北条氏康

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北条 氏康
時代 戦国時代
生誕 永正12年(1515年
死没 元亀2年10月3日1571年10月21日
改名 伊豆千代丸(幼名)、北条氏康
別名 通称:新九郎
渾名:相模の獅子、相模の虎
戒名 大聖寺殿東陽宗岱大居士
墓所 神奈川県箱根町早雲寺
官位 従五位上相模守左京大夫
氏族 伊勢氏北条氏桓武平氏
父母 父:北条氏綱、母:養珠院宗栄
兄弟 氏康為昌氏尭、大頂院殿、浄心院、
高源院、芳春院、ちよ、蒔田殿(吉良頼康室)
正室:瑞渓院今川氏親の娘)ほか
新九郎、氏政氏照氏邦氏規氏忠上杉景虎氏光桂林院殿、浄光院殿、
七曲殿、長林院殿、早川殿、尾崎殿、
種徳寺殿
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北条 氏康(ほうじょう うじやす)は、戦国時代武将相模戦国大名後北条氏第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれる。後北条氏第3代目当主。母は氏綱の正室の養珠院。

関東から山内扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏今川氏との間に甲相駿三国同盟を結び、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した。世に相模の獅子と謳われる。

生涯

家督相続

永正12年(1515年)、第2代当主・北条氏綱(当時は伊勢氏綱)の嫡男「伊勢伊豆千代丸」として生まれる。幼年期は気が小さく「うつけもの」と言われ、12歳の頃に鉄砲[1]の音に驚いて激しく狼狽し、周囲に笑われたことを恥じてその場で切腹しようとしたという逸話がある。7歳の頃から父・氏綱は北条氏を名乗るようになる。

享禄3年(1530年)、小沢原の戦いに初陣して上杉朝興と戦い、これに大勝した。天文4年(1535年)8月の甲斐山中合戦、天文6年(1537年)7月の河越城攻略などに出陣して戦功を重ね、天文7年(1538年)の第一次国府台の戦いでは、父と共に足利義明里見連合軍と戦い、敵の総大将・小弓公方の足利義明を討ち取り、勝利を収めている。

天文6年(1537年)7月には父と共に鎌倉鶴岡八幡宮に社領を寄進し、同8年(1539年)6月には将軍足利義晴から巣鷂(鷹の雛)を贈られている。

天文10年(1541年)に氏綱が死去したため、家督を継いで第3代当主となった。一説では天文7年(1538年)に氏綱が隠居して氏康に家督を譲り、後見していたとされる。なお、氏綱は死の直前、5か条の訓戒状を残した。

一大危機とその打開

天文14年(1545年)、駿河今川義元は、関東管領山内上杉憲政扇谷上杉朝定(朝興の子)等と連携し、氏康に対し挙兵した。義元は、北条氏綱に奪われていた東駿河を奪還すべく攻勢をかけた。これを第2次河東一乱という。氏康は駿河に急行するものの、今川に加えて武田氏までもが出兵したために状況は不利であった。その在陣中、関東では山内・扇谷の両上杉氏が大軍を擁して義弟・北条綱成が守る河越城を包囲したという知らせが届き、東西から挟み撃ちにあった氏康は絶体絶命の危機に陥った。この窮状の中まずは片方を収めるべく、氏康は武田晴信の斡旋により、義元との和睦を模索。東駿河の河東地域を義元に割譲することで和睦する。後の武田氏を交えた甲相駿三国同盟の締結までは緊張が続いたが、その後は義元存命中の駿河進出はなかった。

関東では義元と手を結び態勢を立て直した山内・扇谷の両上杉氏に加え、氏康の義兄弟(妹婿)であり、これまでは北条と協調してきた古河公方足利晴氏までもが連合軍と密約を結び、河越城の包囲に加わった。この連合軍、およそ8万の大軍に包囲された河越城は約半年に渡って籠城戦に耐えるものの、今川との戦いを収め関東に転戦した氏康の北条本軍は1万未満しかなく、圧倒的に劣勢だった。氏康は両上杉・足利陣に「これまで奪った領土はお返しする」との手紙を送り、長期の対陣で油断を誘った。そして翌天文15年(1546年)年、氏康は城内の綱成と連携して、連合軍に対して夜襲をかける。この夜襲で上杉朝定は戦死し、扇谷上杉氏は滅亡した。また、上杉憲政は上野平井に、足利晴氏は下総に遁走した(河越夜戦)。河越城の戦いの内容に関しては、同時代史料が乏しく、研究の余地の大きい合戦ではあるものの、この戦いで北条氏側が勝利したことにより、氏康は関東における抗争の主導権を確保する。

