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田臥 勇太
Yuta TABUSE
リンク栃木ブレックス No.0 |
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| 名前 |
| 本名 |
田臥 勇太 |
| ラテン文字 |
Yuta TABUSE |
| 日本語 |
田臥 勇太 |
| 基本情報 |
| 国籍 |
日本 |
| 生年月日 |
1980年10月5日(28歳) |
| 出身地 |
神奈川県横浜市金沢区 |
| 身長 |
173cm |
| 体重 |
75kg |
| 血液型 |
A型 |
| 足のサイズ |
29cm |
| 選手情報 |
| ポジション |
PG |
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■Template ■ノート ■バスケットボールpj
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田臥 勇太(たぶせ ゆうた、1980年10月5日 - )は、日本のバスケットボール選手。ポジションはポイントガード。神奈川県横浜市金沢区出身。リンク栃木ブレックス所属。日本人史上初のNBAプレーヤーで高校世界選抜選手でもある。身長173cm、体重75kg、靴のサイズ29cm。
[編集] 略歴
- 小さな体で大きな選手をすり抜ける抜群のスピード、類い稀なパスセンス、視野の広さとジャンプシュートがプレイの特徴。日本人で初めて世界ジュニア選抜に選ばれるなど、日本人では抜きん出た実力の持ち主。
- 小学校2年生から、戸塚区の市立矢部小学校ミニバスケットボールチームでバスケットボールを始める。市立大道中学校では全国3位の成績を修めた。
- 名門・能代工業高校で入学後即スタメンとなり、3年連続で高校総体、国体、全国高校選抜の3大タイトルを制し、史上初の「9冠」を達成。公式戦で敗れたのは、1年生の時の東北大会で仙台高校に敗れたわずか1回のみである。
- ちなみに漫画SLAM DUNKでは能代工業高校がモデルとされる高校が登場し、本人の世代も一緒であった。
- 雑誌での対談にて、漫画スラムダンクの作者である井上雄彦と対談した際には、井上雄彦から「漫画(スラムダンク)を超えている」と評された。
- 高校生史上2人目の全日本候補選手に選ばれ、高校3年生時のウィンターカップでは東京体育館に1万人の観客を動員した。また、この9冠目の試合が同校で50回目の全国大会優勝でもあった。
- 大学はNCAA2部のブリガムヤング大学ハワイ校に留学。しかし2年間は単位取得や怪我のためにプレイできなかった。初めて選手登録された2001年には、「日本のジョーダン」と紹介され、全試合に先発出場。MVPに選ばれたゲームもあったが、再び故障し、大学を3年半で中退。2002年5月に帰国し、スーパーリーグトヨタ自動車アルバルクに入団。デビュー戦では3000人以上の観客を動員した。レギュラーシーズン21試合・プレーオフ4試合すべてに出場し、通算113得点・63アシストを記録。チームの準優勝に大きく貢献し、新人王を受賞、オールスターにもファン投票1位で選出された。
- 2003年にNBAのデンバー・ナゲッツと契約したが、開幕ロスターに残れず、解雇。その後、ABA(アメリカ・独立プロリーグ)のロングビーチ・ジャム・アルビレックスと契約し、シーズンチーム優勝に貢献。
- 2004年には、NBAフェニックス・サンズと契約成立。現地11月1日、2004〜2005年シーズンの開幕選手の一人として登録され、日本人初のNBAプレーヤーとなった。(日系人としては、それ以前にワッツミサカこと三阪亙という日系アメリカ人選手がいた)
- 同年12月18日に解雇を通告された。その後再びジャムと契約してNBA復帰を目指した。
- 2005年9月にNBAロサンゼルス・クリッパーズと契約に至ったが、同年10月31日に経験不足を理由に解雇された。その後同年11月3日にNBA傘下のNBAデベロップメント・リーグ(NBADL)にドラフト指名され、アルバカーキ・サンダーバーズに入団した。チームの主要選手として活躍したが、シーズン後半に怪我で戦線離脱。
- 2006年11月にNBAデベロップメントリーグのベーカーズフィールド・ジャムに3巡目11位指名を受けて入団した。ジャムの前身はABAのロングビーチ・ジャムであるため、2年ぶりの古巣復帰ともいえる。
- 2007年11月にジャムのロースターから外れ、アナハイム・アーセナルへ移籍。
- 2008年8月に能代工時代の指導者加藤三彦が率いるJBLのリンク栃木ブレックスに入団し、国内復帰を果たす。リンク栃木は08-09シーズンよりJBL参加のチーム。
- 2009年5月、NBAダラス・マーベリックスから招待されたミニキャンプ(6月)に参加して再びNBAに挑戦する意向を表明した。3年ぶりに日本代表候補に選ばれたが、NBA挑戦のため辞退した。
[編集] 経歴
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク