栗田健男

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栗田健男
くりた たけお
海軍中将時代の栗田健男
生誕 1889年4月28日
日本の旗 日本 茨城県水戸市
死没 1977年12月19日
日本の旗 日本 兵庫県西宮市
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴 1910年 - 1945年
最終階級 海軍中将海軍兵学校校長)
除隊後 筆耕業
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栗田健男(くりた たけお、1889年4月28日 - 1977年12月19日)は日本海軍軍人海軍中将)。茨城県水戸市に生まれる。旧制水戸中学校(現茨城県立水戸第一高等学校)、海軍兵学校38期)卒業。

経歴

水戸藩士の家に生まれる。祖父は藤田東湖会沢正志斎の弟子で東京帝大教授栗田寛文学博士、父は漢学者で大日本史編集員であった栗田勤。遥かな祖先は清和源氏に連なるというが、元禄時代に水戸に移り油屋を生業とした。父の訓育は水戸の気風を反映し無骨と不言実行をモットーとしたという。伊藤正徳によれば、青少年時代は学問は出来、なによりも頑張りやその上に高い人格を持っていたという[1]

兵学校を149名中28番[2]で卒業。兵科将校として駆逐艦長や軽巡洋艦艦長、海軍水雷学校教頭、水雷戦隊司令官を歴任。いわゆるエリートコースとされる海軍大学校甲種学生を経ずに司令長官に就任した数少ない人物の一人である[3]。なお乙種学生として4ヶ月ほど海大で教育を受けている[4]が、海大乙種は同期生の約8割が進み、高等数学など主に普通学を学ぶ課程である[5]

海軍時代

1月、アナンバス攻略作戦を支援
2月、パレンバン攻略を支援。28日にはスラバヤ沖海戦で逃げられた連合国艦艇とバタビア沖海戦が発生。
3月、アンダマン攻略を支援
4月、インド洋作戦の一環で同海域で通商作戦を実施。商船1隻、137,000トン撃沈、その他8隻大破という、水上艦艇としては空前の戦果を上げる。
5月、任海軍中将。インド洋から内地に帰還。
6月、ミッドウェー海戦に攻略部隊支援隊として参加。貴下の重巡三隈を失う。
7月、第三戦隊司令官。
10月、ガダルカナル島ヘンダーソン基地艦砲射撃作戦を指揮。26日には南太平洋海戦に参加。
2月、ガダルカナル島撤収作戦であるケ号作戦を支援。
7月、出仕
8月、第二艦隊司令長官兼第四戦隊司令官
11月、ろ号作戦に伴いブーゲンビル島逆上陸支援のため第二艦隊主力を率いてラバウル入泊した際にラバウル空襲に遭遇した。この年勲一等瑞宝章を受章。
6月、マリアナ沖海戦に参加。その後栗田の指揮する第二艦隊は一旦本土に戻ったものの、燃料事情を考慮してスマトラ島のリンガ泊地に移動し捷号作戦に備えた艦隊訓練に当たった。
10月、レイテ沖海戦で第一遊撃部隊を指揮し、潜水艦の襲撃、シブヤン海海戦を経て艦隊は大損害を受けた。その後生起したサマール沖海戦にて敵機動部隊うち一つを撃滅したと判断、再度レイテ湾突入に向かうが、「ヤキ1カ」電を受けて北方機動部隊を求め反転。結局作戦目的を果たせず帰投した。この行動は後に「謎の反転」と呼ばれることになり、現在でも同海戦について語られる際には大きな議論の対象となっている(経緯・論議の詳細はレイテ沖海戦を参照)。
1月10日参内、昭和天皇他よりレイテ沖海戦での功績によりねぎらいの言葉等を下賜される。15日海軍兵学校校長となり、終戦まで同職に留まる。10月5日予備役
なお当時の兵学校は年毎に採用者が急増し、76期から78期はそれぞれ4000名も在籍していた。そのため江田島の校舎だけでは到底収容できない状況であったが、元生徒には好印象で映っている例もある。78期の大岡次郎は栗田を「不世出の大提督」「類希なる名将・勇将」と絶賛しており[6]、晩年関西に住んだ栗田とも家が近かったという。77期の鎌田芳朗は栗田につき「敗軍の将ではない」と述べている[7]。なお栗田は最後の海軍兵学校校長である。

戦後

終戦直後、占領軍は戦史編纂の準備の為もあり、米国戦略爆撃調査団、日本海軍技術調査団、GHQ参謀第二部歴史課[8]など幾つかの組織をつくって多くの政治・軍事関係者へのインタビューを行った。栗田もその際かなりの質問を受け、その量は小沢よりも遥かに多い。その回答が記録に残された。このうちGHQ参謀第二部歴史課が記録した分の一部[9]は後に『明治百年叢書』の一環で原書房より刊行された[10]。戦後は自宅で筆耕の内職を行っていた。ただし、亀井宏によれば軍人恩給から外されることはなかったようで、また、第1次ソロモン海戦での行動を批判されていた三川軍一とは仲が良かった。ジャーナリズム関係、特に物を書く人間に対しては、厳しい態度を崩さなかったという[6]。同様の内容は『レイテ沖海戦1944』での戦後の栗田の描写でも取り上げられ、大岡次郎へ自身の伝記を書くよう薦めた際に、「雑誌記者は信用できない」とも述べている。

マスコミはもとより海軍関係の訪問者にも固く口を閉ざす事が多かったが、戦後10年余りを経過し小柳などが著書を出版する中、『丸』昭和32年11月号で栗田の証言が掲載されている。その後、戦史研究家の児島襄がレイテ沖海戦について取材を行った際、同じ海兵38期の土田斉の助力により3回に渡っての取材が実現、取材を纏めた『悲劇の提督』では他の第二艦隊幹部と共に多くの証言を残した。水交会が復活してからは寄稿も行った[11]。亀井自身も昭和40年代後半に取材を試み、失敗したと述べているが、その頃太平洋戦争を題材にしたテレビアニメ『アニメンタリー 決断』が放送されており[12]新名丈夫はその企画中で発行された『決断 VOL.3』にて栗田との会見に成功した。一方、2年に一度、靖国神社への参拝を欠かさなかった。家族に対しても海軍時代のことは一切語らず、孫には優しく接し、叱ることをしなかった。なお妻は佐藤脩の妹である。また時にはマージャンを嗜んだ。レイテ沖海戦にまつわる推理本が世に出回るようになると、孫の目にはプライドを傷つけられているように見えたという。『レイテ沖海戦1944』によれば「もうどこかへいってしまいたい」と発言していたとされる。

1977年12月19日兵庫県西宮市にて死去。享年88。発言等については下記で一括して纏める。

栗田の死後30年余り、日本のジャーナリスト、マスメディアの記者などで、軍事専門家を含めて、既存資料のうち良く知られたものを中心に素材集めを行い、それらに拠って栗田の海軍時代の行動を論評した者は数多の人数に上る。

エヴァンはニューズウィーク記者の高山秀子をパートナーとして関係者への働きかけを行い、栗田の遺族や旧交を持つ関係者などとの会食、取材が実現した。その成果は『レイテ沖海戦1944―日米四人の指揮官と艦隊決戦』として書籍化された[13]

評価

当時の日本海軍で最も長い戦歴を持つ実戦指揮官の一人である。駆逐艦艦長6回、駆逐隊司令3回、水雷戦隊司令官2回、戦隊司令官2回[14]など、戦前から水雷屋として多くの経験を積んだベテランであった。艦隊勤務が多い「車曳き」であり、奉職した34年間の内陸上勤務は水雷学校学生、教官、教頭時代と2回の病気(胃アトニー)の際の9年間である。開戦時からの経歴を辿っても、海軍が事実上壊滅して指揮出来る艦艇が無くなり海軍兵学校の校長に任じられるまでは常に前線で指揮を執り続けていた。

連合艦隊参謀長を務めた草鹿龍之介によれば「非常な猛将」であったという[15]

