ドネツィク
ドネツィク | |||
---|---|---|---|
Донецьк Донецк | |||
| |||
ウクライナでのドネツィクの位置 | |||
ドネツィク中心部の地図 | |||
北緯48度00分10秒 東経37度48分19秒 / 北緯48.00278度 東経37.80528度座標: 北緯48度00分10秒 東経37度48分19秒 / 北緯48.00278度 東経37.80528度 | |||
国 |
ウクライナ ロシア(事実上) | ||
州(オーブラスチ) |
ドネツィク州 ドネツク人民共和国(事実上) | ||
地区(ラヨン) | ドネツィク自治体 | ||
創設 | 1869[1] | ||
市制施行 | 1917 | ||
区(ラヨン) | |||
政府 | |||
• 市長 | オレクシー・クレムジン | ||
面積 | |||
• 都市 | 358 km2 | ||
標高 | 169 m | ||
人口 (2011年7月1日)[2] | |||
• 都市 | 975,959人 | ||
• 密度 | 2,700人/km2 | ||
• 都市圏 | 2,009,700人 | ||
等時帯 | UTC+2 (EET) | ||
• 夏時間 | UTC+3 (EEST) | ||
郵便番号 |
83000 — 83497 | ||
市外局番 | +380 622, 623 | ||
ナンバープレート | АН | ||
^ドネツィクは1869年にユゾフカとして設立された ^都市圏の人口は2004年基準 |
ドネツィク(ウクライナ語: Донецьк[注 1])またはドネツク(ロシア語: Донецк[注 2])は、カルミウス川河畔のウクライナの工業都市である。
1924年まではユゾフカ(Юзовка)、1924年から1929年まではスターリン(Сталин)1929年から1961年まではスターリノ(Сталино)などの名称だったドネツィクは、ドネツィク州の行政的な中心で、歴史的にドンバスでは非公式ながら経済や文化などの主都である。
2014年以降、市内の大半の地域はウクライナ政府の管轄が及んでおらず、親露派分離主義勢力が独立宣言したドネツク人民共和国の支配下に置かれた。現在は「住民投票」の結果を受けてロシア連邦に編入され、ロシアが実効支配を行っている。
歴史
ドネツィクは1869年に創設され、ウェールズの実業家ジョン・ヒューズは製鉄所といくつかの炭鉱をロシア帝国の南のアレクサンドルフカ(Олександрівка)に建設した。街は当初、ユゾフカと言う名が与えられていた。初期には多くの移民をウェールズ、特にマーサー・ティドビルから受け入れた[1]。
20世紀初め、ユゾフカの人口は約5万人で人口の大部分は近隣のロシア領からで、1917年には都市の地位に達した[2]。主要な地区であるハイゲルゾフカは英国コロニーと名付けられ、イギリスの起源は街並や建築物に反映されている。
ロシア内戦が1918年2月12日に勃発するとユゾフカはドネツク=クリヴォーイ・ローク・ソビエト共和国の一部となった。共和国は1918年3月20日に第2全ウクライナ議会でウクライナ・ソビエト共和国の独立が発表されると解体された。これは国際的にもロシア共和国にも認知を得ることが出来ず、ブレスト=リトフスク条約に応じて廃止された。1924年にソ連の支配下になると街の名称はスターリンに改称された。当時の街の人口は63,708人で翌年には80,085人となった。1929年に街の名称はスターリノに改称された[3]。飲み水用の水道設備は1931年に55.3 kmのシステムが敷設されるまで街にはなかった。
1933年7月にはウクライナ・ソビエト社会主義共和国のドネツィク州の行政の中心都市となった[2]。1933年に最初の 12 km (7 mi) の下水道施設が導入され、翌年には市内では最初のガス開発が行われた。
第二次世界大戦の初め頃のスターリノの人口は507,000人で戦後は175,000人であった。1941年のナチス・ドイツのバルバロッサ作戦で街は完全に破壊され、ナチスは1941年10月16日から1943年9月5日まで街を占領していた。イタリアもスターリノの占領に参加していた。街の大部分は戦後に再建された。
ナチス・ドイツが占領していた当時のドネツィクの領域ではユダヤ人ゲットー (en) が形成され、3,000人のユダヤ人が死亡し強制収容所では92,000人が殺された[4]。戦時中は連帯責任制度が適用されていた。
1945年にはユーゴスラビアやハンガリー、ルーマニア(バチュカやバナト)のドナウ・シュヴァーベン人の17-35歳の若い男性や女性が「戦争賠償」として、極度の困難な中、スタリーノの再建や鉱山で強制労働させられた。その多くは病気や栄養失調で死亡している[5]。
ニキータ・フルシチョフの非スターリン化の波で、1961年11月に街の名称はドン川の支流であるドネツ川にちなみ現在のドネツィクに改称された[2]。
1965年にはウクライナ国立学士院の組織の一部であるドネツィク科学アカデミーが設立された。
企業を支配するギャング戦争の中心であった1990年代の困難な時代を経験した後、ドネツィクは主に大企業の影響を受けて急速に近代化した。
2004年ウクライナ大統領選挙で、ドネツィクでは大部分がウクライナ中央選挙委員会が勝者として発表していたヴィクトル・ヤヌコーヴィチ候補に投票していたが、この投票結果は後に裁判により無効とされた。これにより再び選挙が行われ、ヤヌコーヴィッチは決選投票で落選する。
2014年の出来事
ユーロマイダン後とクリミアの将来に関するクリミア議会の2014年クリミア住民投票の発表の影響を受け、ドネツィク州の州議会は州の将来を決定する為に住民投票を行うことを可決した[6]。2014年3月3日には多くの人々がドネツィク州の行政庁舎に押し入りロシアの国旗がはためき、「ロシア!」や「ベルクトは英雄!」と叫んだ。警察は反撃しなかった[7] 。週の後半にドネツィクの当局は地域の地位に関する住民投票を非難し[8] 、警察はドネツィク州庁舎を取り戻した[9][10]。ドネツィクは2014年ウクライナ親ロシア派武力衝突の中心の1つとなった。
