を強硬に主張した。最終的にシャネルがこの生地を用いて自分用にデザインした服を見たロディエはシャネルの判断を是とした[10]:239。シャネルの初期のウール ジャージーの旅行スーツはカーディガンジャケットとプリーツスカートから成り、ロー・ベルトのプルオーバートップと組み合わせられていた。これにローヒールの靴を組み合わせたアンサンブルは高級な婦人服におけるカジュアルルックとなった[14]:13, 47

シャネルによる高級ファッションへのジャージー導入は2つの理由で成功した。1つは第一次世界大戦のために他の素材が不足したこと。もう1つは女性たちがよりシンプルかつ実用性のある服を求め始めたことである。シャネルの動きやすいジャージーのスーツとドレスは実用性を備えるように作成され、体を自由に動かすことができた。これは当時女性が戦争に協力するために看護師として、公務員として、そして工場で働いていたことから極めて高く評価されていた。彼女たちの仕事は体を動かす必要があり、また通勤のために電車やバス、自転車に乗る必要もあった[59]。彼女たちは破れにくく、使用人の手を借りずに着ることができる服装を求めていた[21]:28

スラヴの影響[編集]

ポール・ポワレマリアノ・フォルトゥーニ・イ・マドラソスペイン語版のようなデザイナーたちは1900年代から1910年代初頭にオートクチュールに民族的デザインを導入した[60]。シャネルはこの傾向を引き継ぎ、1920年代初頭にスラヴ風のデザインを取り入れた。この時のシャネルの服のビーズ取付と刺繍はロシアのマリア・パヴロヴナ公爵夫人英語版(シャネルのかつての愛人ドミトリー・パヴロヴィチ大公の姉)が設立した縫製会社キトミール(Kitmir)によって独占的に行われた[61][62]。シャネルの初期のコレクションでは、キトミールによる東洋的なステッチと洋式化された民族モチーフの融合が強調された[62]。1922年のイブニングドレスには刺繍のあるヘッドスカーフ(バブーシュカ:babushka)が付属していた[62]。このヘッドスカーフの他にも、この時代のシャネルの服はルバシカ(roubachka)として知られるロシアのムジーク(muzhiks:農民)の服装を仄めかす長いベルトで止めるスクエアネックのブラウスを特徴としていた[9]:172。イブニングドレスはしばしばきらめくクリスタルとblack jetの刺繍が施されていた[14]:25–26

ツートンパンプス付きのシャネルのスーツとシルクのブラウス(1965年)

シャネルのスーツ[編集]

1923年に初めて導入された[63]シャネルのツイードスーツは快適さと実用性を追求してデザインされ、柔軟で軽いウールかモヘヤツイード、およびジャージーかシルクの裏地のブラウスとジャケットで構成されていた。シャネルは当時のファッションで一般的だったように素材を固くしたり肩パットを使用したりはしなかった。バストダーツを加えずに、ジャケットを地の目に沿ってカットした。こうすると、身体を素早く自由に動かすことができた。首元に適度なゆとりをもたせてネックラインをデザインし、機能的なポケットを加えた。より一層楽にするために、スカートはベルトではなく腰の周りにグログラン英語版ステイが付けられた。さらに重要なことは、仮縫いをするときに細部に至るまで細心の注意が払われたことである。採寸は顧客が立った状態で肩の高さで腕を組んだ姿勢で行われた。シャネルはモデルに歩き回らせ、バスの階段を登ることを想定したプラットフォームを上がらせ、車高の低いスポーツカーに乗ることを想定して体を曲げさせるテストを行った。彼女が目指したのは、シャネルのスーツを着たまま、不意に体の一部を露出することなく、女性がこれら全てをこなせるようにすることであった。顧客それぞれがスーツが快適な状態になり、日々の活動を快適かつ容易に行えるようになるまで繰り返し調整を行った[64]

カメリア[編集]

