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その後政界入りし、[[1992年]]7月の[[第16回参議院議員通常選挙]]で[[スポーツ平和党]]より、[[参議院]][[比例代表]]選出で出馬。この年の阪神タイガースの躍進を「始めだけ」と冷評していたが、選挙運動では一転し、甲子園球場前の街頭演説では「阪神は必ず優勝する!」とアピール作戦をとった。結果、初当選。[[清原和博]]が、初の[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]において一塁上で号泣したことを指し、「人前で涙を見せるなど男じゃない」と[[朝まで生テレビ]]などで発言していたが、本人はこの初当選時に人目をはばからず号泣していた。
[[1995年]]スポーツ平和党を'''猪木の党運営上の金銭疑惑により猪木と対立'''し、'''党副代表を辞任'''、'''離党'''して無所属に。[[自由連合]]、[[無所属の会]]に短期間在籍(当時の無所属の会は院内[[会派]]で、政党化は[[1998年]])。[[内閣総理大臣指名選挙|総理大臣指名選]]で支持した後の[[経世会]]会長[[橋本龍太郎]]が総裁の[[自由民主党]]入党も検討したが、[[細川護熙]]らと[[1997年]][[12月26日]]、[[フロムファイブ]]、1998年の1月23日[[民政党]]、4月27日[[民主党 (日本 1998-)|民主党]]の結成に参加。[[1998年]]7月の[[第18回参議院議員通常選挙]]に、民主党より比例代表選出で再選。[[2004年]]に民主党を離党し、[[大阪府]][[知事]]選挙に立候補するが現職の[[太田房江]]に完敗。
[[1995年]]スポーツ平和党を'''猪木の党運営上の金銭疑惑により猪木と対立'''し、'''党副代表を辞任'''、'''離党'''して無所属に。[[自由連合]]、[[無所属の会]]に短期間在籍(当時の無所属の会は院内[[会派]]で、政党化は[[1998年]])。[[内閣総理大臣指名選挙|総理大臣指名選]]で支持した後の[[経世会]]会長[[橋本龍太郎]]が総裁の[[自由民主党]]入党も検討したが、[[細川護熙]]らと[[1997年]][[12月26日]]、[[フロムファイブ]]、1998年の1月23日[[民政党]]、4月27日[[民主党 (日本 1998-)|民主党]]の結成に参加。[[1998年]]7月の[[第18回参議院議員通常選挙]]に、民主党より比例代表選出で再選。[[2004年]]に民主党を離党し、[[大阪府]][[知事]]選挙に立候補するが現職の[[太田房江]]に完敗。
:*自身が代表の政治団体「'''エモヤンサポーターズクラブ'''」は現在も大阪府知事候補の資金管理団体として存続、したがって政界引退してない人物である
:*自身が代表の政治団体「'''エモヤンサポーターズクラブ'''」は現在も大阪府知事候補の資金管理団体として存続、したがって政界引退してない人物である

2007年12月1日 (土) 14:21時点における版

江本 孟紀(えもと たけのり、1947年7月22日 - )は、高知県香美郡土佐山田町(現香美市)生まれ、同県高知市出身のプロ野球選手野球解説者政治家タレント俳優、元スポーツ平和党副代表、元参議院議員(スポーツ平和党→無所属民主党)。愛称は「エモやん」。あるいは「エモさん」「エモ」。最終学歴は法政大学経営学部中退。株式会社江本エンタープライズ代表取締役、政治団体「エモヤンサポーターズクラブ」代表。消費者金融武富士」のイメージキャラクターとしてCMや広告に登場。

来歴・人物

警察官の息子として生まれ、実父の転勤に伴い小学校時代は転校を数回経験したが長嶋茂雄に憧れ野球に打ち込んだ。高知商業時代、選抜高等学校野球大会への出場を決めたが部員が不祥事を起こしたために辞退。その後、西鉄ライオンズからドラフト指名を受けるが、4位という下位指名だったために拒否し、法政大学経営学部へ進学した。このときの西鉄1位指名が同じ高校で同級生の浜村孝であった。4番でピッチャーの自分が4位指名で、3番バッターの浜村が1位指名であることに納得できなかったと江本は後に著書で語っている。法大の1年先輩には田淵幸一山本浩二、同期には六大学リーグで史上最多の通算48勝山中正竹がいるが、山中が卒業(学業でも優秀であった)したのに対して江本は卒業していない。大学時代は一年の春からベンチ入りするも、松永玲一監督の方針に合わず幾度となく反発、最終シーズンはベンチからも外れ半ば退部状態となった(のちに松永とは和解する)。近年のパ・リーグをよく知らないのか、パ・リーグの話は適当に済ませ、セ・リーグの話は熱心に語る(これは江本だけではなく、セ・リーグ出身の解説者に多い)

社会人野球からプロ野球へ

その後、社会人野球熊谷組へ進み、1970年のドラフト外で東映フライヤーズに入団したが背番号は49。中継ぎしか出番がなかったが翌1971年オフに南海ホークス野村克也監督が才能を見抜きトレードで獲得する。