そして天文21年(1552年)には、憲政の居城・平井城を落として上野での優位を確かなものにし、天文23年(1554年)の古河城侵攻(2年前に公方の位を後北条氏の血を引く息子の義氏に譲った晴氏を秦野に幽閉)で、それをさらに確固たるものとした。さらに大石氏には氏照藤田氏には氏邦と息子を養子に送り込むことにより急変は避けつつも実質的に一門に組み入れた。

三国同盟

先の河東一乱後の和睦はなったが、今川との関係は依然として緊迫した状況であり、天文17年(1548年)3月、氏康が織田信秀に宛てた返書(古証文写)の「一和がなったというのに、彼国(義元)からの疑心が止まないので迷惑している」という内容からもそれは見て取れる。従来の説では天文20年(1551年)一時的ながら、祖父・北条早雲ゆかりの城である駿河興国寺城を奪いながら、その後また義元により撃退されたとも伝えられていたが、近年の研究では早雲が今川氏から初めて与えられた城は「石脇城」であるという見方もされており、また次に与えられた城も興国寺城ではなく、興国寺城の築城自体が、北条氏と係争し始めてからの今川義元によるものという説がある[2]。 さらに天文23年(1554年)、今川義元が三河に出兵している隙を突いて再び駿河に侵攻するが、義元の盟友である武田晴信の援軍などもあって駿河侵攻は思うように進まなかった、といった後世に成立した北条の軍記物(『関八州古戦録』、『小田原五代記』)に描かれているような第3次河東一乱とみられる動きは、今川氏や武田氏・近隣国に関する同時代史料・軍記からは確認できず、先の興国寺領に関する旧説と遺跡・史料研究の齟齬からも、小和田哲男、有光友学、黒田基樹他、今川氏や後北条氏、武田氏の研究者による見解は否定的である[3]

天文23年(1554年)7月、今川氏の重臣・太原雪斎の仲介などもあって、娘・早川殿を今川義元の嫡男・今川氏真に嫁がせ、12月には、前年に婚約の成立していた武田信玄の娘・黄梅院を嫡男・氏政の正室に迎えることで、武田・今川と同盟関係を結ぶに至った(甲相駿三国同盟)。さらに氏康は実子の氏規を実質的に人質として、氏規にとっては外祖母にあたる寿桂尼に預けた(この時氏規は松平竹千代・後の徳川家康と親交を結んだとされる)。これにより背後の駿河が固まったことになり、主に武田氏と軍事的連携を強化し、関東での戦いに専念することになる。

上杉謙信との戦い

永禄2年(1559年)、氏康は次男(長男は夭折)の氏政に家督を譲って隠居した。未曾有の大飢饉が発生していたため、代替わりによる徳政令の実施を目的としていた[4]。しかし隠居後も小田原城本丸に留まって「御本城様」として政治・軍事の実権を掌握し、氏政を後見した。

この頃、上野国内の上杉方(横瀬(由良)氏・上野斎藤氏沼田氏など)をほぼ降伏させ、上野国の領国化に成功している。越後に対しては越後から上野への出入口・沼田に北条康元を置いて対抗した。

一方、上杉憲政は河越城の戦いの敗戦以降、越後や上野北部で北条への抵抗活動を続けていたが、武田信玄にも大敗し、関東を追われ、弘治3年(1557年『上杉家文書』)または永禄元年(1558年『上杉家御年譜』)に越後に入って長尾景虎(後の上杉謙信)を頼った。これにより北条氏は謙信と長く対立することになる。また常陸の佐竹氏、下野の宇都宮氏などの関東諸侯による抵抗もあって、関東侵出の勢いは緩慢になっていく。

