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水野氏

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水野氏
家紋
水野沢瀉
本姓 清和源氏満政流
家祖 水野貞守
種別 武家
出身地 尾張国山田荘水野郷
主な根拠地 尾張国小河城、三河国刈谷城
著名な人物 水野忠邦
凡例 / Category:日本の氏族

水野氏(みずのし)は、清和源氏を称する日本の氏族。徳川家康の母・伝通院の実家にあたり、戦国時代には三河国刈谷城主、江戸時代には徳川氏の外戚家として遇された。柳営秘鑑では、岡崎譜代。近世大名家を輩出した一族の一つであり、また江戸時代中期から後期には幕府の中枢に人物を輩出し続け、国政を握った。

幕末期においては、下総結城藩駿河沼津藩上総鶴牧藩出羽山形藩の各の藩主が水野氏であった。その他、寛文7年(1667年)に改易となった上野安中藩の藩主や紀州藩の附家老であった紀伊新宮城主もこの一族であった。

戦国期以前

水野氏の出自は「寛政重脩諸家家譜」では清和源氏満政流を称している。経基王の王子で源満仲の弟、鎮守府将軍源満政を祖とし、満政の7世、重房の代に至って尾張知多郡阿久比郷小河に移住して小川氏(小河氏)あるいは浦野氏を名乗り、その子、重清の代に至って水野氏を名乗ったという。しかし、苗字の地とされる同春日井郡水野郷(瀬戸市水野)には古代から続く桓武平氏の水野氏があり、また藤原氏を称するものもあり、源氏と断定できず諸説ある状態である。なお苗字の地は京都嵯峨水野の里とする説が「寛政譜」には記されている。

戦国期において水野氏が勢力を伸ばすのは、15世紀中頃、水野貞守が尾張国小河(現在の知多郡東浦町緒川)に拠点(緒川城)を置いたのに始まる。水野忠政のときには三河国碧海に勢力を伸ばして、刈谷城(現在の刈谷市)に拠った。当初は今川氏や近郷に割拠する松平氏との関係が深く、特に松平氏とは頻繁に通婚していた。このことから、この時期においては水野氏は松平氏と同等の勢力であったことがわかる。徳川家康の母伝通院水野忠政の娘)の入輿もこれらの交流のひとつである。しかし忠政の死後、嫡男水野信元は尾張において台頭した織田信秀と同盟(織水同盟)を結び今川氏支配下の松平氏と反目することになった。ただし、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦い今川義元が織田信長に討たれると、徳川家康を支援し信長と家康の同盟(清洲同盟)を仲介した。しかし、その後は織田氏の急激な勢力拡大により水野氏は次第に立場を弱めていった。

天正3年(1575年)水野信元は佐久間信盛の讒言により信長に武田勝頼への内通を疑われ、徳川氏を頼り逃亡をはかるが、織田信長の命を受けた徳川家康により殺害された(これには織田・徳川両氏の陰謀による水野氏排斥であったとする見方もある)。ここに水野氏は断絶となるが、難を逃れた一族は佐久間信盛が失脚すると再興を許され、水野忠政4男水野忠守は尾張国小河(緒川)の、水野忠政9男水野忠重は刈谷の旧領に復した。宗家を継いだ忠重は織田信雄に仕え、信雄が羽柴秀吉と講和してからは秀吉の家臣となった。秀吉の命令で一時伊勢国神戸に転封されるも、ほどなく刈谷に復し、秀吉の死後は徳川家康に従うが、関ヶ原の合戦直前の1600年石田三成方の加賀井重望に殺害された。家督を継いだ長男水野勝成と4男水野忠清は共に家康に仕え、勝成は備後福山藩下総結城藩水野家の祖となり、忠清は駿河沼津藩水野家および上総鶴牧藩水野家の祖となった。また水野忠政4男水野忠守出羽山形藩水野家の祖であり、さらに水野忠政8男水野忠分の子水野分長水野重央は、それぞれ安中藩水野家と紀伊新宮藩水野家の祖である。

