マツダ再建
マツダ再建(まつださいけん)とは、第1次オイルショックの後、アメリカ市場を中心にロータリーエンジン(RE)車の販売が急激に落ち込み経営危機に陥った東洋工業(現:マツダ)が、主力銀行である住友銀行(現:三井住友銀行)の主導によって再建に取り組み、同行の橋渡しによって米国のフォード・モーターと資本提携に至った一連の過程を指す。なお、2015年9月までにフォードは保有していたマツダ株のすべてを売却し、資本提携関係は終了している。
ロータリーエンジンを導入
1960年に日本政府は「貿易為替自由化計画大綱」を策定し、国際競争力の高まった産業から順次輸入を自由化する方針を示した。輸入自由化の後には、資本自由化も控え、自動車メーカー各社は自社競争力の強化に取り組んだ。そのような中、単独での生き残りが厳しいメーカーは合併・提携へと動き、1966年8月、ブリヂストン傘下のプリンス自動車工業は日産自動車と合併した[1]。また同年10月には日野自動車とトヨタ自動車が業務提携を発表するなど[2]、この後開放経済を前提とした業界再編が続き、最終的に身の振り方が定まらない中堅メーカーは本田技研工業(ホンダ)と東洋工業(マツダ)の2社となった[3]。
1961年、松田耕平が東洋工業副社長に就任する。そして父の松田恒次社長が東洋工業の飛躍の切り札とし、西独の自動車メーカーであるNSUから当時としては破格の2億8千万円の特許料を支払い技術導入したロータリーエンジン(RE)の責任者に、耕平が文系出身ながらおさまった。1963年には社内にRE研究部を設置し、初代研究部長には山本健一(のち同社社長)が登用された[4]。
1967年5月、REを搭載したコスモスポーツの販売が開始される。高性能と静寂性を兼ね備えたREは”夢のエンジン”と脚光を浴び[5]、東洋工業の企業イメージは向上。さらに販売増にも結び付き、翌1968年の生産台数はトヨタ自動車、日産自動車に次ぐ業界3位につけた。この状況を背景に1970年1月にはフォードと資本業務提携の交渉に入るが、その最中、松田恒次が急逝。松田耕平が社長に昇格し交渉は継続された。
だが、NSUが東洋工業とフォードの資本提携は認められないと反対した上に、ニクソン・ショックも重なり交渉は頓挫。1972年3月に交渉は決裂し白紙還元に至った[6]。
松田耕平は、東洋工業はREがある限り将来にわたり自主独立路線を貫くことが可能でトヨタ、日産を追い抜くことも夢ではないと思慮していた[7]。またREは、窒素酸化物(NOx)の排出も少なく、米国で実施されていた排ガス規制が日本においても実施されることが決定していた。当時、排ガス規制を達成する技術にメドをつけたのはREの実用化に成功した東洋工業と独自にCVCC(複合渦流調整燃焼方式)を開発したホンダの2社しかなく、トヨタ、日産は無論のことゼネラルモーターズ、クライスラー、フォードの全米ビッグスリーも技術開発にあたっては手探りの状態であった[8]。そうした折に耕平は、今がまさに好機でREの量産体制に入らなければならないとし、1971年春には大規模な設備増強に着手。設備資金、開発研究費に合わせて600億円を投じ、本社工場に隣接する宇品地区に新工場の建設へ向け踏み出した[9]。その後もRE車はよく売れ、中でも対米輸出が好調で、1973年には米国向け輸出車は、11万台に達しその内、7〜8割をRE車が占めていた。
しかしREを量産化するにあたっての技術が未熟で確立されておらず、特定の部品が予想以上に摩耗するため早急に取り換えなければならない事態となった。整備点検にあたるマツダの国内販売店は網羅的に整備されていたが、米国における販売店網は盤石な状態ではなかった。その対応策を講じていた1973年10月、第四次中東戦争が勃発し、第1次オイルショックに見舞われた。これを受け同業他社はいち早く減産体制を敷いたが、東洋工業はオイルショックによるモノ不足は一時的なもので、平時に帰せば車の購入は活発になる。そのために作りだめしなければならないとして大幅な増産体制を敷いた。