野村監督のもとで才能を開花させた江本は、この年背番号と同じ16勝をマーク(野村監督は期待の証に同番号与えた)。先発、中継ぎを無難にこなし、1973年のリーグ優勝に貢献した。優勝決定の試合では、最終回に一打同点の場面で阪急の代打本塁打世界記録保持者、高井保弘を迎えたところでリリーフ、見事空振り三振にとって胴上げ投手となった。しかし、それまで押さえの切り札佐藤道郎が投げており、江本は急遽登板で調整も全くしておらず、審判が運よくストライクを取ってくれたので助かったと後に著書で述べている。読売ジャイアンツV9を達成する同年の日本シリーズでは大阪球場での第一戦で3失点完投勝利。

1974年にはオールスターゲームへの出場を果たして第2戦に先発。阪神タイガース江夏豊と投げ合い、天の巡り合わせか翌1975年オフに両投手は交換トレードされた(南海は江本と同時に島野育夫も放出)。この際、江夏との間で激しい舌戦を交わしているが、後に和解している。

阪神タイガースへ移籍

阪神では先発として活躍するも、1978年オフに起きた江川事件で巨人からトレード移籍してきた小林繁にエースの座を奪われる。練習は手抜きの名人。その後、中西太監督の起用に不満を募らせ、1981年8月26日の対ヤクルトスワローズ戦で、「ベンチがアホやから野球がでけへん」と中西監督を批判。その後「チームやファンに迷惑をかけて申し訳ない」と謝罪し、同年限りで現役を引退。ちなみに、同じ日の巨人-中日戦(後楽園球場)で宇野勝ヘディング事件が起こった。当時捕手だった若菜嘉晴と絶えず黒い交際が噂されていた。阪神移籍当初数年間は口ひげをトレードマークとしていたが、引退後はそり落としている。上記のように現役時代は幾度となくトラブルを引き起こしてきた江本ではあるが実際には選手会長を務めた事もあるほど人望があり決して一匹狼ではなかった。酒も飲まず、読書家であり根は真面目であったという。

現役引退後

1982年に発売された著書「プロ野球を10倍楽しく見る方法」が200万部を超える大ベストセラーとなった。1982年からはフジテレビニッポン放送野球解説者のかたわら、タレント活動も行い、映画、ドラマ、バラエティ出演、歌手デビュー、週刊誌コラムなど、1989年からは三田寛子とフジテレビ系ドキュメンタリー番組『なんてったって好奇心』の司会を務める。

政界へ

その後政界入りし、1992年7月の第16回参議院議員通常選挙スポーツ平和党より、参議院比例代表選出で出馬。この年の阪神タイガースの躍進を「始めだけ」と冷評していたが、選挙運動では一転し、甲子園球場前の街頭演説では「阪神は必ず優勝する!」とアピール作戦をとった。結果、初当選。清原和博が、初の日本シリーズにおいて一塁上で号泣したことを指し、「人前で涙を見せるなど男じゃない」と『朝まで生テレビ』などで発言していたが、本人はこの初当選時に人目をはばからず号泣していた。 1995年スポーツ平和党を猪木の党運営上の金銭疑惑により猪木と対立し、党副代表を辞任離党して無所属に。自由連合無所属の会に短期間在籍(当時の無所属の会は院内会派で、政党化は1998年)。総理大臣指名選で支持した後の経世会会長橋本龍太郎が総裁の自由民主党入党も検討したが、細川護熙らと1997年12月26日フロムファイブ、1998年の1月23日民政党、4月27日民主党の結成に参加。1998年7月の第18回参議院議員通常選挙に、民主党より比例代表選出で再選。2004年に民主党を離党し、大阪府知事選挙に立候補するが現職の太田房江に完敗。

  • 自身が代表の政治団体「エモヤンサポーターズクラブ」は現在も大阪府知事候補の資金管理団体として存続、したがって政界引退してない人物である

政界引退後

同年10月、アメリカ合衆国独立リーグであるノーザンリーグに加盟を予定していたカルガリー・フォースの特別顧問(スペシャルアドバイザー)に就任することを発表した。同球団は日本人の三沢博明樋口直人の出資によるもので、彼らの依頼を受けた形だった。就任会見の席で2006年度からの日本独立リーグの設立構想を明かし、設立後はこちらもコミッショナーに就任することが予定されていた。しかし、カルガリー・フォースは進展がなかったことから三沢と樋口は同年12月にリーグから運営権を剥奪されて頓挫(地元の経営者が引き継ぎ、カルガリー・ヴァイパーズとなる)。それに連動する予定だった日本独立リーグも事実上頓挫した状態になっている。