ただし、戦国時代の水野氏の系図は異同が激しく、正確な系譜は不明である。永正期の今川氏による三河侵攻による混乱や信元の死による一族離散が影響したという。また、出自を源氏とし、忠政-信元-忠重流を宗家とする系譜操作が行われたためとも言われる(『刈谷市史』2巻)。なお、江戸時代における水野氏は一般的には譜代大名(岡崎譜代)として扱われるが、上述のように徳川氏とは元々織田氏を通じて同盟関係を結ぶ独立した関係であり、徳川氏に仕えたのは厳密には豊臣秀吉の死後になってからである。また、徳川氏を援助したり婚姻を結ぶなど親藩に近い要素もあり単純に譜代とはいえない側面を持っている。

備後福山藩結城藩水野家

和泉守忠重の子日向守勝成を祖とする家で、水野一族の宗家筋に当たる。領地は、三河刈谷より大和郡山備後福山といずれも枢要の地を任された。5代勝岑が2歳で夭折すると跡目を失い断絶となるが、名門の家柄が惜しまれ勝成の孫である勝長が跡目を継ぎ家名の存続が許された。以後、小禄ながら幕末まで存続するが、明治維新には隠居した勝進と当主である勝知が勤王と佐幕に別れ対立し、居城の結城城を奪い合うことになった。歴代当主は以下の通り。なお、個別ページのある当主にはリンクを付した。

1.日向守勝成

(リンク先参照)

2.美作守勝俊

慶長3年(1598年)に備中成羽で生まれる。慶長13年(1608年)に徳川秀忠に初めて披露され、翌14年(1609年)に従五位下に任官し美作守を名乗る。大坂の役島原の乱に参戦。寛永16年(1639年)父の隠居により福山藩を相続。寛永19年(1642年)従四位下に昇進。明暦1年(1655年)に江戸で死す。正室は九鬼長門守守隆の娘。

3.日向守勝貞

寛永2年(1625年)に備後鞆で生まれる。島原の乱に参戦し、凱旋後の寛永16年(1639年)に徳川家光に初めて披露される。翌17年(1640年)従五位下に任官し備後守を名乗る。明暦1年(1655年)父の死により福山藩を相続、名乗りを日向守に改める。寛文2年(1662年)に江戸で死す。正室は酒井讃岐守忠勝の養女。

4.美作守勝種

寛文1年(1661年)に福山で生まれる。寛文3年(1663年)父の死により福山藩を相続。寛文8年(1668年)に徳川家綱に初めて披露され、延宝3年(1675年)に従五位下に任官し美作守を名乗る。天和1年(1681年越後騒動により断罪された松平三河守綱国を預かる。元禄2年(1689年)および元禄5年(1692年)に奥詰を勤める。元禄10年(1697年)に江戸で死す。正室は酒井雅楽頭忠清の娘。

5.松之丞勝岑

元禄10年(1697年)に福山で生まれ、同年父の死により0歳で福山藩を相続。翌11年(1698年)江戸で死す。これにより水野家は無嗣断絶となる。ただし、初代藩主勝成の孫・水野勝長が宗家を引き継ぐことになった。

6.隠岐守勝長

日向守勝成の孫で分家の備前守勝直の子。延宝7年(1679年)に江戸で生まれる。元禄8年(1695年)に徳川綱吉に初めて披露される。元禄11年(1698年)、勝岑の名跡を継ぐことを許され能登羽咋郡西谷に1万石を与えられる。翌12年には小姓並から小姓に進み、従五位下に任官し隠岐守を名乗る。元禄13年に下総結城に転封となり、翌14年に3000石加増される。元禄16年にはさらに5000石の加増があり、結城城築城を命ぜられ城主に列する。この年江戸で死す。正室は内田出羽守正衆の娘。

7.日向守勝政

隠岐守勝長の弟。貞享2年(1685年)に江戸で生まれる。元禄14年(1701年)に徳川綱吉に初めて披露され、翌15年に小姓となり従五位下に任官し摂津守を名乗る。元禄16年に兄勝長の末期養子となり、翌宝永1年(1704年)結城藩を相続。宝永4年(1707年)に小姓を免ぜられる。享保8年(1723年)名乗りを日向守に改める。元文1年(1736年)隠居して名乗りを摂津守とする。延享2年(1745年)に江戸で死す。正室は風早宰相公長の娘。