2014年4月7日、親ロシア派の活動家がドネツィクの行政庁舎を制圧し、ドネツク人民共和国を宣言し[11]、ロシアの介入を要請した[12]。
2014年5月11日に2014年ドネツィク・ルハンスク地位住民投票がドネツィクで行われ、投票者は政治的な独立を選択した。それはドネツィク地域で投票した90%以上の人たちがキエフからの政治的な独立を支持したと自称ドネツィク人民共和国選挙委員会の長であるロマン・リアキンが述べた。ウクライナはこの住民投票を認めず、アメリカや欧州連合も住民投票は違法と述べた[13]。
6月のポロシェンコ政権の成立以後、奪還を目指す政府軍と親ロシア派との間で激しい戦闘が勃発した。政府軍は一時ドネツィク空港を制圧し市街に迫るもその後押し返され、2015年2月の停戦時点ではドネツィクは親ロシア派の勢力圏にある[14]。
2022年の出来事
2022年ロシアのウクライナ侵攻が始まった時点でもなお、ドネツィクは親ロシア派が支配する都市であった。そうしたドネツィクに対してウクライナ軍は徐々に攻勢をかけ始め、同年10月16日朝には、市役所庁舎など広範囲の建物にロケット砲システム HIMARSによる攻撃が加えられた[15]。
2022年12月、ドネツク市内のホテルが砲撃に遭い、ドネツク人民共和国の ビタリー・ホツェンコ 首相が負傷。さらに同ホテルに宿泊していたロシア連邦元副首相ドミトリー・ロゴージンや国会議員も負傷した[16]。
地理
地勢
ドネツィクはウクライナのステップの景色にあり、周辺には森林や丘陵地(ボタ山)、河川や湖が広がる。北郊は主に農業に利用されている。カルミウス川は街とアゾフ海を結んでいる。アゾフ海は南に 95 km (59 mi)離れた場所にあり、ドネツィク市民にとってはポピュラーな行楽地である。街の周辺には広大な農業地帯が広がる。都市は南北 に28 km (17 mi)、東西に55 km (34 mi) に広がる。
近隣には貯水池としてナイズネカルミウスと「ドネツィク海」(206 ha)があり、市内にはカルミス川を含めてアスモリフカ川、チェルパシュキナ川(23 km)、スコモロシュカ川、バクフムトカ川の5つの河川が流れている。また市内には125のボタ山がある[4]。
気候
ドネツィクの気候は穏やかな大陸性気候[17] で、ケッペンの気候区分では湿潤大陸性気候(Dfb)に含まれる。平均気温は1月が-4.1 ℃、7月が21.6 ℃である。年間の降水日は162日で、年間降水量は556 mmである[17]。
ドネツィク 1981–2010の気候 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 12.2 (54) |
16.0 (60.8) |
21.3 (70.3) |
31.0 (87.8) |
34.6 (94.3) |
38.0 (100.4) |
37.8 (100) |
39.1 (102.4) |
33.9 (93) |
32.7 (90.9) |
20.5 (68.9) |
15.0 (59) |
39.1 (102.4) |
平均最高気温 °C (°F) | −1.3 (29.7) |
−0.9 (30.4) |
5.3 (41.5) |
14.5 (58.1) |
20.9 (69.6) |
24.8 (76.6) |
27.3 (81.1) |
26.8 (80.2) |
20.7 (69.3) |
13.1 (55.6) |
4.7 (40.5) |
−0.3 (31.5) |
13.0 (55.4) |
日平均気温 °C (°F) | −4.1 (24.6) |
−4.1 (24.6) |
1.3 (34.3) |
9.4 (48.9) |
15.4 (59.7) |
19.3 (66.7) |
21.6 (70.9) |
20.8 (69.4) |
15.1 (59.2) |
8.5 (47.3) |
1.6 (34.9) |
−2.9 (26.8) |
8.5 (47.3) |
平均最低気温 °C (°F) | −6.7 (19.9) |
−7.0 (19.4) |
−2.1 (28.2) |
4.6 (40.3) |
10.0 (50) |
13.8 (56.8) |
15.9 (60.6) |
15.0 (59) |
10.0 (50) |
4.5 (40.1) |
−1.1 (30) |
−5.4 (22.3) |
4.3 (39.7) |
最低気温記録 °C (°F) | −32.2 (−26) |
−31.1 (−24) |
−21.0 (−5.8) |
−10.6 (12.9) |
−2.4 (27.7) |
2.1 (35.8) |
6.0 (42.8) |
2.2 (36) |
−6.0 (21.2) |
−10.0 (14) |
−22.2 (−8) |
−28.5 (−19.3) |
−32.2 (−26) |
降水量 mm (inch) | 37 (1.46) |
32 (1.26) |
34 (1.34) |
38 (1.5) |
46 (1.81) |
65 (2.56) |
51 (2.01) |
37 (1.46) |
36 (1.42) |
37 (1.46) |
38 (1.5) |
41 (1.61) |
492 (19.37) |
平均降雨日数 | 11 | 8 | 10 | 13 | 13 | 14 | 11 | 8 | 11 | 11 | 13 | 11 | 134 |
平均降雪日数 | 17 | 17 | 10 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 8 | 16 | 72 |