永禄3年(1560年)5月、今川義元が桶狭間の戦いにおいて織田信長に討たれたため、今川氏の勢力が衰退する。

同永禄3年(1560年)、上杉謙信が関東へ侵攻し、小田原城の戦いとなる。上杉憲政を奉じ、8000の軍勢を率いて三国峠を越えた謙信は厩橋城沼田城岩下城那波城など上野国の北条方の諸城を次々と攻略し、関東一円の大名や豪族さらには一部の奥州南部の豪族に動員をかける。これに対し、上総の里見義堯の本拠地・久留里城を囲んでいた氏康は、包囲を解いて9月に河越に出陣、10月には松山城に入る。だが謙信率いる敵軍の戦力を鑑み、野戦は不利と判断。自身は小田原城に撤退し、綱成は玉縄城に籠城。その他主要な城に兵力を集中させ専守防衛の構えをとった。12月初旬、謙信は下総国古河御所などを包囲。上野国廓橋城にて越年し、永禄4年(1561年)2月に松山城、鎌倉を攻略。最終的に10万余りの大連合軍を率いて氏康の本国・相模国にまで押し寄せた。連合軍先陣は3月3日までには当麻に着陣。上杉方は14日に中郡大槻にて北条方・大藤氏と交戦。謙信勢も3月下旬ころまでに酒匂川付近に迫り(加藤文書・大藤文書他)、居城・小田原城を包囲した。『関八州古戦録』等の軍伝に於いては上杉軍の太田資正隊が小田原城の蓮池門へ突入するなど攻勢をかけ、対する北条軍は各地で輸送隊を襲い物資を奪い去って抗戦、この間、包囲は一ヶ月に及んだとも伝えられているが、同時代史料では城下への放火等は記されているものの(上杉家文書)、詳細は明らかになっておらず、前後の上杉軍や謙信の動きから包囲自体は1週間から10日間ほどであったという説もある[5]。小田原城の防衛は堅く、長期にわたる出兵を維持できない佐竹氏など諸豪族が撤兵を要求し、一部の豪族は勝手に陣を引き払う事態となっていた(杉原謙氏所蔵文書)。さらに氏康と同盟を結ぶ信玄が信濃川中島海津城を完成させ、信濃北部での支配域を広げることで、謙信を牽制。これらの諸事情により、謙信は小田原城から撤退、鎌倉に兵を引き上げ、閏3月に鶴岡八幡宮にて関東管領に就任した。この後、謙信は足利藤氏を公方として擁立。上杉憲政・関白近衛前久と共に古河に入れると、武田氏に扇動された一向一揆が越中で蜂起したこともあり、このときの小田原城の攻略を断念。早くも上杉軍から離反した上田朝直の松山城を再攻略してから、6月に越後国へ帰国した。玉縄城、滝山城、河越城、江戸城も攻勢を耐え切った。

この直後、謙信が信玄との川中島の戦い(第四次)のために信濃に出兵すると、氏康は上杉氏に奪われた領土の再攻略を試みる。謙信帰国の直後、下総の千葉氏原氏・高城氏を再帰参させ、下野の佐野昌綱を寝返らせることに成功した。この情勢に危機感を抱いた近衛前久の要請を受けて謙信は、直前の川中島の戦いで大きな被害を受けていたにも関わらず、武蔵へ軍勢を派遣。氏康は永禄4年11月27日の生野山の戦いで上杉勢を打ち破った(内閣文庫所蔵・小幡家文書)(出雲桜井文書)(相州文書)。この後、上杉勢は古河城を簗田氏に任せるとの書状を出して軍を引き上げており、12月にも近衛前久は由良成繁に古河城の苦境を伝えている(『古簡雑纂』)。氏康はその年は武蔵国の要衝・松山城にも攻撃を仕掛けたが、この時は攻略には至らなかった。しかし、永禄6年(1563年)には武田信玄の援軍を得たことにより松山城や上野厩橋城を攻略。さらに下野の小山氏を寝返らせ、その後は古河城をも攻略し、謙信が擁立した古河公方足利藤氏(義氏の異母兄)を捕らえた。これに対し謙信も反撃、三国峠を越えて上野・武蔵・下野・常陸・下総へ侵攻。厩橋城を奪還し、小山氏を降伏させる等、北条方の諸城を攻略するが、両軍ともに支配権を安定させるまでには至らず、数年間は一進一退の攻防が続いた。