カメリア(ツバキ)というと、誰しも連想するのはアレクサンドル・デュマ・フィスの文学作品『椿姫La Dame aux Camélias)』であった。シャネルは若い頃から「椿姫」の物語に大きな影響を受けていた。椿はクルチザンヌ(高級娼婦)である椿姫を連想させる花であり、彼女は白い椿を身に付けることで「仕事」ができることを示していた[65]。カメリアはシャネル ブランド(The House of Chanel)と同一視されるようになった。シャネルは1933年に白をトリミングした黒スーツで初めて装飾要素としてカメリアを使用した[37]

リトル・ブラック・ドレス[編集]

今日でも着用されているリトル・ブラック・ドレス(LBD)のコンセプトはジャージーのスーツに続くシャネルのファッション用語への貢献としてしばしば語られる。1912年から1913年にかけて、女優シュザンヌ・オルランディ(Suzanne Orlandi)がベルベットの白い襟付きのシャネル製リトル・ブラック・ドレスを着た。彼女はシャネルのリトル・ブラック・ドレスを着た最初の女性の一人であった[66]。1920年、シャネルはオペラの観客を観察し、全ての女性に黒いドレスを着させることを自身に誓った[19]:92–93

1926年、『ヴォーグ』誌のアメリカ版はシャネルのロングスリーブのリトル・ブラック・ドレスの画像を掲載し、これをガルソンヌ(garçonne、'little boy' look)と名付けた[37]。『ヴォーグ』誌は、このようなシンプルながらもシックなデザインは、センスのある女性にとって定番と言える一着になるであろうと予想し、このドレスのベーシックな輪郭を、広く普及していてやはり巷に溢れていたフォード社の自動車に例えた有名な批評を残した[67][68]。他方、この質素なデザインは男性のジャーナリストたちからの広範な批判を巻き起こした。彼らは「もはや胸はなく、もはやお腹も無く、もはやお尻もない...20世紀のこの瞬間の女性ファッションは全てを削り落とした」と文句を付けた[9]:210。このリトル・ブラック・ドレスが人気を博した理由の一部はそれが導入されたタイミングであったかもしれない。1930年代は世界恐慌の時代であり、女性たちは手頃な価格のファッションを必要としていた。シャネルは裕福ではない人々が「億万長者のように闊歩」できるようにしたと自慢した[69][14]:47。シャネルは昼用にウールかシェニールのリトル・ブラック・ドレス、そして夜用にサテンクレープまたはベルベットのリトル・ブラック・ドレスを作るようになった[21]:83。ある時、シャネルは「私はあえて黒を使いました。この色はいまだに衰えていません。なぜなら、黒は他の全てを一掃するからです」と宣言した[19]

ジュエリー[編集]

シャネルはジュエリーの概念を革新する一連のシリーズを導入した。この革新とは彼女のデザインと素材にコスチュームジュエリーと宝石の両方が組み込まれていたことである。これはジュエリーがコスチュームジュエリーと宝石のいずれかに厳密にカテゴライズされていた当時において革命的なものであった。彼女のインスピレーションはグローバルな影響を受けており、しばしば東洋やエジプトのデザインに触発されていた。高価なジュエリーを公衆に晒したくないと望む富裕層は代わりにシャネルの作品を着ることで周囲に富を印象付けることができた[70]

シャネル 2.55 (2009年)