% 湿度 | 87 | 84 | 77 | 66 | 62 | 66 | 64 | 60 | 67 | 76 | 86 | 88 | 73 |
出典:Pogoda.ru.net[18] |
行政
Bydionivskyi Raion Voroshylovskyi Raion Kalininskyi Raion Kyivskyi Raion Kirovskyi Raion | Kuibyshevskyi Raion Leninskyi Raion Petrovskyi Raion Proletarskyi Raion |
ドネツィクはドネツィク州の州都であり、ドネツィク市自治体の中心である。ドネツィクは州の下位の都市で市自体にあるドネツィク市自治体より直接的に州の影響を受ける。ドネツィク市域は9の行政区(ラヨン)に分けられている。それに加えて、それぞれのラヨンにはドネツィク市議会の下位の「地区議会」がある。
|
都市
人口動態
人口推移 | ||
---|---|---|
年 | 人口 | ±% |
1897[19] | 28,100 | — |
1926[20] | 106,000 | +277.2% |
1939[21] | 466,300 | +339.9% |
1959[22] | 699,200 | +49.9% |
1970[23] | 879,000 | +25.7% |
1979[24] | 1,020,800 | +16.1% |
1989[25] | 1,109,100 | +8.7% |
1998[26] | 1,065,400 | −3.9% |
2006[27] | 993,500 | −6.7% |
ドネツィクの2010年現在の人口は982,000人を超え[28]、都市圏の人口は2014年時点で1,566,000人である。ウクライナでは5番目に大きな都市である[29]。2001年の国勢調査によればドネツィク地域には130を超える民族グループが居住している[30]。ドネツィク州の人口の56.9%(2,744,100人)はウクライナ人、38.2%(1,844,400人)はロシア人が占めている[30]。地域の言語は人口の74.9%はロシア語を母語とし、ウクライナ語は24.1%を占める[31]。58.7%のウクライナ人の人々はロシア語を母語としていると考えられる[31]。ドネツィク地域の450万人のうち550人はロシアの市民である[32]。
ドネツィク市自治体の現在の民族構成は以下の通り[33]。
- 合計: 1,024,678 人, 100.00%
1991年には3分の1はロシア人、同じく3分の1はウクライナ人と明言し、残りの多数は自身をスラヴ人と明言していた[34]。
経済
ドネツィク周辺はかなり都会化した人口が集中するコナベーションである。労働力は大きく重工業に関わっておりとくに石炭鉱業は著しい。ドネツィクはドンバスとウクライナの重工業や炭鉱の重要な中心である。直接的に炭鉱が都市にあり、最近では鉱山事故が増えて来ており、2007年に発生した2007年ザスヤヅコ鉱山事故では100人の労働者が死亡している[35]。
ドネツィクの経済は200の産業組織で構成され、合計の製品生産額は年間500億フリヴニャを超え20,000を超える中小企業がある[36]。市内の石炭鉱業は17の炭鉱と2つの選鉱所があり、冶金産業は5つの冶金工場が市内にはある。エンジニアリング関連は67企業、食品関連は32企業ある[36]。
ソビエト連邦の崩壊によってドネツィクや他の近隣のドンバスの都市では多数の工場が閉鎖されたり、多くの人々が仕事を失った[37]。しかしながら、厳しいウクライナの経済状況に関わらず、ドネツィクは発展した都市である[36] 約412,000 m2の生活空間、 7.9 km (4.9 mi)のガス網、15.1 km (9.4 mi)の水道網が1998-2001年に整備された[36]。
市内にはまたドネツィク経済特区があり[38]、2007年現在9つの都市と姉妹都市の関係がある[39]。
1962-1996年にはドイツのマグデブルクとドネツィクは経済協力を結んでいた[40][41]。
航空会社のドンバスアエロは本社をドネツィク国際空港の敷地に置いている[42]。
2012年にフォーブスではウクライナでビジネスを行うために最高の都市と認められた。また、ヒューマン・キャピタルや購買力、インフラ、経済安定、快適性の指標で高い位置にあった[43]。
ドネツィクにはショッピングセンターのドネツィクシティがある。
スポーツ
ドネツィクは大きなスポーツの中心でインフラも発達しており、デビスカップやUEFAチャンピオンリーグなど国際的な大会も繰り返し開催されている。サッカーやホッケー、バスケットボール、ボクシング、テニス、陸上競技など様々なスポーツで国をリードし、代表する都市である。
ドネツィクで最もポピュラーなスポーツはサッカーで、3つのメジャーなプロサッカークラブチームがある。FCシャフタール・ドネツクはドンバス・アリーナを、FCメタルルフ・ドネツィクはメタルフスタジアムを、FCオリンピク・ドネツィクはRSCオリンピスキーをそれぞれホームスタジアムとしている。この3つのクラブチームはウクライナのプロリーグの最上位ウクライナ・プレミア・ディビジョンに参加しており、FCシャフタール・ドネツクはウクライナチャンピオンシップ、ウクライナカップでは複数回優勝しており、2008-2009年のシーズンにはUEFAヨーロッパリーグで優勝している。ドネツィクにはまた女子サッカーのWFCドンチャンカがあり、ウクライナ女子サッカーリーグでは歴史的に最も成功したクラブチームの1つである。
ドネツィクにはサッカースタジアムのドンバス・アリーナがあり、このスタジアムは2009年にオープンした。東ヨーロッパでは初めてUEFAの基準で"Elite"カテゴリーで設計、建築されたスタジアムである。UEFA EURO 2012の共同招致でポーランドとウクライナは招致に成功し、ドネツィクのドンバスアリーナはUEFA Euro 2012グループDの3試合と準々決勝、準決勝の会場として選ばれている[44] 。
