ツングースカ大爆発
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ツングースカ大爆発(ツングースカだいばくはつ、英語:Tunguska explosion)は、1908年6月30日午前7時2分(現地時間)頃、ロシア帝国領中央シベリア、エニセイ川支流のポドカメンナヤ・ツングースカ川上流(現ロシア連邦エヴェンキ自治管区内)(2007年にクラスノヤルスク地方と統合)の上空で起こった天体爆発。ツングースカ事件とも言われる。
巨大な爆発であったが近くに村が無かったため、死者は1名だけだった。
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[編集] 概要
強烈なエアバースト(en:Air burst)が発生し、半径約30 kmに渡って森林が炎上し、約2150 km²の範囲の樹木がなぎ倒された。1000km離れた家の窓ガラスも割れたという。破壊力はTNT火薬にして10~15メガトンに相当するものと考えられている。爆発によって生じたきのこ雲は数百km離れた場所からも観測できた。ヨーロッパで白夜のような状態が数ヶ月も続き、衝撃による地震(これに関しては、宇宙からの落下物と発光現象との関係が不明で、また地震の時に発光現象はよく見られることから、たまたま同時に地震活動があっただけとの説もある[要出典])や、大気圧の変動も観測された[要出典]。
爆発地点では地球表面にはほとんど存在しない元素イリジウムが検出されている。また、異変地では飛来した物体の経路に沿って、動植物に突然変異が起こっているとの報告がある[要出典]。
地球に落下した天体が爆発したとみられるが、隕石孔や隕石の残片などは発見されていない。しかし、爆発の規模から、地球に落下した質量約10万トン・直径60~100 mの天体が地表から6~8 km上空で爆発、跡形なく四散したと考えられている。落下した天体は隕石、彗星、小惑星、小型のブラックホールと諸説あり、ケイ酸塩鉱物を含むともいわれている。
(情報の出典としては、カール・セーガン「コスモス」を参照。)
[編集] 調査の歴史
爆発が起こったのは第一次世界大戦やロシア革命の数年前、かつ日露戦争を終えて間もなくという時期だったことから、社会は非常に混乱しており、現地調査はしばらく行われなかった。
初めての現地調査は爆発から13年、ソ連成立後の1921年に、天文学者レオニード・クーリックを中心とするソ連科学アカデミー調査団によって行われた。クーリックは聞き取り調査を行い、落下する火球が目撃されたことを確認した。スースロフも1927年に聞き込み調査を行い、当時、森で火災が発生したことを報告している。その後、クーリックは4度の探検を行った。
- 1927年:クーリック第1回探検 - 助手ギューリッヒと共に、大規模な倒木地帯の中心を発見する。
- 1928年:クーリック第2回探検 - 助手スイチンと共に、スースロフの漏斗[1]の磁気を測定するが、鉄隕石が落ちた証拠は見つからなかった。
- 1929年:クーリック第3回探検 - 助手クリノフと共に、スースロフの漏斗を排水して調査するが、隕石の破片は見つからなかった。
- 1939年:クーリック第4回探検 - ユージノエ沼の調査
- 1940年:クーリック第5回探検 - ユージノエ沼の調査を行う予定だったが中止。
クーリックは落下した天体は隕石であると考えていたが、4回の探検ではクレーターや隕石の破片など隕石落下説を裏付ける証拠は見つからず、成果はあがらなかった。
1946年にはロシアのSF作家アレクサンドル・カザンツェフ(Aleksandr Petrovich Kazantsev)が「爆発は地球に墜落した異星人の宇宙船に積まれた核爆弾によるものである」という内容の小説「爆発」を発表した。これを受け、トムスク大学の研究員などを中心とした総合自主探検隊(KSE)が結成される。後にKSEは現地で数回の残留放射能の測定を行うが検出されず、カザンツェフの説は否定された。
その後1960年代に入ると、本格的な探検調査が行われるようになった。倒木の倒れている向きなどの綿密な地図が作られたことで、爆心地や爆発力、入射角、爆発時の速度などが判ってきている。爆発の衝撃波と、斜めに高速移動した衝撃波とが合成された衝撃波によって、爆発の跡は翅を広げた蝶のような形をしている。そのため爆発跡の形はツングースカ・バタフライと呼ばれている。
[編集] 調査・研究を行った主な人物
- 安倍亮介
- 1994年現地で残留放射能測定などを行った。
- G・P・ギューリッヒ
- クリークの第1回探検のときの助手。
- E・L・クリノフ
- 天文学者。クリークの第3回探検のときの助手。
- V・A・スイチン
- 狩猟学者、動物学者、作家。クリークの第2回探検のときの助手。