8.日向守勝庸

享保3年(1718年)に結城で生まれる。享保18年(1733年)に徳川吉宗に初めて披露される。翌19年に従五位下に任官し下野守と名乗る。元文1年(1736年)父の隠居により結城藩を相続し、名乗りを日向守に改める。寛延2年(1749年)に江戸で死す。正室は榊原式部大輔正邦の娘、その死後風早宰相実積の娘を継室に迎える。

9.日向守勝前

日向守勝庸の弟。享保9年(1724年)に結城で生まれる。元文2年(1737年)に徳川吉宗に初めて披露される。寛延2年(1749年)に兄勝庸の養子となり、その死により結城藩を相続。同年従五位下に任官し日向守を名乗る。宝暦13年(1763年)に隠居して摂津守を名乗るが、同年江戸で死す。正室は内藤紀伊守信輝の娘。

10.日向守勝起

延享2年(1745年)に結城で生まれる。宝暦12年(1762年)に徳川家治に初めて披露され、従五位下に任官し下野守を名乗る。翌13年に父の隠居により結城藩を相続して、日向守に改める。天明3年(1783年)に江戸で死す。正室は松平遠江守忠名の娘、その死後小笠原信濃守長逵の娘を継室に迎える。

11.日向守勝剛

中川修理大夫久貞の子。宝暦10年(1760年)に江戸で生まれる。天明3年(1783年)に日向守勝起の末期養子となり結城藩を相続、徳川家斉に初めて披露される。同年、従五位下に任官し日向守を名乗る。寛政12年(1800年)に隠居し、天保5年(1834年)に死す。

12.日向守勝愛

安永9年(1780年)に生まれる。寛政12年(1800年)に父の隠居により結城藩を相続する。天保6年(1835年)に隠居し、天保8年(1837年)に死す。正室は青山大膳亮幸完の娘。

13.日向守勝進

文化14年(1817年)に生まれる。天保4年(1833年)に徳川家斉に初めて披露され、従五位下に任官し左衛門尉を名乗る。天保6年(1835年)に父の隠居により結城藩を相続し、名乗りを日向守に改める。安政6年(1859年)に隠居する。正室は植村出羽守家教の娘。

14.日向守勝任

紀伊新宮藩水野土佐守忠央の子。天保11年(1840年)に生まれる。安政6年(1859年)に結城藩を相続。文久2年(1862年)死す。正室は松平石見守乗利の娘。

15.日向守勝知

二本松藩丹羽左京大夫長富の子。天保9年(1838年)に生まれる。文久2年(1862年)に結城藩を相続。正室は内藤因幡守政民の娘。

三河藩水野家

水野勝成の弟・水野忠胤を祖とする家。関ヶ原の戦いの論功行賞により三河国内に1万石を与えられ成立する。しかし、慶長14年(1609年)の遠州浜松藩藩主松平忠頼を招いた茶会において忠胤家臣と忠頼家臣が口論を起こし仲裁に入った忠頼を忠胤家臣が殺害してしまい、忠胤は切腹を命じられ廃藩となった。

1.市正忠胤

(リンク先参照)

沼津藩水野家

勝成の弟隼人正忠清を祖とする家。代々出羽守を名乗り帝鑑間に詰めた。領地は上野小幡より勝成移封後の三河刈谷に入りその後同国吉田信濃松本と移る。しかし、松本藩主時代の享保10年(1725年)に6代隼人正忠恒が江戸城中で刃傷事件を起こしたため改易となる。その後、叔父出羽守忠穀に家名存続のみが許されたが、その子出羽守忠友が家治の側近として活躍したため明和5年(1768年三河大浜にて大名に復帰する。さらに安永6年(1777年)には駿河沼津城を与えられ城持ち大名となる。大名復帰後は、当主が側用人老中といった幕府要職に就任する機会が多くなった。明治元年(1868年徳川家達駿河府中入封に伴い、所領5万石の内2万3700石を上総菊間に移される。歴代当主は以下の通り。

1.隼人正忠清

(リンク先参照)