RSCオリンピスキーは予備のスタジアムとして選ばれた[45]。
ドネツィクは近くの都市マリウポリと共にUEFA U-19欧州選手権2009の共催都市であった。ドネツィクでの開催ではRSCオリンピスキーとメタルフスタジアムが使われた。
ドネツィクにはアイスホッケーのクラブチームであるHCドンバスが2011年以来、ドラズバアリーナでプレーをし、2011年にはウクライナホッケー選手権で優勝し、ウクライナでは唯一エリートレベルのクラブチームである。ロシアアイスホッケーメジャーリーグに1シーズン参加した後、クラブはKHLの規定にアリーナを改良して2012年のシーズンからリーグに参加している。2013年にはドネツィクでIIHFコンチネンタルカップ2013アイスホッケースーパーファイナルが開催されHCドンバスは優勝している。
ドネツィクにはまたバスケットボールクラブのBCドネツィクがあり、ウクライナバスケットボールスーパーリーグでプレーしており、2012年には優勝しチャンピオンタイトルを得ている。クラブはドルフバアリーナをホームとしている。
市内には他にも今は無き注目されたクラブチームもあった。MFCシャフタールドネツィクはウクライナフットサル選手権では5回優勝していたが、2011年1月にシーズンの途中で財政的な問題により解散した。ソ連のバーレーボールのトップチームの一つであったVCシャフタールドネツィクは1992年にソビエトバレーボーツチャンピオンシップで優勝した最後のクラブチームで、独立したウクライナのリーグでは1992年と1993年に最初の2回優勝し、1993年のウクライナカップでも優勝した。しかしながら、金融的な問題によって1997年に降格しその後のシーズンで解散した。
ドネツィクでは1978、1979、1980年にソ連テニス選手権が開催され、2005年にはデビスカップのいくつかの試合が開催されている。2002-2008年にATPチャレンジャーツアーの一部であるアレクサンダー・コリャスキンメモリアルが開催され女子のITFウーメンズサーキットに分類されるヴィコールトカップが2012年から始まっている。
ドネツィクは常に陸上競技の中心で、様々な催しが開催されている。1978年と1980年にはソビエト陸上選手権が開催され、1984年には単独開催都市であった。また、1977年欧州陸上ジュニア選手権が開催された。これらの陸上競技の大会はRSCオリンピスキー(当時はRSCロコモティフ)で開催された。別の陸上競技ではドネツィクは棒高跳で世界的にも有名なアスリートであるセルゲイ・ブブカを輩出している。
プロスポーツクラブチーム
既存のプロスポーツクラブと現在は解散したかつてタイトルを獲得したクラブ。
クラブ | リーグ | スポーツ | スタジアム | 設立年 | 優勝回数 |
---|---|---|---|---|---|
FCシャフタール・ドネツク | ウクライナ・プレミアリーグ | サッカー | ドンバス・アリーナ | 1936 | 9 |
FCメタルルフ・ドネツィク | メタルフスタジアム | 1996 | 0 | ||
FCオリンピク・ドネツィク | オリンピックスポーツコンプレックス | 2001 | 0 | ||
WFCドンチャンカ | ウクライナ女子サッカーリーグ | 女子サッカー | TsPOR Donchanka Stadium | 1992 | 5 |
MFCシャクタール・ドネツィク (解散) | ウクライナ・フットサル選手権 | フットサル | Pavilion | 1998 | 5 |
シャクタール・アカデミア | ウクライナハンドボールスーパーリーグ | ハンドボール | SC Tekstilshik | 1983 | 3 |
HCドンバス | KHL | アイスホッケー | ドラズバアリーナ | 2005 | ウクライナ: 3 (2 HC Donbass-2) |
BCドネツィク | ウクライナバスケットボールスーパーリーグ | バスケットボール | 2006 | 1 | |
VCシャクタール・ドネツィク (解散) | ウクライナ男子バレーボールスーパーリーグ | バレーボール | 1983 | ソ連時代: 1 ウクライナ: 2 | |
Skify-DonNTU | ウクライナ・アメリカンフットボール選手権 | アメリカンフットボール | DonNTU | 1990 | 13 |
文化
名所
アルトマ通り
ドネツィクの主要な区域で、この広い通りは市内を巡るあらゆる観光客の起点である。新旧様々な建築物や小さな公園、洒落たホテル、レストランなどが立地している。史跡は通りや、レーニン広場、オペラ・バレエ劇場、炭坑夫のモニュメント、ドネツィク演劇場が含まれる。
アルテムの像
壮大な6mのアルトマ通りにある像はフョードル・セルゲーエフでソビエトでも最も著名な政治家の一人であった。1921年にドンボスでセルゲーエフが亡くなるとスターリンは彼の息子を選出した。
ドネツィク・オペラ・バレエ劇場
ドネツィク・オペラ・バレエ劇場は1936年に建てられ、優美な外観と世界クラスの公演は擁する劇場である。ドネツィクには1946年からドネツィク・バレエ・カンパニーがある。
ドンバスパレス
ドンバスパレスはドネツィク中心部にある五つ星ホテルで、ウクライナでは唯一ザ・リーディングホテルズ・オブ・ザ・ワールドに加盟している。建物は1938年にシュヴァロヴァとリハニコフの計画により1938年に建てられた。ナチスの占領期間にはドネツィクゲシュタポ本部が旧ホテルに置かれ、戦時中に建物の一部は破壊された。2004年の再建後にホテルは開業している。
プーシキン大通り