関東の戦い・隠居期

永禄7年(1564年)、里見義堯義弘父子と上総などの支配権をめぐって対陣する(第二次国府台の戦い)。北条軍は兵力的には優勢であったが、里見軍は精強で一筋縄にはいかず、北条軍は遠山綱景などの有力武将を多く失った。しかし氏康の夜襲が成功したことにより里見軍は敗れて安房に撤退した。同年、太田資正を謀略によって岩付城から追放し武蔵の大半を再び平定する。永禄8年(1565年)、氏康は関東の中原における拠点で上杉方の関宿城を攻撃、この城は利根川水系等の要地で関東の水運を押さえる拠点であり、氏康は「この地を抑えるという事は、一国を獲得する事と同じである」とまで評していた。しかし謙信率いる上杉勢が援軍に駆け付けたため、氏康は謙信と戦わずして撤退した(第一次関宿合戦)。この後、謙信は臼井城和田城の攻略に失敗、さらに箕輪城が陥落した事もあり、武蔵の成田氏、深谷上杉氏、上野の由良氏、富岡氏、館林長尾氏、下野の皆川氏、宇都宮氏、下総の梁田氏、上総の酒井氏、土気(土岐)氏、原氏、正木氏の一部など多くの豪族が北条氏に服従。続いて常陸の佐竹義重も上杉陣営から離反(三戸文書)。そして、永禄9年(1566年)上野厩橋城の上杉家直臣北条(きたじょう)高広が北条に寝返った事により、上杉氏は大幅な撤退を余儀なくされた。これに対し謙信は唐沢山城を攻略し、沼田から下野への連絡路を確保するなどして対抗するが、氏康は信玄と共同で連合軍に対抗することで、関東での抗争で再び優位に立つ。

永禄9年(1566年)以降は実質的にも隠居し息子達に多くの戦を任せるようになる。関東における優位が決定的なものとなり、氏政も着実に成長していたためである。これ以降は「武榮」の印判を用いての役銭収納、職人使役、息子達の後方支援に専念するようになる。この前後から氏政は左京大夫に任官し、氏康は相模守に転じている。家臣への感状発給もこの時期に停止し、氏政への権力の委譲を進めている。

永禄10年(1567年)、氏康は息子の氏政・氏照に里見攻略を任せ出陣させる。しかし、正木氏などの国人が里見に通じたことなどがあり、氏政は里見軍に裏をかかれて大敗。北条家は上総南半を失った。この際、娘婿の太田氏資が戦死している(三船山合戦)。しかし佐竹領以外の常陸においては、南常陸の小田氏等の臣従により北条氏の勢威が及ぶこととなった。

武田信玄との戦い

永禄11年(1568年)、義元没後の今川氏の衰退を受けて、従来の外交方針を転換させた武田信玄が駿河侵攻を行ったことにより、三国同盟は破棄された。今川軍は武田軍に敗北、さらに徳川軍の侵攻を受けて掛川城に追い詰められる。北条家は娘婿の今川氏真を支援をする方針を固め、氏政が駿河に出兵、薩多峠にて武田軍と対峙する。氏康は信玄が徳川の不信を買ったことを利用し徳川との密約を結び、駿河挟撃の構えをとった。さらに富士信忠大宮城に攻撃を仕掛けた武田軍を退けたことにより、信玄はこの状況での駿河防衛は困難と判断、駿河から軍を退き甲斐へと退却した。北条氏は興国寺城、葛山城、深沢城など東駿河を奪取した。氏康と信玄の敵対関係は決定的となり、甲相同盟は破綻した。

これにより氏康は、西に武田氏、北に上杉氏、東に里見氏と3方向を敵勢力に囲まれる危機的状況に陥る。この苦境を乗り切るべく駿河出兵を決めると同時に、上杉氏との同盟交渉を開始(大石氏照書状)。この頃、西上野一円は武田領化しており、謙信の上野における支配域は沼田と厩橋のみとなっていた。さらに謙信の目は越中に向けられていた。謙信は当初、討伐対象であった北条氏との同盟に乗り気でなかったが、家臣の説得もあり態度を軟化。既に纏まっていた今川家と上杉家の同盟に乗る形で交渉を始め、謙信の旧臣・由良成繁を仲介役に、石巻天用院を使者として、永禄11年(1569年)に上杉謙信との同盟である越相同盟を結んだ。これにより北条氏は、謙信の関東管領職と上野・武蔵北辺の一部の領有を認める代わりに、謙信に北条氏による相模・武蔵大半の領有と足利義氏の古河公方就任を認めさせた。北条方は氏康の実子・三郎(後の上杉景虎)、上杉方は謙信の家臣・柿崎景家の実子・晴家が人質とされた。

