東京ディープスロート夫人

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東京ディープスロート夫人
監督 向井寛
脚本 鴨井達比古小平裕
出演者 田口久美
音楽 津島利章
撮影 花沢鎮男
編集 田中修
製作会社 東映東京
配給 東映
公開 日本の旗 1975年12月6日
上映時間 77分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
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東京ディープスロート夫人 』(とうきょうディープスロートふじん)は、1975年12月6日公開の日本映画。東映東京撮影所製作・東映配給の東映ポルノR18+[1]

エマニエル夫人』の便乗映画日活ロマンポルノの『東京エマニエル夫人』に対抗して東映が製作した和製『ディープスロート[2][3][4][5]

トップモデルの佐久間久美(田口久美)が、大財閥御曹司・佐久間英夫(南城竜也)に嫁ぐが、義父の佐久間武彦(室田日出男)の魔手によってクリトリスの奥深くに移植させられる。そこからヒロイン久美の華麗な男性遍歴と復讐が始まる[3][6]

キャスト[編集]

スタッフ[編集]

製作[編集]

1975年の正月映画『エマニエル夫人』の審査映倫維持委員長として関わった岡田茂東映社長は[7][8]、同作のメガヒットに驚き、1974年2月16日に公開した『聖獣学園』の「想像できない不入り」で撤退していた東映ポルノの本格再開を表明した[8][9][10][11][12]。再開にあたり、「日活ロマンポルノより見ごたえのあるエロ作品を作れ。向こうが五回なら、こっちは七回ベッドシーンを入れろ。ともかくエロだ、エロだ、エロだ!」などと、極秘指令を現場に出した[13]

『エマニエル夫人』は多くの便乗商売を生んだが[14]日本の映画会社も数々の便乗映画を製作[6][9][15]。「清く正しく美しく」をモットーとする東宝まで、ジャネット八田を"和製エマニエル"に仕立て『櫛の火』を作った[15][16]

また、日本のメジャー会社ポルノを製作していた東映と日活で、『東京エマニエル夫人』という同名タイトルで映画製作がバッティングし[6][17][18][19][20]、日活ロマンポルノが先に五月みどり主演で『東京エマニエル夫人』を製作しようとしたが[9][16][18][20][21][22]、五月は若い頃世話になった東映に義理立てし、この誘いを断った[18][20][22][21]。これを受け、東映は自社制作のテレビドラマプレイガールQ』41話(1975年7月14日放送)に五月をゲスト出演させ、五月のお色気で視聴率アップを狙って[23]、"東京エマニエル夫人"を演じさせた[19][23]。五月は映画・テレビで初めてラブシーンを演じ[22]、テレビの1時間枠で10人の男性を相手に濡れ場を演じ[23]、当時のテレビコードぎりぎりの線まで攻めた[22]。同回は番組始まって以来の最高視聴率19.2%を記録した[22]。これを見て岡田東映社長は[18]、五月みどりを主役に『五月みどりのかまきり夫人の告白』を製作した(1975年11月1日公開)[18][20][24][25][26]。岡田はこの年夏の映画誌のインタビューで、「わがプレイボーイの告白というように、梅宮辰夫に自身の告白やらすというように、どうやって彼が女を口説いたか、とか実録調でやらんとね。今後、銀座マダムの告白とか、歌手の私生活遍歴ものなど、アッという仕立て方で作るかも知れんな」などと述べていた[27]