美しい緑の遊歩道が2kmにわたり続いている。噴水やオープンカフェ、タラス・シェフチェンコなど多くの興味を惹く彫像等が点在する。通りには鉄から鍛冶で作り出された植物の彫像もあり、もともとは1896年に地元の鍛冶屋であったアレクセイ・メエルトサロヴAleksei Mertsalovが1本のレールから作り出し展示されたもので技術力の高さを示している。
ジョン・ヒューズのモニュメント
2001年からドネツィク国立工科大学の前に街の設立の功労者であるジョン・ヒューズの像がある。彼はドネツィクに産業の歴史を与え、ユゾフカの製鉄所に関わった。
フォージド・フィギアパーク
フォージド・フィギアパークは2001年に開園し、1種につき1インチのオブジェである。国際鍛冶工芸祭が毎年、パークで開かれている。
建築物
ドネツィクはユゾフカと呼ばれていた時代、街は北と南の2つの部分に分かれていた。市の南側は工場や鉄道駅、電報局、病院、学校があった。工場からそう遠くない場所は「イギリス人街」で、技術者や管理者が住んでいた。
ジョン・ヒューズの家や様々な外国人労働者の建物群が建築された後、市の南部分は主に英国式に構築された。これらの建物は長方形や三角形の形をしたファサードや緑色の屋根、大きな窓でこれらは建物やバルコニーの大きな部分を占めていた。街のこの部分は通りは広く舗装がされていた。ドネツィクの建物の形成に対して大きな影響を与えたのはノヴォロシアの会社の「公式建築家」Moldingauyerであった。当時のユゾコフ南部の建築物はジョン・ヒュースの家(1891年の物を一部保存)、ボルフールBolfur (1889年)、ボッセで構成されていた。
ユゾフカの北側であったノヴィ・ソヴェトには商人や職人、官僚が住んでいた。そこには市場や警察本部、イエス変容大聖堂などが位置していた。ノヴィ・ソヴェトの中央の通りと近隣の通り際には主に1階か2階の民家や市場、レストラン、ホテル、オフィス、銀行があった。ユゾフカの北側部分で有名な保存されている建物にはホテルグレート・ブリテンがある。
最初のスタリノ時代での総合的な計画は1932年にオデッサで建築家P. Golovchenkoにより作られ、1937年に計画の一部に手が加えられた。この計画は市の建設局の歴史では初めてのことであった。ドネツィク市内の大部分の建築物は20世紀後半以降のもので、設計はドネツィク市の建築家パヴェル・ヴィグジェルゴーズで1978年にソビエト連邦国家賞を受賞した。
宗教
ドネツィクの住民はそれぞれ多くの異なった宗教に属しており、正教会[46]、東方典礼カトリック教会、プロテスタント、カトリック教会、イスラム教のモスク、ユダヤ教のシナゴーグなど様々である。最も多くの信徒がいる宗教にはウクライナ正教会(モスクワ総主教庁系、キエフ総主教庁系)である。
2014年にドネツィク臨時政府議長Denis Pushilinの署名のビラがユダヤ人の過越で配布された。ビラにはドネツィクのユダヤ人の市民は彼ら自身や自分の財産、家族を親ロシア派の当局に登録するように伝えていた。ビラではその要求に従わなければ市民権の取り消しや財産の没収につながると主張していた。ビラのホロコーストの影を見たドネツィクのユダヤ人には混乱と恐怖を引き起こした[47] 。しかしながら、ビラはロシア・トゥデイの報道によれば偽物であると判断された[48]。
メディア
以下の5つのテレビ局がドネツィクにはある。
- TRK Ukraina (ウクライナ語: ТРК Україна)[49]
- KRT, Kyivska Rus' (ウクライナ語: КРТ, Київська Русь)[50]
- First Municipal (ロシア語: Первый муниципальный)[51]
- Kanal 27 (ロシア語: 27 канал)
- TRK Donbass (ロシア語: ТРК Донбасс)
ドネツィクには360mメートルの高さのテレビ塔があり、市内では最も高い建築物の1つで1992年に完成した。
著名人
ドネツィクの市民は一般にダニチャニ (Донеччани) と呼ばれる。以下の人々は著名なドネツィク出身か市内で育った人々である。
- エッマ・アンドリエーヴシカ、ウクライナの詩人
- ミコラ・アザロフ、元ウクライナ首相
- セルゲイ・ブブカ、元陸上競技選手
- ニキータ・クリーロフ、ウクライナの総合格闘家
- ニキータ・フルシチョフ、ソビエト連邦の政治家、同国の第4代最高指導者
- アナトリー・フォメンコ、ロシアの数学者
- ナタリア・マーマドワ、アゼルバイジャン国籍の女子バレーボール選手
- オレクシー・ペチェロフ、ウクライナのプロバスケットボール選手
- セルゲイ・レブロフ、サッカー指導者
- ナタン・シャランスキー、ソビエト連邦の反体制運動家・作家・イスラエルの政治家
- ナデジダ・トカチェンコ、ソビエト連邦の陸上競技選手・オリンピック金メダリスト
- ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ、ユーロマイダンが原因で失職させられた元ウクライナ大統領[52]。
- オレグ・ベルニャエフ、体操選手・オリンピック金メダリスト
博物館
ドネツィクに約140の博物館や美術館があり、2つの地域の大きな博物館であるドネツィク地域歴史博物館、ドネツィク地域美術館が含まれる。ドネツィク地域歴史博物館はドネツィクの姿を明らかにし地域全体をカバーしている。1924年に開館し、12万の収蔵品には先史時代に遡る考古学的な発見からジョン・ヒューズの街の創設や炭鉱、第一次世界大戦、ソビエト時代などがある。
FCsシャクタール博物館は2010年に開館しウクライナでは初めてヨーロピアン・ミュージアム・オブ・ザ・イヤー賞を受賞した[53]。
交通
公共交通
ドネツィク市内の主な交通はトラム(路面電車、ドネツィク市電)やトロリーバス、路線バス、私営のミニバスであるマルシュルートカである。市内の公共交通は自治体が統合して運営する企業Dongorpastransにより運行されている。市内には12のトラム路線(-130 km)、17のトロリーバスの路線(-188 km)、115の路線バス系統がある[54]。