ところが1974年に米国環境保護庁(EPA)がRE車が普通のエンジンより20〜50%も燃料を食う燃費の悪い車であるとの調査結果を発表した。これが喧伝されると世間の関心が省エネルギーに向かっていたことから、売り行きはピタリと止み、国内外とも在庫は大幅に積み上がった[10][11]。これによって1974年10月期決算では173億円の赤字を計上する事態となった[12]。
住友銀行主導の再建
大幅赤字の事態を受けてメインバンクの住友銀行は、東洋工業が傘下に多くの下請け企業を抱え、また本社を置く広島を中心とした中国地方の経済に果たす役割の大きさを鑑み、東洋工業からの要請に応え、人材の派遣のほか緊急の融資を実施する方針を固めた[13]。方針に基づき住友銀行は、本店事務管理部長であった花岡信平(のち同行副頭取)を、住友信託銀行は法人信託部長を東洋工業へ派遣し、両人は1975年1月の株主総会で取締役に選出された。以後、東洋工業の再建は住友銀行の主導で進められることとなった[14]。
また住友銀行は、内外に東洋工業の支援を強力に推進していくことを周知するため、前頭取の浅井孝二を相談役に就任させ、広島出身で日本商工会議所会頭の永野重雄を最高顧問として招聘。更に大阪本店に東洋工業支援の専担部署として融資第二部を新設した。一企業支援のための専任部門を設置したことは住友銀行において初の試みであり[13]、管掌役員には副頭取であった磯田一郎が就き、部長には常務本店営業部長であった巽外夫が就任した。そして行内から選抜された精鋭が不眠不休で経営実態の洗い出しに取り掛かったところ、米国市場もさることながら国内の有力な販売店による融通手形の乱発が発覚。その処理には難儀したと巽は語っている[15]。
その間にも東洋工業の業績はさらに悪化していた。1976年1月には難局打開のため、住友銀行は村井勉常務(のち同行副頭取、アサヒビール社長、JR西日本会長)を副社長として派遣した[16]。さらに住友グループ以外の銀行、商社にも役員の派遣を要請し、万全の支援体制を構築した。副社長として着任した村井は、経営の刷新と大規模な組織改革ならびに社員教育の必要性を痛感する[17]。また同時期に巽は、大幅な合理化を実施するにあたって知恵を借りようと小松製作所を訪ね、河合良一社長から合理化策の指導を受けた。その教えを実践するため同年5月、東洋工業本社にコントロール部を新設。責任者には後に社長となる山崎芳樹を起用した[18]。
住友銀行は東洋工業の将来にわたるグランドデザインの策定を急いだが、単独での生き残り不可能であるとの結論に至り、開発したREの周辺特許を公開し、それを武器に他社との交渉に入ることとした。これに基づき、磯田が花井正八や、豊田章一郎などトヨタ自動車首脳と断続的に会談したが、色よい返事を得ることが出来なかった。その後通商産業省(現・経済産業省)が日産自動車に東洋工業との提携を持ち掛けたが、日産側は東洋工業の財務内容に懸念を抱き、提携は成就には至らなかった。このほか住友銀行は三菱自動車との交渉に入るが、磯田が住友銀行の意向を通産省に伝えると、「業務提携とはいえ、既に外資(クライスラー)と提携している企業との結びつきは好ましくない」との応答があり、三菱との提携も流れた[19][注釈 1]。この間、松田耕平社長は独自にゼネラルモーターズ(GM)との交渉に動いたが、GMとの提携は米国の独占禁止法(反トラスト法)上の問題から無理との調査結果が住友銀行の調査でも明らかとなり、これも沙汰止みとなった[19]。