これと並行して外国人女優の招聘に実績を持つ東映は、1975年夏の段階では『エマニエル夫人』そのものの便乗映画として同作のヒロインシルビア・クリステルを日本に招いて『エマニエル夫人 京都の休日』の製作を計画していた[9][28]。しかし『エマニエル夫人』を配給した日本ヘラルドが「営業妨害だ」と怒って頓挫した[9]。この失敗により田口久美の横取りに方向転換[3][21]。日活が田口をギャラ70万円で起用して製作した[29]『東京エマニエル夫人』は1975年7月1日に公開され、日活ロマンポルノ始まって以来の配収3億円の大ヒットを記録していた[3][30][31]。日活はすぐさま続編『東京エマニエル夫人 個人教授』の製作を決定したが(1975年11月1日公開)[32][33]、日活が田口を『東京エマニエル夫人』の主役に抜擢した切っ掛けは、田口は日活より先に東映の『ウルフガイ 燃えろ狼男』で映画デビューしており、その撮影時に撮られたグラビアが「エマニエル+モンロー=田口久美」というタイトルで男性週刊誌に掲載されたのを見たからだった[3][21]吉田達東映プロデューサーは、岡田社長から「田口ならOK」と承認をもらい[3]、1975年10月1日に、吉田は田口と上条英男マネージャーに会って出演交渉を行い、東映での田口の主演映画の出演が内定した[3]。それを知った日活は「田口はウチが育てた女優」とカンカンに怒ったが[29]、東映は「田口を見出したのはウチが先」と突っぱねた[3]。怒りの収まらない日活は、田口サイドに抗議したら[29]、田口のマネージャー・上条が田口の代役として元ゴールデン・ハーフ高村ルナを差し出した[29]。意外な掘り出し物に日活も了承し[29]、一応田口はで出演、高村主演で『修道女ルナの告白』が製作された(1976年1月8日公開)[29]。東映は田口の強奪に成功し、田口の主演映画が東映にスライドした[29]。岡田社長はタイトルを『東京ディープスロート夫人』に決めた[34]

キャスティング&監督[編集]

監督は未定で製作が進んでいたが[3]東映洋画が配給したアメリカハードコア映画ディープ・スロート』がこの年夏に8週間のロングランを記録する大ヒットで[6][35]、これを日本版に編集した功績から[36]、"ピンクの巨匠"向井寛を監督に抜擢した[2][6][35][37][38]プログラムピクチャー全盛期の当時に於いては、8週間のロングランは金字塔だった[35]。向井は本作まで150~160本ピンク映画を撮っていたが[38][39]大手映画会社に乗り込んでの撮影は初めて[38][38]。1973年の『団地妻㊙研究会』の撮影では、大辻伺郎と新樹みどりに本番をさせて[38]、新樹が「口ほどにもなかった」などと週刊誌で喋りまくり[38]、大辻が自殺した[38]。ピンク映画の監督の中でもタチが悪いと言われ[40]、業界では"本番"監督と噂されていた[38]。ピンク映画とは段違いの製作費に向井は「大手映画会社を揺さぶるようなのを撮って見せる」[38]「いかに勃起するかがぼくの映画の基本姿勢。スゴイのを撮って見せますよ。キャストは最高だ」などと豪語した[39]

脚本[編集]

本家『ディープ・スロート』のリンダ・ラヴレース演じた主人公が、先天的クリトリスがあるという設定に対して[36]、本作の主人公は男によって無理矢理それを喉に移植手術させられる設定[4]。当然日本ではオーラルプレイを見せることは出来ないため、主人公のソープランド流浪や、男への復讐といったB級映画の王道に雪崩れ込む展開[4]

撮影[編集]

1975年10月23日クランクイン[35]、 同年11月15日クランクアップ[35]

ディープ・スロートをテーマにするため、フェラチオ中心の撮影となった[41]、最初はバナナで撮影したが、バナナがすぐに潰れるため、向井監督が大人のおもちゃ屋で、直径4センチのバイブレータを買ってきて田口に咥えさせた[41]。喉の奥に女性の第二の性感帯陰核があるという女性の話のため、向井が「もっと奥まで咥えろ」「それをオイシソーにして飲め」と過剰演出があり、田口は「喉に性感があったら、ゴハン食べても感じるでしょ!」と反論した[41]

広田健一役の千葉哲也は、新宿ホストクラブで5年間売り上げ最高記録を保持する現役No.1ホスト[3][38][37][39][42]。No.1ホストとNo.1ポルノ女優を対決させたら面白いというアイデアからキャスティングされ[39][40]、東映はこれを映画の売りにし[40]、"世紀の対決"と煽った[40]