吉田俊雄によれば好きなものは野球であり、戦後は阪神タイガースを応援していた[16]。栗田は剣道に優れ、海軍部内では居合の達人として知られた[17]。「金剛」艦長時代は、大変な無作法をした初級士官を怒鳴りつけながらも赦し、この士官は栗田のためなら「命は要らん」と泣きながら語った[17]

レイテ海戦時のいでたちは白の半袖防暑服、白の長ズボン、白戦闘帽ズックであり、白装束という意味ではなく、いつも通りの服装であった。この時の「謎の反転」の当事者として有名で、多くの批判を受けている提督である。非難の内容としては「みすみす艦隊を壊滅させ、フィリピンで戦っていた陸軍将兵を含め多くの将兵をあたら無駄死にさせた上、自分は生き残った」「突入の命令は絶対である」といった論調が多い。ことに正規空母まで犠牲にした小沢機動部隊の囮作戦は栗田艦隊の反転によって全くの無意味と化し、非難には相当の正当性があると言わざるを得ない。菊澤研宗[18]、佐藤晃[19]等は自著にて、栗田が命令違反をしたと論旨を展開している。 評価の詳細については批判と擁護に分けて後述する。また、各海戦そのものについては各項目を参照のこと。

軍事評論と創作活動を共にこなす佐藤大輔は、『逆転、太平洋戦史』内の評論部分にて、レイテ沖海戦の反転の原因になった電報を栗田の頭の中に存在した幻想とし、「あらゆる罵倒を書き連ねたくなる」と述べ、作品内でも臆病、消極的と形容し不遇な扱いを繰り返した。このような仮想戦記は史実を述べたものではないが、佐藤大輔は「願望充足」という文化的現象として認識しており、執筆の動機のひとつにしていることも認めている。また、亀井宏は、「過去の時代を理解することの難しさ」などと小見出しを使い、一般社会と組織内での人物評の落差や、その組織人たる軍人も、文章力やアピール度合いに大きな差があることを述べ、栗田等一部日本軍指揮官への批判的評論に関して「イヤな奴ほど傑作を書く」という物書きの警句を紹介して牽制している[6]

謎の反転

栗田を評する上において最大の焦点となっているのがレイテ沖海戦での「謎の反転」である。これについては、本人が戦中・戦後を通して語ることが無かったと記載される事が多い。実際には、上記のように、レイテ沖海戦に限らず、多くの発言が記録されている(同海戦時「利根」艦長であった黛治夫佐藤和正の『レイテ沖海戦』内にて「謎」という言葉自体を否定している)。また、相当数の関係者の栗田にまつわる証言が残されている。だが、これらのもので従来知られ、広く引用されてきたのは伊藤正徳の『連合艦隊の最後』によるものであった。

証言記録の他、児島襄が公開した回想、佐藤和正が関係者や非売品書籍から再構成した海戦時のやりとりはいずれも伊藤が同書に書いたものを量的に上回っている。しかし、下記の伊藤正徳、大岡昇平の著書と比較しこれらが参考文献に挙げられることは少ない[20]

伊藤正徳の取材と「疲れていた」発言

レイテ沖海戦では、パラワン水道にて最初の旗艦の愛宕が沈没した為、艦隊司令部要員は重油の漂う中を予備の旗艦に指定されていた大和に向けて移乗する事態に陥った。その後も休み無く戦闘が続き、サンベルナルジノ海峡を通過した際には夜戦を覚悟していた。そのためサマール島沖海戦後に反転を行った際、栗田をはじめ第一遊撃部隊司令部は三日三晩休む暇も無かった[21]。1955年、伊藤正徳は反転の理由について質問し、栗田は当初躊躇していたが、「嘘を言ってはいけない」と窘め、「あの時は非常に疲れていた」と述べたという。このやりとりは伊藤の著書『連合艦隊の最後』に掲載され同書は何度も再版を重ねた。また、その後『レイテ戦記』にも転載され、こちらも長年に渡り文庫版が版を重ねた。

このうち「疲れていた」という言葉が多くの書籍(史書・ノンフィクションを含む)に引用された[22]。その後児島襄が執筆の為取材を行った際に、栗田は20年来付き合いの無かった伊藤が急に訪ねてきて質問した事や、その言葉の意味するところを語った(下記)。また、佐藤和正は著書『レイテ沖海戦』の末尾で反転について正しかったとする立場から論じた際に、世間の風当たりを考慮して、疲労説を誘導するような状況があったという伝聞を紹介している。後年半藤一利は『日本海軍、錨上ゲ!』にて、この発言を引き出したのは伊藤の著書の出版を記念した伊藤宅での天ぷらを食す小パーティであったことを明らかにし、栗田を嘘つき呼ばわりしたが対談相手の阿川弘之は反論していない。

1970年代以後も多くの新事実、GHQ参謀第二部その他の行なった聞き取りでの各指揮官の証言などが続々提示され、一部は出版もなされていった。一方、それらを参考としないのに加えて『レイテ戦記』に掲載されている、アメリカ第7艦隊の各戦艦の残弾一覧表といった資料に目を通さず、表面上のスペクタクルにばかり注目した評論がなされているのが実情である。

例えば半藤は1970年に出版された『全軍突撃 レイテ沖海戦』内で栗田艦隊が反転の真因を「事実を捏造して隠蔽するため」と推定した。その約30年後の2001年に出版された『日本海軍 戦場の教訓』にて秦郁彦横山恵一と鼎談している。その中で横山恵一は、(10月24日の反転を指摘してではあるが)栗田を臆病と言いながら一方で自身が艦隊決戦に対する未練を臭わせる発言を行った。それに応じて半藤は日本側にまつわる種々の問題点の多くを自分から指摘したにも関わらず、それでも命令通りにレイテ湾に突入するべきだったという旨を主張した。他の2名はこの発言に対していくつかの問題点を挙げ、秦は「西村艦隊の仇を討てたかは夢物語」と述べている。この鼎談では通例に従って船団攻撃という目的からの批判も語られており、秦は半藤の主張がその目的から外れている事を指摘したが、半藤は「それでもいい」と述べ言説が錯綜していた。なおこの時秦は「栗田は臆病カゼに吹かれて反転した」とも述べている。


一方、大岡次郎は酒席ではあるが疲労説を明確に否定する発言を聞いた(下記発言)。黛治夫は佐藤和正『レイテ沖海戦』内で「疲れて判断を誤るということは絶対にないね。三日三晩、一睡もしないということは戦前の訓練でもよくあったことだし、まして戦闘情況の中では疲れを覚えるどころか、頭はますます冴えてくるものだ。事実、レイテへ行ったときのわたしはそうだった」と述べている[23]


批判

「逃げ癖」など、元々戦意や士気の面で問題があったと批判され、栗田と共に戦った人物たちの中には「避敵傾向がある」「消極的」と評す者がいる[24]。また、石渡幸二は「報告、連絡の欠如」を問題行動であると主張した。中島親孝は、栗田について「肝心なときにいなくなる。」と述べ[25]、著作においても批判している[26]

「謎の反転」への批判が呼び水となって、レイテ海戦以外の作戦へ批判が拡大した。『歴史と人物』の石渡幸二の投稿や数名の提督による座談会などはそうした流れで出てきた典型であり、同座談会ではレイテ沖海戦について松田千秋などが栗田を批判しているのが確認できる。

石渡らが開戦初期の行動で批判しているのはジャワ攻略作戦である。2月27日、敵艦隊発見の通報があった際、原顕三郎中将指揮の第3護衛隊が南方に向かったのに対して、第7戦隊は北方へ向かった。小島秀雄等は『歴史と人物』の座談会にてバタビア沖海戦としているが、同海戦では第7戦隊は接近し照射射撃を行っており、「敵と反対の方向へ航路をとっている」行動はなく、2月27日の話との混同の可能性がある。小島は「当時から(一部の海軍士官には)評判が悪かった」と述べたが、同時に軍令部から艦船の保全について念押しがあったことも認めている。

ミッドウェー海戦では重巡「最上」と「三隈」の衝突後、この2隻を置き去りにして撤退行動を続けたことが問題とされた。一昼夜無線封止をしたため味方である連合艦隊司令部ですらどこに栗田部隊がいるかわからない状態になった。その後安全圏に退避した後に初めて位置報告をしている。その間に栗田が見捨てた重巡「三隅」は米軍機動部隊の追撃により撃沈され、「最上」は辛うじて自力で退避に成功している。

ヘンダーソン飛行場に対する艦砲射撃に関しても、連合艦隊司令長官だった山本五十六は積極性に欠ける栗田の姿勢を見て自分が大和を指揮して乗り込むと発言し、それを聞いた栗田が承諾したというエピソードが伝えられており、そのために批判されることがある。マリアナ沖海戦でも消極的行動(夜戦準備要請に対し準備を開始したのは受信2時間後)等が批判された。

ただし、いずれの措置も直後には問題とされておらず、以後も起用され続け重用され続けている。

必ずしも擁護の文脈では無いが、吉田俊雄は環境の厳しい海にい続けたことが、栗田の危ない橋を渡らない、合理的感覚の形成に寄与した可能性を指摘している。船乗りとしては一流であっても、軍人としての能力には必ずしも合致しない事を意味するような言葉もある。

レイテ沖海戦ではシブヤン海海戦後、一時反転した際、欺瞞を成功させるため再反転報告を行動開始後数時間遅れて連合艦隊司令部に発信したが、連合艦隊司令部と小沢艦隊、栗田艦隊の行動の連携不足の一因として論議の対象になることもある。

高木惣吉は海大首席卒業者であるが、艦隊勤務の経験が少なく、中央での活動で知られるが、栗田について戦後「レイテの敗将を兵学校の校長に据えた」と批判した[27]

野村實は「栗田の反転は独断専行であったが正しかったとは言えない」とし、同時に「栗田は逃げたのではない」と述べている[28]

擁護

レイテ沖海戦

一方机上の論理を現場に押し付け、十分なバックアップを行なわなかった連合艦隊の責任が大きいとする意見も少なくなく、レイテ沖海戦では海戦直後に書かれた大淀戦闘詳報にもそうした批判がある。奥宮正武は栗田の関わった作戦のほとんどが「制空権無き場所で長時間、長距離にわたって艦隊運用を行う」ことが前提にあること(また、栗田自身が納得していなかったこと)を指摘し、栗田が太平洋戦争で中央の作戦の尻拭いばかりさせられていたことを説明し、「長期に渡る第一線部隊での努力」が理解されていないと述べた。「大和」艦橋で栗田の判断を観察していた石田恒夫(レイテ沖海戦時、大和主計長)は、栗田の葬儀で「レイテ沖の反転は敵を求めての反転であり、長官の自信ある用兵、決断による作戦行動であったことは、かの激しい戦場にあった者のみ知るところでありましょう」と述べている[29]

古村啓蔵(戦艦武蔵艦長)は亀井宏のインタビューに対し、レイテ沖海戦は一種の特攻であり、「栗田さんほどの人を殺すためには、連合艦隊もそれ相応の挨拶があっていい。豊田副武長官が乗って突っ込めば良かった。豊田ぐらい(かわりは)いくらでもいる」と怒気を含んで栗田を擁護している[30]

その他の海戦

バタビア沖海戦での問題行動に関して言えば、その直前にあったスラバヤ沖海戦で敵艦隊を撃滅できなかったことによって発生した海戦である。スラバヤ沖海戦は、東方支援隊(第5戦隊基幹)を指揮していた高木武雄少将が接近して砲撃を行わずに砲弾を浪費し、夜戦で砲弾不足に見舞われ、その後行われた雷撃でも数隻を撃ち漏らした海戦である。 その敵艦が再度バンタム湾に揚陸中の日本軍船団に接敵したために戦闘が発生した。敵を発見した駆逐艦吹雪の通報を受けた際、第7戦隊は栗田座乗の熊野鈴谷がスラバヤ沖海戦を受けて上陸地点東方へ進出中、最上三隈の2隻が船団北方を警戒しており、敵の通報を受けて急行するという展開であり、特に不審なものではなく、臆病の謗りを受ける様なものではない。敵味方の識別が困難な夜戦であった上、襲撃した部隊が残存敵艦隊の全てである訳ではないので近辺の最上、三隈を救援に向かわせ、自隊は警戒に残るという判断は妥当である。実際、同じく哨戒任務をしていた第5戦隊が別行動をとっていた重巡「エクセター」他を発見している。

また上陸したバンタム湾は狭くあちこちに暗礁があり、そこに日本の輸送船団や護衛の第3護衛隊がひしめいている状態であり、そこに暗夜の状態で重巡が4隻も突入するのは危険であり、救援に赴いた最上艦長も「戦闘海面は殊の外狭く、あちこちに島や暗礁があって暴れまわるにはすこぶる窮屈」と後に報告している[31]。なおエクゼターを発見した際、高木はその時点で2隻の重巡を指揮していたが、上記の理由により自艦隊の弾薬が極度に欠乏を来たしていたため、戦隊4隻全艦の到着を待ってから挟撃した。

一連の海戦で、海軍内で避敵行動を問題とされていたのはスラバヤ沖海戦での高木少将、田中頼三少将の指揮の方であり、栗田の行動は全く問題視されていない。この行動を問題視する発言が出たのは全て戦後になってからで、しかも当時の状況を全く把握せず、短絡的に栗田の部隊が戦場から離れてるような行動をした事だけで批判しているものが殆どである。第七戦隊が、この海戦で問題視される事例を挙げるなら、指揮下の「最上」の遠距離から放った魚雷が目標を外れて、その射線延長線上にいた味方の第十六軍輸送船団に到達してしまい、軍司令官今村均中将の座乗艦を撃沈してしまったことであるが、今村軍司令の好意もあって当時はそれほど問題にはならなかった。今村司令官には原顕三郎少将が謝罪に行き快諾されている。

インド洋作戦の一環として行われたベンガル湾での輸送船狩りでは第7戦隊だけで10隻以上の戦果がある[32]

ミッドウェー海戦については、第二弾作戦としての計画段階から、連合艦隊司令部が在艦した「大和」を含む主隊の超後方配置、空母2隻のアリューシャン方面への投入に至るまで、連合艦隊司令部や山本への批判も多くなされる[33]。更に、前月のインド洋作戦などで、エアカバーを持たない中小艦船がどうなるかを日本側の現場指揮官達は良く知っていた。にもかかわらず、連合艦隊は機動部隊が壊滅し制空権を失ったのに第7戦隊だけでのミッドウェー砲撃命令をだし、それもミッドウェーから90浬の近距離まで接近した頃に撤退を命令し、撤退に対する支援行動は一切行わなかった。 更に重巡洋艦「最上」と「三隈」が衝突した(現地時間6月4日2時18分頃)際、栗田は2時30分にはこれを通報しているが、これに対する連合艦隊や上級司令部である第二艦隊からの指示や救援行動は一切なく、最初の指示は4時間も経過した6時25分であった。衝突時点で戦隊はミッドウェーから100浬程の地点におり、既に敵に発見されている状況(衝突したそもそもの原因は航行中に敵潜水艦タンバーを発見して回避行動をとった為)なので、夜明けとともに空襲を受けるのは必定だった。 栗田は損傷の少ない「三隈」と艦首を失った「最上」だけでミッドウェー島から南西のトラック諸島へ避退するよう命じた[34](のちに6時25分の指示で駆逐艦2隻〈荒潮朝潮〉を護衛に向かわせる事になるが燃料が欠乏しており、重巡から燃料を分けて急行させたため遅れた)。 栗田自身は作戦を継続すべく、無傷の旗艦熊野」、「鈴谷」を率いて連合艦隊主力部隊との合流を急いだ[35]。これは第七戦隊は連合艦隊主隊に合同せよという命令が継続しており、栗田にはそれを行う義務があったからである。宇垣纏は「戦藻録」で「第7戦隊は全部集結して最上の護衛に当たるこそ望ましき次第」と書いているが、連合艦隊が集結命令を取消して救援を命じ、自身らも応援部隊を出さなかった、指示も遅れた事に関しては一切触れていない[36]。また「三隈」と「最上」が米軍機動部隊に追撃され、「三隈」が撃沈されたのは、レイモンド・スプルーアンス少将が「三隈」を『空母か戦艦と誤認した』ためだった[37]。大破した「三隈」の写真を見たスプルーアンスは「戦艦を爆撃した」とニミッツ提督に報告したことを後悔している[38]

ヘンダーソン基地艦砲射撃で栗田が反対を示したというのは、当時の海軍軍人の常識(陸上砲台と艦船が砲撃しあうと、船体が揺れ不安定な艦船は不利で安定する陸上砲台が有利)では妥当なものである。実際日露戦争緒戦の連合艦隊と旅順要塞及び艦隊との砲撃戦や第一次世界大戦でのガリポリでの戦いでも戦艦からの砲撃は陸上の敵拠点を無力化できず、目的を達しえなかった。会議の席上でも栗田と同じく戦艦による陸上砲撃に反対を唱える者が殆ど[39]であった。 結局山本長官の「第三戦隊が行かないのであれば、私が大和武蔵を率いて突入する」という発言を受けて栗田は作戦を引き受けるが、引き受けた以上は成功させるべく、全力を注いでおり、打ち合わせであった奥宮正武(当時は第二航空戦隊参謀)は、初めて会った栗田が首席参謀の有田雄三中佐と共に強い自信を示していたと述べている[40]。結局この作戦は戦艦を伴った砲撃作戦としては唯一の成功となった。

評論

また海大甲種では無かった栗田に、海大甲種卒の人間が責任を押し付ける向きがあった事は奥宮の他、黛治夫などが指摘している。奥宮は上述の高木惣吉の批判に対して、当時は全員が敗将だったと批判を行っている(高木の戦後の証言に関しては現場経験者などから否定意見も多く、当人もそう証言している[高木はその海軍士官人生の殆どを陸上勤務で過ごしていて現場経験は乏しかった]。また全員が敗将という指摘は児島襄も行っている)。佐藤清夫のように、研究を進める過程で批判一辺倒ではなく擁護的に変わった者もいる。その一方で、栗田の人格面に関しては否定的に評価を行っている者であっても概して高めに評価される傾向にある。児島は指揮官としての適性には否定的だが、海軍上層部の人選に問題があった可能性を指摘し、栗田の境遇には同情している。

亀井は、軍人が戦後になって「内心は反対だった」と言った発言をするケースを「あまり上等な人間のすることではない」と述べ、続けて簡単に反省されたのでは戦死者は浮かばれない、腹を切るか、弁解せずに黙っている方がより正しい姿勢である旨を書き、栗田を擁護した[6]。佐藤和正は『レイテ沖海戦』にて栗田の反転決断を正しいと述べ、好意的記述が多い。2000年代に入ってレイテ沖海戦について書いた元通信士官の左近允尚敏都竹卓郎等もいずれも栗田に理解を示し、擁護している。

森本忠男は『歴史と人物』の「誰が真の名提督か」での小島秀雄の栗田評を取り上げた際(小島が)「嘲笑を込め」ていたと表現し、同じ座談会に参加した黛を擁護派に数えて自身の栗田擁護論の根拠の一つに使っている。また、『失敗の本質』で栗田を「戦略不適応」「作戦全体の戦略的目的と自分に課せられた任務とを十分に理解していたとはいえなかった」という戸部良一の栗田評を取り上げ、「まったく的を得ていないと筆者は思う。栗田提督は作戦の目的や任務を理解していなかったのではなくて、作戦と任務そのものに反対していたのだ」と批判を行っている[41]

他にもレイテに向かうまでの途中でシブヤン海や、サマール沖での戦いなど様々な不確定要素などもいろいろ加わった結果、弾薬や燃料の消耗も著しく、各艦艇の燃料消費量も考えた上での反転ではなかったかという当事者(小板橋幸策元海軍上等兵)の証言もある[42]。そもそも、レイテ沖海戦自体が制空権も制海権もアメリカに取られた上での作戦であり、大きな不利があったのは否めなかったのも事実であった。

佐藤清夫は著書『駆逐艦「野分」物語』の中で、「レイテ沖海戦での行動を含めた栗田批判は強い語調でなされているものがあるが、その反面実証性に乏しい主張をしたにもかかわらず、自責や考えの変化を表明するといった動きはほぼ見られない」と指摘している。

小沢治三郎

小沢の言行で最も詳細なものであるアメリカ戦略爆撃調査団がレイテ沖海戦他について118問に渡って行った質問、及びその数年後GHQ参謀二課が行った聞き取りに際して、栗田他各艦隊指揮官への批判は一切存在せず、海戦の計画の精緻さと頓挫について聞かれた際「あの場合の処置としては他に方法がなかった」と発言している[43]。上記の小沢の発言にしても栗田を直接名指しはしておらず、栗田以外にも志摩清英などこの作戦を指揮した提督は他にもおり、小沢自身もその一人である。

また、奥宮はレイテ沖海戦での栗田を評する際に小沢が航空戦に理解が無いと述べており、小沢に対する海軍軍人(航空参謀職にあった佐官クラスの士官)からの批判もまた存在している。他にも小沢が「真面目に戦った唯一の提督」と評し、日本では肯定的に捉えられることの多い西村祥治も、米国の著名な戦史家サミュエル・E・モリソンは「最低の提督」と非常に低く評価している[44]。どのような人間にも第三者によっては否定的・肯定的に捉える人間はおり、戦後、栗田に対して一部の批判者が行ってきた、一方だけを証拠で批判する論調は歴史の考証として正しい姿勢とは言えない。

発言録

聞き取りに当たった者の興味の関係もありレイテ沖海戦関連が多い。海戦の経緯については同項目を参照。

海大甲種を不合格になった事について
頭が悪かったんだな[45]
吉田俊雄が部下として付いていた時の発言(時期は示されていない)
私は大学校を出ていない。君達は出ているから、作戦の段取りは君達でやってくれ[46]
第二艦隊司令官に親補された時の回想
じょうだんじゃない。ねえ。こんな野武士を……だめじゃないか。そう思ったね[47]
児島の補足によれば第三戦隊司令官の後は予備役になると思っていたという。
日本海軍技術調査団より大和型戦艦の主砲口径を問われて
知りません。
天号作戦時の第二艦隊砲術参謀:宮本鷹雄も米軍調書NAV第50号において同様の回答をしており、機密保持に厳しかった同艦の戦闘力を知らない高級士官は多くいた(詳細は大和型戦艦[48]
台湾沖航空戦について
此の航空戦の戦果について当初は相当の戦果を挙げたように思ったが、後からはまだ同一海域に敵が居る様な電報を傍受するに及んで如何にも腑に落ちない気持であった。それで当時私としては先ず戦果は半分位に見ておけば将来共にあまり支障はないものだろう位に考えていた[49][50]
捷一号作戦について
比島に敵の侵入があったら之に対する艦隊の作戦は最後的のものであると思っていた。(中略)敵の上陸妨害についてはガダルカナルの例もあり徹底的に敵の輸送船団を潰滅するを要すると思っていたが、彼我航空兵力の差から見て出撃当初から現地に到達して作戦成功の算は半分位であると考えていた様に記憶する、又希望する航空援助は充分望み得ないと思っていたのである[49]
なんだかんだといっても、飛行機ももたずに敵の機動部隊と戦う。おまけに陸上とも戦う。昔から砲台と戦争したら海上部隊は負けると言われている[51]。それをやるというんだから戦略も、戦術もない。軍艦がいれば軍艦とやる。商船がいれば商船とやる。
レイテ沖海戦全般を回顧して
死ぬかも知れんとは思っても、これで死ぬという気は、どんなときにも起こらなかったですね。
戦略もだめだ。戦闘もだめだ。だけど行かなければならないんだ[47]
それでも行かなければならなかった。中央突破のほか方法はなかった。敵のレイテ上陸をむかえて、1日を急いで、それを叩かなければならなかったのです[52]
パラワン水道を直進した件について
パラワン水道を行かずに、西方の南沙諸島をまわれば、その付近には岩礁が多いので、敵潜水艦が出没せず、安全であることがわかっていました。だが、そうすれば、1日遅れるのです。その時間がなかったのです[52]
二四一六〇〇電について
シブヤン海海戦後反転した際、大谷作戦参謀発案のアメリカ軍に対する欺瞞として、栗田艦隊司令部は二四一六〇〇電で「今迄の処航空索敵攻撃の成果も期し得ず。逐次被害累増するのみにて無理に突入するも徒に好餌となり、成果記し難し。一次敵機の空襲圏外に避退、友隊の戦果に策応進撃するを可と認む」と発信した。児島は味方にも完全な避退と解釈されやすいと述べた。この件について
少しくどかったね[47]
部隊が反転後敵の空襲は絶えたので私は速に、「サンベルナルヂノ」海峡の入口に到る予定で反転を命じた。幕僚の中には連合艦隊からの返電を待つべき意見もあったが私は断乎(だんこ)反転前進の方策を執ったのである。此の時参謀長から「又行くのですか」との反問を受けた事は今でも明瞭に記憶している[49]
サマール沖海戦について
私は現在戦っている敵は「ハルゼー」隷下の快速空母群であると思っていた。
尚第一戦隊司令官宇垣中将は当面の南方の母艦群以外に北方に敵らしい「マスト」を認め、之を攻撃の為に向首してはどうかと意見具申をしたが、自分は「レイテ」突入が遅れるので此の意見には同意しなかった[49]
9時11分追撃を中止しヤヒセ43に部隊集結を命じたことについて
GHQ参謀第二部歴史課陳述において
部隊に集合を命じたのは、レイテ湾突入の主目的達成を考えたからである。敵機動部隊は二時間以内に戦場に到着するという敵側情報も、当面の戦闘を早目に切り上げた理由の一つであった。当時、第一戦隊は敵魚雷回避のため針路北で航走したので、前方に進出していた軽快部隊と隔在し、かつ有効な敵の煙幕展張とあいまって敵情はほとんどわかっていなかった。したがって集合を発令しようとした直前のことであるが、第十戦隊から『我突撃に転ずる』むね電報があったので、その攻撃の終了の頃あいを見はからって、〇九一一集合を命じたのである[49][53]
反転決断について
その日に受けた攻撃状況や、われわれの対空砲火がその空中攻撃に対抗できないという結論から、もしこのままレイテ湾に突入しても、さらにひどい空中攻撃の餌食になって、損害だけが大きくなり、折角進入した甲斐がちっともないことを私に信じ込ませた。そんなことなら、むしろ、北上して米機動部隊に対して小沢部隊と協同作戦をやろうということに追いついてきた。[54]
機動部隊を求め反転した際のやりとり
「参謀長、敵は向こうだぜ」という宇垣の指摘に対して
ああ、北へ行くよ[55]
石田恒夫(大和主計長)によれば、大谷藤之助参謀が「参謀長、回れ右しましょう」と進言し、小柳富次参謀も同様に栗田に進言、栗田が頷いた瞬間、宇垣が振り向いて「参謀長~」「北へ~」のやりとりになったという[56]
但し、このやり取りだけを例示し「宇垣は港湾突入すべきだと思っていた」という論説が広まっていたが、事実は異なる。栗田艦隊がサマール沖海戦を終えて南下を再開した直後、大和の見張り員から「北東方面に数本のマスト発見」という報告が上がり、第一戦隊の末松虎雄参謀も確認したので宇垣第一戦隊司令から「北東の敵を討つべく直ちに反転すべき」という意見具申もでたが、栗田はレイテ湾への進撃を継続させた[57]。このすぐ後に「ヤキ1カ」電の報告があり、第二艦隊司令部は南下を止めて北上する決断をした。宇垣のこの発言は先程の決断を直ぐに翻した艦隊司令部の判断を不満に思い「参謀長~(北にいた敵よりも港湾にいる敵を優先するのではなかったのか?)」の発言へとなった。この両者の発言を聞いた石田氏の証言も書籍によってニュアンスが異なり、正説「レイテ沖の栗田艦隊」では
宇垣:「参謀長、敵はあっちだぞ」
栗田:「いや、貴官の進言通り、北東の機動部隊に向かう」
であったとし、栗田は宇垣の進言も考慮して反転北上したとしている。
なお、「巷間指摘される」例として、大和副砲長として艦橋にいた深井俊之助が戦後チャンネル桜の放送を含め3度に渡り語った、宇垣が「南へ行くんじゃないのか」と言いながらプリプリしていたという、当事者による証言がある[58]<--!が、これも自分の進言を却下して南下したのに直ぐ様北上することにした第二艦隊司令部の判断が優柔不断に感じられて不満をもらしたものであり北上する事自体を不満に思った発言ではない。(宇垣自身も戦藻録には艦隊司令部の判断のがころころ変わる事に不満を書いているが港湾突入を取り止めたことに不満は述べていない)-->