トラムとトロリーバスは市内に2つの駅がそれぞれある[54] 。他の市内の交通手段にはタクシーがあり、ドネツィクには32台が走っている。ドネツィクには市内と郊外にバスターミナルがあり、 Yuzhnyは主に南方向の路線を扱い、Tsentr はマリンカやヴヘルダルの他、都市間路線、Krytyi rynokは主に北や東方向の路線を扱い、 Putilovskyは北や北西方向の路線を扱っている。
1992年にドネツィク地下鉄の建設が始ったが、近年になって資金不足のため放棄された。路線や駅は完成していない[55]。
鉄道
ドネツィクの中央駅は年間700万人の旅客を扱い[54]、街の北側に位置する。中央駅の近くには博物館があり、この地域の鉄道の歴史について扱っている。他の駅にはRutchenkovoがキィフスキィ地区にあり、Mandrykinoはペトロフスキィ地区、Mushketovoはブヂオニヴスキイィ'地区にある。
一部の旅客列車はドネツィク駅を避け、市内のYasynuvata駅で扱っている。また市内には子供鉄道もある。ドネツィクはUEFA EURO 2012の開催都市であったのでUEFAの必要条件に応じるため、新しい鉄道ターミナル施設が計画されていた[56]。
ドネツィク州は重要なウクライナの交通のハブである。ドネツィクを基盤とする、ドネツィク鉄道はウクライナでは最大規模の鉄道部門の1つである。地域の農業や工業などの事業やドネツィクやルハーンシク、部分的にドニプロペトロフスク、ザポリーニャ、ハルキウ州の人々に供されている。
道路
ロシアのロストフ・ナ・ドヌへ続く欧州自動車道路のが途中、ドネツィク市内を通っている。これに加えて、国際道路のM 04が市内を通る。ウクライナの国道N 15, N 20, N 21号線も市内を通っている。ドネツィクをバイパスする4期目の環状道路の工事は2014年に完成する[57]。
航空
ドネツィクにはドネツィク国際空港がある[58] 。1940年代の終わりに工事が終わり、1950年代に供用が始った。全ての空港施設は1973年に完成している。ドンバスアエロはドネツィク国際空港をベースとして運航している。
2014年7月現在では親ロシア派とウクライナ軍の戦闘により空港は機能停止状態にある[59]。
教育
ドネツィクにはいくつかの大学があり、5の国立大学と11の研究機関、3のアカデミー、技術学校テフニクム、5の私立大学、6のカレッジが含まれる。最も有力で著名な教育機関はドネツィク国立技術大学で1921年に創設された[60]。ドネツィク国立大学は1937年に創設された。国立技術大学とマグデブルクの大学は密接な関係を持っている。1970年以来、100人を超える東ドイツからの学生が2つのドネツィクの国立大学のどちらかで高等教育を修了している。ドネツィクにはまた1930年に創設されたドネツィク国立医科大学があり、ソ連では最大規模の医科大学の1つであった。ドネツィクには科学研究機関やイスラム大学、1960年に創設されたコンセルヴァトワールのプロコフィエフドネツィク国立ミュージックアカデミーがある。
姉妹都市
ドネツィクは以下の都市と姉妹都市の関係にある。
|
脚注
注釈
- ^ [doˈnɛt͡sʲk] ( 音声ファイル)、ラテン文字表記Donets’k
- ^ IPA: [dɐˈnʲet͡sk]
出典
- ^ http://www.telegraph.co.uk/sport/football/competitions/euro-2012/9323465/Euro-2012-Donetsks-roots-have-more-in-common-with-Merthyr-Tydfil-than-Moscow.html
- ^ a b c “From the history of the city” (Russian). Head of Donetsk City. 2007年1月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。7 May 2007閲覧。
- ^ http://alldonetsk.info/en/history-city-donetsk The history of the city of Donetsk
- ^ a b “Was there a ghetto in Donetsk?” (Russian). Newspaper "Gorod". 2007年9月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。7 May 2007閲覧。
- ^ “Das politische Bewusstsein” (PDF). 2013年3月26日閲覧。
- ^ “Донецкий облсовет проголосовал за референдум”. Gazeta.ua. 2014年3月3日閲覧。
- ^ “В Донецке несколько сотен радикалов с криками "Россия" штурмуют ОГА”. Gazeta.ua. 2014年3月3日閲覧。
- ^ http://novosti.dn.ua/details/219796/
- ^ Ukrainian flag again flies over Donetsk regional HQ, Reuters (Mar 6, 2014)
- ^ Ukrainian Officials in East Act to Blunt Pro-Russian Forces, The New York Times (MARCH 7, 2014)
- ^ Russian Roulette: The Invasion of Ukraine (Dispatch Twenty Three). VICE News. 11 April 2014.