1975年11月17日に東映東京撮影所第17ステージで行われた田口と千葉のクライマックスファックシーンの撮影は、マスメディアをシャットアウトし、二人とも全裸で前貼りも付けず、粗末なベッドにシーツ一枚だけで、朝の9時から2時間半ベッドで格闘した[37][40]。向井監督が「二人で好きなようにやってよ。いいとこだけいただくよ。オレもこの映画の撮影中はセックスを感じているんだ。二人のそれを見て燃えるためにね」などと話し、ピンク映画仕込みの独特な演出法で、二人に自由な実録ファックをやらせた[37][40]。すぐにカメラを回さず、ムード音楽を流し、スタッフ約20人も息を殺し、妙なムードで、カメラの回る音だけが聞こえる異様な撮影[40]前戯ペッティングを続けさせ、千葉は全身汗びっしょり[40]。千葉には耳もとで囁けと指示し[40]、千葉は「久美ちゃん…久美ちゃん…」と囁き続け、田口は「もう、そんなこと言わないで…」と悲しそうに言った[40]。田口は口を半開きにし、足の指を痙攣させ、千葉の攻撃から腕を突っ張って逃れようとした[40]。開始から1時間40分を過ぎて、二人がノッてきたところで静かに「カメラ、スタンバイ、ハイ、スタート」とカメラを回した[40]。ベッドの二人はカメラが回っていることに気付かず、カメラを回したのは10分足らずの演技を越えた実録演技だった[40]。撮影終了後、田口は『東京エマニエル夫人』では見せなかった涙を流した[37][40]。千葉は向井に「本番をやれ」と指示されたが[40]、田口は放心状態で[40]、「ノーコメント」と1時間口をきかず、その後報道陣の質問にようやく答え、「ほんとにグッタリです。眠いわ。本番は絶対しません。でも後半はもうろうとしていて、カメラの回っていることも分かりませんでした。こんなことは初めてよ」と話した[40]

同時上映[編集]

強盗放火殺人囚

キャッチコピー[編集]

併映『強盗放火殺人囚』とスポーツ新聞等に掲載されたキャッチコピーは、「脱獄ヒロキ・官能久美の暴力/SEX突撃!」で、本作は「ある日突然!ノドで感じることを知ってから私の情欲は果てしなく狂い始めたポルノ女優No.1田口久美…その華美な官能の輝きが男の皍奮をかきたてる!」だった[43]

影響[編集]

田口は人気が上がると横柄になったとされ[29]、日活でも東映でも嫌われたとされ[29]、東映での主演映画はこの後は作られることはなかった。

脚注[編集]

出典[編集]

  1. ^ 東京ディープスロート夫人”. 日本映画製作者連盟. 2022年6月26日閲覧。
  2. ^ a b 二階堂卓也『ピンク映画史』彩流社、2014年、311-315頁。ISBN 978-4-7791-2029-9 
  3. ^ a b c d e f g h i j “私『東京ディープスロート夫人』に変身するの 田口久美 次は東映で男性遍歴 相手は新宿No.1ホスト 本物プレーボーイ登場”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 13. (1975年10月2日) 
  4. ^ a b c 高護(ウルトラ・ヴァイブ)『日本映画名作完全ガイド 昭和のアウトロー編ベスト400 1960‐1980シンコーミュージック、2008年、169頁。ISBN 978-4-401-75122-8 
  5. ^ みうらじゅん. “みうらじゅんの「グレイト余生映画ショーin日活ロマンポルノ」 2012年1月放送、第5回のテーマは「夫人」”. キネマ旬報WEB. キネマ旬報社. 2021年1月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月17日閲覧。
  6. ^ a b c d e 杉作J太郎植地毅『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』徳間書店、1999年、252-255頁。ISBN 4-19-861016-9 
  7. ^ 「映倫50年の歩み」編纂委員会編『映倫50年の歩み』映画倫理管理委員会、2006年、138-140頁。 
  8. ^ a b “エコノミーいんたびゅー 東映社長 岡田茂氏 『男の闘映貫かせてもらいます』 群抜く企画で不景気と勝負”. デイリースポーツ (神戸新聞社): p. 5. (1975年1月31日) 
  9. ^ a b c d e 「〈ひと・目・ひと・耳・ひと・口・ひと〉どこまで続くソックリ・ショー(ぬかるみみぞ) 邦画四社の"柳の下"合戦-」『週刊朝日』1975年8月8日号、朝日新聞社、36頁。 「〈ひと・目・ひと・耳・ひと・口・ひと〉 舶来のピンク・ドジョウまで登場 続報・邦画四社の"柳の下"合戦」『週刊朝日』1975年8月8日号、朝日新聞社、36頁。 
  10. ^ “ムード満点 和製エマニエル ブームに便乗 日活で『東京エマニエル夫人』制作”. デイリースポーツ (神戸新聞社): p. 6. (1975年5月29日) 
  11. ^ 鈴木義昭『ピンク映画水滸伝—その二十年史青心社、1983年、234頁。 「またぞろポルノ再開の東映」『週刊読売』1975年2月1日号、読売新聞社、33頁。 「〈LOOK〉 東映が追及する新しい金脈とは」『週刊現代』1975年1月2日号、講談社、35頁。 「東映不良性感度映画の世界 東映不良性感度HISTORY 1974」『映画秘宝』2011年8月号、洋泉社、62頁。 
  12. ^ 藤木TDC「藤木TDCのヴィンテージ女優秘画帖 第38回 『ラスト・スケバン・スタンディング』 その7」『映画秘宝』2009年9月号、洋泉社、99頁。 藤木TDC「藤木TDCのヴィンテージ女優秘画帖 第39回 『ラスト・スケバン・スタンディング』 その8」『映画秘宝』2009年8月号、洋泉社、99頁。 
  13. ^ 佐伯俊道「終生娯楽派の戯言 第三十七回 軟派から一転、硬派~『処女』から『戦争』へ」『シナリオ』2015年7月号、日本シナリオ作家協会、50頁。 
  14. ^ オッパイ丸出しで足を組み… 『エマニエル夫人』数多のスピンオフ生んだ「本家」は元祖に非ず
  15. ^ a b “演技じゃなくて本能よ 『東京エマニエル夫人』ゴンドラSEX”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 11. (1975年6月7日) 
  16. ^ a b 「Bunshun Who's Who 芸能 照れずにやります『東京エマニエル夫人』これが日活のド根性」『週刊文春』1975年6月11日号、文藝春秋、20頁。 
  17. ^ “日活江守取締役の強気発言 年内綿密な番組を一挙発表”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 4. (1975年7月26日) (有)アルチンボルド代表取締役社長 成田尚哉「アルバムは語る ロマンポルノ時代の日活企画部の面々」『AVジャーナル』2005年3月号、文化通信社、95頁。 加東康一「再婚、五月みどり35歳 そのカマキリ的熟れ方」『週刊読売』1975年11月1日号、読売新聞社、134-135頁。 
  18. ^ a b c d e 藤木TDC「日本最高の熟女観音 それが五月みどり その魔性のフェロモン性を語る」『実話裏歴史スペシャルvol.28』2015年7月1日発行、ミリオン出版、59-63頁。 
  19. ^ a b 「何匹の男を食うか"五月かまきり"」『週刊読売』1975年10月25日号、読売新聞社、33頁。 
  20. ^ a b c d 伊地智啓『映画の荒野を走れ プロデューサー始末半世紀』インスクリプト、2015年、97-98頁。ISBN 978-4-900997-56-1 
  21. ^ a b c d 「ニュースメーカーズ ファック場面はキツ―クやるわ "和製エマニエル夫人"の脱ぎっぷり」『週刊ポスト』1975年6月13日号、小学館、45頁。 
