アフリカーナー

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アフリカーナー
Afrikaner
TrekBoerPortrait.jpg
アフリカーナー(1880年代)
総人口

約340万人

居住地域
南アフリカ共和国の旗 南アフリカ 300万人
イギリスの旗 イギリス 100,000人 [1]
ニュージーランドの旗 ニュージーランド 90,000人
ナミビアの旗 ナミビア 80,000人 - 183,000人 [2]
オーストラリアの旗 オーストラリア 40,000人 - 45,000人 [3]
オランダの旗 オランダ 25,000人 [4]
カナダの旗 カナダ 15,000人
ベルギーの旗 ベルギー 12,500人
アルゼンチンの旗 アルゼンチン 11,879人 [5]
ザンビアの旗 ザンビア 48,000人 [6]
言語
アフリカーンス
宗教
プロテスタント[7]カトリック
関連する民族

オランダ人アングロアフリカン

アフリカーナーアフリカーンス語: Afrikaner)は、南アフリカ共和国に居住する白人のうち、ケープ植民地を形成したオランダ系移民を主体に、フランスユグノー、ドイツ系プロテスタント教徒など、宗教的自由を求めてヨーロッパからアフリカ南部に入植したプロテスタント教徒が合流して形成された民族集団である。

アパルトヘイト時代の厳密な定義では、オランダ系(同化したユグノーなども含まれる)であること、アフリカーンス語を第一言語とすること、オランダ改革派教会の信徒であること、この三つをみたすことが「アフリカーナー」の条件であった。

目次

[編集] 概要

言語はオランダ語を基礎にしてフランス語マレー語、現地の言語等を融合して形成されたゲルマン系言語であるアフリカーンス語母語とする。かつてはブール人(Boer)と呼ばれた(「ブール」〔Boer〕とはオランダ語およびアフリカーンス語で農民の意。"Boer"の英語読みに基づいてボーア人とも表記される)。主な宗教は改革派(カルヴァン派)に属するオランダ改革派教会である。

[編集] 歴史

17世紀半ばにオランダ人がアフリカ南部沿岸部へ入植して、オランダ東インド会社によるケープ植民地が成立した。彼らがアフリカーナーの最初の源流といえる。やがてオランダ東インド会社が解散してしまい、ケープ植民地で農業に従事していた植民者たちは帰る故国を失ってしまった。そのためみずからを、オランダ人ではなく「アフリカ人」を意味する「アフリカーナー」と呼び、みずからを神から選ばれた民族とみなした。この集団には、フランスで人間扱いされていなかった新教徒のユグノーなど、他のヨーロッパ諸国からのプロテスタントの移民もあくまでオランダ系植民者に同化するかたちで流入し、民族集団としてのアフリカーナー(ブール人)が形成されていった。したがって移民の出身国には、オランダ、フランス、ドイツの他、ベルギースカンディナヴィア諸国がある。

アフリカーナーは後に勢力をのばしたイギリスと対立した。ケープ植民地がオランダからイギリスに割譲され、イギリスからの移民が流入し、英語公用語となると、彼らは英語があまり理解できないためにイギリス当局から二級市民扱いされた。アフリカーナーはイギリスの支配を嫌ってグレート・トレックと呼ばれる沿岸部から内陸部への再入植を行ない、再入植先でトランスヴァール共和国オレンジ自由国を建国した。両国は2回にわたるブール戦争でイギリスと交戦し、第一次ブール戦争ではイギリスを退けたが、第二次ブール戦争の敗北で両国ともイギリスの支配下に置かれた。

南アフリカ共和国の白人(国民全体の13%)は、イギリス系が19世紀末から現在に至るまでダイヤモンド鉱山経営によって経済面で主導的立場を担ってきたのに対し、アフリカーナーは基本的に農民として暮らす人が多かった。1910年南アフリカ連邦成立後、アフリカーナーは政治面で主導的立場を次第に奪われていった。第二次世界大戦は、したがって、連邦国側に参軍している。しかし、戦後の1948年にアフリカーナーを支持母体とする国民党が政権を握り、それ以後、名目的な「分離発展」をうたいながら、国連が「人類に対する犯罪」と呼んだアパルトヘイト(「分離」という意味のアフリカーンス語)制度を強力に押し進めていった。それは、経済面でイギリス系に対して劣位に置かれたアフリカーナーが政治、警察、軍隊といった公的な場面で力を奪回することでもあった。1961年には英連邦から脱退(除名)。

もちろんこのアパルトヘイト体制はイギリス人や他のヨーロッパ系白人をも最優遇する制度で、少数民族である白人政権は、国外からどんどん白人の移民を奨励した。他の人種は最初は参政権もなく、混血のカラードインド系黒人の順に、職業、教育、結婚、居住などあらゆる面で法にもとづく差別制度によって搾取された。最底辺に位置づけられた黒人は最後まで参政権もなく、生まれた土地から強制的に立ち退きを余儀なくされたりした。この制度によって経済的に最大の利を得たのは、この時代に生きた南ア白人だけでなく、豊かな鉱山資源を安価な労働力で採掘できた、日本を含む欧米資本と、それと結びついた関連企業だった。

基本的に白人至上主義をうたい、それを実行した集団ではあるが、もちろん個々人にはさまざまな考えをもつ人がいた。詩人/画家のブライテン・ブライテンバッハや作家のアンドレ・ブリンクといった、アパルトヘイトに真っ向から反対する人も少数ながらいた。ブライテンバッハなどは国家反逆罪で何年も獄中にあった。また、ユージン・テレブランシュのように、米国南部のKKKのような極右集団を率いて、アパルトヘイト死守をかかげた人物もいた。極右グループは「ボーア人」だけの国をめざし、準軍事組織として現在も活動を続けている。

ドリス・レッシングの『草は歌っている』のなかに出てくるが、「プア・ホワイト」ということばの使われ方が興味深い。当時の南ローデシア(現ジンバブエ)では、どれほど貧しくてもイギリス人のことは「プア・ホワイト」とはいわず、この語はあくまでアフリカーナーを指したという。これは、同じヨーロッパ系植民者の間にも差別感情が根強くあったことを示している。

[編集] 近代の著名なアフリカーナー

[編集] 脚注

[編集] 関連項目

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