パヴィーア

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パヴィーア
Pavia
パヴィーアの風景
ストラーダ・ヌオヴァの商業地区(上段左)、ヴィスコンテーオ城(上段右)、大聖堂とヴィットリア広場(下段左)、ティチーノ河畔のボルゴ・バッソ地区(下段右上)、コペルト橋(下段右下)
パヴィーアの紋章
紋章
行政
イタリア国旗 イタリア
Flag of Lombardy.svg ロンバルディア
Blank.png パヴィーア
CAP(郵便番号) 27100
市外局番 0382
ISTATコード 018110
識別コード G388
分離集落 #行政区画参照
隣接コムーネ #隣接コムーネ参照
公式サイト リンク
人口
人口 68,352 [1](2012-01-01)
人口密度 1087.4 人/km2
文化
住民の呼称 pavesi
守護聖人 シーロ (Syrus of Pavia
祝祭日 12月9日
地理
座標 北緯45度11分0秒 東経9度9分0秒 / 北緯45.18333度 東経9.15000度 / 45.18333; 9.15000座標: 北緯45度11分0秒 東経9度9分0秒 / 北緯45.18333度 東経9.15000度 / 45.18333; 9.15000
標高 77 (59 - 92) [2] m
面積 62.86 [3] km2
パヴィーアの位置
パヴィーアの位置
パヴィーア県におけるコムーネの領域
パヴィーア県におけるコムーネの領域
Flag of Italy.svg ポータル イタリア
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パヴィーアイタリア語: Pavia ( 聞く))は、イタリア共和国ロンバルディア州にある都市であり、その周辺地域を含む人口約7万人の基礎自治体コムーネ)。パヴィーア県県都

パヴィーアは、ワイン、コメ、穀物などの農産品で知られる肥沃な県の県都である。工業地区は都市の郊外にある。古代以来の歴史を持ち、パヴィーア大学と関連した学問の風土を持つ、閑静な都市である。

名称[編集]

日本語文献では「パヴィーア」のほか、「パヴィア」などの表記もなされる。

地理[編集]

位置・広がり[編集]

パヴィーア県北東部に位置する。

隣接コムーネ[編集]

隣接するコムーネは以下の通り。

歴史[編集]

ローマ時代以前に遡ると、ティキヌム(Ticinum)と呼ばれていたパヴィーアは、ティキウム川(現在のティチーノ川)の岸につくられた、属州ガリア・キサルピナに属する町であった。ティキウムはローマ帝国時代に入ると、ムニキピウムとなり、重要な軍事的要所となった。

476年、パヴィーアで、オドアケルフラウィウス・オレステスを長い包囲戦の後退けた。敵オレステスを支援したパヴィーアを懲らしめるため、オドアケルは徹底して市を破壊した。しかし、オレステスはピアチェンツァへ逃げ、追ったオドアケルによって殺された。オドアケルはオレステスの子ロムルス・アウグストゥスを退位させた。これが西ローマ帝国の終焉とみなされている。

ラテン語での市の後世の名前、パピーア(Papia、おそらくローマ教皇と関係している)は、イタリア語名パヴィーアへ進化した。時に、ラテン語名と組み合わされ、市はティチヌム・パピーア(Ticinum Papia)と称した。

東ゴート王国時代、パヴィーアは強固なシタデル(要塞)にされ、東ローマの将軍ベリサリウスに対する戦争では最後の砦となった。

ロンゴバルド族征服後、パヴィーアはロンゴバルド王国の首都となった。王国が公支配時代(en)、パヴィーアはフリウリザバンが治めた。王国の行政中心地として機能し続けたが、デジデリウス王時代、パヴィーアは主要な防衛工事の地としての地位が低下し、カール大帝774年6月のパヴィーア包囲戦においてロンゴバルド王国の王座を獲得した。パヴィーアはイタリアに置ける王国の首都として残り、12世紀に帝国の宗主権が失せるまで戴冠式の地となっていた。