1933年、デザイナーのポール・イリーブ英語版はシャネルと共同でthe International Guild of Diamond Merchants(国際ダイアモンド商業組合)の依頼による豪華なジュエリー作品を制作した。専らダイアモンドとプラチナで作成されたこのコレクションは公衆に向けて展示され、多くの観衆を魅了した。この公開では一ヶ月間に3,000人の参加が記録された[37]。高価で上質な宝石(vrais bijoux en toc[訳語疑問点])への執着を打ち消すべく[37]、シャネルはコスチュームジュエリーを待望されたアクセサリー(特に彼女が行ったように観衆の目に触れるべく身につけられた時のための[訳語疑問点])へと変えた。貴族階級の愛人たちから贈られた豪華な宝石や真珠に触発されたシャネルは自分の宝石庫から宝石を取り出し、デューク・フルコ・ディ・ヴェルドゥーラ英語版の協力でシャネルブランドのジュエリーシリーズを立ち上げた。宝石で飾られたマルタ十字をモチーフにした白いエナメルの袖口はシャネルが個人的に気に入っていたものであった。これはヴェルドゥーラとシャネルの共同制作のアイコンとなっている[37]。ファッショナブルで富裕な人々はこのシャネルのコレクションを大いに気に入り、シリーズは大成功した。シャネルは「たまたま金持ちだからと言って、首に何百万個もジュエリーをぶら下げて歩き回るのはうんざりです。私はフェイクジュエリーが好きです...これが刺激的だからです」と述べている[14]:74

シャネルのバッグ[編集]

1929年、シャネルは軍用バッグに触発されたハンドバッグを作成した。これは細いショルダーストラップによって肩から下げ、手を空けることができるものであった。シャネルはファッション業界に復帰した後、1955年2月にハンドバッグのデザインを一新した。これがシャネル 2.55である(名称は制作された日付から来ている)[71]。同時に、カール・ラガーフェルドが1980年代に行ったのと同じように、クラシックなバッグの細部が修正された。留め金とロックはシャネルのロゴを盛り込んだデザインに変更され、レザーがショルダーチェーンに組み合わされた。バッグ自体は元々の基本的なデザインを維持した[72]。2005年にシャネル社は創立50周年を記念して1955年のオリジナルのシャネル 2.55の正確なレプリカをリリースした[72]。このバッグのデザインはシャネルの修道院時代および彼女のスポーツ界に対する愛情を伝えるものであった。ストラップに使用されたチェーンはシャネルが成長した孤児院(修道院)の管理人たち(caretakers)が着用したチャタレイン英語版に影響されたものであり、バーガンディの裏地は修道院の制服を参考にしたものであった[72]。キルト風の外側は騎手が着用するジャケットの影響を受け[72]、同時に行われたバックの形状とボリュームの改善も同様であった[71]

日焼け[編集]

歴史的に、日焼けした肌は絶え間ない労苦から逃れる術の無い人生を運命づけられていた労働者階級の証であり、「純白の肌は貴族階級の確かな証であった」。しかし、シャネルは日焼けを許容するのみならず、特権とレジャーを過ごす生活のシンボルに変え、日光浴を流行させた。1920年代半ばまでに、女性たちは日光から身を守るための帽子を被らずにビーチでくつろぐようになった。[9]:138–39

ポピュラー・カルチャーにおける描写[編集]

演劇[編集]

映画[編集]

伝記・評伝[編集]

