マッシミリアーノ・パピス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。EmausBot (会話 | 投稿記録) による 2013年3月22日 (金) 21:09個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (ボット: 言語間リンク 16 件をウィキデータ上の (d:Q173289 に転記))であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

マッシミリアーノ・パピス
基本情報
国籍 イタリアの旗 イタリア
出身地 同・コモ
生年月日 (1969-10-03) 1969年10月3日(54歳)
F1での経歴
活動時期 1995
所属チーム アロウズ
出走回数 7
タイトル 0
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 0
通算獲得ポイント 0
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初勝利 -
最終勝利 -
最終戦 1995年ヨーロッパGP
テンプレートを表示

マッシミリアーノ・パピスMassimiliano PAPIS, 1969年10月3日 -)は、イタリア出身のレーシングドライバーで元F1ドライバー。別名:マックス・パピスMax PAPIS)。

経歴

F1前

1990年より国際F3に参戦し、2年目の1991年に2勝、翌1992年にも1勝を記録。3シーズンの年間総合成績は、それぞれ17位・10位・6位。

1993年より国際F3000にステップアップ、最高位4位を記録して年間10位となった。翌1994年には1勝・1ポール・ポジション(以下:PP)を記録、年間総合成績は6位だった。またチーム・ロータスのテストに参加し、F1マシンをドライブする機会を得た。

F1

1995年第8戦イギリスGPより、アロウズからF1デビュー。資金難により、シートを失ったジャンニ・モルビデリに代わっての参戦だった。

しかし、マシンの信頼性の低さもあってリタイヤが多く、初完走は自身5戦目となった第12戦イタリアGPとなった(7位)。その後も2戦に出走し、第14戦ヨーロッパGPでも完走したが(12位)、今度は自らが資金難となり、結局このレースを持ってシートを失うことになる。

チャンプカー

F1後、1996年IMSAに参戦したが、1997年より前年に事故死したジェフ・クロスノフの後釜として、Arciero-Wellsチームからチャンプカーに参戦開始。同チームで2年間を過ごすが、あまり目覚しい活躍はなかった。

1999年よりチーム・レイホールに移籍、飛躍のきっかけとなる。パピスはこの年最高位2位を記録し、予選では1PPも獲得、シリーズ5位となった。しかし第12戦ミシガンでは、最終ラップまでトップを走行しながらガス欠によりストップ、初優勝をトニー・カナーンに譲る形となった。

パピスは、翌2000年の開幕戦マイアミにて優勝、前年幻となった初優勝を現実のものとした。翌2002年にも2勝・1PPを記録するが、チームの低迷により以後は自身の成績も下降してゆくこととなる。

この期間中、2002年にはデイトナ24時間レースで優勝している。この時の猛烈な追い上げが強烈な印象を残した事から、それ以来「マッドマックス」のニックネームを賜るようになった。あくまでも一歩間違えばクラッシュというリスクを追いながらの、極めて慎重なドライブだったというが、その追い上げが余りにも激しかったため、「あいつは狂っている!」と評された為である。

A1GP

2006年アメリカラグナ・セカで開催された2005-2006A1グランプリでイタリアチーム代表として出場、スプリントレース19位・フィチャーレース7位入賞を果たす。

NASCAR

2007年より、NASCARに転向し活動の場を移した。

関連項目

外部リンク