2.出羽守忠職

慶長18年(1618年)江戸で生まれる。寛永11年、従五位下に任官し出羽守を名乗る。正保4年、父忠清の死により松本藩を相続する。承応1年(1652年)大坂城代に就任し、寛文2年(1662年)まで勤める。寛文8年に江戸で死す。正室は中川内膳正久盛の娘。

3.隼人正忠直

承応1年(1652年)江戸で生まれる。万治2年(1659年)徳川家綱に初めて披露される。寛文6年(1666年)、従五位下に任官し中務少輔を名乗る。寛文8年、父忠職の死により松本藩を相続する。寛文10年、名乗りを隼人正に改める。正徳3年(1713年)に松本で死す。正室は鍋島丹後守光茂の娘。

4.出羽守忠周

延宝1年(1673年)江戸で生まれる。天和3年(1683年)徳川綱吉に初めて披露される。貞享4年(1687年)、従五位下に任官し出羽守を名乗る。元禄4年(1691年)奥詰に任ぜられ名乗りを中務少輔に改め、後小姓に転任するが1月で辞任する。正徳3年(1713年)、父忠直の死により松本藩を相続し、名乗りを出羽守に改める。享保3年(1718年)に江戸で死す。正室は前田飛騨守利治の娘。

5.日向守忠幹

元禄12年(1699年)江戸で生まれる。宝永6年(1709年)徳川家宣に初めて披露される。正徳3年(1713年)、従五位下に任官し日向守を名乗る。享保3年(1718年)に父忠周の死により松本藩を相続する。享保8年(1723年)江戸で死す。正室は浅野安芸守綱長の娘。

6.隼人正忠恒

元禄14年(1701年)出羽守忠周の子として江戸で生まれる。享保4年(1719年)徳川吉宗に初めて披露される。享保8年、兄忠幹の死により末期養子となり松本藩を相続する。同年、従五位下に任官し隼人正を名乗る。享保10年、江戸城中において乱心し毛利主水正師就に斬りかかったため改易となる。その後身柄は、秋元伊賀守喬房に預けられ、後に弟忠穀のもとで蟄居する。元文4年(1739年)に死す。正室は戸田伊勢守氏長の養女。

7.出羽守忠穀

宝永4年(1707年)出羽守忠周の子として生まれる。享保10年に兄忠恒が改易となったが、名門と言うことで忠穀に7000石が与えられ家名の存続を認められた。元文1年(1736年)、定火消、書院番頭を歴任し、従五位下に任官し出羽守を名乗る。元文4年には大番頭に就任するが、大坂在番中の寛保2年(1742年)に死す。

8.出羽守忠友

享保16年(1731年)江戸で生まれる。元文4年(1739年)に徳川家治の御伽衆となる。寛保2年(1742年)に父の死により家督を相続する。寛保3年に小姓となる。延享4年に従五位下に任官し豊後守を名乗る。宝暦8年(1758年)に小姓組番頭格、宝暦10年に側衆と将軍近侍の職を歴任する。明和2年(1765年)に1000石加増、明和5年にはさらに5000石加増され大名に復帰する(三河大浜藩)。この年、若年寄を命ぜられ名乗りを出羽守に改める。安永6年(1777年)には側用人となり、従四位下に昇進すると共に駿河沼津藩2万石に転封となる。天明1年(1781年)に老中格となり、5000石加増され侍従に昇進する。天明5年には老中となりさらに5000石加増される。天明8年に免職となるが、寛政9年(1797年)には西丸老中に復帰する。享和2年(1802年)に死す。田沼意次に取り入りその子忠徳を養子に迎えるなどして大名復帰や老中就任を果たしたが、松平定信が政権を握ると忠徳を廃嫡するなどその変わり身の早さで地位を守った。正室は牧野内膳正康周の娘。