石田恒夫は、栗田以下第二艦隊司令部が重巡洋艦愛宕」(10月24日、潜水艦雷撃で沈没)から「大和」に移乗してきた時から重苦しい雰囲気だったと回想している[59]
レイテ沖海戦の戦果について
「レイテ」沖合戦で私の確認した戦果は撃沈空母一巡洋艦一であった。又当時の状況に於いては第十戦隊の報告した誇大戦果(正規空母1隻撃沈、正規空母1隻大火災)も同戦隊が確認したものではないようであったが、之を否認する資料は持っていなかった。総じて私としては部隊の挙げた戦果は大した事なしと云う感であった[49]
反転の動機は艦隊決戦思想から出たものかという質問に対して
いや、輸送船も叩かねばならぬと思っていました[52]
南西方面艦隊からの発信とされる北方機動部隊電報により反転したことについて
そのときの心境というものは、あとで考えてみても良くわからんものがある。
あの電報がなかったら、まっすぐレイテに行ったでしょうね。とにかく、ですよ。敵情はさっぱりわからん。それで、まだこっちにはこれだけ兵力が残っている。一方、レイテに行っても収穫は期待できない。そういうとき、敵がいるという電報がはいった。それじゃあ、ということになったわけですね。
あとから考えれば、ですがね。何だって見えもしないものを追って、……それも飛行機もないし、向こうもスピードを上げて逃げ回るのに……いってみれば、ハエタタキも持たずにハエを追うようなものじゃないか、といわれると、ちょっと困る[47]
あれは三川が打ったんだよ。三川の電報だったので、俺は北へ行ったんだよ[60]
昭和46年4月、第一回フィリピン方面海上慰霊巡拝団が結成され、さくら丸(大阪商船三井)をチャーターして海上戦跡を慰霊した[61]。この巡拝団に栗田が参加し、戦艦武蔵信号部先任下士官だった細谷と交流。旅中で、「北方ニ敵大部隊アリ」は陸軍索敵機がサマール沖の栗田艦隊を米機動部隊と誤認し、陸軍司令部を通さず大和に直接送信してきたものだと語った[62]。また小沢機動部隊、西村艦隊、志摩艦隊の電報も受信していないとした。
伊藤正徳に反転理由を問われてのやりとり
その判断も今から思えば健全でなかったと思う。その時はベストと信じたが、考えてみると、非常に疲れている頭で判断したのだから、疲れた判断だということになるだろう。
伊藤に「そんなにつかれていたのか」と問われて
その時は疲労は感じていなかった。しかし、三日三晩殆んど眠らないで神経を使った後だから、身体の方も頭脳の方も駄目になっていたのだろう
「情報を手にして幕僚会議を開いて反転退却した真相は」と問われて
その時は退却という考えはない。幕僚とは相談しなかった。自分一個の責任でやった。情報の正否を確かめる暇もなかったが、要するに敵の機動部隊が直ぐ近所にいると信じたのが間違いだった。(中略)いくら追っても捕まるわけはないのだが、それを捕捉して潰してやろうと考えたのが間違いだった。何しろ敵空母撃滅が先入観になっていたので、それに引摺られた[63]
上記の『連合艦隊の最後』でのやりとりについて
あの男は、もう二〇年も会わないでいたとき、ひょっこりたずねてきて、じつはねえと聞くんだ。(中略)ノートもなにもとらずに、それでいて私のいったことはみんな書いている(中略)。疲れていたっていったのは、自分はちっともくたびれというものは感じていなかった。しかし、あの電報(南西方面艦隊電)をもっと分析して発信者、時間などを研究すれば、インチキと分かったかも知れない。そこまで頭がまわらなかったのは、自分ではそう思わなかったけれど、あるいはくたびれていて判断を誤ったというようなこともあったかも知れん、とそういう意味ですよ。これはだれにでもあることでしょ[47]
その後1970年頃酒の席で大岡次郎に対し
戦闘中に疲れることは決してない[64][65]
一二三一電機動部隊本隊戦闘速報
佐藤和正によれば大和では14時30分に受信し内容は小沢艦隊が空襲を受けている事を述べていたが、その時栗田は次のように述べたという。
この電報が、いままで私のところへとどかなかったのはどういうわけか。着信してから、なぜこんなに遅れたのか。まだほかにないか[66]
GHQ参謀第二部歴史課陳述にて
小沢部隊が敵の快速空母の全グループを北方に牽制しつつあると云ふ情報はその片鱗すらも私の耳に入らなかった。今でも明瞭に覚えてゐる事は二十五日夕、部隊がサンベルナルジノ海峡に入る前、小沢部隊の戦況を報ずる電報を見た。私はこのとき、折角の小沢部隊の奮戦であるけれど今となってはもう時期遅れだと思った。大和の戦闘詳報によると一二時過ぎと一四時過ぎに小沢部隊の電報を受領してゐるが、私は部隊がレイテ湾突入を中止した前後にこのやうな電報は聞いた記憶がない[49][53]
宇垣纏第一戦隊司令官の印象
なんとなく、オレは教官だといった風情もあった[47]
レイテ沖海戦後
ブルネイに帰還した際、長官室やトイレに行くとそこにも弾痕があった。栗田はやれやれと思いながら鏡に向かったところ
まっ白な頭の人相の悪い男がいる。おやと思ったら、おれなんだな。髪の毛もヒゲも白くなっている[47]
戦後一部の取材を除き、沈黙していたことについて
弁解すればするほど自分を下げる。そうでしょう。〈知る人ぞ知る〉ですよ。
南雲みたいに死んでいればね。こりゃせいせいした気持ですよ[47]
批判に対して
(注、上述の栗田の作戦説明のように)戦略も戦術も全然無視した問題だから、それをわれわれがやったことに戦術がどうだこうだといわれては、困る。
私にも、あのときレイテに行ったほうが良かったと考えることはできる。しかし、それはあとから考えて、あのときマックがいたからとか、まだ輸送船の荷揚げが終わっていなかったからとか、だから突入したほうが良いという意味じゃないんです。つまり、当時の事情としてあの電報を信じてひき返したことが大きな作戦の齟齬をきたした。そういえるなら、電報がなければむろんのこと、あっても信じずにそのまま中にはいっていけば、これは大きな戦争目的にかなうというか、命令そのままを守ることになる。そうなれば、これは全滅してもですよ。一人も残らなくても、気持は安らかに眠れる。恐らく西村も同じ考えだったでしょう。突っ込めば助かりっこない。といって、敵を屈服させる力もない。それじゃ、逃げるかといえば、逃げたって自分にも国家にもなんの効果ももたらさない。しかし、突っ込めば、少なくともそのうちはいってくる私のほうの助けにはなる。少し早いけどやってしまえ……そんな胸のうちだったかもしれんと思います。
敵情はわからない。どんな大物がいるかも知れぬ。そういう場合、敵とぶつかって全滅してしまえば、それで問題はなくなる。しかし、一隻のこったら、やはり命令は命令だから、その一隻でも行かなければならんのか。
自分がやりもしないで……という反駁はしませんよ。しかし、結局は、こりゃあ命令違反かどうかということは裁判にかけないとわからんでしょうね[47]
海戦時大和艦長であった森下信衛について
操艦技術は抜群であった[67]
天一号作戦坊ノ岬沖海戦)時の伊藤整一について
伊藤は責任を感じて進んで死ぬつもりだったようだ[68]

