ヘレナ・P・ブラヴァツキー

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ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー
フルネーム ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー
別名 H・P・ブラヴァツキー
ヘレナ・P・ブラヴァツキー
生誕 1831年8月12日
ロシアの旗 イェカテリノスラフ
ウクライナの旗 ドニプロペトロウシク
死没 1891年5月8日(59歳没)
イギリスの旗 ロンドン
時代 近代
地域 神秘思想
学派 神智学
研究分野 神秘思想、オカルト
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ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー (Helena Petrovna Blavatsky)、1831年8月12日1891年5月8日) は、神智学を創唱した人物で、神智学協会の設立者。

著書の訳書はH・P・ブラヴァツキーヘレナ・P・ブラヴァツキーとして出ている。通称ブラヴァツキー夫人。ブラバッキーと誤記されることもある。ドイツ/ロシア系で、ロシア語でのフルネームはエレーナ・ペトローヴナ・ブラヴァーツカヤ (Елена Петровна Блаватская, Eelena Petrovna Blavatskaya) である(ブラヴァーツカヤはブラヴァーツキーの女性形)。旧姓フォン・ハーン (von Hahn)。

神智学キリスト教仏教ヒンドゥー教古代エジプトの宗教をはじめ、さまざまな宗教神秘主義思想を折衷したものである。この神智学は、多くの芸術家たちにインスピレーションを与えたことが知られている。例えば、ロシアの作曲家スクリャービンも傾倒したし、イェイツカンディンスキーにも影響を与えた。

ロシア首相を務めたセルゲイ・ヴィッテ伯爵は従弟である。2人の共通の祖母が、名門ドルゴルーコフ家の公女にして博物学者エレナ・パヴロヴナ・ドルゴルーコヴァである。

目次

生涯 [編集]

幼少期 [編集]

1831年ウクライナ・エカチェリノスラフ(現ドニプロペトロウシク)にて、ドイツ系貴族で騎兵砲撃隊長のペーター・フォン・ハーンを父として、ロシアの名門出身で女権主義者で小説家のヘレナ・アンドレヤヴナ・フォン・ハーンを母として誕生。

幼いころから精霊賢者の存在を信じていたという。性格的には激しい気性の持ち主であったという。1844年には父親とともにパリロンドンに行き音楽教育を受け、ピアノ演奏などを習得した。

結婚後 [編集]

1848年、アルメニアのエリヴァン地方副知事の職にあり、20歳以上も年上であったニキフォル・ブラヴァツキー将軍と結婚した。結婚は長続きせず、数ヶ月で家を出て何度も住まいを変えた。この夫婦のケースでは法律上離婚が困難であり、エレナもブラヴァツキー夫人という名で呼ばれることを選んだ。

以降、世界各国を放浪し様々な職業についた。エジプトに行き心霊協会を組織してみたり、パリではイギリス出身の高名な霊媒ダニエル・ダングラス・ホームの助手となり自らも霊媒の素養を身につけた。またフランス系のフリーメイソンのメンバーとも交流したという。またこの時期にインドにも行ったという(のちに自身の著書で「1856年から7年間チベットに滞在し、導師たちの教えを受けた」と記述しているが、状況や彼女の他の年譜とも矛盾し、これについては信じがたい)。

在米期 [編集]

1875年

そして1873年にはニューヨークにたどり着いた。

1874年、ヴァーモント州チッテンデンで行われていたエディ兄弟の降霊会において、ヘンリー・スティール・オルコット大佐と出会った。1875年、オルコットはエジプトのルクソール同胞団に所属する“トュイティト・ベイ”なる人物から手紙を受け取るようになった。ここで登場するトュイティト・ベイは後に神智学の「マハトマ」という概念に変化してゆくことになる。これは意味としてはおおむね“古代から継承されている霊知を少数の賢者にのみ伝える未知の上位者”を意味しており、こうした発想というのは元をたどるとフリーメーソンの厳格戒律派やイギリス薔薇十字協会などに見られたものである。 

1875年9月7日、ブラヴァツキー夫人の自宅にて、ジョージ・フェルトを講演者とし「エジプト人の用いた比率の失われた基準」と題した講演が行われた。

ブラヴァツキー夫人とオルコット大佐

1875年11月17日神智学協会を正式に創設。初代会長には、ヘンリー・スティール・オルコット大佐が就任し、協会の運営を取り仕切ることになった。副会長はジョージ・フェルト、図書室司書はチャールズ・サザラン(フリーメイソンのメンバーでイギリス薔薇十字協会会員)、評議員に霊媒のエマ・ブリテン、”交信秘書”としてブラヴァツキー夫人、顧問弁護士としてW.Qジャッジ(この人物は後にアメリカ神智学協会会長になる)、という構成であった。設立当初は相当活気があったという。 1877年に Isis unveiled 『ベールを取られたイシス』(ベールをとったイシス )を出版。ここで説かれた内容は、イシス密儀のような古代の霊知を復興することで真の霊性を養うことや、ドグマ化したキリスト教と唯物論化したscienceの害を排することや、心霊主義は止めるべきだ、ということである。ブラヴァツキー夫人は、心霊主義とは異なる霊魂観を持っていて、人間は死とともにそのアストラル体のほうは分離し しばらくの間アストラル界にとどまるとし、真我のほうはブッディ=アートマと結びついて休息的待機状態に入る、とした。そして心霊主義において霊媒が交信しているとしているのは真我のほうではなく ”アストラル体の殻”にすぎない、と語った。