  • マルセル・ヘードリッヒ 『ココ・シャネルの秘密』(山中啓子訳、新版・ハヤカワ文庫NF、1995年)
  • エドモンド・シャルル・ルー 『ココ・アヴァン・シャネル』(加藤かおり・山田美明訳、ハヤカワ文庫NF(上・下)、2009年)
    • シャルル・ルー 『シャネルの生涯とその時代』 (秦早穂子訳、鎌倉書房、1981年)。旧版
  • ポール・モラン 『シャネル 人生を語る』(山田登世子訳、中公文庫、2007年)
    • ポール・モラン 『獅子座の女シャネル』 (秦早穂子訳、文化出版局、1977年)。旧版
  • ティラー・マッツエオ『シャネルN°5の秘密』(大間知知子訳、原書房 2011年)
  • ハル・ヴォーン『誰も知らなかったココ・シャネル』(赤根洋子訳、文藝春秋 2012年)
  • エリザベート・ヴァイスマン 『ココ・シャネル 時代に挑戦した炎の女』(深味純子訳、CCCメディアハウス、2009年)
  • ジャネット・ウォラク 『シャネル・スタイルと人生』(中野香織訳、文化出版局 2002年)
  • クロード・ドレ 『ココ・シャネル』 (上田美樹訳、サンリオ出版、1989年)
  • リサ・チェイニー『シャネル、革命の秘密』(中野香織監訳、ディスカヴァー・トゥエンティワン 2014年)
  • 山田登世子 『シャネル-最強ブランドの秘密』 (朝日新書、2008年)
  • 山口昌子 『シャネルの真実』 (人文書院、2002年)
  • 藤本ひとみ 『シャネル』 (講談社文庫で再刊、2008年12月)
  • 海野弘 『ココ・シャネルの星座』 (中公文庫で再刊、1992年)
  • 秦早穂子 『シャネル 20世紀のスタイル』 (文化出版局、1990年)
  • 『ココ・シャネル 20世紀ファッションの創造者』(川上未映子解説、筑摩書房:ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉、2014年)
  • アンネマリー・ファン・ハーリンゲン『ココとリトル・ブラック・ドレス』(川原あかね訳、文化出版局、2016年)

漫画[編集]

出典[編集]