脚注

  1. ^ 伊藤正徳『世界大海戦史考』(1943年)
  2. ^ 半藤一利編『日本軍艦戦記』文春文庫ビジュアル版、明治百年史叢書『海軍兵学校沿革』原書房
  3. ^ 児島襄『指揮官』(上)「栗田健男」、文春文庫
  4. ^ 『日本海軍史』(第9巻)第一法規出版
  5. ^ 『井上成美』「初級将校から大尉まで」井上成美伝記刊行会、実松譲『海軍大学教育』「海大六十年の歩み」光人社NF文庫
  6. ^ a b c d 亀井宏「敗北提督たちの戦後史」『歴史群像太平洋戦史シリーズVOL.10 連合艦隊の最期』
  7. ^ 『海軍兵学校物語』「栗田校長のころ」原書房 1979年。
  8. ^ GHQ参謀第二部歴史課は元々戦時中にアメリカ陸軍省が戦史編纂を命じたことに端を発して組織されているが、実際にはマッカーサーが自身の功績を記録するため製作した『マッカーサー戦史』の編纂のための機関となっていった。
    「解説」『GHQ歴史課陳述録 終戦史史資(下)』原書房 2002年
  9. ^ 同書「解説」には「陳述録の重要部分」を網羅と書かれている。全部ではないのは紙幅の関係によるという。
  10. ^ もっとも、GHQ参謀第二部歴史課の聞き取りについては『証言記録太平洋戦争 終戦への決断』サンケイ新聞出版局編(1975年)や同じ企画の『証言記録太平洋戦争 作戦の真相』等にて一部は紹介されていた。
  11. ^ 『海軍の回想』第23号 栗田健男他2名
    なおその前号は三川である。
  12. ^ 初回放送は1971年4月 - 9月。
  13. ^ ただし占領軍、児島などをはじめとする栗田の他の多数の発言を記録した証言については『レイテ沖海戦1944』は殆ど紹介せず、戦後寡黙を貫いたように随所で描かれている。
  14. ^ 『日本海軍史』(第9巻)、『日本陸海軍総合事典』
  15. ^ 草鹿 1979, p. 331.
  16. ^ 『レイテ沖海戦1944』
  17. ^ a b 生出寿『海軍おもしろ話 戦前・戦後篇』(徳間文庫・1994年)342-346頁
  18. ^ 『命令違反が組織を伸ばす』光文社新書 2007年
  19. ^ 「16章 フィリピンの戦い」『帝国海軍が日本を破滅させた(下) Incompetent Japanese Imperial Navy』光文社ペーパーバックス、2006年
  20. ^ 例:谷光太郎『アーネスト・キング』内「レイテ海戦」「参考文献」には『連合艦隊の最後』はあるが上記2者を含め、小柳富次『栗田艦隊』など、当事者の言が多く収録された文献はない。
  21. ^ 伊藤正徳『連合艦隊の最後』、児島襄『悲劇の提督 南雲忠一中将 栗田健男中将』P230他
  22. ^ 『連合艦隊の最後』の浸透ぶりについてはエヴァンも『レイテ沖海戦1944』にて揶揄している。
  23. ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦』
  24. ^ 例:半藤一利『指揮官と参謀』内「小沢治三郎と栗田健男」のミッドウェー海戦時の熊野艦長の証言など。
  25. ^ 聞書き日本海軍史』第10章、PHP出版
  26. ^ 『聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争』、光人社NF文庫
  27. ^ 高木惣吉『太平洋海戦史』岩波新書(1959年)
  28. ^ 『海戦史に学ぶ』「比島沖海戦」
  29. ^ 岩佐二郎『戦艦「大和」レイテ沖の七日間』(光人社、2004)160頁
  30. ^ 亀井宏『ミッドウェー戦記』18頁
  31. ^ 歴史群像太平洋戦史シリーズ38 最上型重巡154p
  32. ^ 『丸スペシャル 95 蘭印攻略作戦 インド洋作戦』1985年
  33. ^ ゴードン・W・プランゲ『ミッドウェーの奇跡』222頁。プランゲ博士は、惨敗の責任は山本にあると断定している。
  34. ^ 亀井宏『ミッドウェー戦記』556頁
  35. ^ 亀井宏『ミッドウェー戦記』557頁
  36. ^ 歴史群像太平洋戦史シリーズ55 日米空母決戦ミッドウェー174p
  37. ^ ゴードン・W・プランゲ『ミッドウェーの奇跡』下巻169頁
  38. ^ ゴードン・W・プランゲ『ミッドウェーの奇跡』下巻176頁
  39. ^ 光人社NF文庫 豊田穣著「撃沈」86p
  40. ^ 奥宮正武『提督と参謀』内「一三 栗田健男」
  41. ^ 森本忠夫「レイテ沖"謎の反転"の真相」『潮』1986年9月P253-254
  42. ^ 双葉社 『超精密3DCGシリーズ 戦艦大和とレイテ沖海戦』 2007年 150P 
  43. ^ アメリカ戦略爆撃調査団による小沢への質疑 質問者James A. Field海軍予備少佐 1945年10月30日(英語版
    「Although I thought it was very complex and difficult to carry out, I still believe it was the best possible plan under the circumstances.」と回答している質疑がそれである。
  44. ^ 西村が栗田艦隊が予定よりも侵攻が遅れていると知りながら、予定時間よりも遥かに早くレイテ湾に突入し、唯でさえ少ない戦力を無駄に消耗させた上に、オルデンドルフ艦隊を引き付ける事にも実質(艦隊は西村艦隊を殲滅後、補給の上栗田艦隊迎撃のため反転北上しており、栗田艦隊が仮に反転せずとも港湾入り口前で栗田艦隊を捉えることが可能だった)は失敗した点
  45. ^ 児島襄『悲劇の提督 南雲忠一中将 栗田健男中将』。相次ぐ転勤と激務で知られる艦隊勤務のため、勉強の暇がなく、口頭試問で落ちた。
  46. ^ 吉田俊雄『良い指揮官・良くない指揮官 14人の海軍トップを斬る!』光人社(単行本1996年、文庫1999年)
  47. ^ a b c d e f g h i 児島襄『悲劇の提督 南雲忠一中将 栗田健男中将』中央公論社
  48. ^ 原勝洋『戦艦大和建造秘録』「第1章 米海軍情報部と巨艦「大和」の謎」P62 KKベストセラーズ、1999年
  49. ^ a b c d e f g (二二四)「比島沖海戦に関する陳述書」GHQ参謀第二部歴史課 1949年12月20日
  50. ^ 尚、17日のキングII作戦上陸日(A-day)、タクロバン沖に第7艦隊が出現した後のことであるが、ブルネイにて配下の戦艦である武蔵に明色系の塗装を施し、航空攻撃下において敵の目を引き付ける処置がなされている。
  51. ^ 例えば藤井尚夫の試算によれば、陸上砲台を日本軍が用いていた砲塔型の口径40cmのものとして戦艦側を長門型戦艦とした場合、両者の投影面積の差は約50倍であるため(この要素が一番大きいと言う。なお観測所などは発見不能、地下部分は破壊不可能としている)、命中率が単純に50倍。また海上の戦艦は波のほか機械的振動などもあり(藤井の試算では陸上砲台と同じ速度で斉射が行えるとしている)砲のプラットフォームが安定していないので命中率はさらに陸上砲台の四分の一となり、計算上陸上砲台に命中弾を与えるのに1600発の砲弾を必要とする。このため、陸上砲台側の命中率を日本陸軍の想定通り3分20秒ごとに1発とし、戦艦が6発の命中で大破し戦闘力を失うとすれば、ただ一基2門の40cm陸上砲台があれば、約20分ごとに戦艦1隻が6発の命中弾で脱落することも踏まえ、確率の上では艦隊側が長門型戦艦4隻(40cm砲合計32門)とした場合、艦隊側が砲弾を1600発射し陸上砲台が命中弾を被るまでにこの4隻の戦闘能力をほぼ奪えるとしている。もちろん戦艦を10隻、20隻集中投入できるならば話はまた別であり、これはあくまで限定的な条件で傾向を示した試算であるが、戦艦が陸上砲台と戦うのは差し違える覚悟が必要であるとしている。ただしこれは相手が相応に装甲された陸上砲台である場合の話である。以上、藤井尚夫、1999、「徹底比較 日・独・米 海岸要塞」、『歴史群像』No.40(1999年秋-冬号) p.94 学習研究社 を参照。
  52. ^ a b c 『決断』会見記にて
  53. ^ a b 後年佐藤和正『レイテ沖海戦』等に転載。
  54. ^ 『丸』昭和32年(1957年)11月特大号 P79潮書房
  55. ^ 岩佐二郎『レイテ沖の七日間』 大和主計長で当時艦橋にいた石田少佐へのインタビューによる。岩佐による補足では反転に対して重い沈黙感のような空気はあったにせよ、巷間指摘されるものとは異なり、食ってかかるような雰囲気ではなかった。
  56. ^ 戸高一成『戦艦大和に捧ぐ』(PHP研究所、2007)82-83頁
  57. ^ 正説「レイテ沖の栗田艦隊」357p
  58. ^ 桜BBインターネット放送「人間の杜」#59/60及び『防人の道 今日の自衛隊』 2006年11月13日および15日に前編、12月に後編。当該番組の概要
  59. ^ 戸高一成『戦艦大和に捧ぐ』(PHP研究所、2007)80頁
  60. ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦』より。大岡次郎への談話。『レイテ沖海戦1944』ではこの発言の経緯も記述があり、大岡が「あれは偽物だったという話もあるようですが」と振った際、不機嫌そうに答え、30海里なら追尾が可能で、当時相対したばかりの南方の敵部隊は雑魚だと思っていた旨を述べている。
  61. ^ 細谷四郎『戦艦武蔵戦闘航海記』(八重岳書房、1988)288頁
  62. ^ 細谷四郎『戦艦武蔵戦闘航海記』(八重岳書房、1988)291-292頁
  63. ^ 伊藤正徳『連合艦隊の最後』 大岡昇平レイテ戦記』(転載)他
    ただし、第二艦隊参謀長であった小柳冨次は1945年10月24日、GHQでの陳述にて栗田中将は幕僚会議で十分意見を述べさせたのか、それとも自分一人の所信で命令を下したのか質問された際、幕僚会議を開いて、決定は全員一致であった旨を回答している。なお、質問者はJames.A.Field予備少佐。
  64. ^ 大岡による海兵78期生の機関誌『針尾』への投稿記事。転載した由岐真によれば大岡は「最善を尽くした達成感」すら窺えたという。『フィリピン沖海戦』   栗田艦隊と神風特別攻撃隊
  65. ^ このやりとりについては『レイテ沖海戦1944』がもう少し詳しい説明をしている。それによれば、大岡に自身の伝記執筆を薦めた際、「本当のことを話す。疲れていたというのは、言わされた。戦闘中に疲れることは決してない。戦闘中に疲れてしまう者に司令官を努める資格などありはしないのだ」という旨のやりとりがあったという。
  66. ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦』
  67. ^ 大岡次郎への談話。由岐真『ティータイム(4)戦艦大和の真実
  68. ^ 児島襄『悲劇の提督 南雲忠一中将 栗田健男中将』。伊藤は開戦時の軍令部次長である。伊藤は違ったが、開戦前から軍令部は強硬論も多くなり、1941年夏頃より総長で滞米経験豊富な永野修身も開戦派に転じた中で勤務したという経緯があった。出撃前に江田島に栗田を訪ね、「それじゃ行く」とあっさりとした挨拶をして去ったという。