- ^ Radyuhin, Vladimir (7 April 2014). “Donetsk proclaims independence from Ukraine”. The Hindu. 7 April 2014閲覧。
- ^ “Ukraine crisis: Eastern rebels claim 'self-rule' poll victory”. BBC News (12 May 2014). 12 May 2014閲覧。
- ^ “Ukraine crisis in maps” (英語). BBC (2015年2月18日). 2015年5月17日閲覧。
- ^ “ウクライナ、親ロシア派本拠を攻撃か 東部ドネツクで幹部が被害報告”. 朝日新聞 (2022年10月16日). 2022年11月18日閲覧。
- ^ “ロシア元副首相が負傷、ウクライナ東部の砲撃で=通信社”. ロイター (2022年12月22日). 2022年12月22日閲覧。
- ^ a b “Weather in Donetsk” (Russian). rospogoda.ru. 2007年4月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。5 May 2007閲覧。
- ^ “Pogoda.ru.net” (Russian). Weather and Climate (May 2011). 4 October 2012閲覧。
- ^ Statistics from the first All-Russian Empire Census, conducted on 1897年28 January(ユリウス暦 15 15 January)
- ^ Statistics from the First All Union Census of the Soviet Union, conducted on 17 December 1926.
- ^ Statistics are from the All Union Census of the Soviet Union, conducted on 17 January 1939.
- ^ Statistics are from the All Union Census of the Soviet Union, conducted on 15 January 1959.
- ^ Statistics are from the All Union Census of the Soviet Union, conducted on 15 January 1970.
- ^ Statistics are from the All Union Census of the Soviet Union, conducted on 17 January 1979.
- ^ Statistics are from the All Union Census of the Soviet Union, conducted on 12 January 1989.
- ^ Statistics are from the State Statistics Committee of Ukraine, conducted on 1 January 1998.
- ^ Statistics are from the State Statistics Committee of Ukraine, conducted on 1 January 2006.
- ^ “アーカイブされたコピー”. 2009年4月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年4月22日閲覧。
- ^ “Results / General results of the census / Number of cities”. 2001 Ukrainian Census. 2006年1月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。28 August 2006閲覧。
- ^ a b 2001 Ukrainian Census, Численность и состав населения Донецкой области по итогам Всеукраинской переписи населения 2001 года [The size and composition of the population on the basis of the Donetsk region in the 2001 Census].
- ^ a b 2001 Ukrainian Census, Численность и состав населения Донецкой области по итогам Всеукраинской переписи населения 2001 года, Языковой состав населения Донецкой области, по данным Всеукраинской переписи населения [The size and composition of the population on the basis of the Donetsk region in the 2001 Census, Linguistic composition of the population of the Donetsk region, according to the Census]
- ^ Financial Times, Donetsk governor battles to restore order, by John Reed, 26/27 April 2014, p5.
