松平綱国

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松平綱国
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛文2年12月9日1663年1月18日
死没 享保20年3月5日1735年3月28日
改名 永見万徳丸(幼名)→松平綱国
別名 号:更山
戒名 更山院殿馨誉鉄心大居士
墓所 岡山県津山市西寺町の泰安寺
官位 従四位上侍従三河守
幕府 江戸幕府
主君 松平光長徳川家綱綱吉
越後高田藩世嗣→美作津山藩御連枝
氏族 永見氏越前松平宗家
父母 父:永見長頼、母:大木氏
養父:松平光長、養母:登佐姫
兄弟 女子、綱国
婚約者:松子
安藤国近
養子:豊子
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松平 綱国(まつだいら つなくに)は、江戸時代前期から中期にかけての越後国高田藩の世嗣。

生涯[編集]

御連枝永見長頼の嫡男として誕生。延宝2年(1674年)、伯父松平光長の世嗣綱賢が死去した。綱賢には男子がいなかったため、叔父永見長良らと世嗣の座を争い、光長の世嗣に選ばれる。将軍徳川家綱より偏諱を賜って松平綱国を名乗る。

しかし越後騒動で光長が処罰され、高田藩が改易になると綱国は備後国福山藩にお預けとなった。やがて赦免されたが、綱国は光長と不和になっており、元禄6年(1693年)に病を理由に廃嫡され、代わって結城松平家から宣富(津山松平家の祖)が迎えられ世嗣となった。

廃嫡後は美作国津山に移り、宮川御殿と呼ばれた屋敷に住んだ。宝永5年(1708年)には出家して更山と号し、享保20年(1735年)に74歳で死去した。

子孫は姓を永見に改め、以後津山藩家老の家系として存続し、明治3年(1870年)に松平へ復した。

系譜[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]


参考文献[編集]

  • 『津山藩日記』
  • 『水野記抄書』
  • 『岡山県人名辞書』

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