9.出羽守忠成

宝暦12年(1762年岡野肥前守知暁の子として江戸で生まれる。安永6年(1777年)に徳川家治に初めて披露され、翌年水野勝五郎忠隣の末期養子となりその家を相続する。小納戸、小姓を歴任し天明5年(1785年)に従五位下に任官し大和守を名乗る。天明6年に忠友の養子となり、享和2年(1802年)に沼津藩を相続する。同年奏者番に就任し、翌年には寺社奉行を兼ねる。文化3年(1806年)には若年寄、文化9年には西丸側用人、文政1年(1818年)には老中を勤める。天保5年(1834年)に死す。正室は出羽守忠友の娘。

10.出羽守忠義

寛政4年(1792年)生まれる。天保5年(1834年)沼津藩を相続。天保13年に死す。正室は松平和泉守乗寛の娘。

11.出羽守忠武

文政7年(1824年)生まれる。天保13年(1842年)沼津藩を相続。弘化1年(1844年)に死す。正室は毛利大膳大夫斉煕の娘。

12.出羽守忠良

天保5年(1834年)出羽守忠義の子として生まれる。弘化1年(1844年)沼津藩を相続。安政5年(1858年)に死す。

13.出羽守忠寛

文化4年(1807年水野午之助忠紹の子として生まれる。安政5年(1858年)沼津藩を相続し、同年奏者番となる。翌6年には側用人に進む。文久2年(1862年)側用人を免ぜられ隠居する。正室は牧野忠救の娘。

14.出羽守忠誠

天保5年(1834年本多中務大輔忠考の子として生まれる。文久2年(1852年)沼津藩を相続する。翌年奏者番兼寺社奉行となり元治1年(1864年)まで勤める。慶応2年(1866年)老中に任ぜられ、第二次長州征伐の大将を命ぜられるが、準備のため帰国した沼津で急死する。

15.出羽守忠敬

嘉永4年(1851年水野宮内忠明の子として生まれる。慶長2年忠誠の急死により沼津藩を相続する。正室は松平織部正正和の娘。明治元年(1868年)所領5万石のまま上総菊間に藩庁を移転した後、廃藩置県を迎える。

鶴牧藩水野家

忠清の子周防守忠増を祖とする家。無城の新規取立大名として菊間縁側に詰めた。正徳1年(1711年)に2代肥前守忠位が大坂定番に就任した際に加増されて大名に列した。その後しばらく領地に居所を作らなかったが、享保10年(1725年)に安房北条の陣屋を居所とし、文政10年(1827年)に上総鶴牧に移転した。当主は、大番頭若年寄といった役職に就任する機会が多かった。

1.周防守忠増

寛永2年(1625年)生まれる。寛永18年徳川家綱附きの小姓となる。慶安3年(1650年)には西丸の徒頭に転任し廩米500俵を与えられ、儀式の際に布衣(無紋の狩衣)の着用を許される。明暦3年(1657年)小姓組番頭となり従五位下に任官し周防守を名乗る。万治2年(1659年)に5000石の領地を与えられる。その後書院番頭、大番頭を歴任し、元禄5年(1692年)には奥詰に任ぜられる。元禄7年(1694年)に江戸で死す。妻は土屋民部少輔利直の娘。

2.肥前守忠位

明暦1年(1655年)江戸で生まれる。寛文3年(1663年)に徳川家綱に初めて披露され中奥小姓になる。寛文9年に従五位下に任官し肥前守を名乗る。元禄7年(1694年)に父の死により家督を相続する。元禄9年側衆となり、正徳1年には大名役の大坂定番に就任し、加増され1万2000石の大名に列する。正徳3年に大坂で死す。正室は池田久馬助政武の養女、その死後姉小路大納言公章の娘を継室とする。

3.壱岐守忠定

元禄4年(1691年)に松平越中守定重の子として伊勢桑名で生まれる。正徳2年に忠位の養子となり徳川家宣に初めて披露され、従五位下に任官し壱岐守を名乗る。正徳3年に養父の死により家督を相続する。享保4年(1719年)大番頭になり、享保8年に若年寄に進む。享保10年に領地を安房に移され、北条の地に陣屋を築く。享保20年に3000石加増される。寛延1年(1748年)に江戸で死す。正室は忠位の娘。