トヨタ、日産、三菱等、国内自動車会社との提携は困難であると認識した時点で、住友銀行は外資との提携を企図し、過去に資本業務提携は頓挫したものの、1971年6月、業務提携を結びボンネットトラックを輸出していたフォードを新たな提携先として選択し、1977年7月に前月末に頭取に昇格した磯田が「東洋工業はフォードとの提携強化を望み、その際には住友銀行も主力銀行として全面的に支援する」のヘンリー・フォード2世会長宛の親書をしたため、巽外夫に託した[20]。親書を託された巽は渡米。フォードの海外事業担当であったドナルド・ピーターセン副社長やフィリップ・コールドウィル執行副社長らと交渉を行った[21]。また巽は反トラスト法抵触問題で交渉が滞った際には、ワシントンD.C.に出向き、米国連邦取引委員会(FTC)委員と個別に面会し説き伏せ、また流暢とはいえない英語を駆使して自ら証言台に立つなど奔走した[22]。
フォードとの交渉の渦中、村井東洋工業副社長は、松田耕平が社長の座から退くことなしに会社の本格的な再建は進まないと思慮し、辞任を迫った。また永野重雄からも辞任を促され、業績不振の責任を取る形で、1977年12月に松田耕平は代表権のない取締役会長に退き、後継には村井の推挙によって山崎芳樹専務が昇格した[23]。これにより55年以上続いた松田家による同族経営が終焉した。
一方、傘下のプロ野球球団・広島東洋カープに対しては、東洋工業は筆頭株主として資本関係を継続したが、企業としての経営関与が弱められ、事実上の松田家による独立経営となった。
村井は新経営体制の始動に際して、集団指導体制の確立と大幅な権限委譲を目的に、常務会、社長室を設けたほか、研究開発体制も改編し車種別責任体制を導入した[24]。また人材育成の観点から工場の近接地に、大規模な研修センターの建設を提案。その完成したセンターでは新人や中堅社員に加えて販売店社員の社員教育も実施させた。このほか組合の猛反発を受けながら約5千人の社員を国内の販売店に2年間にわたりセールスマンとして出向させる施策を断行した[25]。さらに自らも先頭に立ち、マツダの国内販売店を回り[26]、地方に赴いた時には地方銀行を訪れ、旧知の頭取に車の購入を懇請し、東京の法人が弱いとわかれば上場企業巡りに勤しんだ[27]。
1978年に入り、フォードと東洋工業の接触は頻繁となり[28]、同年2月にはフォードが公認会計士を含む財務担当者を中心とするプロジェクトチームを編成。メンバーは東洋工業本社へ派遣され、約1ヵ月広島に滞在し、経営実態の洗い出しを行い、グループ全体における財務等の全貌の解明に努めた[29]。翌1979年明けと共に交渉は大詰めを迎え、フォードの資本参加の方法が主題として議論された。そこではフォードの出資における負担軽減を図る術として、住友銀行融資第二部次長の発案による東洋工業がフォードの在日子会社のフォード・インダストリーを吸収合併するという方法が創出された。これによって実質休眠会社である同社の資産を活用し、フォードが米国から持ち出す資金は絞り込むことが出来た[30]。同年2月、住友銀行の米国現地法人であった加州住友銀行の新頭取就任パーティーに出席することを名目に磯田は渡米し、その合間を縫ってディアボーンのフォード本社を訪れ、フォード2世と会談した。このトップ会談によってフォードと東洋工業の資本提携は事実上成立した。
1979年5月18日、提携に関するスクープ記事が掲載されることが判明したため、予定期日より早めてフォードが東洋工業の株式20%を購入する可能性について交渉していると発表し、翌日に東洋工業が緊急役員会を開催した。その後記者会見を開き、山崎社長が既にフォードと資本提携することで合意しており、米国FTCに届出書を提出したと発表した。こうして同年11月1日に、両社の提携はフォードが25%出資することでスタートした[31]。1980年1月、村井副社長が住友銀行に復帰し、代わって岩澤正二副頭取が東洋工業会長として派遣された[32]。
