マッシミリアーノ・パピス
マッシミリアーノ・パピス | |
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基本情報 | |
国籍 | イタリア |
出身地 | 同・コモ |
生年月日 | 1969年10月3日(54歳) |
F1での経歴 | |
活動時期 | 1995 |
所属チーム | アロウズ |
出走回数 | 7 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
表彰台(3位以内)回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 0 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
初勝利 | - |
最終勝利 | - |
最終戦 | 1995年ヨーロッパGP |
マッシミリアーノ・パピス(Massimiliano PAPIS, 1969年10月3日 -)は、イタリア出身のレーシングドライバーで元F1ドライバー。別名:マックス・パピス(Max PAPIS)。
経歴
F1前
1990年より国際F3に参戦し、2年目の1991年に2勝、翌1992年にも1勝を記録。3シーズンの年間総合成績は、それぞれ17位・10位・6位。
1993年より国際F3000にステップアップ、最高位4位を記録して年間10位となった。翌1994年には1勝・1ポール・ポジション(以下:PP)を記録、年間総合成績は6位だった。またチーム・ロータスのテストに参加し、F1マシンをドライブする機会を得た。
F1
1995年第8戦イギリスGPより、アロウズからF1デビュー。資金難により、シートを失ったジャンニ・モルビデリに代わっての参戦だった。
しかし、マシンの信頼性の低さもあってリタイヤが多く、初完走は自身5戦目となった第12戦イタリアGPとなった(7位)。その後も2戦に出走し、第14戦ヨーロッパGPでも完走したが(12位)、今度は自らが資金難となり、結局このレースを持ってシートを失うことになる。
チャンプカー
F1後、1996年はIMSAに参戦したが、1997年より前年に事故死したジェフ・クロスノフの後釜として、Arciero-Wellsチームからチャンプカーに参戦開始。同チームで2年間を過ごすが、あまり目覚しい活躍はなかった。
1999年よりチーム・レイホールに移籍、飛躍のきっかけとなる。パピスはこの年最高位2位を記録し、予選では1PPも獲得、シリーズ5位となった。しかし第12戦ミシガンでは、最終ラップまでトップを走行しながらガス欠によりストップ、初優勝をトニー・カナーンに譲る形となった。
パピスは、翌2000年の開幕戦マイアミにて優勝、前年幻となった初優勝を現実のものとした。翌2002年にも2勝・1PPを記録するが、チームの低迷により以後は自身の成績も下降してゆくこととなる。
この期間中、2002年にはデイトナ24時間レースで優勝している。この時の猛烈な追い上げが強烈な印象を残した事から、それ以来「マッドマックス」のニックネームを賜るようになった。あくまでも一歩間違えばクラッシュというリスクを追いながらの、極めて慎重なドライブだったというが、その追い上げが余りにも激しかったため、「あいつは狂っている!」と評された為である。
A1GP
2006年アメリカのラグナ・セカで開催された2005-2006A1グランプリでイタリアチーム代表として出場、スプリントレース19位・フィチャーレース7位入賞を果たす。