  1. ^ Chasnel と、間に s が入る。
    Acte de naissance Chasnel Gabrielle (N°212 page 39)
  2. ^ 1883 Birth of Gabrielle Chanel”. Chanel. 2018年11月8日閲覧。
  3. ^ Horton, Ros; Simmons, Sally (2007). Women Who Changed the World. Quercus. p. 103. ISBN 978-1847240262. https://books.google.com/?id=7LYLOj2APSsC&pg=PA103&dq=Coco+Chanel+only+couturier+Time+100+influential 2011年3月8日閲覧。. 
  4. ^ a b Chaney, Lisa (2011-10-6). Chanel: An Intimate Life. London: Penguin. ISBN 978-0141972992. https://books.google.com/?id=oG280bBfpNYC&pg=PT30&lpg=PT30&dq=%22jeanne+chanel%22+died+1895#v=onepage&q=February%201895&f=false 2015年5月閲覧。. 
  5. ^ a b c d e Kloth, Hans Michael; Kolbe, Corina (2008年8月26日). “Modelegende Chanel: Wie Coco fast den Krieg beendet hätte” (German). Spiegel Online (Hamburg). http://www.spiegel.de/einestages/modelegende-chanel-a-947864.html 
  6. ^ a b c d Doerries, Reinhard (2009). Hitler's Intelligence Chief: Walter Schellenberg. New York: Enigma Books. pp. 165–66. ISBN 978-1936274130. https://books.google.co.uk/books?id=n58KBgb8mz4C. 
  7. ^ a b c d e f g h i Chaney, Lisa (2011). Chanel: An Intimate Life. London: Fig Tree. ISBN 978-1905490363. 
  8. ^ a b c d Picardie, Justine (2010年9月5日). “The Secret Life of Coco Chanel”. The Telegraph. http://fashion.telegraph.co.uk/news-features/TMG7975778/The-secret-life-of-Coco-Chanel.html 2014年7月29日閲覧。 
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t Charles-Roux, Edmonde (1981). Chanel and Her World. London: Weidenfeld and Nicolson. ISBN 978-0-297-78024-3. 
  10. ^ a b c エドモンド・シャルル=ルー英語版『ココ・アヴァン・シャネル 上』加藤かおり訳、早川書房、2009年9月。ISBN 978-4-15-050350-5
  11. ^ Wilson, Frances (2010年10月1日). “Coco Chanel: The Legend and the Life by Justine Picardie: review”. The Telegraph. https://www.telegraph.co.uk/culture/books/bookreviews/8034462/Coco-Chanel-The-Legend-and-the-Life-by-Justine-Picardie-review.html 2015年5月閲覧。 
  12. ^ http://fashion.telegraph.co.uk/news-features/TMG7975778/The-secret-life-of-Coco-Chanel.html
  13. ^ a b c d e f g h i j k ハル・ヴォーン英語版『誰も知らなかったココ・シャネル』赤根洋子訳、文藝春秋、2012年8月。ISBN 978-4-16-375510-6
  14. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj Vaughan, Hal (2011). Sleeping with the Enemy: Coco Chanel's Secret War. New York: Knopf. ISBN 978-0307592637. 
  15. ^ Coco Chanel”. lifetimetv.co.uk. Lifetime TV. 2014年7月29日閲覧。
  16. ^ 'A Girl Should Be Two Things: Classy And Fabulous': Coco Chanel”. www.magzter.com. 2019年1月3日閲覧。
  17. ^ “Coco Chanel and Socialist Fashion Magazines”, Fashion Media, Bloomsbury Education, (2013), doi:10.5040/9781350051201.ch-004, ISBN 978-1350051201 
  18. ^ Charles-Roux, Edmonde (1981). Chanel and Her World. Hachette-Vendome. pp. 37–38. 
  19. ^ a b c d e Picardie, Justine (2010). Coco Chanel: The Legend and the Life. HarperCollins. ISBN 978-0061963858. 
  20. ^ a b Hirst, Gwendoline (2001年2月22日). “Chanel 1883–1971”. BA Education. 2008年6月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年4月10日閲覧。
  21. ^ a b c d Wallach, Janet (1998). Chanel: Her Style and Her Life. N. Talese. ISBN 978-0385488723. https://books.google.com/?id=F54sAAAAYAAJ&q=Courtesy+Special+Collections 2018年11月6日閲覧。. 
  22. ^ Bollon, Patrice (2002) (French). Esprit d'époque: essai sur l'âme contemporaine et le conformisme naturel de nos sociétés. Le Seuil. p. 57. ISBN 978-2020133678. "L'adaptation d'un flacon d'eau de toilette pour hommes datant de l'avant-guerre du chemisier Charvet" 
  23. ^ a b c d e f g h i j k l m Mazzeo, Tilar J (2010). The Secret of Chanel No. 5. HarperCollins. ISBN 978-0061791017. 