この越相同盟は、両家の停戦という意味では成功を収めた。しかし同時に謙信に対する反北条派の里見や佐竹、太田といった関東諸大名・豪族の不信感を生み、彼らは上杉氏から離反し武田氏に与してしまった。さらに信玄が信長・将軍足利義昭を通じて越後上杉氏との和睦(甲越和与)を試み、同年8月には上杉・武田両氏の和睦が成立した[6]。また上杉が甲越和与を解消した後も同盟条件の不調整・不徹底のため、北条・上杉両軍の足並みは乱れることが多かった。

永禄12年(1569年)9月、武田軍が武蔵に侵攻する。これに対し、鉢形城で氏邦が、滝山城で氏照が籠城し武田軍を退け、武田軍はそのまま南下、10月1日には小田原城を包囲する。しかし氏康が徹底した籠城戦をとったため、武田軍は小田原城攻略は不可能と判断、わずか4日後に撤退する。氏康は撤退する武田軍に対し挟撃を謀る。氏政を出陣させるが、荷を捨て身軽になってまで迅速に行軍した武田軍に対して、氏政隊の追撃が遅延したため、本隊到着前に三増峠に布陣する氏邦・氏照隊が攻撃を開始し挟撃はならなかった。緒戦は優位に押したが、武田別働隊による高所からの奇襲を受け、加えて津久井城も武田方に抑えられて援軍が出陣すらできないうちに突破され敗退。武田家譜代家老の浅利信種を討ち取ったものの、武田軍の甲斐帰還を許す結果になった(三増峠の戦い)。北条軍はこの合戦で受けた損害を埋めるために駿河から軍勢を呼び戻したという説もある。[要出典]その後、武田は再度駿河に出兵、対する北条は里見の勢力回復や氏康の体調悪化に伴い、興国寺城・東駿河はかろうじて保つものの、駿河での戦いは押され気味となっていく。

最期

氏康は元亀元年(1570年)8月頃から中風とみられる病を得ており、8月初旬には鎌倉仏日庵で、氏康の病気平癒祈願の大般若経の真読が行われている。その頃、小田原城に滞在していた大石芳綱は、風聞としてではあるが氏康の様子を、呂律が回らず、子供の見分けがつかず、食事は食べたいものを指差すような状態で、意志の疎通がままならず、信玄が豆州に出たことも分からないようだ、と記し伝えている。その後、12月には信玄の深沢城攻めの対応を指示ができるほどには快方に向かったが、明けて元亀2年に入ると氏康発給の文書は印判だけで花押が見られなくなる。そして5月10日を最後に文書の発給は停止されている。

そして10月3日、小田原城において死没した。享年57。戒名は大聖寺殿東陽宗岱大居士

元亀2年(1571年)から、氏康は、かつて武田氏に通じていた北条高広を介して、武田信玄との和睦・同盟を模索していたといい、最後の務めとして氏政をはじめとする一族を集め、「上杉謙信との同盟を破棄して、武田信玄と同盟を結ぶように」と遺言を残したとされているが詳細は不明。 死後の12月27日、北条・武田は再同盟している。北条・武田再同盟の背景には、氏政の独自の方針、あるいは三河に集中したい信玄側からの申し入れであったという説も有力である。