4.壱岐守忠見

享保15年(1730年)に江戸で生まれる。寛保3年(1743年)に徳川吉宗に初めて披露される。延享1年(1744年)従五位下に任官し肥前守と名乗る。寛延1年に父の死により北条藩を相続する。翌年大番頭になり、その後奏者番、若年寄を歴任する。安永4年(1775年)に江戸で死す。正室は板倉佐渡守勝清の娘。

5.壱岐守忠韶

宝暦11年(1761年)に江戸で生まれる。安永4年(1775年)に父の死により北条藩を相続する。安永8年に徳川家治に初めて披露され、従五位下に任官し壱岐守を名乗る。天明4年(1784年)に大番頭になり、その後奏者番、若年寄を歴任する。文政10年(1827年)に陣屋を上総鶴牧に移す。文政11年(1828年)に死す。正室は大岡兵庫頭忠喜の娘、離婚後に溝口主膳正直養の娘を継室に迎える。

6.壱岐守忠実

寛政4年(1792年)に生まれる。文政11年に養父の死により鶴牧藩を相続する。天保10年(1839年)より西丸若年寄を勤める。天保13年(1842年)に死す。正室は島津薩摩守重豪の養女、継室は牧野備前守忠精の娘。

7.肥前守忠順

文政7年(1824年)に生まれる。天保13年(1842年)に父の死により鶴牧藩を相続する。嘉永1年(1848年)に奏者番になる。正室は前田備後守利之の娘。

山形藩水野家

監物忠元を祖とする家。代々監物を名乗り帝鑑間に詰めた。領地は、下総山川より駿河田中三河吉田、同岡崎肥前唐津遠江浜松と要地を転々としている。長崎警護の役目がある唐津藩時代を除いて幕府の要職に付くことが多かった。享保の改革徳川吉宗を補佐した和泉守忠之や天保の改革を主導した越前守忠邦等、著名な老中も輩出している。忠邦以降、改革失敗の責任をとらされて出羽山形に転封となる。

なお、初代忠元が大名となったことを記念して、領地ではないが許可を得て、11代忠邦までの墓所が山川(茨城県結城市)につくられている。

1.監物忠元

天正4年(1574年)に尾張小河城水野織部忠守の子として生まれる。慶長10年(1605年)に従五位下に任官し大監物を称する。小姓組番頭、西丸書院番頭を歴任し、幕政にも関わる。下総下野近江において3万5000石の領地を与えられて大名に列する。元和6年(1620年)に死す。正室は紀州徳川家の家臣三浦長門守為春の娘。

2.監物忠善

慶長17年(1612年)に江戸で生まれる。慶長19年に徳川家康に初めて披露される。元和6年父の死により家督を相続する。寛永7年(1630年)に従五位下に任官し大監物を名乗る。寛永12年に1万石加増の上駿河田中に転封となる。その後、19年には三河吉田に、正保2年(1645年)には5000石加増の上同国岡崎に、とたびたび転封された。太平の世にありながら尾張藩を仮想敵国とした軍備の強化に奔走し、そのことを巡り嫡子忠春と対立した。延宝4年(1676年)に江戸で死す。正室は井上主計頭正就の娘。

3.右衛門大夫忠春

寛永18年(1641年)に江戸で生まれる。慶安4年(1651年)に徳川家綱に初めて披露される。承応3年(1654年)に従五位下に任官し右衛門大夫を名乗る。延宝4年に父の死により岡崎藩を相続する。天和1年(1681年)に奏者番兼寺社奉行に就任し、貞享2年(1685年)まで勤める。元禄5年(1692年)に江戸で死す。正室は前田淡路守利次の娘。

4.豊前守忠盈

寛文2年(1662年)に江戸で生まれる。延宝6年(1678年)に徳川家綱に初めて披露され、同年従五位下に任官し豊前守を名乗る。元禄5年に父の死により岡崎藩を相続する。元禄9年(1696年)に奥詰となる。元禄12年(1699年)に江戸で死す。正室は本多下野守忠平の養女。