  24. ^ The Times, 24 December 1919, p. 10: "Captain Arthur Capel, who was killed in an automobile crash on Monday, is being buried today".
  25. ^ Cokayne, George Edward (1982). The Complete Peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, Extant, Extinct or Dormant. X. Gloucester: A. Sutton. p. 773 note (c). ISBN 978-0-904387-82-7. 
  26. ^ Puget-sur-Argens Coco Chanel: le drame de sa vie au bord d'une route varoise” (French). varmatin.com (2009年6月3日). 2009年8月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年3月8日閲覧。
  27. ^ a b c d Mackrell, Alice (2005). Art and Fashion. Sterling Publishing. p. 133. ISBN 978-0-7134-8873-9. https://books.google.com/books?id=pEpPMIWdhh8C&pg=PA133&dq=%22Coco+Chanel%22+%22career%22 2011年3月8日閲覧。. 
  28. ^ a b Sabatini, Adelia (2010). “The House that Dreams Built”. Glass Magazine (2): 66–71. ISSN 2041-6318. http://www.theglassmagazine.com. 
  29. ^ "Chanel 31 rue Cambon. The History Behind The Facade", Le Grand Mag, retrieved 10 October 2012[出典無効]
  30. ^ a b c d e Walsh, Stephen (1999). Stravinsky: A Creative Spring. New York: Alfred A. Knopf. ISBN 978-0679414841. :318
  31. ^ a b Thomas, Dana. "The Power Behind The Cologne". The New York Times: 24 February 2002. Retrieved 18 July 2012
  32. ^ Burr, Chandler (2002). The Emperor of Scent: A true story of perfume and obsession. Random House Inc.. p. 43. ISBN 978-0375759819. https://archive.org/details/emperorofscent00chan/page/43. 
  33. ^ Sarah Gertrude Arkwright – Bate & Lombardi”. thePeerage.com. p. Person Page 159295929 (2011年9月21日). 2019年1月20日閲覧。
  34. ^ Watson, Nanette (2012年5月4日). “Coco Chanel's Villa La Pausa”. Houses with History. 2018年11月8日閲覧。
  35. ^ a b Bretell, Richard R. (1995). The Wendy and Emery Reves Collection. Dallas: Dallas Museum of Art. 
  36. ^ Coco Chanel Biography”. Inoutstar.com. 2011年3月8日閲覧。
  37. ^ a b c d e f g retrieved August 3, 2012”. Vogue.com. 2013年10月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年12月4日閲覧。
  38. ^ Madsen, Axel (1991). Chanel: A Woman of Her Own. p. 194. 
  39. ^ メティエ” (日本語). コトバンク. 2020年1月5日閲覧。
  40. ^ Vente aux enchères (Presse). TEMOIN (Le). Journal hebdomadaire politique…”. www.gazette-drouot.com. 2020年1月5日閲覧。
  41. ^ Iribe, Paul (1883-1935) Illustrateur (1910-1930). “[Collection Jaquet. Dessinateurs et humoristes. Paul Iribe : [défets d'illustrations de périodiques]]” (フランス語). Gallica. 2020年1月5日閲覧。
  42. ^ Anderson, Margot (2009年7月14日). “Dali Does Dance”. The Australian Ballet. 2018年11月8日閲覧。
  43. ^ a b c d e f Font, Lourdes (2009-07-02), “Chanel, Coco”, Oxford Art Online, Oxford University Press, doi:10.1093/gao/9781884446054.article.t2081197 
  44. ^ a b Thomas, Dana. "The Power Behind The Cologne". The New York Times: 24 February 2012. Retrieved 18 July 2012
  45. ^ a b “Sweet Smell of Perfume”. The Lincoln Star (Lincoln, Nebraska): p. 72. (1971年2月28日). https://www.newspapers.com/image/63240225/?terms=%22Rene%2Bde%2BChambrun%22 2016年8月1日閲覧。 
  46. ^ Muir, Kate (2009年4月4日). “Chanel and the Nazis: what Coco Avant Chanel and other films don't tell you”. The Times (London). http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/film/article6027932.ece 2011年3月8日閲覧。 
  47. ^ Warner, Judith (2011年9月2日). “Was Coco Chanel a Nazi Agent?”. The New York Times. https://www.nytimes.com/2011/09/04/books/review/sleeping-with-the-enemy-coco-chanels-secret-war-by-hal-vaughan-book-review.html 2018年11月8日閲覧。 
  48. ^ Chanel antisémite, tabou médiatique en France?”. Arrêt sur images. 2012年5月23日閲覧。