人物

内政

  • 内政に優れた手腕を発揮し、戦国随一の民政家として知られる。
  • 北条氏の特色である領内の検地を徹底して行ない、永禄2年(1559年)2月、氏康は大田豊後守・関兵部丞・松田筑前守の3人を奉行に任命し、家臣らの諸役賦課の状態を調査し、それを安藤良整が集成して『小田原衆所領役帳』を作成した。構成は各衆別(小田原衆、御馬廻衆、玉縄衆、江戸衆、松山衆、伊豆衆、津久井衆、足軽衆、他国衆、御家中衆など)計560名の家臣個々の所領の場所(領地)とその貫高(所領高)が記され、負担すべき馬、鉄砲、槍、弓、指物、旗、そして軍役として動員すべき人数が詳細に記載されている。これにより家臣や領民の負担が明確になり、家臣団や領民の統制がより円滑に行われるようになった。
  • 歴代同様に税制の改革にも熱心で領民の負担軽減などに尽力しており、在郷勢力から支持されている。中でも特筆に値するのが天文19年(1550年)4月に実施された税制改革である。それまでの諸点役と呼ばれる公事を廃止し、貫高の6%の懸銭を納めさせることにより、不定期の徴収から百姓を解放し、結果的に負担を軽減させた。同時に税が直接北条氏の蔵に収められる(中間搾取がなくなる)ことで、国人等の支配力が低下し北条氏の権力はより大きなものとなった。さらに棟別銭を50文から35文に減額し、凶作や飢饉の年には減税、場合によっては年貢を免除した。その他、一部では反銭や棟別銭を始め国役までも免除されていた地域も存在する(内閣文庫所蔵・垪和氏古文書)[7]
  • 領民の誰もが直接北条氏(評定衆)に不法を訴える事ができるよう目安箱を設置し、領民の支持を得ると同時に中間支配者層を牽制した。また、他大名に先駆け永楽銭への通貨統一を進め、撰銭令も出している。
  • 永禄2年(1559年)12月、代物法度を制定して、精銭と地悪銭の法定混合比率を規定する貨幣制度を実施、翌年に比率を改定し完成した。
  • 氏康の統治期は全国的に良質の永楽銭の不足や地悪銭の増加が顕著になりだした時期で、それによる税収不足を防ぐ為に、永禄7年(1564年)反銭を米で納める穀反銭を創設し、その為の公定歩合として、永楽銭100文を米1斗2-4升と定めた。翌永禄8年(1565年)には、棟別銭も2/3を麦、1/3を永楽銭で納める正木棟別の制度を創設し、麦の公定歩合を100文につき3斗5升と定めた。そして最終的には、永禄12年(1569年)に棟別銭と反銭を銭納から米穀等の物納に全面的に切り替え、財政の安定化を図っている。
  • 氏康の大きな功績として、独自の官僚機構の創出があげられる。例えば評定衆はその代表的なもので、領内の訴訟処理などを行っていた。構成員はおもに御馬廻衆を主体としていた。史料上の初見は弘治元年で、裁許状は現在50例ほどが確認されている。
  • 後に「四公六民」と称される初代以来の政策の継承と、税目の整理による負担軽減で民衆の支持を得る。後年勝海舟によれば、徳川家康が小田原を領した時、住民はいつまでも北条氏を慕って実にやりにくかったという。(氷川清話[信頼性要検証]
  • 小田原の城下町のさらなる発展のため全国から職人や文化人を呼び寄せ大規模な都市開発を行った。その結果、小田原の城下町は東の小田原・西の山口と称される東国最大の都市となった。日本初となる上水道小田原早川上水)を造り上げ、町はゴミ一つ落ちていないとまで評されるほどの清潔な都市であった。東嶺智旺は、小田原について「町の小路数万間、地一塵無し。東南は海。海水小田原の麓を遶る。」と記している。そしてこの町の流行は小田原様と称されすぐに関東全土に広まった。
  • 殆どの文書に虎の印判を使用し行政の効率を高めた。同時期の戦国大名と比較して最も割合が多い。配下などに対して花押を用いずに印判状を用いる行為は効率と引き換えに反発を招く恐れもあった。それを押さえ込めるだけの権威と軍事力が氏康の代に備わったことを意味している。
  • その他の施策として、職人使役のための公用使役制の採用や伝馬制の確立などがあげられる。北条氏の伝馬手形に押された伝馬専用印判(印文「常調」)の初見は永禄元年(1558年)であり、 この時期に北条氏の伝馬制が確立したとされている。
  • その善政で民衆に慕われ、彼の死が小田原の城下に伝えられると領民は皆泣き崩れ、その死を惜しんだという。

軍事

  • 北条記では、「三世の氏康君は文武を兼ね備えた名将で、一代のうち、数度の合戦に負けたことがない。そのうえに仁徳があって、よく家法を発揚したので、氏康君の代になって関東八ヶ国の兵乱を平定し、大いに北条の家名を高めた。その優れた功績は古今の名将というにふさわしい」と評価されている。[信頼性要検証]