パヴィーアのドゥオモ

12世紀、パヴィーアはコムーネとして自治権を獲得した。教皇派と皇帝派の間の政治的対立から、中世イタリアは特色づけられ、パヴィーアは伝統的にギベリン(皇帝派)であった。パヴィーアの地位は、ミラノと敵対関係にある都市から支持された。イタリア中に帝国の影響を長く主張した神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世に対し、ミラノ率いるロンバルディア同盟は、皇帝への反抗の旗印となっていた。

その後数世紀、パヴィーアは重要で活気ある町であった。1329年、パヴィーア条約のもと、皇帝ルートヴィヒ4世はイタリア滞在中に、兄のバイエルン公ルドルフ1世の子孫に対してライン宮中伯の称号を与えた。

パヴィーアはミラノ支配に対して屈服しなかったが、とうとう1359年にミラノ領主であるヴィスコンティ家に町を明け渡した。ヴィスコンティ家のもとパヴィーアは、学問と芸術の中心となり、1361年からパヴィーア大学が設置された。大学の核は古い法学校にあり、多くの国の学生を惹きつけた。

1525年パヴィアの戦いは、市の運命の分岐点となった。この時から、教皇派と皇帝派の間のかつての分裂は、教皇と同盟関係にあるフランス派、スペイン王を兼ねるカール5世支持派との間で争われることになった。ヴァロワ家ハプスブルク家の間で争われたイタリア戦争で、パヴィーアは自然と皇帝派(スペイン派)についた。戦いでフランス派が負けてフランソワ1世が捕虜となった。これは1713年まで続いたスペイン支配の幕開けとなった。パヴィーアはナポレオン・ボナパルトに占領された1796年までオーストリアの支配を受けた。

1815年、ナポレオン没落後に再度オーストリア行政下に入り、1859年第二次イタリア独立戦争で解放され、1861年イタリア王国に統合された。

行政[編集]

行政区画[編集]

パヴィーアには以下の分離集落(フラツィオーネ)がある。

  • Albertario, Ca' della Terra, Cantone Tre Miglia, Cassinino, Cittadella, Fossarmato, Mirabello, Montebellino, Pantaleona, Prado, Villalunga

みどころ[編集]