  22. ^ a b c d e “二人のエマニエル夫人感度アップ 五月みどり秋に再び濃厚続編 前作?物足りないノ 東京12ch愛の遍歴ストーリーに/本家シルビア香港ロケ スタ千が単独会見 きょう放送”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 13. (1975年8月7日) 
  23. ^ a b c “芸能ファイル 和製エマニエル夫人”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 13. (1975年6月18日) 
  24. ^ 「映画 邦画 西城秀樹の理由なき反抗」『週刊平凡』1979年1月8日号、平凡出版、150頁。 
  25. ^ 「死ぬまで死ぬほどSEX 夏目雅子、松坂慶子、名取裕子、十朱幸代、秋吉久美子、樋口可南子、黒木瞳、関根恵子ほか 『女優だからこそ脱いだ』 銀幕を彩った大女優31人『覚悟のセックスシーン』」『週刊ポスト』2017年7月7日号、小学館、160–161頁。 
  26. ^ 「東映、半期45億円を目標に大進撃 岡田社長、陣頭指揮の企画作品発表」『映画時報』1975年8月号、映画時報社、19頁。 「岡田社長の陣頭指揮で秋に東映の大攻勢」『月刊ビデオ&ミュージック』1975年9月号、東京映音、44頁。 
  27. ^ 文化通信社 編『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年、60頁。ISBN 9784636885194 
  28. ^ 「〈LOOK〉 あのシルビアが東映ポルノに出る」『週刊現代』1975年8月14日号、講談社、31頁。 「映画界東西南北談議 企画製作にもっと自信をもて 下半期の見通しも苦難の道か?」『映画時報』1975年8月号、映画時報社、34–35頁。 「東映、合作映画も含むラインアップ」『月刊ビデオ&ミュージック』1975年8月号、東京映音、43頁。 
  29. ^ a b c d e f g h i 「〈ワイドコラム・ルック・るっく 人と事件〉 東映、日活両方から敬遠された田口久美」『週刊現代』1975年11月20日号、講談社、37頁。 
  30. ^ 黒井和男「1975年度日本映画外国映画業界総決算 経営/製作/配給/興行の総て」『キネマ旬報』1976年2月下旬号、キネマ旬報社、114、116頁。 
  31. ^ “らん熟でコンニチハ さわやか"一時帰休" 田口久美 本場に負けない エマニエル続編に意欲”. デイリースポーツ (神戸新聞社): p. 5. (1975年9月2日) 
  32. ^ 「〈ワイドコラム・ルック・るっく 人と事件〉 日本にはいなかった"本番女優"」『週刊現代』1976年2月5日号、講談社、32頁。 
  33. ^ 「記録製作 配給界(邦画) 日活」『映画年鑑 1976年版(映画産業団体連合会協賛)』1975年12月1日発行、時事映画通信社、100頁。 
  34. ^ 藤木TDC『アウトロー女優の挽歌 スケバン映画とその時代』洋泉社映画秘宝〉、2018年、136頁。ISBN 9784800315748 高崎俊夫「〔映画美女と色男〕 インタビュー・荒木一郎 『わが映画人生』」『文學界』2016年11月号、文藝春秋、165頁。 鹿島茂『甦る昭和脇役名画館』講談社、2005年、217頁。ISBN 4062131374 中島貞夫『遊撃の美学 映画監督中島貞夫 (上)』ワイズ出版〈ワイズ出版映画文庫(7)〉、2014年、304頁。ISBN 9784898302835 
  35. ^ a b c d e 「顔と言葉 向井 寛 東映で活劇大写真を撮る!」『キネマ旬報』1975年11月下旬号、キネマ旬報、55頁。 
  36. ^ a b 桑原稲敏『切られた猥褻 ー映倫カット史読売新聞社、1993年、226-228頁。ISBN 4643930829 
  37. ^ a b c d e “ズイ喜の涙??? 田口久美 東京ディープスロート夫人 延々二時間半の実録ファック”. デイリースポーツ (神戸新聞社): p. 6. (1975年11月18日) 
  38. ^ a b c d e f g h i j “なになにッ! 異色俳優、製作費バッチリ ゲリラ監督の前途はピンク”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 11. (1975年10月23日) 
  39. ^ a b c d “"ポルノ芸術"の秋たけなわ 田口久美No.1ホストにあわや失神 『東京ディープスロート夫人』”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 13. (1975年10月21日) 
  40. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q “あわや?! 田口久美 東映『東京ディープスロート夫人』 本気で攻めた千葉哲也 10分のシーンに2時間半”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 11. (1975年11月18日) 
  41. ^ a b c 「〈話題の迫力シリーズ〉 濃密度満点! 龍虎突っ張り対談 田口久美 『十人くらいの男性と…でも別れたわ、夢中のときが過ぎると欠点がネ』 北欧の匂いのする人気最高の大型ポルノ女優・二十三歳の実感的セックス論」『週刊現代』1976年2月19日号、講談社、134–138頁。 
  42. ^ ホスホス独占企画 No.47391 | ホストクラブ紹介
  43. ^ “広告”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 15. (1975年11月29日) 

外部リンク[編集]