5.和泉守忠之

寛文9年(1669年)に三代忠春の子として江戸で生まれる。一族の水野清吉郎忠近の養子となり、延宝2年(1674年)にその領地2030石を相続し、使番、新番頭を歴任する。元禄12年に兄忠盈の死により岡崎藩を相続し、同年従五位下に任官し大監物を名乗る。元禄15年(1702年)に赤穂浪士のうち9人を預けられる。宝永2年(1705年)に奏者番に就任して以降、若年寄、京都所司代を歴任する。正徳4年(1714年)には従四位下侍従に昇進し、名乗りを和泉守に改めた。享保2年(1717年)に老中に就任し、享保の改革に参画する。同10年に1万石加増される。同15年(1730年)、多病を理由に老中を免職となり家督を子忠輝に譲る。翌年江戸で死す。

6.監物忠輝

元禄4年(1691年)に江戸で生まれる。宝永1年(1704年)に徳川綱吉に初めて披露される。翌年従五位下に任官し右衛門大夫と名乗る。正徳2年(1712年に右衛門佐、享保14年(1729年)に大監物と名乗りを改める。享保15年に父の隠居により岡崎藩を相続する。元文2年(1737年)に岡崎で死す。正室は井上河内守正岑の娘。

7.監物忠辰

享保7年(1722年)に江戸で生まれる。元文2年に父の死により岡崎藩を相続し、同年徳川吉宗に初めて披露され従五位下に任官し大監物を名乗る。藩政改革を巡って家臣と対立し、宝暦2年(1752年)に押し込めにあい隠居を強要される。同年死す。正室は本多中務大輔忠良の娘。

8.和泉守忠任

享保19年(1734年)に一族水野平十郎守満の子として生まれる。宝暦1年(1751年)に忠辰の養子として徳川家重に披露され、同年従五位下に任官し織部正を名乗る。翌年忠辰の押し込め隠居により急遽岡崎藩を相続する。同9年(1759年)、和泉守に名乗りを改める。同12年(1762年肥前唐津に転封となる。安永4年(1775年)に隠居し、文化8年(1811年)に死す。正室は監物忠辰の娘。

9.左近将監忠鼎

延享1年(1744年)に浅野安芸守宗恒の子として広島で生まれる。明和4年(1767年)に忠任の養子となり、徳川家治に初めて披露される。同年従五位下に任官し左近将監を名乗る。安永4年(1775年)に忠任の隠居を受けて唐津藩を相続する。同8年(1779年)に奏者番に就任する。文化2年(1805年)に隠居し、文政1年(1818年)に死す。正室は監物忠辰の娘。

10.和泉守忠光

明和8年(1771年)に江戸で生まれる。天明5年(1785年)に徳川家治に初めて披露され、同年従五位下に任官し式部少輔と名乗る。文化2年に父の隠居を受けて唐津藩を相続する。文化9年(1812年)に隠居し、同11年(1814年)に死す(徳照院叡嶽宗俊大居士)。正室は浅野安芸守重晟の娘。

11.越前守忠邦

(リンク先参照)

12.和泉守忠精

天保3年(1832年)に生まれる。弘化2年(1845年)に父の隠居を受けて浜松藩を相続。同年父が老中在職中の不正を咎められ、2万石減封の上出羽山形に転封となる。安政5年(1858年)奏者番兼寺社奉行に就任。その後、若年寄、老中を歴任する。慶応2年(1866年)に隠居する。正室は井上河内守正春の娘。

13.和泉守忠弘

安政3年(1856年)に生まれる。慶応2年に父の隠居を受けて山形藩を相続。明治2年(1870年)に版籍を奉還する。正室は水野大炊頭忠幹の娘。

安中藩水野家

水野弾正忠分長を祖とする家。新規取立の城主として雁間に詰め、大番頭や奏者番といった役職に就く機会が多かった。領地は、水野氏の故地である尾張小河より、三河新城上野安中と変遷した。寛文7年(1667年)三代信濃守元知が乱心して妻女である山形藩水野氏水野監物忠善(当時は岡崎藩主)の娘を殺害したため改易となる。その後子孫は旗本として存続した。

1.水野弾正忠分長

永禄5年(1562年水野藤次郎忠分の子として尾張で生まれる。小牧・長久手の戦い九戸一揆に徳川家康の旗下として参戦する。慶長4年(1599年)に大番頭となる。関ヶ原の合戦に参戦し、戦後の慶長6年尾張小河9820石の領主となる。慶長9年に従五位下に任官し備前守を名乗る。慶長11年には三河新城藩1万石に転封となり、元和2年(1616年)に2000石加増される。元和6年に水戸家徳川頼房附きとなり、安房国内に1万5000石の領地を与えられ名乗りを弾正忠とする。この時新城藩は子の元綱が相続する。元和9年に江戸で死す。この際安房領は収公される。正室は山口半左衛門重勝の娘。

2.水野備後守元綱

文禄3年(1594年)尾張で生まれる。慶長12年(1607年)に徳川秀忠に初めて披露され、慶長17年に従五位下に任官し大和守を名乗る。元和1年(1615年)に書院番組頭となり、翌年父の領地と別に1000石を与えられる。元和6年に父が頼房附きになったことに伴い新城藩を相続し、名乗りを備後守と改める。寛永3年(1626年)に大番頭に就任し、寛永9年には奏者番を兼任する。寛永10年に4000石を加増され、正保2年(1645年)には上野安中に2万石で転封される。この年大番頭を辞任し、万治2年(1659年)には奏者番も辞任する。寛文4年(1664年)に隠居し、翌年江戸で死す。正室は中川修理大夫秀成の娘。

3.水野信濃守元知

正保1年(1644年)江戸で生まれる。承応1年(1652年)に徳川家綱に初めて披露され、明暦3年(1657年)従五位下に任官し信濃守を名乗る。寛文4年に父の隠居により安中藩を相続する。寛文7年(1667年)乱心して正室の水野監物忠善の娘に傷を負わせ、自らも自害しようとする。このため安中藩は改易となる。家督はその子弾正元朝に相続を許され、元朝には蔵米2000俵が支給された。

新宮藩水野家

出雲守重央を祖とする家。重央は徳川頼宣附家老となり、頼宣の領地移動に伴いその領内の遠江浜松城、紀伊新宮城を与えられた。その後子孫は新宮城主、紀州徳川家家老として続く。明治維新後功績を認められ、正式に立藩し男爵となった。

その他

水野勝成の子・成貞は、旗本となったが、その子・成之(十郎左衛門)知行3,000石が幡随院長兵衛と乱闘し殺害したことは不問に処されたが、その後行跡怠慢により母の実家の蜂須賀家にお預かりとなり、評定の為に召喚された時、月代を剃らず着流しの伊達姿で出頭し、あまりにも不敬なので即日切腹となり断絶した。その後、弟の水野忠丘が旗本として召し出された。

また、大名としての水野家の他に、尾張藩に仕えた水野家がある。

1. 常滑水野家

水野忠政の兄弟、水野忠綱を祖とする。常滑城(城趾は愛知県常滑市山方町)主として、この地を領した。三代水野守隆本能寺の変の際に明智方とみられ、のち隠遁、慶長3年(1598年)京都で没したが、その妻総心尼(忠政の次男水野信元の娘、家康の従兄弟にあたる)は、中山光勝(五郎左衛門、父は岩滑城中山勝時)の養子であり、総心尼の妹(名前は明らかではない)の実子である新七郎を養子として迎え、同家を再興し、新七郎は水野保雅を名乗り、彼とその子孫は尾張藩に仕えて幕末に至った。

2. 河和水野家

河和城愛知県美浜町河和字西谷)主戸田守光水野信元の娘、妙(総心尼とは姉妹となる)との子光康を祖とする。天正18年(1590年)、父守光は秀吉旗下として参加した小田原征伐で討死。夫の死後、剃髪した母妙源尼と共に、江戸で伝通院の庇護を受ける。慶長2年(1597年)母方の姓を名乗って水野光康となり、家康より700石の知行を与えられる。慶長6年(1601年)河和郷に復して1460石を与えられ、後に尾張藩士となる。同じく子孫は尾張藩に仕え、幕末に至るまで旧河和城下に屋敷(河和屋敷と呼ばれていたらしい)を持っていたという。

系譜

太字は嫡流当主、実線は実子、点線は養子。

忠重流

忠守流

忠分流

関連項目

外部リンク