1978年3月、村井副社長から「ポルシェの半額のスポーツカーを作れ」と指示を受けたRE研究部が、RE車であるサバンナRX-7を完成させ、発売した。同車はアメリカ市場にも投入され、世界で大ヒットとなる[33]。さらに1980年には、20代の技術者らが中心になって具現化したハッチバック式の「ファミリアXG」が発売された。斬新なデザインと圧倒的な燃費の良さに加えて、手頃な価格が話題を呼び、当時の若者らに圧倒的に支持されヒットし、その年の第1回日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞した。続いて1982年に発売された新型カペラも大ヒット。同車も第3回日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞した[34]。これら車種の販売が好調に推移したことや、フォードとの資本提携が下支えとなり、東洋工業の業績は回復。7期連続で増収増益を樹立し、勢いに乗って米国で単独での車の現地生産を開始した[35]。
バブル期・バブル崩壊
バブル景気に沸く1980年代後半、日本の自動車メーカーはその好況が持続するものとみなし、設備増強に走った。バブル全盛期には日産が発売した高級セダン車であるシーマが飛ぶように売れ、「シーマ現象」なる流行語も生まれた。1984年5月、社名を東洋工業から、それまでブランド名として使用してきたマツダに変更。ファミリアを金看板とする大衆車メーカーであるマツダを独国のBMWのような高級イメージを持つメーカーに転換したいと思慮していた[36]。そこで好況の時流に乗り、販売を拡大させようと、「5チャネル構想」を打ち出した。この構想に基づき、マツダ店は従来通りベーシックな車、オートラマ店はフォード車の販売、マツダオート店をマツダアンフィニ店に名称変更し、高級車とスポーティな車の専門店に転換。さらに新設のユーノス店は斬新な高級車、同様に新設であるオートザム店は軽乗用車を取り扱うとした[37]。
販売チャネルが増加すれば、供給する車も増やす必要があるため、600億円を投じ、防府工場(山口県防府市)に隣接する第二工場を建設した。しかし1991年にバブル崩壊を迎え、マツダの売り上げは減少し、販売力の脆弱さ、円高が決定打となり業績は赤字に陥った。イトマン事件問題が収束し、再びマツダの経営を注視し始めた、住友銀行会長に就任していた巽外夫は、再度マツダを再建するには銀行主導では限界があり、資本提携を結ぶフォードの世界戦略への編入によってしか生き残る術はないと判断した[38]。
バブル崩壊後
1994年、巽の要請に応えたフォードは40代の若手4人を顧問としてマツダに派遣し、同年6月の株主総会後、4人は役員に選出された。これによってマツダの経営はフォードが実質的に把握した。翌年秋、巽は、マツダ社内にフォードに対するアレルギーがなくなったと判断。アレキサンダー・トロットマン会長に、出資比率の引き上げと社長の派遣を要請した。1996年5月にフォードはマツダに対する出資比率を25%から33.4%に引き上げ、同年6月、ヘンリー・ウォレス副社長が社長に昇格。日本の自動車メーカーでは初となる外国人社長が誕生し、マツダは正式にフォード傘下となった[39]。以後マツダはフォードの世界戦略に組み入れられ、マツダのエンジンやプラットフォームがフォード車に導入された。この戦略は成果をあげ、「フォード - マツダ」は自動車の国際提携の優等生ともてはやされた[40]。
2008年秋、リーマン・ショック後の世界的な景気の悪化でフォードは経営不振に陥り、マツダ株の一部を売却し、フォードの連結決算の対象から外れた。翌年にはマツダが公募増資を実施したため、フォードの出資比率は11%まで落ち、2010年にはフォードが三井住友銀行や住友商事などにマツダ株を売却したため筆頭株主ではなくなる[41]。こうした中、マツダは「スカイアクティブ」と呼ぶ環境に配慮した技術を開発し、2011年より同技術を搭載した新車の発売が開始された。また2012年には、フォードが米国での合弁によるマツダ車の生産もやめ、両社の関係は一段と希薄となった。