  49. ^ a b Judith Perrignon (2012年8月23日). “Coco Chanel, possédée par sa légende” (フランス語). Le Monde. https://www.lemonde.fr/culture/article/2012/08/23/coco-chanel-possedee-par-sa-legende_1750784_3246.html 2020年1月8日閲覧。 
  50. ^ a b c “Was Coco Chanel a Nazi spy?”. USA Today. AP. (2011年8月17日). https://usatoday30.usatoday.com/life/books/news/2011-08-17-coco-chanel-nazi-spy-book_n.htm 2012年6月15日閲覧。 
  51. ^ “Biography claims Coco Chanel was a Nazi spy”. Reuters. (2011年8月17日). https://www.reuters.com/article/us-books-cocochanel-idUSTRE77F6ZS20110816 2018年11月8日閲覧。 
  52. ^ McLoughlin, Marie (2016). Chanel, Gabrielle Bonheur (Coco) (1883–1971). doi:10.5040/9781472596178-bed-c036. ISBN 978-1472596178. 
  53. ^ a b Chaney, 2012, p. 406.
  54. ^ Coco Chanel (1883–1971)”. Cremerie de Paris. 2018年11月8日閲覧。
  55. ^ Sánchez Vegara, Isabel (2016年2月24日). “Top 10 amazing facts you didn't know about Coco Chanel”. The Guardian. https://www.theguardian.com/childrens-books-site/2016/feb/24/top-10-amazing-facts-you-didnt-know-about-coco-chanel 2018年11月8日閲覧。 
  56. ^ “On This Day: Chanel, the Couturier, Dead in Paris”. The New York Times. (1971年1月11日). https://www.nytimes.com/learning/general/onthisday/bday/0819.html 2011年3月8日閲覧。 
  57. ^ Cimetière du Bois-de-Vaux”. Fodor's Travel Intelligence. 2012年9月11日閲覧。
  58. ^ Wilson, Scott. Resting Places: The Burial Sites of More Than 14,000 Famous Persons, 3d ed.: 2 (Kindle Location 7998). McFarland & Company, Inc., Publishers. Kindle Edition
  59. ^ Leymarie, Jean (1987). Chanel. New York: Rizzoli International Publications. p. 57. 
  60. ^ Introduction to 20th Century Fashion, V&A”. Vam.ac.uk. 2012年5月23日閲覧。
  61. ^ 1922 evening dress embroidered by Kitmir in the Victoria & Albert Museum collections
  62. ^ a b c The Metropolitan Museum of Art Bulletin, New Series, Vol. 63, No. 2 (Fall, 2005) p.39. (for a PDF file showing relevant page, see here [1]). An image of dress with headscarf in situ may be seen on the Metropolitan database here [2]
  63. ^ Introduction of the Chanel suit”. Designer-Vintage. 2018年11月14日閲覧。
  64. ^ Gautier, Jerome (2011). Chanel: The Vocabulary of Style. New Haven: Yale University Press. p. 244. 
  65. ^ Jacobs, Laura (2011年11月19日). “The Enduring Coco Chanel”. Wall Street Journal. https://www.wsj.com/articles/SB10001424052970204323904577038572818601252 2012年9月6日閲覧。 
  66. ^ Fashion design for Suzanne Orlandi, Été 1901, by Jeanne Paquin”. V&A Search the Collections. 2016年4月8日閲覧。
  67. ^ Wollen, Peter (1991). “Cinema/Americanism/the Robot”. In Naremore, James; Brantlinger, Patrick (英語). Modernity and Mass Culture. Indiana University Press. p. 49. ISBN 978-0253206275. https://books.google.co.uk/books?id=CeEfBGnsbkwC&pg=PA49. 
  68. ^ English, Bonnie (2013) (英語). A Cultural History of Fashion in the 20th and 21st Centuries: From Catwalk to Sidewalk. A&C Black. p. 36. ISBN 978-0857851369. https://books.google.co.uk/books?id=DZUdAAAAQBAJ&pg=PA36. 
  69. ^ Pendergast, Tom and Sarah (2004). Fashion, Costume and Culture. Farmington Hills, MI: Thomson Gale. p. 792. 
  70. ^ Leymarie, Jean (1987). Chanel. New York: Rizzoli International Publications. p. 153. 
  71. ^ a b Pedersen, Stephanie (2006). Handbags: What Every Woman Should Know. Cincinnati: David & Charles. p. 68. ISBN 978-0-7153-2495-0. 
  72. ^ a b c d Short History of The Famous Chanel 2.55 Bag”. Style Frizz. 2015年9月6日閲覧。
  73. ^ Festival de Cannes: Coco Chanel & Igor Stravinsky”. festival-cannes.com. 2011年4月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年3月8日閲覧。

読書案内[編集]

外部リンク[編集]