チェルトーサ・ディ・パヴィーア
サン・ミケーレ・マッジョーレ教会
ヴィスコンテオ城
サンタ・マリア・デル・カルミネ教会

パヴィーアで最も有名なランドマークは、1396年創建のカルトジオ会派修道院、チェルトーザ・ディ・パヴィーア(Certosa)である。

パヴィア大聖堂(Duomo di Pavia)
1488年に工事が始まり、1898年にファサードとドームが最初の計画通りに完成した。中央ドームは8角形で、高さ97mm重さ2万トンほどある。このドームはイタリア国内で3番目に大きい(1位はサン・ピエトロ寺院、2位はサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)。ドゥオモの隣には塔がある(少なくとも1330年からあり、1583年にペッレグリーノ・ティバルディによって拡大された)。1989年3月17日の塔の倒壊で、同じ運命にあるピサの斜塔を救う近年の10年に及ぶ努力を始めるに至る、最終的なきっかけとなった。
サン・ミケーレ・マッジョーレ教会(Chiesa di San Michele Maggiore)
ロンバルディアにおけるロンバルディア=ロマネスク建築のうち顕著な例とされる。かつてのロンゴバルド王国の教会があった場所にあり、カンパニエーレの低層部分も属す。1004年に破壊され、教会は11世紀後半前後に再建され(納骨堂、交差廊、聖隊共唱席を含む)、1155年に完成した。広範囲な砂岩の使用と非常に長い交差廊によって特色があり、ファサードと後陣を備えている。教会で、フリードリヒ1世が1155年に戴冠した。
サン・ピエトロ・イン・チェル・ドーロ教会(San Pietro in Ciel d'Oro)
6世紀に建設が始められた。アウグスティヌスボエティウス、ロンゴバルド王リウトプランドが埋葬されている。現在の建築物は1132年に建てられた。サン・ミケーレ・マッジョーレと似ているが、一つの出入り口を持つ非対称のファサード、砂岩に替えて煉瓦造りの採用、内装においてはマトロネイの存在、女性のために保存されたギャラリー、非常に短い交差廊が違う。注目すべきアーチは、カンピオーネ・ディターリアによって1362年に建てられ、聖アウグスティヌスの聖遺物を納める。そして150を数える像とレリーフで飾られている。教会は、ダンテ・アリギエーリ作『神曲』の第10篇に記述されている。
サン・テオドーロ教会(San Teodoro)
1117年、中世のパヴィーア司教テオドーロ・ディ・パヴィーアへ献堂。市第3のロマネスク聖堂で、前に紹介したものより小さい。ティチーノ川へ向かって下る坂にあり、漁民が利用してきた。アプスと3段階のティブリウムはロマネスク装飾の効果的な簡素な例である。内側は2つの目立った市の鳥瞰フレスコ画(1525年、ベルナルディーノ・ランツァーニ画)がある。後者の鳥瞰図は、最も権威のあるもので、未完に終わった前者をむき出しにしている。どちらも印象的に描写され、どのようにパヴィーアの都市計画がこの500年間に変わったかを露わにしている。
ヴィスコンテーオ城(Castello Visconteo)
ミラノ領主ガレアッツォ2世・ヴィスコンティが1360年から1365年にかけ建造。要塞化されていたにもかかわらず、実際には軍事施設よりも私的な邸宅として使用されてきた。ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティが城内の図書館(文庫)の世話をさせるために詩人フランチェスコ・ペトラルカを呼び、詩人はここでしばらく過ごした。図書館は写本などおよそ1000冊の蔵書を所有する壮大なものであったが、後に失われた。城は現在市立美術館があり、公園は子供たちの遊び場となっている。不確かな言い伝えによれば、城は秘密の地下トンネルによってチェルトーザ・ディ・パヴィーアとつながっていたとされる。
サンタ・マリア・デル・カルミネ教会(Chiesa di Santa Maria del Carmine)
北イタリアのゴシック様式レンガ建築の例としてよく知られている。市内ではドゥオモの次に大きく、ラテン十字型で建てられた。一つの本堂と2つの側廊からなる周囲からなる。特徴的なファサードは大きなバラ窓と7つの三角きざしをもつ。
サンタ・マリア・ディ・カネパノーヴァ教会(Santa Maria di Canepanova)
ルネサンス様式。ブラマンテの手による。
パヴィーア大学
1361年創立。825年に記録が残された修辞学学校がもととなった。チェントラーレは15世紀から19世紀にかけ12の区画でつくられた広いレンガづくりのものである。均斉のとれたファサードの変化は、バロック様式から新古典主義建築にかけてのものである。大階段、アウラ・フォスコロ、アウラ・ヴォルタ、アウラ・スカルパ、アウラ・マーニャも、新古典主義建築である。スピリティ・マニのコルティーレ(Cortile、中庭)は、大学の重要な学者や卒業生たちの像を所蔵する。古い墓碑と14世紀から16世紀の学者の墓石は、ヴォルティアーノのコルティーレの壁に塗り込められている(そのほとんどは打ち捨てられた教会から持ち込まれた物である)。マニョリエのコルティーレは、古い劇場土間をもつ。ルドヴィーコ・イル・モーロのコルティーレは、ルネサンスの涼み廊とテラコッタ装飾がある。どちらの区画もさらに2箇所と同様、旧オスペダーレ・ディ・サン・マッテオの回廊である。大学付属植物園(Orto Botanico dell'Università di Pavia)がある。
  • 中世の塔は、いまだ町のスカイラインの形をとる。主な一群はレオナルド・ダ・ヴィンチ広場、ヴィア・ルイージ・ポルタ、コッレージョ・ボッロメオ広場に集まっている。

人物[編集]

著名な出身者[編集]

姉妹都市[編集]

脚注[編集]

外部リンク[編集]