松平乗政
時代 | 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 寛永14年(1637年) |
死没 | 貞享元年10月16日(1684年11月22日) |
改名 | 助十郎(幼名)→乗政 |
別名 | 石川乗政 |
戒名 | 瑞祥院感巌道応大居士[1] |
墓所 | 東京都台東区上野の東叡山春性院 |
官位 | 従五位下・美作守、能登守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家光→家綱→綱吉 |
藩 | 常陸小張藩主→信濃小諸藩主 |
氏族 | 大給松平家 |
父母 | 父:松平乗寿、母:赤城氏 |
兄弟 |
乗久、乗政、乗員、増山正利正室、 松平乗親正室、小笠原長宣正室、貞安院ら |
妻 |
正室:岩城重隆娘・涼雲院蓮室理清 継室:松浦鎮信娘 丹羽瀬氏 |
子 | 乗紀、松平信孝正室 |
松平 乗政(まつだいら のりまさ)は、江戸時代前期の大名。常陸国小張藩主、後に信濃国小諸藩初代藩主。乗政流大給松平家初代。官位は従五位下・美作守、能登守。祖母が石川康通の娘であったことから石川 乗政(いしかわ のりまさ)とも呼ばれる。
生涯
寛永14年(1637年)、美濃国岩村藩2代藩主(のちに遠江国浜松藩主、上野国館林藩初代藩主)松平乗寿の次男として誕生。嗣子に兄・乗久がいたため、寛永21年(1644年)4月22日、3代将軍・徳川家光に拝謁し、家光に近侍した。家光に四男の綱吉が生まれると、綱吉に近侍する。正保4年(1647年)8月16日に従五位下・美作守に叙位・任官する。
家光没後は4代将軍・徳川家綱に仕え、慶安5年(1652年)6月4日に御小姓に任じられ、承応元年(1652年)11月7日に1000俵取りの知行を与えられる。承応3年(1654年)に父が死去すると、その遺領から5000石を分与されて旗本となる。寛文2年(1662年)には小姓組番頭に任じられ、同時に奥勤めも命じられた。延宝7年(1679年)には若年寄に任じられ[1]、同時に常陸河内郡・真壁郡などに5000石を加増され、1万石の大名として常陸小張藩主となった。
延宝9年(1681年)7月22日、下総国結城郡5000石を加増されて1万5000石となる。天和2年(1682年)3月22日に奏者番に任じられ[1]、同時に5000石の加増を受けて信濃小諸へ加増移封された[1]。小諸では同年7月に17か条の領内法度を制定し、五人組やキリシタン宗門、街道伝馬の整備、田畑耕作、理不尽の儀など領民の統制を細分化した[1]。9月には小諸城内に松石山乗政寺という菩提寺を建てた。また翌年には新田開発も行なった[1]。
貞享元年(1684年)10月16日に小諸城内で死去した[1]。享年48[1]。跡を長男の乗紀が継いだ。
系譜
父母
- 松平乗寿(父)
- 赤城氏 ー 側室(母)
正室、継室
側室
- 丹羽瀬氏
子女