神智学協会のメンバーでキリスト教の教えを重視する人や心霊主義を重視する人は結局、協会を離れてゆき、活動は停滞することになった。

在印期 [編集]

インドへ移動し再起をはかることにし、1878年12月19日に蒸気船で一行はニューヨークからロンドンへ移動。1879年1月3日到着。イギリスにて短い滞在期間ながらイギリス神智学協会の会員らと交流した後、リヴァプールから出港、インドのボンベイへと向かい、2月16日に到着。翌17日には歓迎会が盛大に開かれた。

インドでは歓迎された。19世紀はヨーロッパ列強がアジア・アフリカを植民地化し蹂躙してゆく時代であった。1877年にはイギリスのヴィクトリア女王が ”インド皇帝 ”に就任した。イギリスは、他の列強諸国が暴力主義的になりすぎ失敗したことを他山の石として、土着の文化を尊重しつつ内面からも支配するという巧妙な方針を採用した。とはいうもののイギリス文化やキリスト教を上位に位置づけようとしていた面は多々あり、インドの人々は違和感を覚えていた。そこに神智学という、キリスト教を拒否し、インド思想を教義にとりこんだ神智学協会が登場したのでインド人たちはそれを歓迎したのである。特にアーリヤ・サマージの人々からは歓迎された。

インドの地において神智学にはより多くのインド思想が導入されてゆくことになった。インド人の神智学協会会員のダモダールやスッバ・ロウなどが協力し、ヒンドゥー教仏教から様々な教えがとりこまれた。ただし、理解や導入に限界はあり、西洋の神秘学との折衷的な手法が採用された。理解できたり、利用できる思想は取り込むものの、それができない部分はカバラー新プラトン主義などの考え方で補完する、ということをしたのである。

1884年にSPRリチャード・ホジソンがインドに赴いて執拗な調査を行い、神秘的な現象がトリックであると結論づけたホジソン・レポート英語版が1885年に公表された。これによりブラヴァツキー夫人が詐欺師であるというレッテルが貼られることになった。後の1986年に英心霊現象協会は、ホジソン報告は同社団の正式な手続きによるものではなく、ブラヴァツキー夫人は偉大な霊能家であったという文書を発出している(個人文書扱いにしたということ)[1]

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年譜 [編集]

  • 1831年ウクライナ・エカチェリノスラフ(現ドニプロペトロウシク)にて、ペーター・フォン・ハーンを父として、ヘレナ・アンドレヤヴナを母として誕生する。
  • 1848年、20歳以上も年上のニキフォル・ブラヴァツキーと結婚。だが、3ヶ月もたたずに出奔。
  • 以降、世界各国を放浪、様々な職業につき、イギリス出身の高名な霊媒ダニエル・ダングラス・ホームの助手となり霊媒の技術を身につける。
  • 1873年、アメリカ国民となり、神秘主義作家、神秘思想家として活動。
  • 1875年11月17日ニューヨークに「神智学協会」を創設し、神智学協会の初代会長には、ヘンリー・スティール・オルコットが就任した。
  • 1877年Isis unveiled『ヴェールを脱いだイシス神』執筆。
  • 1879年、アーリヤ・サマージの運動に共鳴し、神智学協会の本部はインドのアディヤールに移転。神智学協会の機関紙として『ザ・セオソフィスト(神智学徒)』と『ルシファー』を刊行。クートフーミ導師(マハトマ)とモリヤ導師教えを受けたと主張しはじめる。大師(マスター)から物質化した手紙を受け取っているともしていたが、疑問に思う人も存在し、物議をかもしていた。
  • 1884年イギリスSPRリチャード・ホジソンにより神智学協会を解雇された女性の報復に基づいて、留守中に心霊現象の真偽を調べられる(1885年にホジソン・レポート英語版が公表される)。
  • 1884年イギリス、ロンドンに移動した。
  • 1888年『秘密教義(シークレット・ドクトリン)』を執筆。
  • 1889年『神智学の鍵』執筆。
  • 1889年『沈黙の声』執筆。

晩年には秘教部門を神智学協会の中につくり、神智学の教えの最重要部分を神智学協会の中枢の会員に伝授したと主張した。

  • 1891年5月8日死去。

著書 [編集]

執筆中のブラヴァツキー夫人

関連書 [編集]

脚註 [編集]

関連項目 [編集]

外部リンク [編集]