2015年5月13日、マツダはトヨタと環境対応や安全技術をはじめとする幅広い分野で提携することで基本合意したと発表した[42]。その一方で同年9月末までに、フォードは保有していたマツダ株のすべてを売却した。これによってフォードとマツダの36年間にわたる資本提携は終了した。なおタイや中国における合弁事業は双方に有益であるとして継続するとしている[43]。
脚注
注釈
出典
- ^ 『自動車 合従連衡の世界』p.16 - 17
- ^ 『自動車 合従連衡の世界』p.18
- ^ 『自動車 合従連衡の世界』p.31
- ^ 『自動車 合従連衡の世界』p.36
- ^ 『自動車 合従連衡の世界』p.37
- ^ 『自動車 合従連衡の世界』p.37 - 39
- ^ 『自動車 合従連衡の世界』p.39
- ^ 『自動車 合従連衡の世界』p.40
- ^ 『自動車 合従連衡の世界』p.41
- ^ 『自動車 合従連衡の世界』p.44
- ^ 『今に生きる―JR西日本名誉会長村井勉聞書』p.18 - 20
- ^ 『今に生きる―JR西日本名誉会長村井勉聞書』p.16
- ^ a b 『住友銀行百年史』p.432
- ^ 『自動車 合従連衡の世界』p.46
- ^ 「特集 安宅産業、イトマン、そして熊谷組に連なる住友銀行 バブル処理の系譜」『エコノミスト』 2000年8月1日号
- ^ 『今に生きる―JR西日本名誉会長村井勉聞書』p.17
- ^ 『今に生きる―JR西日本名誉会長村井勉聞書』p.21
- ^ 『自動車 合従連衡の世界』p.49
- ^ a b 『自動車 合従連衡の世界』p.72
- ^ 『自動車 合従連衡の世界』p.74
- ^ 「住銀新頭取の巽氏は"黒子"から変身のツキ男 インサイド」『毎日新聞』1987年8月22日
- ^ 「住友銀行頭取になる巽外夫氏 首位奪回へ再建のプロ」『日本経済新聞』1987年8月22日
- ^ 『今に生きる―JR西日本名誉会長村井勉聞書』p.22
- ^ 『今に生きる―JR西日本名誉会長村井勉聞書』p.23
- ^ 『今に生きる―JR西日本名誉会長村井勉聞書』p.39
- ^ 『今に生きる―JR西日本名誉会長村井勉聞書』p.35
- ^ 『今に生きる―JR西日本名誉会長村井勉聞書』p.29
- ^ 『自動車 合従連衡の世界』p.81
- ^ 『自動車 合従連衡の世界』p.82
- ^ 『自動車 合従連衡の世界』p.88
- ^ 『自動車 合従連衡の世界』p.90
- ^ 「図表 1-1:歴代社長・会長と営業利益・株価の推移」 経済産業省
- ^ 『今に生きる―JR西日本名誉会長村井勉聞書』p.46 - 48
- ^ 『今に生きる―JR西日本名誉会長村井勉聞書』p.52
- ^ 『自動車 合従連衡の世界』p.148
- ^ 『自動車 合従連衡の世界』p.149
- ^ 『自動車 合従連衡の世界』p.150
- ^ 『自動車 合従連衡の世界』p.151
- ^ 『自動車 合従連衡の世界』p.153
- ^ 「日本撤退 新たな火種も フォード 長いお別れ マツダより中国選ぶ 北米偏重に焦り 決断」『日経産業新聞』 2016年1月27日
- ^ 「フォード、三井住友銀などにマツダ株を売却へ 筆頭株主外れる」『読売新聞夕刊』2010年10月16日
- ^ “トヨタ・マツダ、分野限定せずに協力 競争激化に危機感”. 日本経済新聞. (2015年5月14日) 2016年10月2日閲覧。
- ^ 「フォード、マツダ株売却 資本提携36年で解消」『読売新聞大阪本社夕刊』2015年11月14日
参考文献
- 住友銀行行史編纂委員会編 『住友銀行百年史』 住友銀行、1998年。
- 佐藤正明 『自動車 合従連衡の世界』 文春新書、2000年。ISBN 4166601253
- 岩尾清治 『今に生きる―JR西日本名誉会長村井勉聞書』 西日本新聞社、2001年。ISBN 481670535X