- ^ “Ukrainian Census (Donetsk Oblast)” (Ukrainian). Head of the Donetsk Oblast Statistics. 2012年11月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。5 May 2007閲覧。
- ^ Eternal Russia:Yeltsin, Gorbachev, and the Mirage of Democracy by Jonathan Steele, Harvard University Press, 1988, ISBN 978-0-674-26837-1 (p. 218)
- ^ “Another victim of Ukraine mine blast dies in hospital”. RIA Novosti. (30 November 2007) 2007年12月1日閲覧。
- ^ a b c d Template:Lukyanchenko.dn.ua[出典無効]
- ^ Subtelny, Orest (2000). Ukraine: A History. University of Toronto Press. p. 613. ISBN 0-8020-8390-0
- ^ “Про спеціальні економічні зони та спеціальний режим інвестиційної діяльності в Донецькій області” [Special Economic Zones and Special Regime of Investment Activities in Donetsk Oblast] (ウクライナ語). Order of Verhovna Rada (14 January 1999). 2019年1月1日閲覧。
- ^ “Города побратимы Донецка” [Sister cities of Donetsk] (ロシア語). Head of Donetsk City. 2007年6月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年1月1日閲覧。
- ^ Meine Reise nach Donetsk I: Die unbekannte ukrainische Metropole, seniorbook.de 05.11.2013.
- ^ The Daily Review, Volume 13, Michigan 1967.
- ^ "Contacts Archived 2011年5月31日, at the Wayback Machine.." Donbassaero. Retrieved on 27 April 2011. "Headquarter The headquarter of our company is located at international airport “Donetsk”. Address: DONBASSAERO, 1«V», Vzlyotnaya str., Donetsk, 83021, Ukraine".
- ^ “Forbes admitted Donetsk best city for business in Ukraine | Ukraine News”. Yellowpage.in.ua (1 June 2012). 2015年4月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年3月26日閲覧。
- ^ “Stadiums / Donetsk”. UEFA Euro 2012. 2007年5月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。7 May 2007閲覧。
- ^ “Stadiums / Introduction”. UEFA Euro 2012. 2007年5月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。7 May 2007閲覧。
- ^ “Main Page” (Russian). Donbass Pravoslavnyi. 2007年6月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。12 May 2007閲覧。
- ^ Margalit, Michal. "Donetsk leaflet: Jews must register or face deportation." Ynetnews. 16 April 2014.
- ^ "Fake Flyer Fury: 'Letter to Jews' Kerry cited was forged." RussiaToday/RT 19 April 2014.
- ^ “Main Page” (英語). TRK Ukraina. 2016年12月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年1月1日閲覧。
- ^ “Main Page” (ロシア語). Kievska Rus. 2006年4月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年1月1日閲覧。
- ^ “Main Page” (ロシア語). Pervyi munitsipal'nyi kanal. 2002年9月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年1月1日閲覧。
- ^ http://www.abc.net.au/news/2014-02-28/ukraine-minister-accuses-russia-of-armed-invasion/5291986
- ^ “FC Shakhtar Museum nominated for an 'Oscar'”. Donbass-arena.com (19 May 2012). 2013年3月26日閲覧。
- ^ a b c “Transport” (Russian). Partner-Portal. 2007年5月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。11 May 2007閲覧。
- ^ У Донецьку припиняють зводити метро
- ^ Construction of railway terminal in Donetsk for UEFA EURO 2012 worth UAH 414mln, Ukrinform (23 September 2009)
- ^ Building of fourth stage of Donetsk ring road to end in 2014, Interfax-Ukraine (11 January 2014)
- ^ “Service Center, International Airport "Donetsk"” (Russian/English). VIP-Terminal. 6 March 2007閲覧。
- ^ Notice for passengers Archived 2014年5月31日, at the Wayback Machine. International Airport Donetsk. 26 May 2014. Accessed 31 May 2014
- ^ “About DonNTU” (Russian). Donetsk National Technical University (DonNTU). 2007年4月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。11 May 2007閲覧。
参考文献
- Kilesso, S. (1982). Donetsk. Architectural-historical summary. Kiev: Budivelnyk. p. 152
- “Partner-Portal — Everything about Donetsk” (Russian). Partner-Portal. Интернет-агентство «Партнер». 2006年8月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。28 August 2006閲覧。
外部リンク
- 総合
-
- A comprehensive Donetsk city guide for international travellers - English
- Official Donetsk city guide - English
- Traveller's guide, Welcome to Donetsk - English
- The Donetsk photoblog (is regularly updated) Russian
- donetsk.org.ua — Donetsk city administration website /
- stroit.dn.ua — Construction site of Donetsk
- partner.donetsk.ua — Informational portal about Donetsk
- ukrtelecom.ua — Ukrtelecom webcam of the Artema Street
- Official site of the Donetsk international airport
- Shakhtar Donetsk official website of the Shakhtar football team
- dntsk.net — old and recent photos of Donetsk
- 歴史
-
- geocities.com — History of Donetsk and the story of the founder John Hughes
- ukrstor.com — Early history of Yuzovka
- bfcollection.net — Historic images of Donetsk
- alldonetsk.info - The history of the city of Donetsk
- 地図
-
- citylife.donetsk.ua — City map in English language for foreigners
- maps.google.com — Google maps satellite view of Donetsk
- wikimapia.org — Wikimapia view of Donetsk
- gorod.dn.ua — City map browsable and searchable by address