富士信忠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
 
富士信忠
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 天正11年8月8日1583年9月23日
別名 宮若、相模入道
官位 兵部少輔
主君 今川義元氏真武田信玄
氏族 富士氏
父母 父:富士信盛
富士信通、富士信重、富士信定

富士 信忠(ふじ のぶただ)は戦国時代武将富士氏当主。今川氏家臣。

概要[編集]

富士山本宮浅間大社の大宮司である。兵部少輔・相模入道を称し、今川氏家臣であった。大宮城(富士城)を武力拠点とし、大宮城城主として武田勢と交戦を繰り返した。

生涯[編集]

今川家のお家騒動である花倉の乱の際には、栴岳承芳(今川義元)派を支持したという[1]永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いを契機に今川領国では動揺が起こり、駿河の国人は今川氏から離れていくものも居た。一方富士氏は今川方に留まり、永禄4年(1561年)7月には今川氏真より大宮城城代に任命されている。

今川氏と同盟関係にあった武田氏が同盟を破棄し今川領国への侵攻を開始すると(駿河侵攻)、武田勢は富士氏が城主を務める大宮城を攻撃するようになる。富士氏は今川氏真を庇護した北条氏の支援を受けつつ武田方に抵抗し、永禄11年(1568年)に北条氏政は富士信忠に判物を発布している[2]。また永禄12年(1569年)には北条氏康により信忠宛ての文書が発布されるなど、後北条氏と関係を密にしていた[3]。その後も後北条氏は富士氏の軍功を賞するなどしているが[4]、永禄12年6月の武田信玄本隊による攻撃により大宮城は開城した。その後も信忠は北条方に留まり続け北条方の蒲原城において武田勢と交戦し[5]、北条氏は富士上方(現在の静岡県富士宮市一帯)の支配権を認める書簡を信忠に送るなどしている[6]

元亀2年(1571年)に今川氏真により暇を与える旨の判物が嫡子である信通に発給されると、富士氏は今川・北条勢から離れることとなる[7]。以後富士氏は武田氏に帰属し、元亀3年(1572年)に信忠は甲府へ出仕している[8]。大宮城代には武田家臣の原昌胤が任じられ、富士郡支配は昌胤や市川昌房が務めた。

参考資料[編集]

  • 前田利久、「戦国大名武田氏の富士大宮支配」『地方史静岡』第20号、1992年
  • 丸島和洋、「武田氏の領域支配と取次」『戦国大名武田氏の権力構造』思文閣出版、2011年

脚注・出典[編集]

  1. ^ 『静岡県史 通史編2 中世』P797-802
  2. ^ 戦国遺文』後北条氏編第2巻1125号・1126号
  3. ^ 『戦国遺文』後北条氏編第2巻1159号
  4. ^ 『戦国遺文後北条氏編第2巻』1230・1235号
  5. ^ 『戦国遺文』後北条氏編第2巻1357号
  6. ^ 『戦国遺文』後北条氏編第2巻1355号
  7. ^ 「今川氏真判物」『戦国遺文』今川氏編第4巻2493号
  8. ^ 『戦国遺文』武田氏編第3巻1823号