2005年ニッポン放送の株式保有問題に関して、「ニッポン放送をホリエモン(堀江貴文率いるライブドア)が買収するようなことがあれば、同局の解説から撤退する」ことを示唆する発言が行われた。同年11月、それまで支援してきた独立リーグゴールデンベースボールリーグ参加のチーム、ジャパン・サムライ・ベアーズに代わる日本のクラブチーム、京都ファイヤーバーズを社会人野球チームとして結成。監督兼主宰者となる。

2007年7月24日にタイ王国ナショナルベースボールチームの総監督就任を発表した。

背番号

  • 49(1971年)
  • 16(1972年~1975年)
  • 29(1976年~1981年)

年度別成績

  • 表中の太字はリーグ最多数字
年度 チーム 登板 完投 完封 無四
勝利 敗北 セーブ 投球回 被安打 被本
塁打
与四
死球
奪三振 自責点 防御率(順位)
1971年 東映 26 0 0 0 0 4 - 60.2 61 4 35 29 34 5.02
1972年 南海 38 14 1 0 16 13 - 237.1 205 15 127 115 80 3.04(6)
1973年 34 12 5 0 12 14 - 217.1 167 17 96 95 66 2.74(5)
1974年 34 9 0 0 13 12 0 216.2 185 19 125 116 76 3.15(13)
1975年 31 13 3 0 11 14 0 207 185 18 83 109 68 2.96(11)
1976年 阪神 38 8 2 2 15 9 0 239.2 239 27 75 115 100 3.75(10)
1977年 36 10 3 0 11 14 1 223.2 202 21 103 129 92 3.70(6)
1978年 56 2 0 0 11 13 11 150.2 124 16 79 103 52 3.10(2)
1979年 47 5 3 0 12 12 6 178.2 181 21 83 141 87 4.37(18)
1980年 31 4 0 0 8 15 0 160 168 28 73 108 85 4.78(19)
1981年 24 1 0 0 4 6 1 87 77 11 40 70 34 3.52
通算成績 395 78 17 2 113 126 19 1978.2 1794 197 919 1130 774 3.52

タイトル・表彰

  • 最多完封 1回(1977年)
  • オールスター出場 4回(1974年、1976年、1977年、1979年)
  • 荒川消防署長感謝状(2005年)

エピソード

  • 通算24ボーク、1イニング3ボーク(タイ記録)は日本記録。以前はシーズン10ボーク(1973年)も日本記録であったが、2003年に広島東洋カープクリス・ブロックに11ボークで抜かれた(現在の記録所持者はエステバン・ジャンで12ボーク)。記録の背景にはパ・リーグが1973~74年の2年間、ボークの取締りを極端に強化したことが大きく影響している。
  • 趣味はバロック音楽鑑賞。
  • 好きな歌手は、親友でもあった大塚博堂。知人を介して知り合い、大塚の生前に、新宿のロフトで一緒にコンサートをしたこともある。また、大塚のメモリアルイベントに、何回か出演。
  • 背番号について江本は「東映時代は四苦八苦(49)、南海に行って色男(16)、阪神ではニクイ奴(29)。」とコメントしている。
  • あまり知られていないが実はジャイアンツの王貞治キラーで、通算対戦打率は約一割と、50打席以上の対戦がある投手の中では一位。被本塁打はわずかに一本。これは満塁ホームランで、いつもと違う攻めを試した結果であったという。(自著「オレ、紆球曲球」)
  • 近年は特に中日落合博満監督を公然と批判することが多い。ただし、これは個人的に落合が嫌いなだけであり、力量は認めているようである。
    • 2007年の日本シリーズ第5戦で完全試合投球の山井大介投手を9回に岩瀬仁紀投手に交代させた落合監督の采配については、試合直後の『ショウアップナイター』(ニッポン放送)で「日本シリーズは個人記録を競っているわけではないので、全然おかしくはない」と語り、当然の判断であると評価したが、翌日の産経新聞[1]の記事では「他球団の監督だったら100%投げさせているだろう。投手も『行く』と言わなきゃ。あそこで続投させる監督は、プロ野球界全体のことを考えている監督。完全試合を達成していれば、野球に興味のない人まで関心を持ってくれるチャンスだった。それが野球人気につながっていくのに」とコメントしている。ところが実際には阪神岡田彰布監督[2]福岡ソフトバンク王貞治監督、オリックスコリンズ監督らはこの投手交代は当然の采配とのスタンスを示している。この様に、彼の発言自体は洞察力や責任感・倫理観に基づいている物というよりも、場の流れや空気によって変更する物が多く、そのため意見も話し相手に応じて2転3転するが、これも彼の味としてお茶の間には息づいている。
  1. ^ 落合監督「言わせておけばいい」 山井交代に賛否両論 2007年11月2日22時11分配信
  2. ^ 2007年11月3日付日刊スポーツ阪神岡田監督「オレ流継投」を擁護」より[1]

おもな著書

ディスコグラフィー

関西ではカラオケでのデュエットソングの定番の一つ。
  • 霜降り橋まで(1980年)  
  • アカシヤの面影(1982年)

出演作品

現在の出演番組

CM出演

関連項目

外部リンク