その他

  • 12歳の頃、武術の調練を見ていて気を失った。気を取り戻すと「家臣の前で恥を曝した」として自害しようとしたが、家老の清水某が「初めて見るものに驚かれるのは当然で恥ではございません。むしろあらかじめの心構えが大切なのです」と忠言した。以後、氏康は常に心構えをわきまえて堂々としていたという(『北条五代記』)。[信頼性要検証]
  • 教養・学問にも熱心で、三条西実隆から歌道の師事を受け、三略の講義を足利学校で受けた。歌を詠ませれば著名な歌人さえも感心させた。天文20年(1551年)4月、氏康に接見した南禅寺の僧・東嶺智旺はその傑物ぶりを「太守・氏康は、表は文、裏は武の人で、治世清くして遠近みな服している。まことに当代無双の覇王である」と高く評価している[8]
  • 後水尾天皇の勅撰と伝えられる『集外三十六歌仙』の30番に一首を採られている[9][10]
中々にきよめぬ庭はちりもなし かぜにまかする山の下いほ — 集外三十六歌仙、30.閑居 北条氏康
  • 後世成立の軍記の逸話としてであるが、夏に氏康が高楼で涼んでいると狐が鳴き、これを聞いた近習が「夏狐が鳴くを聞けば、身に不吉が起る」と告げたため、即興で歌を詠み、「きつね」を句によって分けた歌で凶を返したため、狐は翌朝に倒れて死んでいたという[11]
夏はきつ ねになく蝉のから衣 おのれおのれが身の上にきよ — 小田原北条記、北条氏康
小田原市谷津には、この夏狐の逸話を元亀元年とし、その後に狐の霊が北条の家臣に憑いて、調伏された恨みから災いを起すと訴え、翌年に氏康が死んだことを祟りと考えた氏政が老狐の霊を祀って供養したという縁起を持つ「北条稲荷」が在る[12]
  • 部下への教訓として「酒は朝に飲め」という言葉を残している。これは、寝る前の飲酒は深酒をしやすく、失敗につながりやすい、ということから。

系譜

家臣

北条分限帳(北条氏康時代前期)における衆

  • 小田原衆 松田憲秀 以下33人 9202貫
  • 御馬廻衆 山角康定 以下94人 8591貫
  • 玉縄衆 北条綱成 以下18人 4381貫
  • 江戸衆 遠山綱景・太田大膳・富永康景 以下77人 12650貫
  • 河越衆 大道寺政繁 以下22人 4079貫
  • 松山衆 狩野介 以下15人 3300貫
  • 伊豆衆 笠原綱信・清水康英 以下29人 3393貫
  • 津久井衆 内藤康行 以下59人 2238貫
  • 諸足軽衆 大藤秀信 以下17人 2260貫
  • 職人衆 須藤盛永 以下26人 903貫
  • 他国衆 小山田信有 以下30人 3721貫
  • 御家中衆
  • 御家門方 足利義氏・北条長綱 5852貫
  • 本光院殿衆 山中盛定 以下49人 3861貫
  • 氏堯衆 北条氏堯 以下4人 1381貫
  • 小机衆 北条時長 以下29人 3438貫
  • 御家門方 伊勢貞辰 以下11人 1050貫

墓所

神奈川県箱根町の金湯山早雲寺(現在の早雲寺境内に残る氏康を含めた北条5代の墓所は、江戸時代の寛文12年(1672)に、北条氏規の子孫で狭山藩北条家5代目当主の氏治が、北条早雲の命日に当たる8月15日に建立した供養塔。氏康の本来の墓所は、広大な旧早雲寺境内の大聖院に葬られたが、早雲寺の全伽藍は豊臣秀吉の軍勢に焼かれ、氏康の墓所の位置は不明となっている)。

脚注

  1. ^ 当時はまだ種子島に鉄砲は伝来していなかった。この逸話での「鉄砲」とは、それ以前からあった中国式の火器だとされる。
  2. ^ 北条早雲史跡活用研究会編『奔る雲のごとく(今よみがえる北条早雲)』、大塚勲「今川義元-史料による年譜的考察」、黒田基樹『戦国 北条一族』。
  3. ^ 小和田哲男『今川義元 自分の力量を以て国の法度を申付く』(ミネルヴァ書房)P152、有光友学『今川義元』(吉川弘文館人物叢書)P113-P117、P264-P265、他。
  4. ^ 戦国時代は小氷期で天候不順による飢饉が頻発しており、後北条氏の優れた民生努力をもってしても飢餓の発生を抑え切れなかった
  5. ^ 『北条氏康と東国の戦国世界』山口博(夢工房)P90、『武田信玄合戦録(角川選書)』柴辻俊六 著(角川学芸出版)P68、『東国の戦国合戦』市村高男(吉川弘文館<戦争の日本史10>)P157
  6. ^ 「甲越和与」の経緯については丸島和与「甲越和与の発掘と越相同盟」『戦国遺文武田氏編 月報』6
  7. ^ 小和田『北条早雲とその子孫』p108
  8. ^ 山口(2005)pp.119-135
  9. ^ 酒井抱一・集外三十六歌仙(姫路市立美術館)
  10. ^ 30.北条氏康
  11. ^ 江西下(1980)pp.41-44
  12. ^ 立木望隆『小田原史跡めぐり』名著出版(小田原文庫)、1976年、p52。

参考文献

  • 藤木久志黒田基樹 編『定本・北条氏康』2004年、高志書院ISBN 4906641911
  • 黒田基樹『戦国大名の危機管理』2005年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー、ISBN 4642056009
  • 黒田基樹『百姓から見た戦国大名』2006年、ちくま新書ISBN 4-480-06313-7 C002
  • 鈴木良一『後北条氏』1988年、有隣新書ISBN 4896600827
  • 青木重数『北条氏康』1994年、新人物往来社ISBN 4404020791
  • 佐脇栄智『後北条氏と領国経営』1997年、吉川弘文館ISBN 4642027548
  • 山口博『北条氏康と東国の戦国世界』夢工房〈小田原ライブラリー13〉、2005年。ISBN 4-946513-97-3 
  • 下山治久『後北条氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2006年。ISBN 4490106963 
  • 黒田基樹『戦国 北条一族』2005年、新人物往来社、ISBN 440403251X
  • 小和田哲男『北条早雲とその子孫』1996年、聖文社、
  • 江西逸志子著 岸正尚現代訳『小田原北条記 上』ニュートンプレス〈教育社新書 原本現代訳 23〉、1980年。ISBN 4-315-40104-8 
  • 江西逸志子著 岸正尚現代訳『小田原北条記 下』ニュートンプレス〈教育社新書 原本現代訳 24〉、1980年。ISBN 4-315-40105-6 
  • 『真説戦国北条五代(歴史群像シリーズ 14)』1986年、学研
  • 『神奈川県史 資料編2 古代・中世(2)』1973年、神奈川県企画調査部県史編集室
  • 『神奈川県史 通史編1 原始・古代・中世』1981年、神奈川県企画調査部県史編集室
  • 杉山博下山治久 編『戦国遺文 後北条氏編 第1~6巻』(1989年~1995年、東京堂出版)
  • (1)ISBN 978-4-490-30427-5(2)ISBN 978-4-490-30428-2(3)ISBN 978-4-490-30429-9
  • (4)ISBN 978-4-490-30430-5(5)ISBN 978-4-490-30431-2(6)ISBN 978-4-490-30432-9
  • 下山治久編『戦国遺文 後北条氏編 補遺編』2000年、東京堂出版、ISBN 9784490305753
  • 『栃木県史料所在目録〈第3集〉芳賀郡』1973年、栃木県教育委員会事務局、ASIN B000J9EIOG
  • 小和田哲男編『今川義元のすべて』1994年、新人物往来社 ISBN 4-404-02097-X
  • 小和田哲男『今川義元 自分の力量を以て国の法度を申付く』2004年、ミネルヴァ書房ISBN 4-623-04114-X
  • 有光友学『今川義元』2008年、吉川弘文館、ISBN 978-4-642-05247-4
  • 平山優 『武田信玄』2006年、吉川弘文館 ISBN 4642056211
  • 池享矢田俊文 編『上杉氏年表(増補改訂版)-為景・謙信・景勝』高志書院、2007年、ISBN 4862150195

関連作品

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ドラマ
TVゲーム
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ボードゲーム

関連項目