犬鳴村
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| 犬鳴村 | |
|---|---|
| 廃止日 | 1889年4月1日 |
| 廃止理由 | 編入合併 吉川村、犬鳴村、他2村 → 吉川村 |
| 現在の自治体 | 宮若市 |
| 廃止時点のデータ | |
| 国 | |
| 地方 | 九州地方 |
| 都道府県 | 福岡県 |
| 郡 | 鞍手郡 |
| 犬鳴村役場 | |
| 所在地 | 福岡県鞍手郡犬鳴村 |
| 座標 | 北緯33度41分16秒 東経130度33分34秒 |
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犬鳴村(いぬなきむら)は、1889年まで福岡県鞍手郡に存在した村。
目次 |
[編集] 地理
- 福岡県北西部に位置し、鞍手郡の最西端に存在していた。犬鳴峠、登山道だが古賀市清滝に抜ける薦野峠,糟屋郡久山町猪野に抜ける猪野越えがある。
[編集] 沿革
- 元禄四年(1691年)、古文献によるとこの年に犬鳴谷村成立とある。
- 1889年4月1日 - 鞍手郡吉川村などと合併し、自治体としての犬鳴村は消滅。
- 1955年3月1日 - 昭和の大合併により、吉川村は若宮町に編入合併する。住所表記は「若宮町大字犬鳴」。
- 2006年2月11日 - 平成の大合併により、若宮町と宮田町が対等合併し、宮若市となる。
- 現在は宮若市の一部となっており、住所表記は「宮若市犬鳴」。1994年の犬鳴ダムの完成により、旧集落の大部分が水没したが、沈まなかった地域では現在も居住者がいる。
[編集] 産業
- 踏鞴製鉄や林業などが主産業。製鉄は幕末の頃の福岡藩営事業であり、明治維新直前の元冶頃、廃止。原材料の砂鉄は福間、津屋崎などの海岸から採取し馬で犬鳴まで運搬されていたと言う。職工は石見国から招き作業に従事させ、福岡藩直臣団である犬鳴住民とは接触を禁じていた。職工の墓は旅人墓と呼ばれ藩政時代は犬鳴住民とは一線を引かれていたためか、祟りがあると言われ住民は近寄る事をしなかった。墓は西山登山口の山裾に現在でもある。金山(かなやま)、多々良と言う当時を偲ばせる地名も残っていた。
- 藩政時代は犬鳴住民の副業として木炭と和紙製造が盛んで、和紙の方は現在の朝倉地方で生産されていた上座紙と共に鞍手紙と称され、幕府献上品となり福岡藩の名産物となった。なお、犬鳴には幕府から福岡藩へ下賜された朝鮮ニンジンの種を播き栽培したと言う畑跡もある。江戸時代中期、宝暦の頃、ニンジン種が下賜された時、栽培地の検討が行われ、藩医、白水幽水の犬鳴谷村が適地と言う意見で決定した。小字名で人参谷の地名が遺っているし、別の所には畑跡も残存する。昭和40年代頃までは農林業に依存していたが、その後、農林業の衰退と共に福岡都市圏、宗像地区などの会社、官公庁勤務に従事する人が過半数を占めるようになった。
[編集] 村名の由来
- 昔、ある猟師が犬を連れて狩りに来ていた。その日はやけに犬が吠えるので、苛立った猟師は犬を射殺してしまう。その直後、猟師は黒竜らしき生き物に襲われた。そこで、猟師は犬が危険を教えてくれたことに気付き、犬を丁寧に供養した、というのが名前の由来。犬鳴ダムなども同様の由来である。この由来については、大阪の犬鳴山に伝わる伝説と酷似しているので、それを真似たものと思われる。
- 江戸時代の地誌などには犬鳴谷村と表記され、犬鳴村とはされていない。古文献によると犬鳴は元禄四年(西暦1691年)成立の村落である。福岡藩庁は庄屋兼足軽組頭職に現在の糟屋郡新宮町湊にある磯崎神社神職の篠崎家を任命、犬鳴へ派遣し、副として渡辺家が就任した。明治になり藩が消滅した時、篠崎、渡辺家は福岡県貫属士族となり他の犬鳴足軽は卒族として認められたが、明治五年の卒族廃止の時、平民に格下げになったと言うことである。糟屋郡久山町にある伊野大神宮には江戸時代中期、元禄五年九月に犬鳴足軽団から寄進された犬鳴山中と刻まれた御手洗石が遺っている。幕末、福岡藩中老職加藤司書は藩の許可を得て犬鳴に藩主別館を築き動乱に備え、犬鳴住民を六石二人扶持の郷士級下位足軽から上位の足軽に昇格させ、別館などを守備するため犬鳴入口である脇田構口、犬鳴峠、猪野越え、薦野峠に番所を設置、犬鳴足軽を配置し警戒にあたらせた。また藩主別館近くに楠木正成候を祀る神社を創建し御神体は正宗作の太刀だったと言う事である。怪奇談として藩政時代の頃、朝鮮ニンジン畑の監督と見廻りに向かう犬鳴足軽で藩庁から任命されたニンジン畑見廻役が山道で大蛇と遭遇し、腰を抜かし動けなくなったうえに、大口を開けた大蛇に飲み込まれそうになり、差していた刀で難を逃れ、山道を這いつくばって逃げ帰り、恐怖のあまり寝込んでしまい数日後には亡くなった。寝込んでいた足軽によると大蛇の口の中は、どんな理由からか白髪だらけだったと言う話。
- 村名の別の由来
- その昔、脇田の山中へ二匹の犬を連れ猟に来ていて大蛇と遭遇し飲み込まれそうになっている猟師である主人を救おうとして、犬たちは急いで村里に引き返し村民を連れてきたけど、すでに猟師は飲まれていた。二匹の犬は村民と共に大蛇を退治し村民は腹から猟師を救出したけど猟師はすでに息絶えていて、気落ちし疲れ果て倒れ、かわいがってくれた猟師を思い、一声、天に向かって鳴き叫び息を引き取った二匹の犬を、脇田の村人が不憫に思い猟師ともども埋葬、供養し石塔を建てた事から、この山を犬鳴と言うのが地名の由来。この石塔と言い伝えられる物は現在も犬鳴山中にあるが、存在地は公開しない。また犬鳴村役場の存在も聞いてはいない。犬鳴の各戸には御貸具足と言われる福岡藩庁から貸与された足軽具足、藩侯紋入り陣笠、鉄砲、刀、羽織、袴などが残っていたと言う。犬鳴の小字名で勘場と言う所(犬鳴ダム奥の親水公園一帯)は犬鳴足軽に給与を支払ったり犬鳴にある藩有林の運営事務を行うための勘定場があった所と言い伝えられる。地名で焔硝蔵と呼ばれていた所もあったが、この地は福岡藩庁が犬鳴足軽団に貸与していた鉄砲に使用する焔硝(火薬)を格納、管理していた蔵の跡地だと思われる。
[編集] その他
(補足)犬鳴村役場などは存在していなかった。藩政時代は庄屋兼足軽組頭職の篠崎家が中心的存在だったし、明治の行政区画再編においての町村合併時には付近の村と共に吉川村となり、吉川村役場は脇田に存在していた。