文献・ウェブサイト

下記に配列したのは栗田の言動・直接取材、あるいは栗田に近い位置にあった人物の回想、および、海戦ではなく栗田個人をテーマとした評論である。その他については栗田が参加した各海戦の記事の文献欄を参照。

  • 『日本公務関係者尋問記録』アメリカ戦略爆撃調査団
    • 英題『Interrogations of Japanese Officials United States Strategic Bombing Survey(USSBS)[pacific]』
      取調べ官は複数居るが主要な質問者はジェムズ・フィールド(James A Field)予備少佐。尋問は2日間に及ぶ。同少佐は航空戦隊参謀としてレイテ沖海戦に参加した。フィールドの著書『The Japanese at Leyte Gulf』は戦後すぐ邦訳され、多くのレイテ沖海戦関連書籍が参考文献に挙げた。尚、戦略爆撃調査団は戦後早期の段階で取調べを行っているため、証言者には記憶の手違いなどが見られ、同書冒頭にて栗田の証言にもそのような矛盾があったと記している。ある意味では推理的観点の開祖。
  • 「Ⅷ大本営および軍隊・艦隊関係」内「栗田健男」『GHQ歴史課陳述録 ~終戦史資料~ 下』明治百年史叢書 原書房 (2002年)
    • GHQ参謀二部歴史課が戦史編纂の為に行った関係者へのインタビュー記録。元々は陸軍省の戦史編纂を目的としていた。
  • 阿川弘之 半藤一利『日本海軍、錨揚ゲ!』PHP文庫 ISBN 4-569-66425-3 (2005年)
    • 伊藤正徳の栗田取材についての暴露話を掲載。
  • 石渡幸二「太平洋戦争の再検討」栗田提督論」『歴史と人物/昭和53年8月号』中央公論社
    • 栗田についてレイテ沖海戦以外の海戦で避敵傾向があると主張。
  • 伊藤正徳『連合艦隊の最後』光人社 ISBN 4-7698-0979-4(2000年)
    • 小説とされるが実質は戦史評論的な内容。初出1956年。以後文藝春秋角川書店、光人社等にて1968年、1980年、1990年、2000年(新装版含め2回)、2004年など繰返し再版を重ねた。2ページ程の栗田への取材が掲載されており、後にこの取材自体が論評の対象となる。
  • 岩佐二郎『戦艦「大和」レイテ沖の七日間 「大和」艦載機偵察員の戦場報告』光人社NF文庫 ISBN 4-7698-2414-9(2004年、初出1998年、以前にも自費出版歴あり)
    • レイテ沖海戦時の大和艦橋の雰囲気・栗田の部下への姿勢について記述がある。
  • 宇垣纏戦藻録 宇垣纏日記[新装版]』原書房 ISBN 4-562-02783-5(2001年第2版、初出1953年、1968年再版、1996年新装版初版)
    • レイテ沖海戦の頃の栗田の発言とそれへの所見が記載されている一次資料
  • エヴァン トーマス(Evan Thomas) 平賀秀明 (訳)『レイテ沖海戦1944―日米四人の指揮官と艦隊決戦』白水社 2008年9月 ISBN 4-560-02636-X
    • 栗田親族、親交の深い関係者への取材結果を詳しく述べており、プライベートな面やレイテ沖海戦以外に対する描写も豊富な部類に属する。ニューズウィーク日本版などにリベラル寄りの記事を執筆している高山秀子の助力により、これらの取材が実現した。エヴァンは栗田が真相を隠しているという立場から執筆をしており、栗田当人をはじめ第二艦隊関係者が述べてきた「目前にあると思われた敵機動部隊への攻撃を目指し反転した」という主張には直接関連付けていないが懐疑的である。また、栗田の旧友が体験した「真相を語るかに思われた」一場面を紹介し、そこではレイテ湾の空船や第34任務部隊の追撃といった要素を挙げられたのに対し「艦隊の将兵を無駄死にさせたくなかったのだ」と述べていたと書いているが、それ以上の意味づけなどは行われていない(上記のように栗田自身の言で言う「少し早いけどやってしまえ」と機動部隊に重きを置いた判断と比較して空船を攻撃する価値を疑問視する見方は多く提示されていることに注意。詳細はレイテ沖海戦参照)。
  • 奥宮正武「栗田健男」『提督と参謀』PHP研究所 ISBN 4-569-61215-6 (2000年)
    • 著者が栗田と最初に会ったのはガダルカナル島の戦いの頃である。経歴欄は主にこれを参照。
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』(第9巻)第一法規出版
  • 鎌田芳朗『海軍兵学校物語』原書房 1979年
  • 亀井宏「敗北提督たちの戦後史」『歴史群像太平洋戦史シリーズVOL.10 連合艦隊の最期』(1995年)
  • 草鹿, 龍之介 (1979), 連合艦隊参謀長の回想, 光和堂  - 1952年、毎日新聞社『聯合艦隊』、および1972年行政通信社『聯合艦隊の栄光と終焉』の再版。戦後明らかになった米軍側の情報などは敢えて訂正していないと言う(p.18)。
  • 小柳富次 『栗田艦隊』 光人社NF文庫 ISBN 4-7698-2095-X (1995年、初出1956年)
  • 児島襄『悲劇の提督 南雲忠一中将栗田健男中将 』中央公論社(1967年)
    • 東京新聞神戸新聞他に連載後加筆して出版。レイテ沖海戦に焦点を絞りつつ、栗田への3回の直接取材に基づき栗田の半生を紹介したほぼ唯一の伝記的内容。栗田の発言を多数掲載。刊行時の推薦帯は大岡昇平であり、レイテ戦記刊行前の事である(同戦記文中の資料批判にて本書の名は示されていない)。
  • 佐藤和正 『レイテ沖海戦 上巻』光人社NF文庫 ISBN 4-7698-2196-4(1998年)
  • 佐藤和正 『レイテ沖海戦 下巻』光人社NF文庫 ISBN 4-7698-2198-0(1998年)
    • 雑誌『』に1984年9月から1987年12月まで連載したものを『レイテ沖の日米決戦(日本人的発想VS欧米人的発想)』ISBN 4-7698-0374-5(1988年刊行)として単行本化。文庫化にあたり改題。戦友会等発行の非売品や関係者への聴き取り取材に基づいており、栗田をはじめ関係者の行ったとされる会話が掲載されている。
  • 都竹卓郎『「大和」艦橋から見た レイテ海戦』なにわ会 2007年9月
    • 著者は大和乗組の通信士官であり、レイテ海戦当時栗田の後方数メートルで勤務に当たっていた。
  • 福田幸弘 『最後の連合艦隊 レイテ海戦記(上・下)』 角川文庫(1989年)
    • 著者は羽黒の主計士官。戦後大蔵官僚となり、在職中に同省広報誌『ファイナンス』誌上で1979年に行った連載を大幅に改稿し『連合艦隊―サイパン・レイテ海戦記』(1981年)として単行本としたものの文庫化。栗田の陳述禄付(『海軍経理学校第36期のホームページ』内の引用、紹介
    • 著者は本海戦の戦闘記録係でもあった。羽黒の戦闘詳報はこの記録を元に作成され終戦後も残存、本書にも引用されている。
  • 野村實『海戦史に学ぶ』文春文庫 1994年 ISBN 4-16-742802-4
  • 秦郁彦 編『日本陸海軍総合事典』東京大学出版会
  • 栗田中将会見記」『決断 8月号(Vol.3)』(1971年、「君はアニメンタリー決断を知っているか」内に転載)
  • 座談会 だれが真の名提督か」『歴史と人物/昭和56年5月号』中央公論社
  • 歴史が眠る多磨霊園
  • 卒業と栗田校長訓示
    • 古鷹パソコンクラブ内(海軍兵学校75期生による)。栗田による訓示を読むことができる。

映画

安部徹が栗田役を演じた。